総耶を出たのは、マリアがフランチェスカにウザ絡みされた、翌々日の夕方だった。
ABAホテルのフロントに鍵を返し、金糸の刺繍の入った狩装束のまま、駅へ向かう。
通勤の人波が道を開ける。
とても目立つ。だが、構わない。
バゼット・フラガ・マクレミッツから、連絡が途絶えた。
協会の正式な招集状があるわけでも、封印指定の回収命令があるわけでもない。
ただ、同じ執行者で、すぐ殴ってくる女から、短い連絡すら途絶えている。
冬木で聖杯戦争が始まっているらしい、という話は、ロンドンでも端々に届いていた。
しかし、勝者争いに加わる気はない。
探すだけだ。
フランチェスカの言の通り、冬木は平時の街ではなかった。
駅を出た時点で、空気の密度が違う。
人通りは残っているが、夜に入ると急に減る。
遠くで、誰かの魔術の残滓のような圧が、風に乗って流れてくる。
本戦の現場がどこかなど、追わない。
学校も、古い屋敷も、寺も、今は用がない。
用があるのは、一人だけだ。
深山町の、幽霊洋館。
双子のように並ぶ洋館の、協会側が一時的に使うことのある建物。
バゼットが現地の拠点をどこまで共有していたかは不明でも、候補としてはここが最も早い。
門の鍵は、執行者用の簡易な解除で足りた。
中は暗い。埃と、鉄の匂いが混じっている。
人はいなかった。
居間の椅子が倒れ、床に暗い染みが伸びている。
短い争闘の跡だ。
壁の一点が欠け、誰かが強く背負ったような擦れが残っている。
いた。だが、もういない。
運ばれたのか、落ちたのか。
追う材料は、ここには少ない。
「……空振りか」
短く呟き、館を出る。
調査を続けても同じ結論にしかならなかった。
フラガは、表にはいない。
夜の路地を、もう一度歩く。
視線を感じたのは、その角だった。
私服の男が、一本の道を塞ぐように立っている。
金髪。赤目。
現代の服装なのに、周囲の夜だけが彼を中心に晴れているような錯覚がある。
王の余裕だ。
こちらの装いを上から下まで舐めるように見て、男は笑った。
「雑種が、こんな夜に何をほじくっている」
落葉が、何処からともなく右手に収まる。
まだ刃を立てない。用が違う。
「女を探している」
「女か。下らん」
ギルガメッシュは一歩近づき、視線を瞳へ落とした。
可能性を見通す眼が走る。
覗かれている。止める理由もない。こちらから何かを放った覚えもない。
次の瞬間、王の視界の奥で、何かが白く濁る。
女の瞳の底に暗黒があり、流星が舞う。異様な光景。
さらに奥、深淵。
その霧に包まれた湖に、扁平な白い塊があった。
表面は眼の穴だらけで、背には苔とも器官ともつかない繁みが沈んでいる。
肢は生えているが、地上の蜘蛛の形をしていない。虫ですらない。
ただ、巨大な覆いだった。
その向こうにあるべきものを、見せないための——白痴の蜘蛛。
女の本質は、そこで滑った。
ギルガメッシュの表情から、余裕が一枚、剥がれる。
「貴様。我に……我に、何をした」
静かだ。しかし怒っている。
「何もしていない」
覗いたのは、そちらだ。
「——異物め」
戦端は、王が切った。
路地の夜に、黄金の歪みが点在する。ゲート・オブ・バビロン。
ただし数は、街を消し飛ばすほどではない。
それでも一本一本が、原典の質量を持って飛来する。
前ステップ。
刃先が頬を掠めるより早く、体が前へ沈み、回避が隙間を縫って剣雨の外側へ出る。
石畳に靴音が短く鳴る。
落葉を分離し、二刀の刃が夜に開いた。
間合いを詰める。
だが、王は的確だった。
足を踏み込むたびに、次の穴が開く。
胸の高さ、膝の外側、背後。
近寄るための線を、ことごとく飛ぶ剣で塞ぐ。
ゲートは止まらない。
「しぶといな、異物」
肉を切らせて、骨を断つ。
避けきれぬ一本を左腕に受け、刃が袖と皮膚を割る。
痛みは明確だ。それでも前へ出る。
次は腿を浅く裂かれる。
フレームの隙間で致命をすり抜け、すり抜けきれない傷を対価に、半歩ずつ距離を詰める。
血が金糸の刺繍を汚す。
——届いた。
落葉の間合い。
二刀の先が、私服の胸元を捉える位置まで入る。
その瞬間、光が走った。
“天の鎖”
神性など持たない。
それでも鎖は、人の枠から外れた感触に応じて絡み、両腕と両脚を一気に締めた。
刃が止まり、体が宙に浮く。
「そこまでだ」
ゲートが、今度は密度を変える。
刀剣が雨になり、拘束された肢体を貫く。
肩、腹、腿、脇。
避けられない。
鎖の上で体が跳ね、傷の口から血が一気に溢れる。
石畳に落ち、広がり、黒い血溜まりが足元にできる。
金糸の刺繍が、内側から濡れて重くなる。
最後に、ギルガメッシュは自ら剣を手に取った。
「我の目を濁らせた報い、いま施してやろう。しかと受け止めよ」
切っ先が、胸の中心——心臓を、正確に一度沈める。
息が、詰まる。
熱いものが喉まで逆流し、口から血が溢れた。
咳き込むように吐き、顎を伝って狩装束の胸元を汚す。
目が一度、大きく見開かれる。
痛みでも恐怖でもなく、単に、体が正しい手順で止まろうとしている反応だ。
指先が鎖の輪を掴もうとして、力にならない。
膝が折れる。
血溜まりが、もう一度、広がる。
息が、途切れる。
目から光が消える。
力の抜けた首が、がくりと前へ垂れる。
天の鎖に四肢を吊られ、全身を刃に貫かれ、心臓を刺されたまま、極上の美貌が夜の路地に静止する。
血の色と金糸と、開いたままの瞳。磔に近い構図だ。
ギルガメッシュは、剣を抜かず、しばらくその姿を見ていた。
美しい、と認めるのに、時間はかからない。
「雑種にしては、絵になるな」
しかし、それは愉悦ではない。
王の目を濁らせた異物が、ようやく止まった、というだけだ。
処断の完了。
審美は一瞬で足りる。
しかし、その次だ。
何も残らなくなった。
血溜まりも、体も、金糸の装束も、夜へ吸われるように消える。
石畳には、何も残らない。
ギルガメッシュは剣を構えたまま、空になった鎖の輪を見る。
「幻術でもない。傀儡でもない。なにゆえ消えた。なにゆえ死体が残らぬ」
答えは返ってこない。
王の声だけが、狭い路地に落ちる。しばらくして、剣を庫へ返した。
少し、息を吐く。
興は薄れかけていた。
殺した。確かに殺した。
痕跡すらないのが、気に食わない。
——暗転は、こちらの側では短い。
五体満足のまま、同じ路地の石の上に足が戻る。
欠損はない。装束に血の色も残っていない。
灯りが、すぐそこにあった。
だから歩いて戻って来れた。
向かい側で、ギルガメッシュの目が見開かれる。
王の余裕が、一度、消える。
「……殺した。我は確かに、貴様を殺した」
短く、事実を噛む。
「なぜ生きている。どうやって戻った。しかも——即座に、この場所へ。雑種、何をした」
問いは重なる。
千里眼が再び走ろうとして、止まる。
さっきの覆いを、また見る気にはなれない。
「灯りがすぐそこあったから、戻った。徒歩で」
説明になっていない。だが、本人にとっては全部だ。
「……戯れ言を」
ギルガメッシュの声が、低く落ちる。
殺したはずの異物が、灯りの話をして、同じ石畳に立っている。
「バゼット・フラガ・マクレミッツと言う女を知らないか。短気で、すぐ殴ってくる女だ」
用件だけを置く。
殺されたことへの抗議はしない。死は中断で、今の用事は別だ。
ギルガメッシュは、短く鼻で笑った。
「……知らん」
「そうか」
残念は、声の下に一瞬だけ落ちる。
聞く価値はない、と判断し、背を向ける。
背後で、王の声が落ちた。
「興が冷めた。疾く去るが良い。我の気が変わらぬ内にな」
追ってこない。殺し合いもしない。
それで十分だった。
冬木の夜は、相変わらず重い。
洋館は空振りで、フラガは見つからない。
勝者争いに乗る気は、やはりない。
灯りの感触だけを残して、執行者は路地を出た。