ロード・エルメロイⅡ世は、内弟子のグレイと並んで、廊下を歩いていた。
すると前方から、明らかに「普通ではないもの」が近づいてくる。
羽の付いた帽子に、金糸の刺繍に彩られた古風で貴族的な衣装。 そこに肩当て、グローブ、ブーツ、そして片マント。 整った顔立ちに、後ろで編み込まれた銀髪。 どこから見ても目立つ美人だった。
しかし問題は、そこではない。
その両手にある物だった。
美少女アニメのイラストが大きく印刷された紙袋が、左右にぶら下がっている。
彼女は特別講師のマリアだ。
執行者としても籍を置き、実戦の知見を買われて教室に呼んでいる女。 普段はビジネスライクに接している相手である。
グレイが、フードの下で小さく息を詰める。
「師匠……あの方、また」
「知っている。見えている」
Ⅱ世は短く答えた。 学部長として、無視して通り過ぎるべきだった。 だが、日本のゲームとサブカルチャーに浸かりすぎた感性は、すでに限界を迎えていた。
「……待て」
マリアは、静かに足を止めた。
Ⅱ世は距離を詰めて尋ねた。
「その袋は、何だ」
「紙袋だよ」
「中身を聞いている」
「本と、レトルトさ」
「レトルト?」
「ボーボーカレーだな」
Ⅱ世のこめかみが、わずかに疼いた。 隣で、グレイがきょとんとしている。
「なぜ、それをここに持ってくる」
「帰ってきたからさ」
「どこからだ」
「日本、だよ」
Ⅱ世は深く息を吸った。 いくつかの言葉を飲み込み、別の言葉を選んだ。
「レディ…マリア•アストラル」
「……ただのマリアでいいさ」
そのときだった。
紙袋の底が、重量に耐えきれず破れた。
中身が、廊下の床に広がる。
表紙に美少女が描かれた薄い冊子が数冊。 クリアファイル。 大きくて気品のある犬——ボルゾイ——が印刷されたレトルトカレーのパッケージ。 その他、同人誌即売会で入手したとしか思えない小物類。
沈黙が三者を包む。
グレイが、小さく呟く。
「拙…これ、知りません。何なのでしょうか」
Ⅱ世は、床に散らばったものを見下ろした。 サブカル好きとしての興味が、一瞬だけ動く。 同人誌の装丁。
レトルトカレーのデザイン。
紙袋の材質。
同時に、学部長としての理性が、完全に呆れ返っていた。
「……なぜ、こんな物を持っている」
マリアは、すでにしゃがみ込み、淡々と拾い始めていた。 跪く姿勢はどこか優雅で、しかしやっていることは同人誌やレトルトカレーの回収である。
一冊、また一冊と、冊子を拾う。 クリアファイルの角を直し、ボルゾイのレトルトを紙袋の残骸に戻す。
その所作は丁寧で、かつ洗練されたものだった。
しかし丁寧なのに、状況が状況だった。
「自室に荷物を置きに戻るのが面倒だったからね。戦利品をそのまま持って来たよ。カレーなら分けてやれるが…」
「いいや、結構だ…」
Ⅱ世は、廊下の天井を仰いだ。
有能な執行者であり、実戦の知見を買われて教室に呼んだ特別講師。 その女が、今、レトルトカレーを床から拾って差し出してくる。
「はぁ…君は、一体何なんだ」
マリアは冊子を紙袋の残骸に戻し、片腕に抱えながら答えた。
「時計塔にいる、ただのマリアさ。グレイもカレーを食べるかい?ほら、二人で食べると良い。豚のカツレツと共に食べるのがオススメだ」
隣で、グレイがさらに小さな声で言った。
「師匠…拙、カツカレーが食べたいです」
Ⅱ世は、もう何も言えなかった。
後になって、煙草を片手にⅡ世は机に向かい、彼女の記録を改めて開いた。
登録名はマリア・アストラル。 通称、マリア。 所属は封印指定執行者であり、エルメロイ教室の特別講師。
出自は不詳。
年齢も不詳。 実戦能力は極めて高く、単独任務の達成率も良好だ。 魔術回路については不明。 死徒に近い再生力が確認されているが、死徒特有の吸血衝動はない。 加速と呼ぶべき機動を常用し、戦闘では崩した相手の内臓を狙う傾向がある、との注釈も付いている。
人物評の欄には、短い一文があった。
『有能だが、扱いづらい。自己完結した行動原理を持つ』
Ⅱ世は、報告書の端に視線を落としたまま、短く息を吐いた。
講師として接してきた範囲でも、印象は大きく変わらない。
彼女の実戦における知見は本物だ。
教室に呼んだ判断自体は、今のところ間違っていない。 口数は少なく、出世にも派閥にも興味を示さない。
他の学科と比べて不遇な現代魔術科としては、その点は都合が良い。
だが彼女の行動原理が読めない。
今日の廊下で、彼女は美少女絵の紙袋を両手に提げ、恥ずかしい中身をぶちまけた。
同人誌とレトルトカレー。 その他サブカル的なものを持っていることまでは、確認できた。
それでも——なぜそれを、時計塔の廊下で堂々と提げるのかは、分からない。
「……記録にある以上のことは、何も書いていないな」
Ⅱ世はファイルを閉じた。
紙袋を提げて帰ってきた女の姿が、まだ目に残っている。 優雅にしゃがみ、同人誌を拾っていた手つきも。
「相変わらず素性が分からん。講師として呼んで、本当に良かったのか…急に嫌な予感がしてきたぞ」
じりじりと音を立てて、燃焼が煙草を侵食する。
そしてその予感は残念ながら、ほとんど確信に近かった。
時計塔には、マリアがいる。