昼を過ぎ、午後になり、やがて夕方。
玄関の戸が開く音がした。
士郎が先に入ってくる。
「ただいま——って」
言葉が止まった。
居間の中央で、マリアがまだ同じ姿勢のままだった。 右腕を横に広げ、左手を高く掲げ、斜め上を見上げている。
セイバーが即座に半歩前に出る。 大河が後ろから覗き込んで悲鳴に近い声を上げた。
「ひぃっ!? な、なにそのポーズ!?」
桜が後ずさる。 士郎が恐る恐る声をかける。
「……何してるんだ?」
マリアはゆっくりと腕を下ろし、こちらを振り返った。
「……”交信”だ」
それだけだった。 その詳細は、何も語られなかった。
しばらくの沈黙の後、大河が強引に空気を変えるように言った。
「と、とにかく! お腹空いたー! 士郎、ご飯まだ?」
士郎が「ああ、今から作る」と答える。 桜が「手伝います」と自然に台所へ向かった。
セイバーはマリアから視線を離さぬまま、静かに位置を取る。 マリア自身は、特に何も説明を加えることなく、居間の端に腰を下ろした。
夕方の衛宮邸に、肉じゃがの甘い匂いが満ちていく。
士郎が「今日は肉じゃがにする」と宣言してから、そう時間は経っていない。
桜がじゃがいもとにんじんの皮をむき、士郎は牛肉を切り、鍋で炒め始める。
大河は「手伝うぞー!」と意気込んだものの、士郎に「藤ねえは座っててくれ」と軽くあしらわれ、結局テーブルに肘をついて待つ形になった。
セイバーは黙って様子を見守っている。
マリアもまた、特に動くことなく、ただ料理の進捗を観察していた。
やがて大きな鍋が食卓に運ばれる。白飯と味噌汁も並んだ。
「いただきまーす!」
大河が一番に箸をつける。
桜は小さく「いただきます」と手を合わせ、セイバーも丁寧に頭を下げた。
士郎がセイバーの分を多めに盛り付けると、セイバーは「ありがとうございます」と短く礼を言う。
食事は穏やかに進んだ。
「うまい! やっぱり士郎の肉じゃがは最高だわー」
大河が満足そうに笑う。
桜も「温かくて、落ち着きます」と小さく呟いた。
マリアは黙々と食べ進めていたが、ふと顔を上げた。
「タバスコないか?」
食卓の空気が、一瞬で凍りついた。
大河が箸を止める。
桜が目を丸くする。セイバーの視線が、ゆっくりとマリアに向いた。
士郎は信じられないものを見るような顔で口を開いた。
「……あ、あるけど」
「タバスコ!? 肉じゃがにタバスコ!?はぁ〜やっぱり海外は自由ねえ」
大河が声を上げる。
「今回は甘口だし、酸味を足すのなら…」
士郎は呟きながら台所へ行き、タバスコの瓶を持ってきた。
マリアはそれを受け取ると、ためらいもなく肉じゃがに何滴も垂らす。そして一口含み、短く頷いた。
「……うん、悪くない」
大河が「ありえなーい!」と嘆き、桜が困ったように微笑む。
セイバーは何も言わなかったが、その視線には明らかな理解不能の色が浮かんでいた。
マリアはそれ以上何も説明せず、淡々と食事を続けた。
食後、大河が満足そうに立ち上がる。
「お腹いっぱいー。そろそろ帰るわ」
桜も「私も、失礼します」と続いて頭を下げた。
二人を玄関まで見送り、戸が閉まる音がした。
士郎が首を伸ばす。
「悪い、先に風呂入ってくるわ」
そう言って浴室へ消える。
居間に残されたのは、マリアとセイバーの二人だけだった。
沈黙が満ちる。
セイバーが、静かに口を開いた。
「……あなたは、切嗣とどのような関係にあったのですか?あの『同業者』といったあなたの言葉は、嘘ではありませんでした」
低く、しかし明確な声だった。
「仮に切嗣の同業者であるならば、あなたは只者ではありません」
マリアは少しだけ間を置いてから、答えた。
「衛宮切嗣か。……そうだな。彼はよい狩人だった。狩りに優れ、無慈悲で——」
「同じ獲物の匂いを辿ったことがある。だが、私があの男の狩り方を知ったときには、既に終わっていたよ」
「あいつは、戦いになる前に決着をつける男だった」
「……あいつの狩り方が、時計塔の連中を少しばかり変えた。護身の教え方が変わったそうだ。それくらいには、影響力があった」
セイバーの視線が、さらに鋭く細められる。
彼女は深く追及しなかった。
ただ、半歩だけ士郎のいた方向へ体を寄せるようにして、言った。
「……分かりました。それ以上は聞きません。ですが、もし貴方がシロウに刃を向けるようなら——そのときは、容赦しません」
マリアはわずかに肩をすくめた。
「……そうだな。私からも一つ、剣を振るう貴公に聞いておくか」
そう言って、彼女は虚無に手を伸ばした。
空間が歪むような感触と共に、一際大きな剣が姿を現す。
青白く、どこか影を孕んだ光を帯びた大剣だった。
「”月光の聖剣”と呼ばれる。貴公にはこの剣、どう見える」
「聖剣の二つ名を持つ、ある英雄が使用していたものだ」
セイバーは、その剣を静かに見つめた。
光の質を測るように、しばらく沈黙する。
「……聖剣、ではありますまい」
「光が、濁っている。導くための光ではなく、何かを抱えたまま放たれている光だ」
「これは、英雄が振るうための剣ではない。何か別のものの意志が、混じっている」
「……あなたは、これを『聖剣』と呼ぶのですか?」
マリアは剣を軽く傾げた。
「……かつて、この剣を振るった英雄はそう呼んでいた」
「この剣を担ぎ、多くの者を導いた男だ」
「だが、最後は獣になった。光に導かれながら、光に囚われてな」
「その英雄は、目を閉じた暗闇に光を見た。いたずらに瞬くそれに『導き』の意味を与え、心が折れなかったそうだ」
「ただ、狩りの中でならば、な」
「形を変える。光を纏うのも、意思を込めたときだけだ。放つたびに、何かを差し出す。ただ輝いているだけの剣ではない」
セイバーの声が、さらに低くなる。
「……狩りの中でしか、心が折れない光、ですか」
「それは、導きではなく…おそらくは、支えに過ぎません」
「本当の光は、狩り…即ち闘いを離れても人を支えるものです。騎士として、生きるための光です」
「その光は、英雄を狩りという行為に縛り付ける。……哀れな、光だと思います」
マリアは、剣をゆっくりと虚無に戻した。
光が消え、居間に元の照明だけが残る。
彼女はセイバーを直接見て、静かに言った。
「……貴公ほどの者が言うのだ、尤もなのだろう。礼を言う」
「いえ、礼を言われる程のことではありません」
「貴公の願いは存じ上げぬが、それが成就すると良いな」
セイバーの表情が、一瞬だけ崩れた。
きょとんとしたように目を見開き、言葉を失う。
まるで、自分でも明確に口にしたことのない何かの核心を、不意に突かれたような反応だった。
すぐに、彼女は表情を戻す。
否定も肯定もせず、ただその言葉を受け止めるように、小さく息を吸った。
「……なぜ、そのようなことを」
マリアは答えなかった。
ただ、わずかに目を細めただけだった。
浴室の扉が開く音がした。
士郎が髪を拭きながら現れる。
「ん? 何かあったか?」
セイバーが、すぐに答えた。
「問題ありません」
士郎は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
マリアも何も語らない。
居間の空気は、わずかに張り詰めたまま、それでも日常の夜へと戻っていく。
夜は、まだ深くなるところだった。