飈ニナの奇跡   作:蝦蟇

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わたしの初恋




 

 ビナーの砲口から放たれた光が、背後の砂漠を白く染めた。

 

 私はニナちゃんの手を引いたまま、近くの砂丘へ向かって走った。直接狙われたわけではないはずなのに、遅れて届いた衝撃が身体を持ち上げ、足元の砂ごと私たちを吹き飛ばす。

 

 地面へ叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が押し出された。耳鳴りの向こうで砂が降り注ぎ、視界が茶色く濁る。

 

「ニナちゃん……!」

 

 身体を起こしながら周囲を探すと、少し離れた場所でニナちゃんも砂の中から顔を上げていた。

 

「大丈夫?」

 

「うん。ちょっと転んだだけ」

 

 そう答えた声には、ほとんど力がなかった。

 

 制服も髪も砂まみれになり、立ち上がろうとした膝が一度折れる。先日の砂嵐でまほうを使い続け、そのうえ私とホシノちゃんを連れて空まで飛んだ疲労が、まだ抜けきっていないのだろう。

 

 私はニナちゃんへ駆け寄り、腕を肩へ回した。

 

「歩ける?」

 

「歩けるよ」

 

「無理しなくていいからね」

 

「ユメ先輩も、同じこと言われたら困るでしょう?」

 

 ニナちゃんは弱く笑った。

 

 今は言い返している場合ではない。私はビナーへ目を向け、その巨体がゆっくりと砂の上を進んでいるのを確認した。

 

 私たちだけを狙っているわけではない。

 

 地中から現れたビナーは、こちらへの攻撃を行いながらも、一定の方向へ向かって移動を続けていた。その先にあるのは、アビドス自治区の外縁部だ。

 

 このまま進めば、現在も住民が暮らしている区域へ近づく。

 

「学校に知らせないと」

 

 通信機を起動するが、激しいノイズしか聞こえない。画面に表示される現在地も安定せず、数秒ごとに異なる座標へ飛んでいた。

 

 それでも何度か周波数を切り替えると、一瞬だけノイズが弱くなった。

 

「ホシノちゃん、聞こえる? 私たちは今、外縁部の巡回路から外れた場所にいるの。ビナーが自治区の方向へ――」

 

 通信は途中で切れた。

 

 届いたかどうかは分からない。

 

「ホシノちゃん、来てくれるかな」

 

 ニナちゃんが通信機を見つめながら尋ねた。

 

「来るよ」

 

 私は迷わず答えた。

 

 ホシノちゃんなら、私たちが戻らないと分かれば必ず探しに来る。私がどれだけ一人で大丈夫だと言っても、呆れた顔をしながら追いかけてくるはずだ。

 

 だからこそ、来る前にここから離れなければならない。

 

 ビナーと出会えば、ホシノちゃんまで無事では済まない。

 

「岩場まで行こう。あそこなら、攻撃を避けながら学校へ戻る道を探せるかもしれない」

 

「うん」

 

 ニナちゃんの手を握り、私たちは走り出した。

 

 砂へ足を取られながら進む私たちの背後で、巨大な駆動音が鳴り続けている。ビナーが身体を動かすたびに地面が震え、砂丘の形が少しずつ崩れていった。

 

 通信機から、あの男の声が聞こえた。

 

『クク……逃走を選ぶか。実に模範的で、退屈な初手だ』

 

 電源を切ったはずなのに、声は途切れない。

 

「あなたは誰なんですか」

 

『小生の名前など、この盤面においては些末なこと! 重要なのは、貴様らがどのような攻略法を選ぶかだよォ!』

 

「私たちをここへ誘導したのは、あなたですね」

 

『誘導? いやいや、小生は少しばかり標識と情報を整えただけだ。盤面へ駒を配置したにすぎない。ビナーがここを通ることも、貴様らが救難信号を無視できないことも、小生が決めたわけではないのだよ』

 

 自分には責任がないとでも言いたいのだろう。

 

 ニナちゃんが私の腕を強くつかむ。

 

『一人ならば、より高い確率で生還できる。実に分かりやすい選択肢ではないか』

 

 男の声が低くなる。

 

『生徒会長殿。そちらの少女を置いて逃げればいい』

 

「聞かなくていいよ」

 

 私はニナちゃんへ言った。

 

 次の瞬間、ニナちゃんの携帯から同じ声が流れた。

 

『そして“まほう使い”殿。負傷者を見捨て、空へ逃げればよい。貴様にはそのための力があるのだろう?』

 

 ニナちゃんは携帯を砂へ投げ捨てた。

 

『クク、ハハハッ! 気に入らないか? だが、ゲームとは選択の積み重ねだ。すべてを救うなどという都合のよい攻略法は存在しない!』

 

「あなたのゲームに付き合うつもりはありません」

 

『その言葉が、いつまで続くのか見せてもらおうではないか!』

 

 再びビナーの砲口へ光が集まった。

 

「伏せて!」

 

 私はニナちゃんを抱き寄せ、砂丘の陰へ飛び込んだ。

 

 光が頭上を横切り、近くの岩壁へ命中する。砕かれた岩が雨のように降り注ぎ、私たちは腕で頭を守りながら身体を丸めた。

 

 衝撃が収まってから顔を上げると、目指していた岩場の一部が崩れ、道を塞いでいた。

 

「別の道を探そう」

 

「待って」

 

 ニナちゃんが小さな金属片を拾い、遠くの岩陰へ手を向ける。ヘイローが淡く光ると、手のひらにあった金属片が消え、数メートル先へ落ちた。

 

 もう一度。

 

 金属片はさらに先へ移動する。

 

 何度か瞬間移動を繰り返し、ニナちゃんは岩場の奥まで道が続いていることを確かめた。

 

「向こうから回れるよ」

 

「もう、まほうは使わないで」

 

「でも、道が分からないと」

 

「ニナちゃんが倒れたら、もっと動けなくなるでしょう?」

 

 ニナちゃんは口を閉じた。

 

 それでも、私が先へ進もうとすると、何も言わずについてくる。

 

 岩壁の陰へ入ったところで、ニナちゃんの姿が揺らいだ。身体の輪郭が薄くなり、透明になっていく。

 

「ニナちゃん?」

 

「少しだけ。ビナーに見つかりにくくなるかもしれないから」

 

「私は消えられないよ」

 

「でも、わたしが見えなくなったら、少し迷うかも」

 

 姿を消しても足跡は残るし、巨大な機械が何を基準に対象を認識しているのかも分からない。それでも、ビナーの頭部が一瞬だけ違う方向を向いた。

 

 その隙に岩場の奥へ走る。

 

 数秒後、ニナちゃんの姿が戻った。顔色はさらに悪くなり、息をするたびに肩が大きく上下している。

 

「もう駄目」

 

 私はニナちゃんの肩をつかんだ。

 

「これ以上は本当に使わないで。私が何とかするから」

 

 口にしてから、自分でも無責任だと思った。

 

 目の前にいるのは、私たちの攻撃が通じるかどうかすら分からない巨大な存在だ。学校へ戻る道も、救援が来るまでの時間も分からない。

 

 それでも、ニナちゃんにまほうを使わせ続けるわけにはいかなかった。

 

「ユメ先輩」

 

「大丈夫だよ」

 

「本当に?」

 

 ニナちゃんの声は、砂漠へ追ってきたときと同じだった。

 

 責めてはいない。

 

 ただ、ごまかさずに答えてほしいのだと分かる。

 

「……怖いよ」

 

 私は認めた。

 

「私も、何をすればいいか分からない。でも、ニナちゃんを一人で逃がすことも、ここへ置いていくこともできない」

 

「わたしも同じだよ」

 

 ニナちゃんは私の手を握った。

 

「だから、一緒に帰ろう」

 

「うん」

 

 今度こそ、一緒に帰る。

 

 ホシノちゃんにも謝る。

 

 破れたポスターを三人で直して、砂祭りのことも、これからのことも、もう一度きちんと話す。

 

 そのために、まずここを生きて出なければならない。

 

 

 岩場を抜けると、ビナーの進路がよく見えた。

 

 巨体は速度を落とすことなく、自治区の方向へ進んでいる。私たちが逃げ続けても、ビナーが居住区域へ近づく事実は変わらない。

 

「このままじゃ、街の方へ行っちゃう」

 

 ニナちゃんも同じことに気づいたらしい。

 

 私は周囲の地形を確認した。

 

 正面には平坦な砂地が続き、右手には岩山がある。ビナーの注意をこちらへ引きつけ、岩山の方向へ誘導できれば、進路を少しだけ変えられるかもしれない。

 

「ニナちゃんは、ここにいて」

 

「ユメ先輩は?」

 

「ビナーを少しだけ、反対側へ誘導してくる」

 

「駄目だよ」

 

「倒そうとするわけじゃないよ。攻撃して、こっちを向かせるだけ」

 

「それでも危ないよ」

 

「分かってる」

 

 ニナちゃんが私の服をつかんだ。

 

「一人で行かないで」

 

 その言葉を聞いた瞬間、学校を出るときのホシノちゃんの顔を思い出した。

 

 ホシノちゃんは一緒に行くと言わなかった。

 

 けれど、言いたかったのかもしれない。

 

 私が止めてほしいと思っていたのと同じように。

 

「ごめんね」

 

 私はニナちゃんの手を外した。

 

「でも、私は生徒会長だから」

 

「先輩だから、一人で頑張らないといけないわけじゃないよ」

 

 返す言葉が見つからなかった。

 

 私は、自分が何度もホシノちゃんから向けられていたものを、今になってニナちゃんから受け取っている。

 

 心配。

 

 私には、それを信じて立ち止まる勇気がなかった。

 

「すぐに戻るから」

 

 結局、私はそう言って走り出した。

 

 ビナーの前へ出て、銃撃を行う。

 

 放った弾丸は巨大な装甲に当たり、わずかな火花を散らしただけだった。損傷を与えた様子はないが、ビナーの頭部がゆっくりとこちらへ向く。

 

 私は岩山の方向へ走った。

 

 ビナーが私を追っているのか、たまたま同じ方向へ動いているだけなのかは分からない。それでも、攻撃の向きが少しずつ変わっている。

 

 砲口に光が集まる。

 

 横へ飛び、放たれた光を避ける。着弾した場所から大量の砂が吹き上がり、衝撃で何度も転倒した。

 

 立ち上がる。

 

 撃つ。

 

 走る。

 

 足は砂へ沈み、呼吸はすぐに乱れた。

 

 怖い。

 

 生徒会長なのだから、アビドスを守るためなら怖くないと思っていた。

 

 そんなはずはなかった。

 

 逃げたい。

 

 ホシノちゃんに助けてほしい。

 

 ニナちゃんの手を引いて、三人で学校へ帰りたい。

 

「ユメ先輩!」

 

 背後からニナちゃんの声が聞こえた。

 

 振り返ると、岩陰へ残したはずのニナちゃんが走ってくる。途中で姿を消し、ビナーの視線を避けながら私の近くまで来ていた。

 

「どうして来たの!」

 

「一人にしないって決めたから」

 

「私は先輩だよ!」

 

「うん」

 

 ニナちゃんは私の隣へ立ち、手のひらを開いた。

 

 私が落とした予備弾倉が淡い光とともに現れる。

 

「でも、先輩だから一人で頑張らないといけないわけじゃないよ」

 

 さっきと同じ言葉だった。

 

 今度は、もう否定できなかった。

 

「……分かった」

 

 私は弾倉を受け取った。

 

「一緒に帰ろう」

 

「うん」

 

 二人でビナーから距離を取る。

 

 私が正面から注意を引き、ニナちゃんが姿を消して進路を確認する。小さな岩や装備を瞬間移動させ、逃げ道を作る。

 

 連携と呼べるほど整ったものではない。

 

 それでも、一人で走っていたときよりはずっと心強かった。

 

『なんと美しい友情だ! 互いを見捨てられず、効率の悪い選択ばかりを積み重ねる!』

 

 どこからか、あの男の声が響く。

 

『だが、それで盤面を覆せると思うなよ! ルールを守る限り、貴様らに勝ち目はない!』

 

「勝とうとしてるわけじゃありません!」

 

 私は叫んだ。

 

「帰るんです。二人で!」

 

『クク……ならば、そのエンディングへ到達してみせたまえ!』

 

 ビナーの頭部が動く。

 

 今度の照準は、私たちへ向けられていなかった。

 

 その先にあるのは、アビドスの居住区域だ。

 

 これまでよりも強い光が、砲口へ集まっていく。

 

「ニナちゃん、伏せて!」

 

 私はニナちゃんを突き飛ばし、ビナーと自治区の間へ身体を入れた。

 

 何かを防げるとは思っていない。

 

 それでも、身体が勝手に動いた。

 

 白い光が視界を埋め尽くした。

 

 衝撃が全身を貫き、身体が空へ投げ出される。

 

 骨の奥まで揺さぶられるような痛みの後、私は地面へ落ちた。

 

 手も足も動かない。

 

 音が遠い。

 

 ニナちゃんが私の名前を呼んでいる。

 

「ユメ先輩」

 

 返事をしなければと思う。

 

「起きて」

 

 大丈夫だと伝えなければならない。

 

「一緒に帰ろう」

 

 けれど、声が出なかった。

 

 視界の端に、ニナちゃんの顔が映る。

 

 泣いている。

 

 私の肩を揺らし、鞄から救急用品を取り出そうとしている。

 

 でも、ニナちゃんのまほうに人の傷を治す力はない。

 

 空を飛べる。

 

 姿を消せる。

 

 小さな物を移動させられる。

 

 植物を成長させられる。

 

 どれも、今の私を治すことはできない。

 

 ニナちゃんが周囲を見た。

 

 進み続けるビナー。

 

 その先にあるアビドス。

 

 倒れている私。

 

 そして、ホシノちゃんがいるはずの方向。

 

 何かを決めたのだと、分かった。

 

 止めなければならない。

 

 そう思ったところで、私の意識は途切れた。

 

 

 

 

 ホシノちゃん。

 

 いつか、言ってたね。

 

「何でそんなに人のために頑張れるんですか」って。

 

 まほうを使うと、すぐに息が切れる。

 

 使いすぎた次の日は、起き上がれないことだってある。

 

 別に、わたしが特別ないい子だから頑張ってるわけじゃないんだ。

 

 

 

 一目惚れしたの。

 

 

 

 あの日、あのとき。

 

 校門の前で、あなたに出会った瞬間に。

 

 好きな子の前では、格好いいところを見せたいからね。

 

 

 

 

 ニナはユメのそばへ鞄を置き、その中から古い紙袋を取り出した。

 

 アビドスに残る住民から託された植物の種。いつか育てられる場所ができたら、みんなで植えようと約束したものだった。

 

 ニナは袋を開き、手のひらへ種を載せる。

 

 以前、枯れた花壇でまほうを使ったとき、芽は生まれてもすぐにしおれた。

 

 植物には水がいる。

 

 土がいる。

 

 根を張り、生き続けられる場所がいる。

 

 砂漠の下に何もないわけではないことを、ニナは知っていた。かつて人が暮らしていた土地には、埋もれた水路や地下水脈が残っている。砂に覆われる前の土も、眠ったままの種子もある。

 

 足りないものを、まほうだけで作ることはできない。

 

 それでも、離れているものを結びつけることならできるかもしれない。

 

 ニナのヘイローが、これまでにないほど強く輝いた。

 

 身体がゆっくりと地面から離れる。

 

 呼吸をするたびに胸が痛み、手足にはほとんど力が残っていない。それでもニナは高度を上げ、手のひらの種を砂漠へ放った。

 

 風に乗った種が散っていく。

 

 ニナは瞬間移動のまほうを使う。

 

 本来なら、手のひらに収まるものを半径数メートル以内へ移すだけの力だった。

 

 一粒の種を、少し先へ送る。

 

 さらに先へ送る。

 

 砂の中へ送り、岩の割れ目へ送り、地下へ埋もれた古い水路の近くへ送る。

 

 一度では遠くへ届かない。

 

 だから何度も繰り返す。

 

 空を飛びながら、ニナは種を広い範囲へ運び続けた。

 

 ヘイローの光が脈打つたび、種が別の場所へ現れる。ビナーの進路上から、アビドスの居住区域へ続く砂漠一帯へ、無数の小さな命が散っていった。

 

 ニナは両手を広げる。

 

 植物を成長させるまほうが、砂の中へ伝わる。

 

 最初に生まれたのは、細い根だった。

 

 根は暗い地中を進み、水を探して深く伸びる。砂に埋もれた土へ入り込み、崩れた水路の隙間を通り、長く使われていなかった地下水脈へ届く。

 

 一本の根が水を吸う。

 

 その水が茎へ運ばれ、小さな芽が地表を割った。

 

 次の芽が出る。

 

 さらに次の芽が続く。

 

 草が生まれ、低木が枝を伸ばし、地中では無数の根が絡み合う。眠っていた種子もニナのまほうに呼応するように芽吹き、緑は波となって砂漠へ広がっていった。

 

 根は砂をつなぎ止め、地下へ残された水を吸い上げる。

 

 崩れていた古い水路の一部が根によって押し開かれ、地表へ水があふれ出した。

 

 乾いた砂が湿り、やがて泥へ変わる。

 

 ビナーの進路上では、地中へ伸びた根が巨大な網のように広がっていた。

 

 固められた砂。

 

 露出した岩盤。

 

 水を含み、沈み込む地面。

 

 ビナーの巨体がわずかに傾いた。

 

 前進する速度が落ちる。

 

 ニナのまほうでは、ビナーを倒せない。

 

 だから、ビナーが進む砂漠そのものを変えた。

 

 真っすぐ自治区へ向かっていた巨体が、より進みやすい地盤を求めるように方向を変える。居住区域から離れ、砂漠の奥へ向かってゆっくりと進路を逸らしていった。

 

『な――』

 

 砂へ投げ捨てられた携帯から、地下生活者の声が漏れた。

 

『何だ、これは……? このような能力は想定されていない! 物体の移動と飛行、植物の成長――それらを組み合わせただけで、盤面そのものを書き換えるだと!?』

 

 緑は止まらない。

 

『ルール違反だ! それは攻略ではない! ゲームの地形そのものを変更するなど、そんなチートが許されるものかッ!』

 

 男が用意したのは、二者択一だった。

 

 自分が生きるか、相手を救うか。

 

 ユメを守るか、アビドスを守るか。

 

 どちらかを選び、どちらかを諦める。

 

 ニナは、そのどちらも選ばなかった。

 

 すべてを救おうとした。

 

『認めんぞ! こんなエンディングは小生のシナリオに存在しない! 止まれ! 止まれと言っているッ!』

 

 地下生活者の叫びは、地面を割って伸びる植物と、水が流れ始める音に飲み込まれていった。

 

 通信が途絶える。

 

 ニナの身体は、ヘイローからあふれた光の中で少しずつ薄くなっていた。

 

 それでも、まほうは止まらない。

 

 最後の一本の根が水へ届き、ビナーが完全に自治区から進路を逸らしたとき、ニナは静かに目を閉じた。

 

 

 冷たいものが頬に触れて、私は目を覚ました。

 

 最初に見えたのは、知らない景色だった。

 

 砂しかなかったはずの場所に、背の高い草が生い茂っている。色とりどりの小さな花が咲き、すぐ近くでは細い水の流れる音が聞こえた。

 

 私はしばらく、自分がまだ夢を見ているのだと思った。

 

 けれど、身体を起こそうとした瞬間に全身へ走った痛みが、それを否定した。

 

 ビナー。

 

 白い光。

 

 ニナちゃん。

 

「……ニナちゃん?」

 

 喉が乾き、声はかすれていた。

 

 返事はない。

 

 腕に力を入れ、何とか上半身を起こす。立ち上がった途端に視界が揺れたが、近くの草へ手をつきながら歩き出した。

 

「ニナちゃん」

 

 緑をかき分ける。

 

 水辺を見る。

 

 岩陰をのぞく。

 

 大きな声を出すたびに胸が痛んだ。それでも、ニナちゃんの名前を呼び続けた。

 

「どこにいるの?」

 

 姿を消しているだけかもしれない。

 

 疲れて、どこかで眠っているだけかもしれない。

 

 飛ぶ力を使い切り、遠くへ落ちてしまった可能性もある。

 

「もう、隠れなくていいよ」

 

 返事はなかった。

 

 どれだけ探しても、ニナちゃんの姿は見つからない。

 

 足に力が入らなくなり、私は最初に目を覚ました場所へ戻った。

 

 そこで初めて気づいた。

 

 緑が広がる一帯の中で、そこだけが不自然に開けていた。

 

 草も花も、円を描くように空間の外側で止まっている。何かのために残されたような場所の中央に、一本の木が立っていた。

 

 太い幹から枝が伸び、青々とした葉が風に揺れている。

 

 他の植物より大きいからではない。

 

 形が似ているわけでもない。

 

 それでも、見た瞬間に分かってしまった。

 

 ニナちゃんだ。

 

「あ……」

 

 声にならない音が漏れた。

 

 私はふらつく足で木のそばへ向かい、樹皮へ手を触れた。

 

 ただの木だった。

 

 手のひらに伝わるのは、硬くざらついた感触だけ。それなのに、ニナちゃんではないとはどうしても思えなかった。

 

「うそだよ」

 

 私は首を振った。

 

「こんなの、うそだよ」

 

 もう一度周囲を探そうとした。

 

 けれど、探しても意味がないことを、どこかで理解してしまっている。

 

 木の根元には、ニナちゃんの鞄が置かれていた。中から、水族館で撮った三人の写真が少しだけ見えている。

 

 私は木の前へ崩れ落ちた。

 

「一緒に帰ろうって、言ったのに」

 

 木は答えない。

 

 風に葉を揺らすだけだった。

 

 

 砂漠の向こうで、地面を走る光が見えた。

 

 爆発とは違う。

 

 ビナーの攻撃とも違う。

 

 緑色を帯びた光が砂丘の向こうへ広がり、そのあとを追うように植物が地面から生まれていった。

 

 私は二人の位置情報を追いながら、走り続けた。

 

 途中から景色が変わった。

 

 砂しかなかったはずの地面に草が生え、進むほどその数が増えていく。細い水の流れまで現れ、足元には湿った土が混じり始めた。

 

 あり得ない。

 

 アビドスの砂漠に、こんな場所はなかった。

 

 ニナのまほうだ。

 

 そう思った。

 

 だったら、まだ間に合う。

 

 また無理をして倒れているかもしれない。見つけたら、今度こそ本気で叱らなければならない。何日動けなくなっても、勝手に人のためにまほうを使わないよう、分かるまで言い聞かせる。

 

 緑の中心へ近づくと、急に視界が開けた。

 

 円形の空間の中央に、一本の木が立っている。

 

 その根元に、ユメ先輩が座り込んでいた。

 

「ユメ先輩!」

 

 駆け寄ると、先輩には意識があった。負傷はひどいが、ヘイローも消えていない。

 

 私は周囲を見回した。

 

 ニナの姿がない。

 

「ニナは?」

 

 ユメ先輩は答えず、木を見ている。

 

「ニナはどこですか」

 

 声を強めても、先輩は私を見なかった。

 

 木の根元に、見覚えのある鞄が置かれていた。

 

 私はそれを手に取った。

 

 中から、写真が落ちる。

 

 水族館で撮った、三人の写真。

 

 中央で笑うニナ。

 

 その両側に、私とユメ先輩。

 

 理解したくなかった。

 

 それでも、ユメ先輩が何を見ているのか、分かってしまった。

 

「違う」

 

 自分でも、誰に言ったのか分からなかった。

 

「こんなの、違います」

 

「ホシノちゃん……」

 

 ユメ先輩が、ようやく私の名前を呼ぶ。

 

「違うと言ってください」

 

 私は木の周囲を見回した。

 

「ニナは姿を消せるんです。どこかに隠れてるだけでしょう」

 

 草をかき分ける。

 

 水辺を見る。

 

 岩の後ろへ回る。

 

「ニナ」

 

 返事はない。

 

「もういいですから、出てきてください」

 

 声が震える。

 

「怒ってません。まほうを使いすぎたことも、後で説教するだけですから」

 

 何も聞こえない。

 

 風が吹き、木の葉が揺れる。

 

 私は木の根元へ手を伸ばし、土を掘り始めた。

 

「ホシノちゃん、何を……」

 

「ここにいるかもしれません」

 

 あり得ないと分かっている。

 

 それでも、手を止められなかった。

 

「まほうの途中で埋まっただけかもしれない。探せば見つかります」

 

 爪の間へ土が入り、指先から血がにじむ。

 

 ユメ先輩が私の腕をつかんだ。

 

「やめて」

 

「離してください」

 

「ニナちゃんは、ここには――」

 

「離してください!」

 

 先輩の手を振り払った。

 

「どうして一人で行ったんですか」

 

 言葉が、勝手に口から出る。

 

「どうしてニナを連れていったんですか」

 

「ニナちゃんは、私を追ってきて……」

 

「どうして守れなかったんですか!」

 

 ユメ先輩の顔が歪んだ。

 

「私が悪いの」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが切れた。

 

「違う」

 

 私は叫んだ。

 

「先輩だけが悪いみたいに言わないでください」

 

「でも、私が一人で出なかったら――」

 

「一緒に行かなかった私が悪い。ニナを止めなかった私が悪い。先輩をあんな状態で行かせた私が悪い!」

 

 誰か一人の責任にできれば、もっと楽だった。

 

 ユメ先輩だけを責める。

 

 勝手についていったニナを責める。

 

 自分だけが悪かったと思い込む。

 

 けれど、どれも正しくない。

 

 誰か一人のせいにしても、ニナは戻ってこない。

 

 だから、怒りを向ける場所がなかった。

 

 私は木の根元へ座り込み、血のにじんだ手で写真を握った。

 

 ユメ先輩も隣で泣いている。

 

 私たちは助かった。

 

 ビナーは自治区から進路を逸らし、住民にも被害は出なかった。

 

 砂漠には緑が生まれた。

 

 結果だけを見れば、奇跡と呼ばれるのだろう。

 

 私は、その言葉を認めたくなかった。

 

 ニナのいない結果を、奇跡と呼びたくなかった。

 

 

 ユメ先輩は治療のため、しばらく学校へ来られなくなった。

 

 生徒会室へ戻ると、机が三つ並んでいた。

 

 私の机。

 

 ユメ先輩の机。

 

 ニナの机。

 

 ニナの机には、途中まで解いた数学の問題が残っている。答えは間違っており、式の横には『数字がまだ仲直りしていない』と書かれていた。

 

 私は赤いペンを手に取った。

 

 いつものように、間違いを直そうとする。

 

 けれど、手が動かなかった。

 

 正しい答えを書いても、ニナは見ない。

 

 私は答案を元の場所へ戻した。

 

 机の中も、鞄を置いていた場所も、そのままにした。

 

 片づけてしまえば、ニナが戻ってくる場所がなくなるような気がした。

 

 毎朝、校門を見る。

 

 砂まみれになって、少し遠くまで行っていただけだと言いながら、ニナが戻ってくるかもしれない。

 

 通信機にも何度もニナの番号を入力した。

 

 接続されない。

 

 夜になると、あの木のところへ行った。

 

「隠れてるなら、もう出てきてください」

 

 木を見上げながら言う。

 

「みんな、困ってます。ユメ先輩も、ずっと泣いてます」

 

 風が枝を揺らす。

 

「人が悲しむのが嫌いだったんじゃないんですか」

 

 返事はない。

 

「こんなことをしたら、私たちがどうなるかくらい分かったでしょう」

 

 喉が詰まり、しばらく言葉が続かなかった。

 

「格好悪いですよ」

 

 ニナが一番言われたくなさそうな言葉だった。

 

 口にした直後、後悔した。

 

「……嘘です」

 

 謝っても、やはり返事はなかった。

 

 

 ユメ先輩が学校へ戻ってからも、私たちは以前のようには話せなかった。

 

 傷は完全に治っていない。

 

 歩く速度も遅く、長時間立ち続けることも難しい。それでも、先輩は生徒会長として仕事を再開しようとした。

 

 ただし、新しい計画を口にしなくなった。

 

 何かを決めるたび、私へ確認する。

 

「ホシノちゃんは、どう思う?」

 

「危なくないかな」

 

「やめた方がいいかな」

 

 以前の私なら、先輩が慎重になったことを喜んだかもしれない。

 

 けれど、目の前にいるユメ先輩を見ても、安心はできなかった。

 

 私が止めたかったのは、先輩が夢を見ることではない。

 

 夢のために無理をして、ある日突然いなくなるのが怖かっただけだ。

 

 それを、私は伝えられなかった。

 

 今も、伝えられない。

 

 必要な仕事の話だけをして、放課後になれば別々に帰った。

 

 借金は残っている。

 

 返済期限も来る。

 

 地域からの依頼も届き、私たちが動かなければ自治区の問題は増えていく。

 

 私は以前より多くの仕事を引き受けるようになった。

 

 休まず、眠らず、自分一人で片づけようとする。

 

「ホシノちゃん、少し休んだ方がいいよ」

 

 ユメ先輩に言われ、私は書類から顔を上げた。

 

「先輩にだけは言われたくありません」

 

 口にした瞬間、ユメ先輩は黙った。

 

 自分が先輩と同じことをしていると、分かっていた。

 

 それでも、動いていればニナのことを考えずに済む。

 

 止まれば、最後に交わした会話を思い出してしまう。

 

 何でそんなに人のために頑張れるのか。

 

 格好いいから。

 

 ニナは、そう答えた。

 

 何が格好いいのか。

 

 誰にそう思われたかったのか。

 

 私には、最後まで分からなかった。

 

 

 ニナのまほうで生まれた緑は、すべてが残ったわけではない。

 

 地下水の届かない場所では植物が枯れ、砂へ戻った区域もある。それでも、一本の木を中心とした一帯には緑が根づいた。

 

 地下水の位置が確認され、住民たちは簡単な水路を作り始めた。砂の流入が減った場所では道路や建物の維持も楽になり、小さな畑を作れる可能性まで出てきた。

 

 住民たちは、その場所をニナの奇跡と呼んだ。

 

 私は、その名前を聞くたびに会話から離れた。

 

 誰かが助かったことを喜べないわけではない。

 

 ただ、そのためにニナがいなくなったことまで、正しい出来事として扱われるのが嫌だった。

 

 ある日、緑地の確認に行くと、地域の子供たちが木の近くで遊んでいた。

 

 以前、ニナが姿を消すまほうを使って、かくれんぼをしていた子供たちだった。

 

「ここで遊んだら、植物を傷めます」

 

 私が注意すると、子供たちはすぐに足を止めた。

 

「ごめんなさい」

 

 一人の子供が木を見上げる。

 

「ニナお姉ちゃんが作ってくれた場所だから、大事にする」

 

 訂正しようとした。

 

 ニナは遊び場を作るためにいなくなったわけではない。そんな簡単な話にしてほしくない。

 

 けれど、子供たちはニナの犠牲を利用しているわけではなかった。

 

 ニナが残したものを、大切にしようとしているだけだ。

 

 ニナなら、子供たちが笑っていることを喜ぶのだろう。

 

 その考えに、初めて強く反発しなかった。

 

 

 ニナの机を整理したのは、季節が一つ変わった頃だった。

 

 捨てるためではない。

 

 残すべきものを確認し、傷まないように保管するためだ。

 

 書類の中から、以前の作文課題が出てきた。

 

『私がこの学校を選んだ理由』

 

 最初の一文は、今も同じだった。

 

『アビドス高等学校の案内を見たとき、ビビッと来ました。だから入学しました。』

 

 その下には、アビドスでやりたいことが書かれている。

 

 学校をきれいにする。

 

 住民たちと仲良くなる。

 

 ユメ先輩とホシノちゃんと、いろいろな場所へ行く。

 

 柴関ラーメンで塩ラーメンを食べる。

 

 三人で、また水族館へ行く。

 

 そして最後に、

 

『二人がずっと仲良しだったらいいと思います』

 

 と書かれていた。

 

 私は、その一文を何度も読んだ。

 

 ニナが望んでいるから、ユメ先輩と仲直りする。

 

 それだけでは違う気がした。

 

 ニナの願いを使って、自分の罪悪感から逃げることになる。

 

 私たちは、ニナのためではなく、自分たちの言葉で向き合わなければならない。

 

 私はユメ先輩へ連絡した。

 

 話したいことがあるから、ニナの木のところへ来てほしいと伝えた。

 

 

 約束した時間に木の下へ行くと、ユメ先輩は先に来ていた。

 

 手には、修復された第177回アビドス砂祭りのポスターがある。

 

 私が破いた跡は中央に残っており、裏側から貼られたテープが紙をつなぎ止めていた。

 

 完全には元へ戻っていない。

 

 傷も、継ぎ目も残っている。

 

 それでも、捨てずに持っていくことはできる。

 

 私たちは木の下へ並んで座った。

 

 しばらく、どちらも話さなかった。

 

 風が吹くたび、頭上で枝葉が揺れる。以前なら、沈黙に耐えられず仕事の話を始めていただろう。

 

 今回は逃げなかった。

 

「私が、ニナちゃんを殺したんだと思ってる」

 

 先に口を開いたのは、ユメ先輩だった。

 

「感情的になって、一人で巡回に出た。ニナちゃんが追ってきたのに、すぐに帰らなかった。偽物の救難信号にも気づけなかった」

 

 ユメ先輩は膝の上に置いたポスターを握る。

 

「ビナーが出てきたときも、私はニナちゃんを守れなかった。結局、ニナちゃんに助けてもらった」

 

 私はすぐには否定しなかった。

 

 簡単に「先輩のせいではない」と言っても、何の意味もないことは分かっている。

 

「ホシノちゃんに責められたとき、少しだけ安心したの」

 

 ユメ先輩は続けた。

 

「私が全部悪いって決まれば、何をすればいいか分かるような気がしたから。ずっと責められることが、私の罰なんだって思えたから」

 

 罰を受ければ、償ったことになる。

 

 自分を責め続ければ、ニナを忘れていない証明になる。

 

 私も、同じように考えていた。

 

「私は、先輩を責めていました」

 

 私は木の幹を見ながら言った。

 

「先輩のせいにすれば、自分が少しだけ楽になれたからです」

 

 一緒に巡回へ行かなかった。

 

 ユメ先輩が普段と違うことに気づいていながら、止めなかった。

 

 ニナが追いかける可能性を考えなかった。

 

 喧嘩のあと、謝らなかった。

 

 何度考えても、自分が違う行動を取っていればと思う。

 

「それに、ニナのことも責めています」

 

 ユメ先輩が顔を上げた。

 

「どうして、あんなことをしたのかって。私たちが悲しむことくらい、分かっていたはずなのに」

 

 ニナの選択を、私はまだ受け入れられない。

 

 ユメ先輩とアビドスを救ってくれたことに、感謝だけを向けることもできない。

 

「私は、たぶん、ずっと怒ってると思います」

 

「ニナにも、先輩にも、自分にも」

 

 ユメ先輩は、しばらく黙っていた。

 

「うん」

 

 やがて、静かに頷く。

 

「無理にきれいな思い出にしなくていいと思う」

 

 私は木を見上げた。

 

「ニナは、私たちを許すためにいなくなったんじゃありません」

 

 風に揺れる葉の隙間から、光が落ちている。

 

「私たちが罪悪感から逃げるために、奇跡を起こしたわけでもない」

 

「うん」

 

「だから、ここを私たちの罰にするのはやめましょう」

 

 木を見るたびに、自分たちの罪を確認する。

 

 緑を見るたびに、ニナを犠牲にして得たものだと拒絶する。

 

 それでは、ニナが残したものを誰も守れない。

 

「私は、ニナがいなくなったことを正しかったとは思いません」

 

 これからも、思わない。

 

「でも、残ったものまで間違いにしたくないです」

 

 ユメ先輩の目から涙が落ちた。

 

「ホシノちゃん」

 

「何ですか」

 

「ごめんね」

 

「私もです」

 

 私がポスターを破いたことも。

 

 先輩を追い詰める言葉を使ったことも。

 

 木の前で、先輩だけを責めようとしたことも。

 

 短い言葉ですべてが消えるわけではない。それでも、言わないままでは前へ進めない。

 

「もう、一人で行かないでください」

 

 私はユメ先輩へ言った。

 

 効率や危険性の話ではない。

 

 もう一人にしないでほしい。

 

 いなくならないでほしい。

 

 ようやく、それを言葉にできた。

 

「うん。約束する」

 

 ユメ先輩は泣きながら笑った。

 

「ホシノちゃんもね」

 

「私は一人で出歩いたりしてません」

 

「最近、一人で仕事を全部やろうとしてるでしょう?」

 

「それは……」

 

「約束して」

 

 少し迷ってから、私は頷いた。

 

「分かりました。約束します」

 

 元の三人には戻れない。

 

 ニナがいない以上、何をしても以前と同じにはならない。

 

 それでも、二人で同じ方向を見ることはできる。

 

 ユメ先輩は膝の上のポスターを広げた。

 

「砂祭りのことなんだけど」

 

「またすぐに開催すると言うつもりですか」

 

「言わないよ」

 

 ユメ先輩は首を横に振った。

 

「まずは、この場所を守りたい。水路を整えて、植物が枯れないようにして、住民の人たちが安心して使える場所にする」

 

 借金返済も続ける。

 

 学校へ新しい生徒を呼び戻す方法も考える。

 

 その先で、もう一度みんなが集まれる状態になったときに、砂祭りを考えたい。

 

「いつか、でいいから」

 

「開催時期も、予算も、参加人数も未定です」

 

「うん」

 

「安全対策も、今回より厳しくします」

 

「うん」

 

「それでもやりたいんですか」

 

 ユメ先輩は、修復されたポスターを見た。

 

「やりたいよ」

 

 以前のような勢いだけの答えではなかった。

 

 失ったものを理解したうえで、それでも未来を諦めたくないのだろう。

 

「分かりました」

 

 私はポスターを受け取る。

 

「まず、必要な条件を整理します」

 

 ユメ先輩が少し驚いたあと、柔らかく笑った。

 

「ありがとう、ホシノちゃん」

 

「まだ開催すると決めたわけではありません」

 

「うん。分かってるよ」

 

 私たちはしばらく、木の下でこれからの話をした。

 

 地下水の調査。

 

 水路の整備。

 

 育っている植物の記録。

 

 住民との役割分担。

 

 借金の返済計画。

 

 すぐに何かが解決するわけではない。

 

 失ったものも戻らない。

 

 それでも、未来の話をしていいのだと思えた。

 

 風が吹き、木の葉が大きく揺れた。

 

 それをニナの返事だとは思わない。

 

 ニナはもういない。

 

 そこを曖昧にはしたくなかった。

 

 ただ、ニナが残した木はここにある。

 

 緑がある。

 

 水がある。

 

 子供たちが笑っている。

 

 もう一度、未来を考えようとしているユメ先輩がいる。

 

 そして、私はまだアビドスにいる。

 

 ニナの奇跡は、砂漠を緑にしたことだけではないのかもしれない。

 

 彼女を失って、別々の場所で立ち止まっていた私とユメ先輩が、もう一度同じ未来へ進むことを選べた。

 

 それもまた、ニナが残したものなのだと思う。

 

 私は立ち上がり、木を見上げた。

 

「ニナ」

 

 返事はない。

 

 それでも、今度はその先を続けられる。

 

「見ていてください」

 

「今度は、私たちが何とかします」

 

 隣でユメ先輩が頷いた。

 

「行こう、ホシノちゃん」

 

「はい」

 

 私たちは並んで歩き出した。

 

 二人で。

 

 三人で守ろうとした、アビドスの未来へ向かって。

 

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