ビナーの砲口から放たれた光が、背後の砂漠を白く染めた。
私はニナちゃんの手を引いたまま、近くの砂丘へ向かって走った。直接狙われたわけではないはずなのに、遅れて届いた衝撃が身体を持ち上げ、足元の砂ごと私たちを吹き飛ばす。
地面へ叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が押し出された。耳鳴りの向こうで砂が降り注ぎ、視界が茶色く濁る。
「ニナちゃん……!」
身体を起こしながら周囲を探すと、少し離れた場所でニナちゃんも砂の中から顔を上げていた。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと転んだだけ」
そう答えた声には、ほとんど力がなかった。
制服も髪も砂まみれになり、立ち上がろうとした膝が一度折れる。先日の砂嵐でまほうを使い続け、そのうえ私とホシノちゃんを連れて空まで飛んだ疲労が、まだ抜けきっていないのだろう。
私はニナちゃんへ駆け寄り、腕を肩へ回した。
「歩ける?」
「歩けるよ」
「無理しなくていいからね」
「ユメ先輩も、同じこと言われたら困るでしょう?」
ニナちゃんは弱く笑った。
今は言い返している場合ではない。私はビナーへ目を向け、その巨体がゆっくりと砂の上を進んでいるのを確認した。
私たちだけを狙っているわけではない。
地中から現れたビナーは、こちらへの攻撃を行いながらも、一定の方向へ向かって移動を続けていた。その先にあるのは、アビドス自治区の外縁部だ。
このまま進めば、現在も住民が暮らしている区域へ近づく。
「学校に知らせないと」
通信機を起動するが、激しいノイズしか聞こえない。画面に表示される現在地も安定せず、数秒ごとに異なる座標へ飛んでいた。
それでも何度か周波数を切り替えると、一瞬だけノイズが弱くなった。
「ホシノちゃん、聞こえる? 私たちは今、外縁部の巡回路から外れた場所にいるの。ビナーが自治区の方向へ――」
通信は途中で切れた。
届いたかどうかは分からない。
「ホシノちゃん、来てくれるかな」
ニナちゃんが通信機を見つめながら尋ねた。
「来るよ」
私は迷わず答えた。
ホシノちゃんなら、私たちが戻らないと分かれば必ず探しに来る。私がどれだけ一人で大丈夫だと言っても、呆れた顔をしながら追いかけてくるはずだ。
だからこそ、来る前にここから離れなければならない。
ビナーと出会えば、ホシノちゃんまで無事では済まない。
「岩場まで行こう。あそこなら、攻撃を避けながら学校へ戻る道を探せるかもしれない」
「うん」
ニナちゃんの手を握り、私たちは走り出した。
砂へ足を取られながら進む私たちの背後で、巨大な駆動音が鳴り続けている。ビナーが身体を動かすたびに地面が震え、砂丘の形が少しずつ崩れていった。
通信機から、あの男の声が聞こえた。
『クク……逃走を選ぶか。実に模範的で、退屈な初手だ』
電源を切ったはずなのに、声は途切れない。
「あなたは誰なんですか」
『小生の名前など、この盤面においては些末なこと! 重要なのは、貴様らがどのような攻略法を選ぶかだよォ!』
「私たちをここへ誘導したのは、あなたですね」
『誘導? いやいや、小生は少しばかり標識と情報を整えただけだ。盤面へ駒を配置したにすぎない。ビナーがここを通ることも、貴様らが救難信号を無視できないことも、小生が決めたわけではないのだよ』
自分には責任がないとでも言いたいのだろう。
ニナちゃんが私の腕を強くつかむ。
『一人ならば、より高い確率で生還できる。実に分かりやすい選択肢ではないか』
男の声が低くなる。
『生徒会長殿。そちらの少女を置いて逃げればいい』
「聞かなくていいよ」
私はニナちゃんへ言った。
次の瞬間、ニナちゃんの携帯から同じ声が流れた。
『そして“まほう使い”殿。負傷者を見捨て、空へ逃げればよい。貴様にはそのための力があるのだろう?』
ニナちゃんは携帯を砂へ投げ捨てた。
『クク、ハハハッ! 気に入らないか? だが、ゲームとは選択の積み重ねだ。すべてを救うなどという都合のよい攻略法は存在しない!』
「あなたのゲームに付き合うつもりはありません」
『その言葉が、いつまで続くのか見せてもらおうではないか!』
再びビナーの砲口へ光が集まった。
「伏せて!」
私はニナちゃんを抱き寄せ、砂丘の陰へ飛び込んだ。
光が頭上を横切り、近くの岩壁へ命中する。砕かれた岩が雨のように降り注ぎ、私たちは腕で頭を守りながら身体を丸めた。
衝撃が収まってから顔を上げると、目指していた岩場の一部が崩れ、道を塞いでいた。
「別の道を探そう」
「待って」
ニナちゃんが小さな金属片を拾い、遠くの岩陰へ手を向ける。ヘイローが淡く光ると、手のひらにあった金属片が消え、数メートル先へ落ちた。
もう一度。
金属片はさらに先へ移動する。
何度か瞬間移動を繰り返し、ニナちゃんは岩場の奥まで道が続いていることを確かめた。
「向こうから回れるよ」
「もう、まほうは使わないで」
「でも、道が分からないと」
「ニナちゃんが倒れたら、もっと動けなくなるでしょう?」
ニナちゃんは口を閉じた。
それでも、私が先へ進もうとすると、何も言わずについてくる。
岩壁の陰へ入ったところで、ニナちゃんの姿が揺らいだ。身体の輪郭が薄くなり、透明になっていく。
「ニナちゃん?」
「少しだけ。ビナーに見つかりにくくなるかもしれないから」
「私は消えられないよ」
「でも、わたしが見えなくなったら、少し迷うかも」
姿を消しても足跡は残るし、巨大な機械が何を基準に対象を認識しているのかも分からない。それでも、ビナーの頭部が一瞬だけ違う方向を向いた。
その隙に岩場の奥へ走る。
数秒後、ニナちゃんの姿が戻った。顔色はさらに悪くなり、息をするたびに肩が大きく上下している。
「もう駄目」
私はニナちゃんの肩をつかんだ。
「これ以上は本当に使わないで。私が何とかするから」
口にしてから、自分でも無責任だと思った。
目の前にいるのは、私たちの攻撃が通じるかどうかすら分からない巨大な存在だ。学校へ戻る道も、救援が来るまでの時間も分からない。
それでも、ニナちゃんにまほうを使わせ続けるわけにはいかなかった。
「ユメ先輩」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
ニナちゃんの声は、砂漠へ追ってきたときと同じだった。
責めてはいない。
ただ、ごまかさずに答えてほしいのだと分かる。
「……怖いよ」
私は認めた。
「私も、何をすればいいか分からない。でも、ニナちゃんを一人で逃がすことも、ここへ置いていくこともできない」
「わたしも同じだよ」
ニナちゃんは私の手を握った。
「だから、一緒に帰ろう」
「うん」
今度こそ、一緒に帰る。
ホシノちゃんにも謝る。
破れたポスターを三人で直して、砂祭りのことも、これからのことも、もう一度きちんと話す。
そのために、まずここを生きて出なければならない。
◇
岩場を抜けると、ビナーの進路がよく見えた。
巨体は速度を落とすことなく、自治区の方向へ進んでいる。私たちが逃げ続けても、ビナーが居住区域へ近づく事実は変わらない。
「このままじゃ、街の方へ行っちゃう」
ニナちゃんも同じことに気づいたらしい。
私は周囲の地形を確認した。
正面には平坦な砂地が続き、右手には岩山がある。ビナーの注意をこちらへ引きつけ、岩山の方向へ誘導できれば、進路を少しだけ変えられるかもしれない。
「ニナちゃんは、ここにいて」
「ユメ先輩は?」
「ビナーを少しだけ、反対側へ誘導してくる」
「駄目だよ」
「倒そうとするわけじゃないよ。攻撃して、こっちを向かせるだけ」
「それでも危ないよ」
「分かってる」
ニナちゃんが私の服をつかんだ。
「一人で行かないで」
その言葉を聞いた瞬間、学校を出るときのホシノちゃんの顔を思い出した。
ホシノちゃんは一緒に行くと言わなかった。
けれど、言いたかったのかもしれない。
私が止めてほしいと思っていたのと同じように。
「ごめんね」
私はニナちゃんの手を外した。
「でも、私は生徒会長だから」
「先輩だから、一人で頑張らないといけないわけじゃないよ」
返す言葉が見つからなかった。
私は、自分が何度もホシノちゃんから向けられていたものを、今になってニナちゃんから受け取っている。
心配。
私には、それを信じて立ち止まる勇気がなかった。
「すぐに戻るから」
結局、私はそう言って走り出した。
ビナーの前へ出て、銃撃を行う。
放った弾丸は巨大な装甲に当たり、わずかな火花を散らしただけだった。損傷を与えた様子はないが、ビナーの頭部がゆっくりとこちらへ向く。
私は岩山の方向へ走った。
ビナーが私を追っているのか、たまたま同じ方向へ動いているだけなのかは分からない。それでも、攻撃の向きが少しずつ変わっている。
砲口に光が集まる。
横へ飛び、放たれた光を避ける。着弾した場所から大量の砂が吹き上がり、衝撃で何度も転倒した。
立ち上がる。
撃つ。
走る。
足は砂へ沈み、呼吸はすぐに乱れた。
怖い。
生徒会長なのだから、アビドスを守るためなら怖くないと思っていた。
そんなはずはなかった。
逃げたい。
ホシノちゃんに助けてほしい。
ニナちゃんの手を引いて、三人で学校へ帰りたい。
「ユメ先輩!」
背後からニナちゃんの声が聞こえた。
振り返ると、岩陰へ残したはずのニナちゃんが走ってくる。途中で姿を消し、ビナーの視線を避けながら私の近くまで来ていた。
「どうして来たの!」
「一人にしないって決めたから」
「私は先輩だよ!」
「うん」
ニナちゃんは私の隣へ立ち、手のひらを開いた。
私が落とした予備弾倉が淡い光とともに現れる。
「でも、先輩だから一人で頑張らないといけないわけじゃないよ」
さっきと同じ言葉だった。
今度は、もう否定できなかった。
「……分かった」
私は弾倉を受け取った。
「一緒に帰ろう」
「うん」
二人でビナーから距離を取る。
私が正面から注意を引き、ニナちゃんが姿を消して進路を確認する。小さな岩や装備を瞬間移動させ、逃げ道を作る。
連携と呼べるほど整ったものではない。
それでも、一人で走っていたときよりはずっと心強かった。
『なんと美しい友情だ! 互いを見捨てられず、効率の悪い選択ばかりを積み重ねる!』
どこからか、あの男の声が響く。
『だが、それで盤面を覆せると思うなよ! ルールを守る限り、貴様らに勝ち目はない!』
「勝とうとしてるわけじゃありません!」
私は叫んだ。
「帰るんです。二人で!」
『クク……ならば、そのエンディングへ到達してみせたまえ!』
ビナーの頭部が動く。
今度の照準は、私たちへ向けられていなかった。
その先にあるのは、アビドスの居住区域だ。
これまでよりも強い光が、砲口へ集まっていく。
「ニナちゃん、伏せて!」
私はニナちゃんを突き飛ばし、ビナーと自治区の間へ身体を入れた。
何かを防げるとは思っていない。
それでも、身体が勝手に動いた。
白い光が視界を埋め尽くした。
衝撃が全身を貫き、身体が空へ投げ出される。
骨の奥まで揺さぶられるような痛みの後、私は地面へ落ちた。
手も足も動かない。
音が遠い。
ニナちゃんが私の名前を呼んでいる。
「ユメ先輩」
返事をしなければと思う。
「起きて」
大丈夫だと伝えなければならない。
「一緒に帰ろう」
けれど、声が出なかった。
視界の端に、ニナちゃんの顔が映る。
泣いている。
私の肩を揺らし、鞄から救急用品を取り出そうとしている。
でも、ニナちゃんのまほうに人の傷を治す力はない。
空を飛べる。
姿を消せる。
小さな物を移動させられる。
植物を成長させられる。
どれも、今の私を治すことはできない。
ニナちゃんが周囲を見た。
進み続けるビナー。
その先にあるアビドス。
倒れている私。
そして、ホシノちゃんがいるはずの方向。
何かを決めたのだと、分かった。
止めなければならない。
そう思ったところで、私の意識は途切れた。
◇
ホシノちゃん。
いつか、言ってたね。
「何でそんなに人のために頑張れるんですか」って。
まほうを使うと、すぐに息が切れる。
使いすぎた次の日は、起き上がれないことだってある。
別に、わたしが特別ないい子だから頑張ってるわけじゃないんだ。
一目惚れしたの。
あの日、あのとき。
校門の前で、あなたに出会った瞬間に。
好きな子の前では、格好いいところを見せたいからね。
◇
ニナはユメのそばへ鞄を置き、その中から古い紙袋を取り出した。
アビドスに残る住民から託された植物の種。いつか育てられる場所ができたら、みんなで植えようと約束したものだった。
ニナは袋を開き、手のひらへ種を載せる。
以前、枯れた花壇でまほうを使ったとき、芽は生まれてもすぐにしおれた。
植物には水がいる。
土がいる。
根を張り、生き続けられる場所がいる。
砂漠の下に何もないわけではないことを、ニナは知っていた。かつて人が暮らしていた土地には、埋もれた水路や地下水脈が残っている。砂に覆われる前の土も、眠ったままの種子もある。
足りないものを、まほうだけで作ることはできない。
それでも、離れているものを結びつけることならできるかもしれない。
ニナのヘイローが、これまでにないほど強く輝いた。
身体がゆっくりと地面から離れる。
呼吸をするたびに胸が痛み、手足にはほとんど力が残っていない。それでもニナは高度を上げ、手のひらの種を砂漠へ放った。
風に乗った種が散っていく。
ニナは瞬間移動のまほうを使う。
本来なら、手のひらに収まるものを半径数メートル以内へ移すだけの力だった。
一粒の種を、少し先へ送る。
さらに先へ送る。
砂の中へ送り、岩の割れ目へ送り、地下へ埋もれた古い水路の近くへ送る。
一度では遠くへ届かない。
だから何度も繰り返す。
空を飛びながら、ニナは種を広い範囲へ運び続けた。
ヘイローの光が脈打つたび、種が別の場所へ現れる。ビナーの進路上から、アビドスの居住区域へ続く砂漠一帯へ、無数の小さな命が散っていった。
ニナは両手を広げる。
植物を成長させるまほうが、砂の中へ伝わる。
最初に生まれたのは、細い根だった。
根は暗い地中を進み、水を探して深く伸びる。砂に埋もれた土へ入り込み、崩れた水路の隙間を通り、長く使われていなかった地下水脈へ届く。
一本の根が水を吸う。
その水が茎へ運ばれ、小さな芽が地表を割った。
次の芽が出る。
さらに次の芽が続く。
草が生まれ、低木が枝を伸ばし、地中では無数の根が絡み合う。眠っていた種子もニナのまほうに呼応するように芽吹き、緑は波となって砂漠へ広がっていった。
根は砂をつなぎ止め、地下へ残された水を吸い上げる。
崩れていた古い水路の一部が根によって押し開かれ、地表へ水があふれ出した。
乾いた砂が湿り、やがて泥へ変わる。
ビナーの進路上では、地中へ伸びた根が巨大な網のように広がっていた。
固められた砂。
露出した岩盤。
水を含み、沈み込む地面。
ビナーの巨体がわずかに傾いた。
前進する速度が落ちる。
ニナのまほうでは、ビナーを倒せない。
だから、ビナーが進む砂漠そのものを変えた。
真っすぐ自治区へ向かっていた巨体が、より進みやすい地盤を求めるように方向を変える。居住区域から離れ、砂漠の奥へ向かってゆっくりと進路を逸らしていった。
『な――』
砂へ投げ捨てられた携帯から、地下生活者の声が漏れた。
『何だ、これは……? このような能力は想定されていない! 物体の移動と飛行、植物の成長――それらを組み合わせただけで、盤面そのものを書き換えるだと!?』
緑は止まらない。
『ルール違反だ! それは攻略ではない! ゲームの地形そのものを変更するなど、そんなチートが許されるものかッ!』
男が用意したのは、二者択一だった。
自分が生きるか、相手を救うか。
ユメを守るか、アビドスを守るか。
どちらかを選び、どちらかを諦める。
ニナは、そのどちらも選ばなかった。
すべてを救おうとした。
『認めんぞ! こんなエンディングは小生のシナリオに存在しない! 止まれ! 止まれと言っているッ!』
地下生活者の叫びは、地面を割って伸びる植物と、水が流れ始める音に飲み込まれていった。
通信が途絶える。
ニナの身体は、ヘイローからあふれた光の中で少しずつ薄くなっていた。
それでも、まほうは止まらない。
最後の一本の根が水へ届き、ビナーが完全に自治区から進路を逸らしたとき、ニナは静かに目を閉じた。
◇
冷たいものが頬に触れて、私は目を覚ました。
最初に見えたのは、知らない景色だった。
砂しかなかったはずの場所に、背の高い草が生い茂っている。色とりどりの小さな花が咲き、すぐ近くでは細い水の流れる音が聞こえた。
私はしばらく、自分がまだ夢を見ているのだと思った。
けれど、身体を起こそうとした瞬間に全身へ走った痛みが、それを否定した。
ビナー。
白い光。
ニナちゃん。
「……ニナちゃん?」
喉が乾き、声はかすれていた。
返事はない。
腕に力を入れ、何とか上半身を起こす。立ち上がった途端に視界が揺れたが、近くの草へ手をつきながら歩き出した。
「ニナちゃん」
緑をかき分ける。
水辺を見る。
岩陰をのぞく。
大きな声を出すたびに胸が痛んだ。それでも、ニナちゃんの名前を呼び続けた。
「どこにいるの?」
姿を消しているだけかもしれない。
疲れて、どこかで眠っているだけかもしれない。
飛ぶ力を使い切り、遠くへ落ちてしまった可能性もある。
「もう、隠れなくていいよ」
返事はなかった。
どれだけ探しても、ニナちゃんの姿は見つからない。
足に力が入らなくなり、私は最初に目を覚ました場所へ戻った。
そこで初めて気づいた。
緑が広がる一帯の中で、そこだけが不自然に開けていた。
草も花も、円を描くように空間の外側で止まっている。何かのために残されたような場所の中央に、一本の木が立っていた。
太い幹から枝が伸び、青々とした葉が風に揺れている。
他の植物より大きいからではない。
形が似ているわけでもない。
それでも、見た瞬間に分かってしまった。
ニナちゃんだ。
「あ……」
声にならない音が漏れた。
私はふらつく足で木のそばへ向かい、樹皮へ手を触れた。
ただの木だった。
手のひらに伝わるのは、硬くざらついた感触だけ。それなのに、ニナちゃんではないとはどうしても思えなかった。
「うそだよ」
私は首を振った。
「こんなの、うそだよ」
もう一度周囲を探そうとした。
けれど、探しても意味がないことを、どこかで理解してしまっている。
木の根元には、ニナちゃんの鞄が置かれていた。中から、水族館で撮った三人の写真が少しだけ見えている。
私は木の前へ崩れ落ちた。
「一緒に帰ろうって、言ったのに」
木は答えない。
風に葉を揺らすだけだった。
◇
砂漠の向こうで、地面を走る光が見えた。
爆発とは違う。
ビナーの攻撃とも違う。
緑色を帯びた光が砂丘の向こうへ広がり、そのあとを追うように植物が地面から生まれていった。
私は二人の位置情報を追いながら、走り続けた。
途中から景色が変わった。
砂しかなかったはずの地面に草が生え、進むほどその数が増えていく。細い水の流れまで現れ、足元には湿った土が混じり始めた。
あり得ない。
アビドスの砂漠に、こんな場所はなかった。
ニナのまほうだ。
そう思った。
だったら、まだ間に合う。
また無理をして倒れているかもしれない。見つけたら、今度こそ本気で叱らなければならない。何日動けなくなっても、勝手に人のためにまほうを使わないよう、分かるまで言い聞かせる。
緑の中心へ近づくと、急に視界が開けた。
円形の空間の中央に、一本の木が立っている。
その根元に、ユメ先輩が座り込んでいた。
「ユメ先輩!」
駆け寄ると、先輩には意識があった。負傷はひどいが、ヘイローも消えていない。
私は周囲を見回した。
ニナの姿がない。
「ニナは?」
ユメ先輩は答えず、木を見ている。
「ニナはどこですか」
声を強めても、先輩は私を見なかった。
木の根元に、見覚えのある鞄が置かれていた。
私はそれを手に取った。
中から、写真が落ちる。
水族館で撮った、三人の写真。
中央で笑うニナ。
その両側に、私とユメ先輩。
理解したくなかった。
それでも、ユメ先輩が何を見ているのか、分かってしまった。
「違う」
自分でも、誰に言ったのか分からなかった。
「こんなの、違います」
「ホシノちゃん……」
ユメ先輩が、ようやく私の名前を呼ぶ。
「違うと言ってください」
私は木の周囲を見回した。
「ニナは姿を消せるんです。どこかに隠れてるだけでしょう」
草をかき分ける。
水辺を見る。
岩の後ろへ回る。
「ニナ」
返事はない。
「もういいですから、出てきてください」
声が震える。
「怒ってません。まほうを使いすぎたことも、後で説教するだけですから」
何も聞こえない。
風が吹き、木の葉が揺れる。
私は木の根元へ手を伸ばし、土を掘り始めた。
「ホシノちゃん、何を……」
「ここにいるかもしれません」
あり得ないと分かっている。
それでも、手を止められなかった。
「まほうの途中で埋まっただけかもしれない。探せば見つかります」
爪の間へ土が入り、指先から血がにじむ。
ユメ先輩が私の腕をつかんだ。
「やめて」
「離してください」
「ニナちゃんは、ここには――」
「離してください!」
先輩の手を振り払った。
「どうして一人で行ったんですか」
言葉が、勝手に口から出る。
「どうしてニナを連れていったんですか」
「ニナちゃんは、私を追ってきて……」
「どうして守れなかったんですか!」
ユメ先輩の顔が歪んだ。
「私が悪いの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが切れた。
「違う」
私は叫んだ。
「先輩だけが悪いみたいに言わないでください」
「でも、私が一人で出なかったら――」
「一緒に行かなかった私が悪い。ニナを止めなかった私が悪い。先輩をあんな状態で行かせた私が悪い!」
誰か一人の責任にできれば、もっと楽だった。
ユメ先輩だけを責める。
勝手についていったニナを責める。
自分だけが悪かったと思い込む。
けれど、どれも正しくない。
誰か一人のせいにしても、ニナは戻ってこない。
だから、怒りを向ける場所がなかった。
私は木の根元へ座り込み、血のにじんだ手で写真を握った。
ユメ先輩も隣で泣いている。
私たちは助かった。
ビナーは自治区から進路を逸らし、住民にも被害は出なかった。
砂漠には緑が生まれた。
結果だけを見れば、奇跡と呼ばれるのだろう。
私は、その言葉を認めたくなかった。
ニナのいない結果を、奇跡と呼びたくなかった。
◇
ユメ先輩は治療のため、しばらく学校へ来られなくなった。
生徒会室へ戻ると、机が三つ並んでいた。
私の机。
ユメ先輩の机。
ニナの机。
ニナの机には、途中まで解いた数学の問題が残っている。答えは間違っており、式の横には『数字がまだ仲直りしていない』と書かれていた。
私は赤いペンを手に取った。
いつものように、間違いを直そうとする。
けれど、手が動かなかった。
正しい答えを書いても、ニナは見ない。
私は答案を元の場所へ戻した。
机の中も、鞄を置いていた場所も、そのままにした。
片づけてしまえば、ニナが戻ってくる場所がなくなるような気がした。
毎朝、校門を見る。
砂まみれになって、少し遠くまで行っていただけだと言いながら、ニナが戻ってくるかもしれない。
通信機にも何度もニナの番号を入力した。
接続されない。
夜になると、あの木のところへ行った。
「隠れてるなら、もう出てきてください」
木を見上げながら言う。
「みんな、困ってます。ユメ先輩も、ずっと泣いてます」
風が枝を揺らす。
「人が悲しむのが嫌いだったんじゃないんですか」
返事はない。
「こんなことをしたら、私たちがどうなるかくらい分かったでしょう」
喉が詰まり、しばらく言葉が続かなかった。
「格好悪いですよ」
ニナが一番言われたくなさそうな言葉だった。
口にした直後、後悔した。
「……嘘です」
謝っても、やはり返事はなかった。
◇
ユメ先輩が学校へ戻ってからも、私たちは以前のようには話せなかった。
傷は完全に治っていない。
歩く速度も遅く、長時間立ち続けることも難しい。それでも、先輩は生徒会長として仕事を再開しようとした。
ただし、新しい計画を口にしなくなった。
何かを決めるたび、私へ確認する。
「ホシノちゃんは、どう思う?」
「危なくないかな」
「やめた方がいいかな」
以前の私なら、先輩が慎重になったことを喜んだかもしれない。
けれど、目の前にいるユメ先輩を見ても、安心はできなかった。
私が止めたかったのは、先輩が夢を見ることではない。
夢のために無理をして、ある日突然いなくなるのが怖かっただけだ。
それを、私は伝えられなかった。
今も、伝えられない。
必要な仕事の話だけをして、放課後になれば別々に帰った。
借金は残っている。
返済期限も来る。
地域からの依頼も届き、私たちが動かなければ自治区の問題は増えていく。
私は以前より多くの仕事を引き受けるようになった。
休まず、眠らず、自分一人で片づけようとする。
「ホシノちゃん、少し休んだ方がいいよ」
ユメ先輩に言われ、私は書類から顔を上げた。
「先輩にだけは言われたくありません」
口にした瞬間、ユメ先輩は黙った。
自分が先輩と同じことをしていると、分かっていた。
それでも、動いていればニナのことを考えずに済む。
止まれば、最後に交わした会話を思い出してしまう。
何でそんなに人のために頑張れるのか。
格好いいから。
ニナは、そう答えた。
何が格好いいのか。
誰にそう思われたかったのか。
私には、最後まで分からなかった。
◇
ニナのまほうで生まれた緑は、すべてが残ったわけではない。
地下水の届かない場所では植物が枯れ、砂へ戻った区域もある。それでも、一本の木を中心とした一帯には緑が根づいた。
地下水の位置が確認され、住民たちは簡単な水路を作り始めた。砂の流入が減った場所では道路や建物の維持も楽になり、小さな畑を作れる可能性まで出てきた。
住民たちは、その場所をニナの奇跡と呼んだ。
私は、その名前を聞くたびに会話から離れた。
誰かが助かったことを喜べないわけではない。
ただ、そのためにニナがいなくなったことまで、正しい出来事として扱われるのが嫌だった。
ある日、緑地の確認に行くと、地域の子供たちが木の近くで遊んでいた。
以前、ニナが姿を消すまほうを使って、かくれんぼをしていた子供たちだった。
「ここで遊んだら、植物を傷めます」
私が注意すると、子供たちはすぐに足を止めた。
「ごめんなさい」
一人の子供が木を見上げる。
「ニナお姉ちゃんが作ってくれた場所だから、大事にする」
訂正しようとした。
ニナは遊び場を作るためにいなくなったわけではない。そんな簡単な話にしてほしくない。
けれど、子供たちはニナの犠牲を利用しているわけではなかった。
ニナが残したものを、大切にしようとしているだけだ。
ニナなら、子供たちが笑っていることを喜ぶのだろう。
その考えに、初めて強く反発しなかった。
◇
ニナの机を整理したのは、季節が一つ変わった頃だった。
捨てるためではない。
残すべきものを確認し、傷まないように保管するためだ。
書類の中から、以前の作文課題が出てきた。
『私がこの学校を選んだ理由』
最初の一文は、今も同じだった。
『アビドス高等学校の案内を見たとき、ビビッと来ました。だから入学しました。』
その下には、アビドスでやりたいことが書かれている。
学校をきれいにする。
住民たちと仲良くなる。
ユメ先輩とホシノちゃんと、いろいろな場所へ行く。
柴関ラーメンで塩ラーメンを食べる。
三人で、また水族館へ行く。
そして最後に、
『二人がずっと仲良しだったらいいと思います』
と書かれていた。
私は、その一文を何度も読んだ。
ニナが望んでいるから、ユメ先輩と仲直りする。
それだけでは違う気がした。
ニナの願いを使って、自分の罪悪感から逃げることになる。
私たちは、ニナのためではなく、自分たちの言葉で向き合わなければならない。
私はユメ先輩へ連絡した。
話したいことがあるから、ニナの木のところへ来てほしいと伝えた。
◇
約束した時間に木の下へ行くと、ユメ先輩は先に来ていた。
手には、修復された第177回アビドス砂祭りのポスターがある。
私が破いた跡は中央に残っており、裏側から貼られたテープが紙をつなぎ止めていた。
完全には元へ戻っていない。
傷も、継ぎ目も残っている。
それでも、捨てずに持っていくことはできる。
私たちは木の下へ並んで座った。
しばらく、どちらも話さなかった。
風が吹くたび、頭上で枝葉が揺れる。以前なら、沈黙に耐えられず仕事の話を始めていただろう。
今回は逃げなかった。
「私が、ニナちゃんを殺したんだと思ってる」
先に口を開いたのは、ユメ先輩だった。
「感情的になって、一人で巡回に出た。ニナちゃんが追ってきたのに、すぐに帰らなかった。偽物の救難信号にも気づけなかった」
ユメ先輩は膝の上に置いたポスターを握る。
「ビナーが出てきたときも、私はニナちゃんを守れなかった。結局、ニナちゃんに助けてもらった」
私はすぐには否定しなかった。
簡単に「先輩のせいではない」と言っても、何の意味もないことは分かっている。
「ホシノちゃんに責められたとき、少しだけ安心したの」
ユメ先輩は続けた。
「私が全部悪いって決まれば、何をすればいいか分かるような気がしたから。ずっと責められることが、私の罰なんだって思えたから」
罰を受ければ、償ったことになる。
自分を責め続ければ、ニナを忘れていない証明になる。
私も、同じように考えていた。
「私は、先輩を責めていました」
私は木の幹を見ながら言った。
「先輩のせいにすれば、自分が少しだけ楽になれたからです」
一緒に巡回へ行かなかった。
ユメ先輩が普段と違うことに気づいていながら、止めなかった。
ニナが追いかける可能性を考えなかった。
喧嘩のあと、謝らなかった。
何度考えても、自分が違う行動を取っていればと思う。
「それに、ニナのことも責めています」
ユメ先輩が顔を上げた。
「どうして、あんなことをしたのかって。私たちが悲しむことくらい、分かっていたはずなのに」
ニナの選択を、私はまだ受け入れられない。
ユメ先輩とアビドスを救ってくれたことに、感謝だけを向けることもできない。
「私は、たぶん、ずっと怒ってると思います」
「ニナにも、先輩にも、自分にも」
ユメ先輩は、しばらく黙っていた。
「うん」
やがて、静かに頷く。
「無理にきれいな思い出にしなくていいと思う」
私は木を見上げた。
「ニナは、私たちを許すためにいなくなったんじゃありません」
風に揺れる葉の隙間から、光が落ちている。
「私たちが罪悪感から逃げるために、奇跡を起こしたわけでもない」
「うん」
「だから、ここを私たちの罰にするのはやめましょう」
木を見るたびに、自分たちの罪を確認する。
緑を見るたびに、ニナを犠牲にして得たものだと拒絶する。
それでは、ニナが残したものを誰も守れない。
「私は、ニナがいなくなったことを正しかったとは思いません」
これからも、思わない。
「でも、残ったものまで間違いにしたくないです」
ユメ先輩の目から涙が落ちた。
「ホシノちゃん」
「何ですか」
「ごめんね」
「私もです」
私がポスターを破いたことも。
先輩を追い詰める言葉を使ったことも。
木の前で、先輩だけを責めようとしたことも。
短い言葉ですべてが消えるわけではない。それでも、言わないままでは前へ進めない。
「もう、一人で行かないでください」
私はユメ先輩へ言った。
効率や危険性の話ではない。
もう一人にしないでほしい。
いなくならないでほしい。
ようやく、それを言葉にできた。
「うん。約束する」
ユメ先輩は泣きながら笑った。
「ホシノちゃんもね」
「私は一人で出歩いたりしてません」
「最近、一人で仕事を全部やろうとしてるでしょう?」
「それは……」
「約束して」
少し迷ってから、私は頷いた。
「分かりました。約束します」
元の三人には戻れない。
ニナがいない以上、何をしても以前と同じにはならない。
それでも、二人で同じ方向を見ることはできる。
ユメ先輩は膝の上のポスターを広げた。
「砂祭りのことなんだけど」
「またすぐに開催すると言うつもりですか」
「言わないよ」
ユメ先輩は首を横に振った。
「まずは、この場所を守りたい。水路を整えて、植物が枯れないようにして、住民の人たちが安心して使える場所にする」
借金返済も続ける。
学校へ新しい生徒を呼び戻す方法も考える。
その先で、もう一度みんなが集まれる状態になったときに、砂祭りを考えたい。
「いつか、でいいから」
「開催時期も、予算も、参加人数も未定です」
「うん」
「安全対策も、今回より厳しくします」
「うん」
「それでもやりたいんですか」
ユメ先輩は、修復されたポスターを見た。
「やりたいよ」
以前のような勢いだけの答えではなかった。
失ったものを理解したうえで、それでも未来を諦めたくないのだろう。
「分かりました」
私はポスターを受け取る。
「まず、必要な条件を整理します」
ユメ先輩が少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「ありがとう、ホシノちゃん」
「まだ開催すると決めたわけではありません」
「うん。分かってるよ」
私たちはしばらく、木の下でこれからの話をした。
地下水の調査。
水路の整備。
育っている植物の記録。
住民との役割分担。
借金の返済計画。
すぐに何かが解決するわけではない。
失ったものも戻らない。
それでも、未来の話をしていいのだと思えた。
風が吹き、木の葉が大きく揺れた。
それをニナの返事だとは思わない。
ニナはもういない。
そこを曖昧にはしたくなかった。
ただ、ニナが残した木はここにある。
緑がある。
水がある。
子供たちが笑っている。
もう一度、未来を考えようとしているユメ先輩がいる。
そして、私はまだアビドスにいる。
ニナの奇跡は、砂漠を緑にしたことだけではないのかもしれない。
彼女を失って、別々の場所で立ち止まっていた私とユメ先輩が、もう一度同じ未来へ進むことを選べた。
それもまた、ニナが残したものなのだと思う。
私は立ち上がり、木を見上げた。
「ニナ」
返事はない。
それでも、今度はその先を続けられる。
「見ていてください」
「今度は、私たちが何とかします」
隣でユメ先輩が頷いた。
「行こう、ホシノちゃん」
「はい」
私たちは並んで歩き出した。
二人で。
三人で守ろうとした、アビドスの未来へ向かって。