「神様。」
天使が帳簿を抱えてやってきた。
「今月の願いごとです。」
神様は眼鏡をかけた。
「ほう。」
『男から性欲がなくなればいいのに。』
『女性を性的な目で見る男がいなくなりますように。』
『安心して夜道を歩ける世界になりますように。』
「似た願いが多いのう。」
「ここ数年、急に増えました。」
「なるほど。」
神様は何度もうなずいた。
「人間も大変じゃ。」
天使がおそるおそる言う。
「ですが、一部の人間の願いです。」
「願いは願いじゃ。」
「男性にも聞かれますか?」
神様は首をかしげた。
「必要か?」
「……。」
「よし。」
神様は指を鳴らした。
「男から女へのエロスを消しておこう。」
「えっ、そこまでですか。」
「これで万事解決じゃ。」
翌朝。
朝のニュース。
『痴漢件数、前日比九十八パーセント減少。』
『ストーカー被害も激減。』
街はお祭り騒ぎだった。
SNSには、
「世界が平和になった!」
「神様ありがとう!」
という投稿があふれた。
その投稿を見ていた一人の女性、
桜井由香は、小さく笑った。
「本当に、こんな世界ならよかったのに。」
昨夜、酔った勢いでSNSに書き込んだ言葉を思い出す。
『男から性欲がなくなればいいのに。』
もちろん、本気ではなかった。
半分は愚痴だった。
数日後。
由香は美容院へ行った。
髪を二十センチ切った。
担当美容師は満足そうだった。
「絶対似合いますよ。」
翌日。
会社へ行く。
隣の席の男性が顔を上げた。
「あれ。」
由香の胸が少し高鳴る。
「髪、切った?」
「そう。」
「暑くなってきたもんね。」
それだけだった。
昼休み。
同僚たちと食事。
「今日は私がお店選んだの。」
男性社員はメニューを見る。
「ここ、定食安いね。」
「……。」
「唐揚げうまそう。」
「……。」
誰も、
「雰囲気いいね。」
とは言わなかった。
一か月後。
ニュース。
『男性向け恋愛ドラマ、放送終了。』
『写真集市場、前年比七割減。』
『広告業界、女性モデル起用を見直し。』
由香は笑った。
「時代が変わったのかな。」
まだ、その程度に思っていた。
ある日。
会社帰り。
同期の健太が言った。
「腹減った。」
「何か食べていく?」
由香の心臓が少し跳ねた。
「うん。」
入ったのは牛丼屋だった。
食べ終わる。
健太が言う。
「今日はありがとう。」
「……。」
「友達と飯食うの、楽しいね。」
由香は箸を置いた。
「友達?」
「うん?」
「いや、何でもない。」
その夜。
ニュースは少し深刻だった。
『婚約指輪の販売、大幅減少。』
『結婚相談所、男性会員が激減。』
コメンテーターは笑っていた。
「最近の若い人は恋愛しませんからね。」
由香はテレビを消した。
「違う。」
誰に言うでもなくつぶやいた。
半年後。
友人が泣いていた。
「彼に告白したの。」
「それで?」
「ありがとうって。」
「え?」
「親友でいてくれって。」
一年後。
大学では女性研究者が会見していた。
「男性は女性を異性として認識しなくなっています。」
記者が笑う。
「恋愛離れというやつですか。」
「違います。」
「では何ですか。」
研究者は答えられなかった。
三年後。
『婚姻率、過去最低。』
『出生率、過去最低。』
『人口予測、大幅下方修正。』
テレビはそれでも明るかった。
「価値観の多様化ですね。」
誰も慌てなかった。
由香は夜道を一人で歩いていた。
怖くない。
本当に怖くない。
後ろから男性が歩いてきても、
何も起きない。
昔、あれほど望んだ世界だった。
なのに。
なぜか涙が止まらなかった。
そのころ天界。
「神様。」
「どうした。」
「人口が減り続けています。」
神様は資料を見た。
右肩下がりのグラフだった。
「……。」
「神様?」
「少し。」
「はい。」
「少し、やりすぎたかのう。」
天使は静かに言った。
「だから申し上げたじゃないですか。」
神様は帳簿を開く。
「今度はどんな願いじゃ。」
天使が読み上げる。
『子どもが増えますように。』
『結婚できますように。』
『恋人ができますように。』
神様は腕を組んだ。
「なるほど。」
「戻されますか?」
神様は首を横に振った。
「願いは願いじゃ。」
天使は小さくつぶやいた。
「だから、それが問題なんです。」