冬木は、駄目だった。
聖杯戦争の匂いがする街の縁まで来て、土地の術に跳ね返された。
蟲の気配が、古い井戸のように底なしで、市の内側へ足を踏み込むたびに、道が道でなくなる。キエフの末裔——間桐爺の手際は、相変わらずよすぎた。
「もー最悪!暇じゃん」
銀髪の少女——フランチェスカ・プレラーティは、冬木の空を一瞥して、進路を変えた。
件のヘンテコ執行者が今、日本にいるらしい。
時計塔の変なやつ。
路地で刀を二本にして、自分の腹を刺したやつ。
それが総耶に来ている。
総耶区のカレーハウス・Dodo弍番屋は、昼でも油の匂いが強い。
その窓側の席に、二人いた。
一方は、黒い服の聖職者然とした落ち着きのある女。
トレーの上に、カレーが三つの役割で並んでいる。
カレーラーメン、ポークカレー、スープカレー。
おかずと主と汁が、名前を変えても中身はすべてカレーだった。
「麺に絡んだルーが、先に辛さより香りを落としますね」
シエルは、本気で評していた。
奇行だとは思っていない顔だった。
「ラードが、ルーの辛さを丸くしています。美味しい」
スプーンが、規則正しく動く。
「スープとして飲むと、スパイスの香りが鼻から喉の奥に残ります。ポークのあとに戻ると、軽く感じる。順序は正しいです」
一方。
向かいの執行者——マリアは、別の意味で異常だった。
ライスが、おそらく一キロ。
その上にトンカツ、フィッシュフライ、旨みチキン。
揚げ物の地形の上を、卓上サービスの福神漬けが、小さいトングで何度も往復し、赤い漬け物が山の斜面を覆っていく。
福神漬けの瓶が空になる。
シエルが、店員に目だけで合図した。
別の福神漬けが運ばれてくる。
足りないから、というだけだった。
「ライス、一キロ…またその盛り方ですか」
「日本の米はうまいぞ」
「まあそれは否定しませんが…揚げ物を三種載せるなら、ルーはもう少し辛くても負けませんよ」
マリアは答えず、山を崩し続けた。
狩装束の金糸が、店の蛍光灯に浮く。
執行者と埋葬機関が、並んでカレーを食べている。
どちらも、これが普通の食事だという顔をしていた。
店員だけが、福神漬けの追加を置いたとき、一瞬だけ眉を動かした。
二者が黙々とカレーを食べる事、しばらく。
シエルは最後に碗を置き、短く言った。
「ご馳走様でした。では、また今度」
「ああ」
黒い服が、店の外へ消える。
マリアは残った米を掃うように口へ運んだ。
♢
店の防犯カメラの映像が、別の場所で揺れていた。
フランチェスカは、魔術でレンズを借りていた。
冬木で余った熱を、ヘンテコ執行者に使おうとしただけだった。
しかし、画面の中。
黒い服が映った瞬間、愉悦の軸が一度止まる。
埋葬機関、第七位。
「……は?」
隣に、金糸の狩装束。
カツの山、福神漬けの赤。
向かいの三種カレー。
執行者と、処刑人が、同じ卓でカレーを役割分担している。
第七位は、プレラーティにとって盤面を閉じる存在だった。
触れたら、真の意味で殺される。
青崎橙子に三十回殺された彼女でも、ここは別モノだと計算が先に立つ。
「ッ!?…ダメ!ダメダメ!触らない。絶対に触らない方がいいよぉ!」
画面を拡大したまま、しばらく動けなかった。
冬木で余った熱が、映像の中で行き場を失う。
「でも、面白い。面白すぎるよ!」
今日はやめる。明日にする。
翌日。
ABAホテルの前で、マリアは足を止められた。
「やあー!絶対来るって言ったでしょ」
銀髪。髑髏の外套。笑顔。
冬木の失敗も、カメラの断念も、全部この笑顔の下に圧縮されている。
「プレラーティ」
「あ!!名前、覚えてくれた?嬉しい!ねえねえ、昨日の人。埋葬機関でしょ。第七位?」
「関係ない」
「なんでカレー? 協会と教会、仲良しこよし?」
「関係ない」
「キミの移籍前はどこ?記録、ないよ?お腹、また使える?自分で刺したやつ。私に臭いって言ったの、覚えてる?」
質問が、間を置かず降る。
恋愛の詰めではない。
空白を埋めたい早口と、昨日触れなかった熱だった。
マリアはホテルの自動ドアから離れ、通りへ歩き出す。フランチェスカがついてくる。
「空気を読んで昨日は触れなかったわ!今日は話す?それともまた、やる?」
路地の影が、甘くにじみかける。
幻の予兆。
マリアの指が、落葉の感触を思い出しかける。
そこで、マリアが先に言った。
「飯だ、ついて来い」
「は?」
「ロットバトルだ。刃はあとにしろ」
フランチェスカの目が、一度丸くなり、すぐ細くなる。
想定外。
刀の続きだと思っていた盤面が、突然、丼の大きさにすり替わる。
「……飯?あははっ。ありなんだ。そういうの」
バトルの空気が、背油の匂いに霧散する。
ラーメン四郎の黄色い看板は、総耶の路地にあっても威圧が強い。
食券は大豚ダブル。
フランチェスカは隣で同じモノを押し、主人公のコールを真似た。
ヤサイマシマシ、ニンニクマシマシ、アブラ、カラメ。
意味の半分も分かっていない。
「ニンニク入れますか?」
「全部!隣の彼女と同じ!」
ドスン、という効果音を幻聴した。
それほど着丼の音が重い。
器の縁から、野菜が溢れる。
麺は見えない。フランチェスカが、山を見て首を傾げた。
「なにこれ、飯?山なんですけどぉ!」
マリアは、すでに箸を付けていた。
フランチェスカも突っ込む。
初見のフルコールは、不慣れな胃に対する宣戦布告だった。
ヤサイの壁、ニンニクの臭い、アブラの重さ、たまり醤油の塩辛さ。
彼女は私語を挟み、箸の速度が遅れ、同ロットの回転をわずかに乱した。
それでも箸は止まらない。
愉悦と、負けず嫌いと、ヘンテコ執行者に認めてほしいわけではない別種の熱が、山を削る。
しかして、マリアの碗が、先に空く。
水を一気にあおる。
「ご馳走様でした」
目の前にある湿った布巾でテーブルを拭き、空の丼とコップをカウンターに乗せ店を出る。
それから遅れて、フランチェスカ。
最後の麺を口に運び、息を荒くして碗を置いた。
残してはいない。
目は潤み、脂とスープまみれの口元だけが笑っている。
満身創痍のフランチェスカが店を出ると、律儀に外で待っていた執行者を見つけた。
「想定外……飯の勝負、ありなんだ。くさい。くさいよ、執行者。ニンニクの」
「ああ、食ったな」
それだけだった。
ある程度の承認は、その二言に圧縮されている。
店の前。
夕方の総耶は、ニンニクを帯びた二人を容赦なく照らす。
「冬木、ダメだったの。蟲のじいさん。だから暇で、あなたに来た」
「そうか、大変だったな」
「第七位とは、結局何なの?」
「知り合いだ。カレー友達だ」
「時計塔に移籍する前は?」
「関係ない」
フランチェスカは、それ以上迫らなかった。
空白が残るたびに、目が愉しげになる。
路地の血の層も、カメラの山盛りカレーも、ラーメン四郎の空碗も、全部、同じヘンテコの上に積まれる。
「んー!いけず!もうお腹いっぱいで動けなーい!次は食事か、本気か、私に選ばせてね!」
「たまになら、飯はありだ」
敵対の輪郭が、そこで一段にじむ。
味方ではない。信頼でもない。
同じ山を空にした者が、また会うかもしれない、という程度の関係。
フランチェスカは無邪気に手を振り、人混みへ溶けるように歩いていった。
冬木で余った熱は、総耶のニンニクの臭いに上書きされていた。
マリアは袖を一度払い、ABAホテルの方へ戻る。
報告する相手は、思い浮かばなかった。
スラーの路地で腹を刺した夜より、今日の方が、わずかに胃が重い。
それだけが、はっきりした成果だった。