まのさば Restart 作:雪うさぎ
目を覚ました瞬間。
「…………」
胸の奥に残っていた重苦しさが、昨日から何一つ変わっていないことに気がついた。一晩眠れば少しくらいは気持ちも軽くなると思っていた。でも。
「……ぜんぜん駄目だな」
小さく呟きながら、ゆっくりと身体を起こす。まだ朝早いのだろう。
監房の外からは、ほとんど物音が聞こえてこなかった。
いつもなら誰かの話し声や足音が聞こえてきてもおかしくないのに、今は扉が軋んでいるかのような金属音が聞こえるくらいで。
牢屋敷全体が、まだ眠っているみたいだった。
「…………」
そんな静かな部屋の中で。
「あ……」
すでに起きている人が一人だけいた。
二段ベッドの上。何やら手元で作業をしていたメルルちゃんが、僕の声に気づいたようで。
「エマさん」
いつもと変わらない、柔らかな笑顔を浮かべて覗き込んでくる。
「おはようございます」
「……おはよう。メルルちゃん」
「よく眠れましたか?」
「うん……まあ。それなりに」
「そうですか」
「…………」
「…………」
そこで会話が途切れた。
メルルちゃんは笑っている。昨夜と同じ優しい笑顔で。けれども。
(……やっぱり。ちょっと気にしてるのかな)
なんとなく。本当になんとなくだけれど。その笑顔が、ほんの少しだけぎこちなく見えて。
「あのさ、メルルちゃん」
「はい?」
「……昨日はごめんね」
「え?」
メルルちゃんがきょとんと目を瞬かせる。
「せっかく泊めてもらったのに。ほとんど何も話さないで寝ちゃったから」
「あ……」
「本当にごめん」
「そ、そんな。謝らなくても大丈夫ですよ」
慌てたように両手を振る。
「その……少し疲れていたんですよね?」
「うん。あと昨日……ちょっとだけショックなことがあって」
誤魔化すために笑おうとした。けれども、あまり上手くは笑えなくて。
「ものすごく嫌な気分になっちゃって。すぐに眠りたかったんだ」
「…………」
「ごめん」
「……そうだったんですね」
メルルちゃんは、それ以上何も言わなかった。ただ。
「…………」
一度だけ何かを言いかけるように唇を開くも。何も尋ねずに、そのまま僅かに目を伏せる。
それでも。しばらく迷った末に、意を決したように口を開いて。
何があったか聞かれる。そう思って僅かに身体が強張ったのが分かった。
「……エマさんは」
「え?」
けれども。メルルちゃんの口から出てきたのは、全く違う言葉で。
「何でも一人で抱え込みすぎです」
「…………」
思わず目を瞬かせてしまう。
「私に話せないことなら……無理に聞こうとは思いません」
「話したくないことを無理矢理聞かれるのって、とっても辛いことなので」
メルルちゃんは少し困ったように笑う。
「でも……」
しかし。その膝の上に置かれていた手は、きゅっと握られていて。
「一人で全部抱えたまま、そんなに苦しそうにしているのは……心配です」
「…………」
「昨日だってそうでした」
泣いているわけでも声が震えているわけでもないのに、とても辛そうに思えた。
「帰ってきた時から、ずっと辛そうな顔をしています。今だってそうです」
「そ、それは。その……」
「無理に話さなくてもいいです……でも。その代わり」
メルルちゃんは何かを決めたように、真っ直ぐ僕の顔を見つめた。
「今から少し、気分転換をしてきてください」
「……気分転換?」
「はい」
こくりと頷く。
「エマさんは……まだ牢屋敷の中を全て見て回っていませんよね?」
「うん。まあ……」
医務室。図書室。娯楽室。食堂。それなりに色々な場所には行ったものの。
考えてみれば。まだ牢屋敷の中には入ったことのない場所が幾つか残っていた。
「ですから、気晴らしに。まだ見たことのない場所を、少し見て回ってみてはどうでしょうか?」
「牢屋敷を?」
「はい」
少しでも僕を安心させようとしているのか、メルルちゃんは柔らかく微笑んだ。
「ずっと同じことを考えているより、少し歩いたり違うものを見たりした方が、気持ちも落ち着くと思います!」
「…………」
確かに。言っていることは分かる。
昨日からずっと。ヒロちゃんのことばかり考えてしまっている。
そして今こんなに心配してもらって、僕を思う言葉をかけられていても。頭の中では、昨日見た光景が消えずに残ってしまっていて。
「それなら……メルルちゃんも一緒に来る?」
せっかくだから二人で回りたい。そう思って尋ねてみると。
「あ……」
一瞬だけ、メルルちゃんの顔が嬉しそうに綻んだ。けれども。すぐに申し訳なさそうな表情へと変わって、首を横に振る。
「ごめんなさい。私は……昨日採ってきたハーブを調合しないといけなくて」
「ああ。そうだよね」
「ヒロさんの分は……もう必要なくなっちゃいましたけど」
そう呟きながら、メルルちゃんの視線が僕の腰元――昨日まで匂い袋を入れていた場所へと向けられる。
「今度こそエマさんのために。ちゃんとした匂い袋を作りたいんです」
「…………」
責めるような響きは少しもなかった。それなのに。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
「昨日のやつ……本当にごめんね」
「もう謝らなくていいです」
「でも――」
「いいんです」
柔らかな声だった。
「エマさんは……きっと今すぐに必要だと思った人に渡したんですよね?」
「……うん」
「でしたら。構いません」
そう言って。メルルちゃんは自分自身にも言い聞かせるように、そっと微笑んだ。
「私の作ったものは、今も私たちの見えないところで、誰かを助け続けているんですから」
「…………」
その笑顔を見ていると。
ほんの少しだけ。本当にほんの少しだけ。胸の重さが和らいだような気がした。けれども。
「……でも」
「はい?」
「僕……そんなことしてる場合じゃ本当にないというか」
「え……?」
「まだ調べないといけないことが沢山あるし……それにヒロちゃんのことも――」
「駄目です」
「でも……」
それでも諦めきれずに言い返そうとすると。メルルちゃんは少しの間、困ったように僕を見つめていた。
けれども。
「……分かりました」
「え?」
メルルちゃんは何かを決心したように、小さく頷いた。
「エマさんがどうしても言うことを聞いてくれないなら……」
「…………」
そこで言葉を切ると。メルルちゃんは僕を困らせようとでもするように、そんな事を言い始めて。
「私が……少し意地悪しちゃいます」
「……メルルちゃんが?」
「は、はい」
そんな言葉がメルルちゃんの口から出てきたこと自体が意外で。思わずまじまじと顔を見てしまった。
「どんな意地悪?」
「えっ」
「…………」
「…………」
何気なく聞き返しただけだったのだけれど。メルルちゃんはまだ考えていなかったらしく、途端に困ったような表情のまま固まってしまって。
「考えてなかったの?」
「か、考えてました!」
「本当に?」
「本当です!」
慌てて否定する。
けれども。その直後から、何をしようか必死に考えているのが丸分かりなくらい、メルルちゃんの視線はあちらこちらへ泳ぎ始めて。
「その……」
「うん」
「ずっとエマさんの後ろをついていきます」
「……うん」
「それから……」
「それから?」
「誰かとお話している時に……後ろから抱きついて、邪魔したりしちゃいます!」
「…………」
「…………」
「それだけ?」
「えっ」
「いや……」
どうやら本人は、かなり思い切った意地悪のつもりだったらしい。
メルルちゃんは顔を真っ赤にしながら、こちらの反応を窺うようにおろおろしていて。
「それ……意地悪になってない気がするけど」
「な、なってます!」
「そうかなぁ」
「なってます!」
「…………」
「…………」
そんな必死な姿を見ているうちに。
「……ふふっ」
堪えきれず、自然と笑い声が零れていた。
「あっ」
「ごめん。でも……」
笑ってから。
自分でも少し驚いた。
こんなふうに何も考えず笑えたのは、随分久しぶりな気がした。
少なくとも。昨日ヒロちゃんを見つけてからは、一度もこんなふうに自然に笑えていなかったと思う。
「…………」
どうやら、それに気づいたのは僕だけではなかったらしい。
メルルちゃんは少しだけ目を丸くしたあと。
「……ふふ」
心底安心したように、柔らかく笑っていた。
「やっぱり。少し休んだ方がいいです」
「…………」
そこまで言われてしまえば。これ以上断り続けるのも、何だか意地を張っているだけのような気がして。
「……分かった」
「本当ですか?」
「うん」
小さく頷く。
「少しだけ、見て回ってみる」
「はい」
「まだ地下もちゃんと見てない場所があるし。そこから適当に歩いてみるよ」
「はい!」
今度の返事は、さっきまでとは明らかに違った。
僕がようやく言うことを聞いたのがよほど嬉しかったのか、メルルちゃんの表情までぱっと明るくなっている。
そんな様子を見ながら、僕はベッドから降りた。
寝癖を簡単に整えて、制服の乱れを直す。
それから最低限の身支度を済ませると。
「じゃあ……行ってくるね」
監房の扉の前で振り返る。
すると。メルルちゃんは今度こそ、どこにもぎこちなさのない柔らかな笑顔で此方を見ていて。
「いってらっしゃい。エマさん」
「……うん。行ってきます」
僕は扉を開けて、まだ静かな地下の廊下へと、一歩足を踏み出した。
「…………」
重苦しい気分が消えたわけではない。
ヒロちゃんのことだって。昨日。自分の頭に浮かんでしまったことだって。全部消え去ったわけではない。
それでも。ほんの少しだけ。昨日より息がしやすくなったような気がしていて。
僕は一度だけメルルちゃんのいる部屋を振り返ってから。まだ人の気配の少ない地下の廊下を、ゆっくりと歩き始めたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…………」
メルルちゃんの部屋を出てから。
僕は他の人の部屋の中を見ないように、努めて右側の壁だけを見るように歩いていた。
「…………」
朝早いからなのだろう。監房の中から話し声が聞こえてくることはなく、廊下にも人の姿は見当たらなくて。だから幸いにも誰からも声をかけられず、また誰の姿も見ることなく。
監房の並ぶ廊下を、あっという間に抜けていたのだった。
「…………」
足を止める。
振り返ると。まだ薄暗い廊下が、真っ直ぐ奥へと伸びているのが見えた。
「……行こう」
けれども。僕は誰の姿を探そうともせず。小さく呟いて、その場を後にした。
そうして歩いていると、僕は2つに分かれた道に行きついた。
1つ目はいつも使っている、進めば玄関ホールへと出られる地上へ続く階段。
そして。
「……こっちは」
もう1つ。階段とは別に地下のさらに別の場所へと繋がった通路が伸びていた。
「…………」
普段使っている通路とは違って、全く通ったことのない道。
以前から通路があること自体は知っていたものの、わざわざ進もうと思ったことはなかった。
きっと普段なら。そのまま階段を上っていたと思う。けれど。
『まだ見たことのない場所を、少し見て回ってみてはどうでしょうか?』
そう言っていた、メルルちゃんの言葉を思い出して。
(こっちに行ってみようかな)
どうしてか胸がざわつきが止まらなくて、少しだけ迷ってしまうも。僕は直ぐに地上への階段ではなく、もう一方の通路へと足を向けたのだった。
「…………」
奥へ進んでいく。相変わらず、怖いくらいに人の気配はない。
それどころか。こちらへ進むにつれて、さらに静かになっていくような気さえする。
僕の靴が床を踏む。コツコツという音だけが、やけに大きく響いていて。さっきまでいた場所も、かなり静かだったはずなのに。なんだか妙に空気が重く感じてしまった。
「……ん?」
けれども。特に止まることなく少し進んでいると、唐突に通路の左側が大きく開けていることに気がついた。
「……何だろう。ここ?」
思わず足を止めてしまう。そこには先ほどまで通っていた監房の並ぶ廊下とよく似た光景が広がっていた。
左右の壁に幾つもの扉が並んでいて。その一つ一つの奥に小さな部屋がある構造。
「監房……なのかな?」
それは一見すれば普段いる部屋と同じように見えた。ただ。その様子は。
「…………」
僕たちが使っている監房とは、どこか違うように思えた。
鉄格子越しに中が見えるわけでもない。扉は分厚い鉄板で作られており。小さな覗き窓のようなものが付いているだけで。
何というか。人を住まわせるための場所というより。閉じ込めておくためだけに作られた場所みたいに見えて。
「……そっか。ここが『懲罰房』なんだ」
ふとレイアさんに聞いた話を思い出して、僕は再び目の前に並んだ扉を眺めた。
名前だけなら知っている。というより忘れられるはずもない。そこはヒロちゃんが初日に看守へ暴力を振るったあと。罰として連れて行かれたはずの場所で。
「…………」
けれども僕はヒロちゃんが、どんな場所に入れられていたのか。中で何をされていたのか。
数日経った今でも、僕は全く知ろうとはしていなかった。
「…………」
無意識に一番近くにあった扉へと目を向ける。
当然。今は誰も入っていないのだろう。中から物音は聞こえないし、人の気配も全く感じられない。それでも。
(……どんなところなんだろう)
ほんの少しだけ。中を見てみたいという気持ちが湧いていた。
「…………」
本当なら。
こんな場所、わざわざ見る必要なんてない。
メルルちゃんだって、まだ見たことのない場所を見て回ってみたら、と言っていただけで。別に懲罰房の中まで入ってみろと言ったわけではない。
「でも……ちょっとだけなら」
誰に言うでもなく、そんな言い訳を口にして。僕は扉の前まで歩いていった。
「…………」
近くで見ると。やっぱり普段使っている監房の扉とは全然違い。表面には無数の傷がついていて。入口には無骨な南京錠が取り付けられていた。
小さな覗き窓もあるものの、今は金属製の蓋が下ろされているらしく、中を覗くことはできなくて。
「ここからは見えないか……」
仕方なく。扉の横に付いていたハンドルへと手を伸ばした。
「ん……っ」
力を込める。
「…………?」
けれども。扉は全く動かなかった。
「重っ……!」
想像していた以上に重い。片手ではびくともしなくて。仕方なく両手でハンドルを掴み、身体全体で後ろへ引くように力を込める。
「んん……っ!」
ギギ……。そんな鈍い音が響いて。ほんの少しだけではあるものの扉が開いた。
「開いた……」
どうやら鍵は掛かっていないらしく。僕は一度息を吐くと。再び身体全体に力を込め始めた。
「よい……しょっ……!」
ギィィィ……。
耳障りな金属音を響かせながら、分厚い扉が少しずつ開いていく。そして。ようやく人一人が通れるくらいの隙間ができた。
「…………」
けれども。その隙間の先には、ほとんど何も見えなかった。
懲罰房の中は薄暗く。廊下から差し込む僅かな光も、入口の周辺を照らしているだけだった。
「……何も見えないな」
そう呟きながら。僕は扉の隙間から、恐る恐る顔を覗かせる。
「…………」
そこで最初に感じたのは。
――狭い。
ということだった。
僕たちが寝泊まりしている監房と比べても、明らかに狭い。
家具らしい家具もほとんど見当たらず。壁も床も冷たい石で作られているように見えて。人が長い時間を過ごすことなんて、はなから考えられてないような印象を覚えた。
「ヒロちゃん……ここにいたんだ」
ぽつりと呟く。
たった二日間とはいえ。ヒロちゃんは、こんな場所にずっと閉じ込められていたのだ。
「…………」
そう考えると。何とも言えない重苦しさが胸の奥に残った。
それでも。もう少しだけ中の様子を確かめたくて。僕は恐る恐る一歩、懲罰房の中へ足を踏み入れる。
けれども次の瞬間。
「……?」
ふわりと。何かの香りが鼻先を掠めた。
「…………」
どこかで嗅いだことがあるような。優しくて。胸の奥が少しだけ落ち着くような。そんな良い香り。
(――この匂いって)
その香りの正体を思い出した、その刹那。
「え……?」
背中に。強い衝撃が走って。
「わっ……!」
何が起きたのか理解する暇もなく。身体が前へと押し出されて。踏ん張ることすらできないまま、僕は暗い懲罰房の中へ転がり込んでしまった。
「いたっ……!」
咄嗟に手を床についたおかげで、どうにか怪我をすることだけは避けられたけど。
今度は何やらギギギ……という音が響き始めて。
「……え?」
混乱しながら慌てて振り返ると。自分の入ってきた扉が、ゆっくりと閉じていくのが見えた。
「待って! 待ってよ!」
一瞬。何が起きているのか分からなくて固まってしまう。それでも閉まる寸前で、ようやく状況を理解して走り出すも。もう全てが手遅れで。
分厚い鉄の扉は、僕が辿り着くよりも先に――。
ガァンッ!!
「っ……!」
そんな鈍い音を響かせながら完全に閉じてしまって。
「…………」
一瞬。本当に一瞬だけ。
何が起きたのか、咄嗟に理解できなかった。さっきまで廊下から差し込んでいた光も消えて。目の前には、分厚い鉄の扉だけがある。←①
「……え?」
呆然と呟く。けれども。次の瞬間。
「ま、待って!」
ようやく身体が動いて。僕は慌てて扉へ駆け寄り、力いっぱい両手を押しつけた。
「待ってよ!開けて!」
全身に力を込めながら押す。けれども。
「んっ……!」
まるで何かが引っかかっているかのように。扉はびくともしなくて。そこでようやくハンドルの存在を思い出し、扉の表面を手探りするも。
「ない……?」
何度探しても。内側には扉を開けるためのハンドルが、どこにも見当たらなくて。
「なんで……」
そこで。ようやく嫌な予感が、はっきりとした形を持ち始めるのが分かった。
「……開けて!」
「……開けてよ!どうして僕を閉じ込めるの!?」
ドンッ!扉を叩く。
「ねえ!」
「誰かいるんだよね!?」
何度も拳を叩きつける。けれども。
「…………」
返事はなく。
扉の向こうから足音が聞こえてくることもなければ。誰かが動いているような気配すらも感じられない。
「……ねえ!聞こえてるよね!?」
それでも。諦めることなんてできなくて。
「そ、その……何か気に障ったのなら謝るから」
「お願いだから……ここから出して!」
ドンッドンッ!
何度も何度も。手のひらが痛くなって、声が掠れ始めても。
「開けて……!」
この声を聞いた誰かが、近くまで来てくれるかもしれない。
「お願い……!」
そう思って。何度も声を上げ続けた。けれども。
どれだけ叫んでも。どれだけ扉を叩いても。扉が開く気配は一向になくてーー。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…………」
冷たい。
そんなことを考えながら、僕は力なく懲罰房の床に寝転がっていた。
「…………」
いつからこうしているのだろう。
最初は扉を叩いていた。それから。声が出なくなるくらい何度も叫んで。
外部への連絡を試そうにも、何故かポケットにはスマホが入っていなかった。
他にも扉を壊せないか試したり。もしかしたら他に出口があるんじゃないかと思って、薄暗い部屋の中を何度も見て回ったりもした。
けれど。何もなかった。
出口は、あの扉一つだけ。
そして。その扉を内側から開ける方法は、どうしても見つけられなくて。
「…………」
もう何をすればいいのか分からなくなって。いつの間にか。僕は床の上に身体を横たえていた。
「……寒いな」
小さく呟く。
石でできた床は酷く冷たかった。本当ならこんなところに寝転がっていたくなんてない。
けれども。起き上がったところで、何も出来ないことは分かっていていて。僕はただ何となく薄暗い天井を見つめ始めた。
(……どのくらい時間が経ったのかな)
分からない。時計なんてない。外の光も入ってこない。
だから。今が何時なのか。ここに閉じ込められてから、どれだけ経ったのか何一つ分からなかった。
体感では。そんな訳はないのに、もう幾日も経ったようにすら感じられて。
「…………」
まるで少しずつ。本当に少しずつ。真綿で首を締められているみたいに苦しかった。
終わりが見えなくて。どうすれば楽にない地獄のような時間。
「…………」
もう一度だけ。ゆっくりと目を閉じる。
眠ってしまえば、少しは楽になれるかもしれない。そんなことを考えながらも、もう何度目か分からないくらいに再び冷たい床へ頬を押しつける。
「…………」
すると。
コツ。
「……?」
どこか遠くから。そんな音が聞こえたような気がした。
「…………」
コツコツ。
一定の間隔で。誰かが床を踏むような音。
(……まただ)
何度目だろう。
閉じ込められてから何度か、誰かが此方に向かってくる音を何度か聞いていた。
その度に扉を叩いて。助けを求めていたけど。たぶん聞こえているはずなのに、誰も助けにくることはなくて。
だから。
(……幻聴だよね)
きっと今度もそうだ。
ずっと暗い場所に一人でいるから。聞こえるはずのないものまで、聞こえるようになってしまっただけで。
「…………」
そう思っていた。けれど。
コツコツコツ――。
「……?」
音は地上への階段を越え、少しずつ近づいてきていて。
「…………」
思わず薄く目を開けて。身体は起こさないまま。じっと扉の方へ耳を澄ませた。
コツコツ。
やっぱり聞こえる。それも一人じゃない。幾つもの足音が混ざり合うように。誰かが此方へ向かって近づいてきていて。
「……誰か……いるの?」
掠れた声が漏れる。けれども返事はなく。
「…………」
やっぱり。気のせいなのだろうか。そう思いかけた瞬間。
「っ……!」
今度は、はっきりと聞こえた。
扉の外から。幾つもの靴音が近づくのが聞こえて。
「…………」
思わず身体を起こす。
けれど。長い間床に寝転がっていたせいなのか、身体に上手く力が入らなくて。
「ん……っ」
どうにか両手を床について、上半身だけを起こした。
その直後。ガチャリという音が響いて。
ギィィィィ……。
「……え?」
あれだけ押しても。
叩いても。何をしても動かなかった扉が。ゆっくりと外側へ向かって開き始めた。
「…………」
廊下から差し込んできた光が、薄暗い懲罰房の中へ伸びてくる。ずっと暗闇に慣れていた目には、それだけでも眩しすぎるほどで。
「っ……」
思わず目を細める。
そして。その光の中に一人の人影が立っていることに気がついた。
「…………」
純白の服。小さな身体。見慣れた長い髪。
「……メルル、ちゃん?」
思わず名前を呼ぶ。
「…………」
その瞬間。
メルルちゃんの両目が大きく見開かれるのが分かった。
その瞳には今にも零れ落ちそうなくらい、いっぱいの涙が溜まっていて。
「……エマさん!」
「わっ……!」
次の瞬間。
メルルちゃんは僕のところまで駆け寄ってきて。そのまま勢いよく僕の身体へ抱きついていた。
「メ、メルルちゃん……?」
「エマさん……っ」
ぎゅっと痛いくらい強く、身体を抱き締められる。
「…………」
その瞬間。
懐かしい香りが、胸いっぱいに広がった。
優しくて。どこか甘くて。嗅いでいるだけで、少しだけ心が落ち着くような甘い香り。
「…………」
それを感じた途端。
ようやく。本当に助かったのだと。そんな実感が少しずつ湧いてくるのが分かった。
「……生きてる」
「え?」
「生きてる……」
耳元で。メルルちゃんが小さく呟いた。
「良かった……」
「…………」
「エマさん……生きてました……」
声が震えている。
それまで必死に堪えていたのか。ぽろり僕の肩に。温かい雫が落ち始めて。
「メルルちゃん……?」
「良かった……本当に……」
僕の胸元へ顔を埋めながら。メルルちゃんは何度も何度も。そう同じ言葉を繰り返していた。
「…………」
その姿を見ていると。何だか僕の胸の奥も、じんと熱くなってきて。
「……心配してくれたんだね」
「…………」
「ありがとう。メルルちゃん」
ゆっくりと腕を持ち上げ。
震えているその背中へ、そっと手を添える。すると。
「エマさん……」
ますます強く。身体を抱き締められて。
「…………」
その瞬間。
「エマさん!」
「……!」
さらに聞き覚えのある声がして、僕はメルルちゃんの肩越しに扉の方を見た。そこには。
「シェリーちゃん……それに他のみんなも?」
シェリーちゃんやハンナちゃん。それだけではなく。その後ろに何人もの人影が見えていて。
(僕のこと……探してくれたんだ)
そう思った。
きっと僕がいつまで経っても戻ってこないせいで。みんな牢屋敷中を探してくれていたのだ。
「…………」
胸が熱くなる。
ずっと一人だと思っていて。誰にも見つけてもらえないんじゃないかと思っていた。
このまま。ずっとここから出られないんじゃないかとさえ感じていて。だから。
「……ありがとう」
自然と言葉が零れた。
「みんな……僕のこと探して――」
そこまで言って。
「…………?」
何故かシェリーちゃんが笑っていないことに気が付いた。
いつもなら。
『探しましたよ。私の助手!』
そんな事を言って真っ先に駆け寄ってきそうなものなのに。
何故か彼女は扉の近くに立ったまま。唇を固く結んで、ただ僕の姿を見つめている。
「シェリーちゃん……?」
「…………」
様子がおかしいのは、なぜかハンナちゃんも同じだった。
『まったく……何処に行ってたんですの』
そんな事を言って顔を背けたり、何か文句を言うでもなく。酷く青ざめた表情をしている。
「…………」
それだけじゃない。
その場にいる誰も。僕が見つかったことを喜んでいるようには見えなかった。
いや安心していないわけではない。
けれど。それよりもっと大きな何かが。みんなの表情に重くのしかかっているように見えて。
「…………」
胸の奥が急にざわつき始めるのが分かった。
「……どうしたの?」
誰も答えない。
「何か……あったの?」
「…………」
その言葉にメルルちゃんの身体が。ほんの僅かに強張ったような気がして。
「メルルちゃん?」
「…………」
腕の中にいる彼女へ視線を落とす。
けれども。メルルちゃんは僕の胸元へ顔を埋めたまま、何も言おうとはしなくて。
「……ねえ」
もう一度。今度は扉の向こうにいるみんなへ向けて尋ねる。
「何があったの?」
「…………」
「僕が閉じ込められている間に……何かあったんだよね?」
「…………」
「教えてよ」
そう言うと。それまで俯いていたハンナちゃんが。
「……人が」
ぽつりと。本当に小さな声を漏らした。
「え?」
「人が……殺されたのですわ」
「…………」
一瞬。何を言われたのか分からなくて。
「……え?」
間抜けな声が出てしまう。
「ごめん……」
聞き間違いだと思った。というより。そう思いたかったのかもしれない。
「今……何て言ったの?」
「…………」
再び聞き返すも。ハンナちゃんは何も答えなかった。ただ。きつく唇を噛みながら僕から視線を逸らして。
「…………」
代わりに。
「エマさん」
シェリーちゃんが、静かに口を開いた。
「…………」
その声は今まで聞いたことがないくらい。低く真剣なもので。
「地下一階で……」
彼女は一度。言葉を選ぶように息を呑んでから、そう告げて。
「佐伯ミリアさんが……殺されているのが発見されました」
「…………」
時間が止まったような気がした。
「……ミリア、ちゃん?」
名前だけが。口から零れ落ちる。
昨日。図書室で顔を真っ赤にして。すごい涙目になりながら、僕を抱き締めていた少女。
『だ、駄目……!エマちゃんは絶対渡さないから!』
とても優しい女の子で。勘違いではあったものの、そう言って初対面の僕を守ってくれた姿を思い出して。
「嘘……」
思わずそんな言葉が出てしまう。
けれども。そんな僕の様子を見ても、シェリーちゃんは言葉を止めることができないようで。
「…………」
一度だけ苦しそうに目を伏せる。
けれども。何かを振り切るように、もう一度僕を真っ直ぐ見つめて。
「エマさん」
「…………」
「貴方が……第一容疑者です」
「…………」
その言葉に頭の中が真っ白になって。何も考えられなくなった。
「……僕、が?」
どうにか。それだけを呟く。
その声は確かに自分の声なのに。酷く遠くから聞こえてくるような気がした。
「…………」
メルルちゃんに抱き締められている感触も。
扉の向こうから差し込む光も。冷たい床の感覚も。全部。急に現実味を失っていって。
「…………」
僕は余りの衝撃に何も考えられないまま。目の前でそう告げたシェリーちゃんを呆然と見上げたのだった。