スラーの路地は、昼でも光が足りない。
壁の染みと、排水の匂いと、遠くの車の音。
執行者——マリアは、特に用事があるでもなく、その角を曲がった。
金糸の刺繍に彩られた狩装束は、この裏通りには浮いている。
だが浮いていること自体は、彼女にとってどうでもよかった。
角の先に、子供が立っていた。
銀の長い髪。黒い縦縞のドレス。
帯のように伸びる外套の裏に、髑髏の模様。
口元だけが愉しげで、目の色が、路地の影より少し深い。
「やあやあ!ヘンテコな執行者さん」
声が弾んでいる。
会った覚えはない。
「ちょっとだけ、揶揄ってみようかなあって。噂、聞いてたのよねー」
マリアは足を止めなかった。
無視して通りすぎるつもりだった。
その瞬間、空気が変わった。
車の音が、膜の外側へ退いた。
排水の匂いが途切れ、甘いものと、古い石の匂いが混ざる。
頭上の電線の向こうにあったはずの空が、一段低く、近い。
角を曲がれば大通りへ出る、という記憶と、目の前の袋小路が一致しない。
物々しい、というより、箱の蓋が閉まった感触だった。
「ええー!無視なんてひどーい!!」
マリアの両手は既に、別の感触を握っていた。
右手に落葉。
バキン、と音を立てて柄をひねるようにして、刃が二本に分かれる。
時計塔の女狩人が、戦いの始めに見せる二刀の形。
まだ銃はない。
少女は手を叩いた。
「わ。早い。もう狩りモード?二本も」
「……ここは、どこだ」
「ちょっとだけ、箱の中。外は聞こえないから、思い切りやっていいよ」
路地の壁が、甘い色ににじむ。
「さぁて、今日の天気わぁ?そーれ飴玉降れ♪降れ♪」
頭上から、宝石のような殺人的な質量の飴玉が降ってきた。
二刀の落葉が、交差して飴を砕く。砂糖の粉塵が舞う。
少女はすでに頭上にいて、そのまま踏みつけようとする。
マリアは前ステップで間合いを消し、二本の軌跡で払った。
「うわっ!もう!平和にいこーよー」
不意に足元から、無数の手が生えた。
拍手する手。
その掌が靴底を掴みにかかる。
マリアは踏み込みを切り、二刀の回転で手の群を払う。リーチはまだ、刀の長さのままだ。
「ふーん…なら、色仕掛けだよ!ひゅー♪ひゅー♪」
背面を突き出して、ヒップアタック。
背後に消えて、またヒップ。
足元の死角に座り込んで、アッパー攻撃。
コミカルだが、悪趣味。
しかし確かに相手を害する、意思のある攻撃だった。
しかし、マリアはほとんど表情を変えなかった。
二刀の軌道だけが正確で、少女の袖を裂く。
血液は出ない。
裂いた先が、すぐに別の笑顔にすり替わる。
「幻の類か」
「そう!ただの幻術だよ?でも、執行者さんって、反応うすいよね!ほらほら!!もっと怒っていいよ」
景色が、一度、大きく歪んだ。
ロード・エルメロイⅡ世の顔が、路地の奥に立っていた。
声も借りている。
毒を含んだ、いつもの講義の口調で、執行者の奇行を並べ立て罵倒する。
隣にはフードの影。
グレイの声が、小さく「師匠」と繰り返す。
どちらも本物ではない。角の形が、まだ路地のままだ。
マリアの足が、半拍だけ止まった。
少女の目が細くなる。
「……あ。そこ、引っかかっちゃった?」
「……」
「へえ!大事な顔、あるんだ。ヘンテコ執行者さんにしては、人間くさーい!あははっ!」
二刀が、幻の胸を貫く。
Ⅱ世の顔が砂糖のように崩れ、拍手する手がまた生える。
ここで、様相が変わった。
マリアは、歩幅を止めなかった。
二刀を、自分の胴体へ、迷いなく突き立てた。
布が裂け、刃が沈む音が、隔離された路地に短く残る。
柄まで近い。
血が、一気に筋になって落ちる。
滴ではなく、線だ。
抜くとき、刃が赤く光る。
もう一方の刃にも、跳ねた血が絡む。
自らを傷つけて、武器に血を纏わせる。
儀式というより、手順だった。
「あ、あれれぇ?自分で?……自分を刺した?」
次の瞬間、斬撃のリーチが爆発的に伸びた。
刀の先より向こうで、血の飛沫が走り、遅れて血の爆発が空間を削る。
避けたつもりでも、遅れが踵を舐める。
重厚な軌道。二刀の軽さは、もうない。
「あははっ!すごい!すごーい!あなた、狂ってるね!」
少女は、本当に足を止めた。
笑顔が、半拍だけ遅れた。
血の一撃が、隔離の空気を裂く。
少女は笑いながら後ろへ跳ぶ。
遅延の爆発が、跳んだ先の石を濡らす。
声は、愉しげなまま裏返っている。
「やだ、最高!胆管がよじれる!リーチ、めちゃくちゃじゃない!」
間合いがある。
止めを急いだわけではない。
だが、隙があった。
マリアの手が動く。
二刀だった落葉が、再び一本に合わさる。
空いた左手に、エヴェリン——、血を重視する装飾の銃。
右手に落葉。
狩人が内臓を抉るための、銃と刃の形。
前ステップ。
銀の銃弾が牽制し、少女がよろめいた。
その軌道へ、右腕が伸びる。
その瞬間。
少女の腹が、開いた。
牙のついた口が、ドレスの下から顔を出し、伸ばした腕を咥えた。
湿った熱と舌のようなものが、袖の上を這う。
骨の感触まで届く前に、マリアは引き戻した。
引き抜いた腕が、光の下で不快に光っている。
粘液が糸を引き、狩装束の金糸にまでついている。
マリアは、それを一度だけ見た。
とてもゲンナリした目だった。
そのまま、腕を顔へ近づける。
匂いを嗅ぐ。
「くさい…」
路地の箱の中で、その一言だけが、よく通った。
少女は目を輝かせた。
「嗅いだの!?うそ!嬉しい!もっと嗅いでいいんだよ♡」
袖を払う音。マリアは再び落葉を構える。
少女は腹の口をしまい、指を舐め、首を傾げる。
「乾いた血の上に、新しい血を上塗りした匂い!!とっっっても気持ち悪い匂い!人の腕って、ああいう味しないよ?」
「二度とするな」
「エヘ♪」
そうおどけた直後。
突如、少女は自らの首を両手で掴み、苦しそうに膝をついた。
演技だと分かるほど大げさで、それでも、油断を誘う形にはなっている。
すると地面から手が生え、足首を狙う。
マリアはエヴェリンで足元を撃ち、落葉で手の群を斬った。
罠は、半分だけ開いて、笑って閉じた。
「ウソウソ!ヤダ!殺さないで!……てね♪」
「……面倒だ」
「想定外!とっても想定外!でも、止められないよね。楽しいよね!」
隔離の色が薄れる。
空が、元の高さに戻る。
排水の匂いが、甘さを押し戻す。
車の音が、膜の外から戻ってくる。
少女は、もう袋小路の出口付近に立っていた。
袖は裂けたまま、笑顔だけが新しい。
「あらら…ちょっとだけ、のつもりが長引いちゃった。これ以上は危ないかなぁ?」
一拍。目だけが、量を測っている。
「またね!絶対に来るから!私の名前はフランチェスカ・プレラーティ!よろしくね♡」
影に溶けるようにいなくなった。
飴玉の欠片が、石畳に一つだけ残っている。
マリアはエヴェリンと落葉をしまい、ベチョベチョの袖をもう一度払った。
報告する相手は、思い浮かばなかった。
する必要も、感じなかった。
スラーの路地は、ただの路地に戻っていた。
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その夜。
別の机の上に、薄いファイルが開かれている。
封印指定執行者。時計塔所属。エルメロイ教室に出入りする。目立つ装い。奇行の噂。謎の荷物。特異な講義。断片だけが並び、どれも移籍してからの話だ。
移籍以前の欄は、空。
出生も、所属も、師匠も、実績の層も、協会の正規のルートではほとんど出てこない。
真っ白、と言ってよい空白だった。
フランチェスカは、その空白を指でなぞって、笑った。
「……ない。ほんとだ。まるでない」
楽しそうだった。
調べるほど、縁だけが広がる。
触った感触——大事な顔で止まったこと、自分から身体に刃を立てたこと、臭いと言われたこと。
それらが空欄の下に重なる。
「面白いわ!面白すぎる!」
ファイルを一度閉じ、すぐまた開く。
移籍前のページは、やはり白い。
「なら、自分で触りに行くしかないね」
独り言は、誰に聞かせるでもなく、弾んだ。