翌日の夕方。
藤村大河は残業で来ない。間桐桜も来ない。
「藤ねえと桜は、今日は来られないみたいだ」
士郎がそれだけ言って、人数分の皿を用意した。
居間にいるのは士郎、セイバー、遠坂凛。
屋根の上に誰かがいる気配はある。
凛がカップを置いた。
「単刀直入に言うけど。あなたたち、単独で生き残るつもり?」
士郎の手が止まる。セイバーは主を見る。
「バーサーカーを相手にするなら、戦力は分散させない方がいいわ。敵をこれ以上増やす理由もない」
「ある程度の情報なら出すわ。その代わり、勝手に戦線を広げないこと」
「同盟、って言葉はまだ大袈裟かもしれない。仮、でいい」
士郎は少し考えてから頷いた。
「……助かる。前向きに考えたい」
セイバーも短く続く。
「シロウが望むなら。私も反対はしません。ただし、主の全てを貴方に預けるわけではありません」
「そこまで言ってないわよ」
契約書はない。
言葉が並んだだけだ。
士郎が「とりあえず、じゃあ飯にするか」と立ち上がる。
「今日は私が作るわ。いつも、作ってもらって悪いし」
その日の夜は、凛自作の回鍋肉だった。
フライパンで豚肉とキャベツが弾ける。
甜麺醤の甘さと、豆板醤の辛味を帯びた香りが部屋を占める。
食欲を誘う、香ばしい匂いだ。
手伝いの士郎が皿を並べたタイミングで、玄関の戸が開いた。
マリアが袋を下げて入ってくる。
プラスチックの容器が、紙の間から湯気を上げていた。
「良い店を見つけた。食べよう」
蓋を開ける。
麻婆豆腐だった。
花椒の刺激が、回鍋肉の香ばしさを一瞬で塗り替える。
「ふぅん…それなら遠慮なく…」
士郎が先に箸を付けた。
一口。
咀嚼の途中で顔が固まる。
「ッ!?――!!!!あ…がぁ…っ!?た、食べるのは待っ」
凛は間に合わない。すでに口の中だ。
「んんん゛!?ケホッ!ケホッ!な、なにこれ!?何処の麻婆豆腐!?」
セイバーは二人の顔を見た。
凄まじい反射速度でレンゲを下ろす。
何も口にしていない。
ギリギリセーフだった。
マリアは不思議そうに首を傾げる。
「商店街の中華料理店だ」
凛の声が落ちる。
「ま、まさか」
士郎が涙目のまま、店名を置いた。
「…泰山」
「知っていたのか。冬木には、素晴らしい店があるのだな」
士郎が セイバーの皿を押さえる。
「セイバー…この麻婆豆腐には手をつけるな」
「分かりました。たぶん、食べられると思いますが…マスターの命令ならば」
マリアは自分の皿を静かに進め、短く呟いた。
「こんなに美味しいのに…」
幸いにも回鍋肉だけが救いであった。
この皿が、食卓の平和をかろうじて支えた。
食後。
皿が引かれたあと、マリアが懐へ手を入れる。
薄い冊子が出る。
「貰った」
冬木観光ガイドブックだった。
表紙に山と川と市街地。
中には、小さな寺の写真。
士郎が身を乗り出す。
「それ、どこで?」
「駅前の観光協会だ。壁に貼ってあった観光マップを見ていた。そしたら観光協会の人に話しかけられた。とても親切にされた」
「それって日本語が怪しい外国人観光客に見えたんじゃないかな…」
セイバーの声が、低い。
「あなたの目的は観光ではなく、知人の捜索では?」
「無論、目的は変わっていない。観光は調査のついでだ」
士郎が苦笑する。
「へえ、いいじゃないか。どこ行くんだ?」
マリアは深山町エリア欄の端を指した。
凛が額の汗を拭う。麻婆の後遺症が、まだ舌にある。
「……まあ、外国人が行きそうな観光スポットといえば、そうなのかしら」
それ以上は言わない。
マリアは頷いた。
「そうだ」
仮の同盟は、まだ条件も詰めていない。
最初の夜に、執行者は名所の写真を開いている。
「出かける」
夜更け。
マリアは家主に言付けて、一人で外出した。
所々に電灯はあるが、道は暗い。
街灯が途切れ、石段が始まる。
足が一段目にかかった瞬間、空気の質が変わった。
ー 柳洞寺 石段 ー
階段に踏み入った瞬間、体が先に理解する。
案内の名所ではない。ここは狩場だ。
長い石段。両側は木。
正面に、瓦を載せた山門。
門前に、男が一人立っていた。
傍らに長刀。サムライの姿。
夜風が木々をざわめかせる。
「斯様な刻に、如何なる用だ。麗しき異国の令嬢よ」
サムライは間を置き続ける。
「まさか物見遊山……とは申すまいな」
「観光だ」
男の目が細くなる。
「ふっ……それが異国の冗句とやらか。愉快な令嬢だな、お主は」
「ジョークではない、観光だ。ジョークなら、もっと気の利いた事を言う」
「この寺に詣でるなら、時間を改めよ。せめて、日が昇っている間に来る。それが礼儀というものだろう」
「夜が好きなのだが、ダメなのか?」
「そうだ」
「ならば、夜明けまで待つのは?」
男は、わずかに困った。
「そういう問題ではないのだが」
「ダメか?」
「駄目かろうよ」
「そうか……では、また」
マリアは素直に踵を返した。
男は追わない。
奥に控える存在も、指示の声を出さない。
♢
衛宮邸。
「結局、何してたんだ?」
士郎が玄関で聞く。
「調査兼、観光だ」
それ以上は聞かれなかった。話さなかった。
セイバーだけが、土の匂いを残した外套を見ている。
追及はしない。
♢
翌日の夕暮れ。
日は残っている。
空はオレンジから紫へ落ちる前。
マリアは再び出た。
「出かける」
士郎にそれだけ言って、戸を閉じる。
セイバーが、わずかに遅れて後を追った。
目的はあの女の行動を観ること。
仮の協力者が邸に残っている。
安全の空白は避けられる。
柳洞寺、山門
同じ男が、同じ位置にいた。
「日があれば良い、というわけではないのだが」
「ダメか?」
男が答えを選ぶより先に、奥から声にならない命令が下る。
言葉ではない。
風の形をした命令だ。
客の耳には入らないし、後を追ってきた中腹のセイバーにも届かない。
届くのは、門に縛られた男の耳小骨だけだ。
“その女を斬りなさい、アサシン”
アサシンの目が、一度だけ奥を見る。
夕暮れの山門が、そこで仕事の場に変わる。
長刀の柄に、指が揃う。
「……悪いが、お役目なんでな。お主を斬らせてもらう。逃げるなら今のうちだぞ」
詫びは薄いが、礼はある。
マリアは短く頷いた。
怒りも、驚きもない。
殺しにくる相手を、狩人は拒まない。
いつもそうだったから。
「役目なら、仕方ないな」
落葉が腰の線に沿う。
仕込みのまま、半歩だけ内側へ滑る。
石段の砂が、靴の裏で一度鳴る。
柄を捻る。
ガキィン
一度だけ鳴った。
高い音が先に弾ける。
金属が噛み合いを失った音だ。
音はすぐ足元の段へ落ちて、低い残響になる。
一本が上下に分たれる。
刀と短刀。
分解であり、抜刀でもあった。
夕暮れが、二つの刃の背をなぞる。
マリアの細い腕から、あり得ない重さの剣撃が放たれる。
令嬢の形をした体が、門前で仕事を始める。
名乗りはなくとも、抜刀が死合いの開始だ。
一合。
長刀が外から線を引く。
線は長く、正確にマリアを捉える。
マリアの二刀はその内側で線を開く。
二刀を交差させ、凄まじい速度で長刀の内側まで距離を詰め十字に斬る。
払いが先に来る。火花ではない。
刃と刃が、短い距離で擦れる。
二合。
再度物干し竿で切り払い、アサシンが間合いを取り直す。
マリアは下がらず、じりじりと前へ出る。
落葉は、長い物を外から受けるための剣ではない。
前へ出る刀だ。
三合。
アサシンの目が細くなる。
令嬢の抜いた刃が、同じ島の刀に見えた。
間合いが、そこで一度揃う。
揃ったことが、相手を殺す。
間合いが重なる。
男の呼吸が落ちた。
「スゥゥー……秘剣――燕返し」
名が先に場を占める。
刀が後から追いつくのではない。
名と斬撃が同じ点に落ちる。
空間が三つになる。
上、中、下ではない。
同じ高さ、同じ瞬、同じ首の位置。
逃げ道が時間の中に無い。
避ける暇はなかった。
首の高さだけが、先に無くなる。
痛みは遅れ、視界が先に落ちる。
言葉は出ない。
口の中に鉄の味。
石段が膝に届く前に、体が二つになる。
血が段の縁を伝い、黄昏の残光に濁る。
処刑は済んだ。
首が飛ぶ。
胴体が踊り場に斃れる。
次の瞬、死体が消えた。
残るのは血の跡と、納まらない空気だけだ。
「ッ!?この男は、サーヴァントか……やはり人の身では、適うまい」
マリアを監視していたセイバーは、階段の中腹にいた。
斬首を見た。
見事に首が飛んだ、しかし。
「消えた…?」
消えるのを見た。
人の首が落ちるところまでは、戦場の知識で追いつく。
追いつかないのは、落ちた体が残らないことだ。
血はある。人がいない。
しかし、暫くののち。
背後で、足音がした。
湿った砂を踏む音。
急がない。走ってもいない。
段を一つずつ上げてくる足だ。
振り返る前に、横を人が抜ける。
出血の匂いがしない。乱れもない。
同じ女が、同じ外套で、セイバーの肩の高さより低く目を落とさず、上がっていく。
観察対象が、横を通り過ぎて、斬られた門へ戻る。
「……」
口は開いた。
閉じる筋肉が、遅れる。
アサシンが斬った感触は本物だった。
重さも、首の骨も、手応えはあった。
戦果が残らないのが、理に合わない。
間違いなく首を取った女が、五体満足で、そこにいる。
「なんと。……よもや、蛇蠍魔蠍の類とは。これは、愉快な死合いになりそうだ」
剣を解かない。
門番は、類いが何であれ、通さない。
「サーヴァント、アサシン…佐々木小次郎。推して参る」
マリアは短く返した。
「マリアだ」
二回戦。
処刑から死合いに変わる。
長刀が来る。マリアは回避しない。
前ステップで半歩入り、短刀で払い、一度だけ懐を取る。
反撃のチャンスが来る。
長い刃が、内側では遅い。
成功が、足に残る。
しかし、男の呼吸が、また落ちる。
同じ予兆だ。
頭の中で、簡単な式が立つ。
三重かつ同時、狙いは一点。
一点なら、その瞬間を回避で抜ければいい。
『狩人の遺骨』により、マリアは加速する。
体が薄い煙のように間を捨て、懐へ出る。
石段の端から足が消える。
刀の打ち合いで揃えるべき間を、瞬間移動で捨てた。
しかし、出た先には、すでに相手の剣があった。
三つの線が、出てきた首の高さで待っている。
「秘剣――燕返し」
「――っ!?」
短い。怒声ではない。
計算が外れた音だ。
逃げた首が、逃げる途中で落ちる。 視界の端に、自分の肩がある。
それから何もなくなる。
また死んだ。
セイバーは追い上がりながら、二度目の秘剣を見る直前に、直感が先に鳴る。
「!!その間合いに入るな――」
声は届く。手は出さない。
山門は今、門番と客の剣だ。
割って入るのは不粋だろう、と判断した。
石段のふもと。
狩人の灯りは、門ではなく段の下にあった。
彼女はそこから、蘇った。
痛みは残らない。
残るのは、視界が消えた記憶だけだ。
三度目の足が、石段を上げる。
同じ時、同じ場所だ。
間合いに入ってはいけない剣だ。
不用意に入るな。
回避を当てにするな。
無闇に近づくな。
そして山門。
長刀の切っ先より半歩外で足を止める。
予兆が来たら、前にも後ろにも出ない。
段差側へ寄る。
アサシンの剣術が来る。
精確な一刀を、二刀の速い払いで受ける。
踏み込みは浅くする。
懐は取らない。
アサシンが三度目の呼吸を落とす。
「秘剣――燕返し」
三本目が段に欠ける。アサシンの読みが一段だけ欠け、刃が空を斬る。
風だけが頬を削る。血は出ない。
肩で一度、息を吐く。
「……入るな、か」
ここで初めて、立ち合いが延びる。
四合。五合。
長刀が外を支配する。
二刀が内側を払う。
瓦の影が落ち、石段の段差が間合いを削る。
アサシンの斬撃は精確だ。
しかしマリアの首は、もう飛ばない。
六合。
懐へ入る動作が指に残る。
しかし出さない。出れば間合いに入ることになる。
七合。
瞬歩で間合いを詰める感覚が、足に残る。だが使わない。
使えば燕返しの餌食になる。
八合。
アサシンの刃が、距離を取る。通さないための剣だ。
客の刃は、どちらも、今夜は届き切らない。
“もういいわ、帰しなさい”
「…ふむ」
本殿の方から指示が来た。
長い一呼吸のあと、アサシンが剣を納めた。
納刀の音は、抜刀より小さい。
「どうやら今夜は、ここまでのようだ。生きて戻られよ、ご令嬢」
「しかし、次は日のあるうちでも、通すとは限らぬ」
マリアは落葉を一本に戻す。
「そうか…また来る」
セイバーは下からそれを見て、臨戦態勢を解いた。
主は自宅にいる。
監視対象が門から踵を返す。
門にはアサシンのサーヴァントがいた。
今夜の目的は、それで足りる。
奥までは、顔を出さない。
セイバーの直感にだけ、門の向こうの別の何かによる気配が残った。
二人は黙して石段を降りた。
アサシンの追撃はない。
血の跡だけが、夜の山門に残る。
夜の衛宮邸。
その日セイバーは士郎に、マリアの全容を出さなかった。
「戻ってきました。今の所問題はありません」
嘘ではない。終わりでもない。
マリアは「観光だ」とだけ言い、座った。
翌日の昼。
ガイドブックを持って、マリアはまた石段を登った。
日がある。鳥がいる。瓦が白い。
山門に、男はいなかった。
手前で会釈する。敷居は踏まない。
手水で手を清め、本堂の前へ。
一束の線香へ火を移し、常香炉の灰へ差し込む。
賽銭は投げず、静かに入れる。
合掌し、拝む。
境内を一周する。池が見える。裏手に人影があった。
背丈のある男、あるいは寺の人間。声はかけない。住居には入らない。
山門を出る前、一度だけ振り返って会釈した。
ガイドブックを閉じる。
「見た」
それだけだった。
そして衛宮邸、夕方。
セイバーが先に口を開いた。
「どこへ行っていたのですか」
「柳洞寺だ。参拝した」
沈黙が間を置く。
「……昨夜、首を落とされた場所ですか」
「日のあるうちに来い、と言われた。今度は早めに行った」
セイバーの表情が、初めて明らかに崩れた。
呆れが、怒りより先に来る。
士郎が二人の間を見る。
「首……? 待ってくれ。柳洞寺って、一成のところだろ」
声は低く、怒ってはいない。置き場が無い。
セイバーは、見たことだけを置いた。
「昨夜、この女は山門で首を斬られ、死体ごと消えました。直後、私の後ろから同じ女が上がってきました」
「門には、アサシンを名乗る剣士がいました。今日は、参拝して帰ったそうです」
士郎の顔が、一度空白になる。
「山門で斬られた、って。……あの寺に、そんな奴がいるのか」
「…一成は、大丈夫なのか」
セイバーは即答できない。
夜の門と、昼の本堂は、別の顔をしていた。
マリアが、聞かれた範囲だけ返す。
「昼は、門にいなかった。奥の人には、声をかけていない」
士郎は安心しない。
友人の家が、昨夜の死に場だった事実だけが残る。
凛が短く息を吐いた。
「……協会じゃね。一が悪霊ガザミィ、二が封印指定、三番目の厄ネタが執行者だって言われてるの」
「その三番目が、アサシンらしきサーヴァントに首を落とされても生きていて、懲りずに参拝してる。あまりにもイレギュラーが過ぎるわ」
仮の同盟は、まだ条件も詰めていない。
居候の監視優先度だけが、一つ上がった。
「イレギュラーか……なんだか他人事に聞こえない響きだ」
マリアはそれ以上を説明しない。
士郎はテーブルの縁を掴んだまま、もう一度だけ聞く。
「……本当に、一成には会ってないんだな」
「会っていない」
「なら、いい。よくはないけど」
言葉が途切れる。
よくない理由を、士郎はまだ戦争の言葉で持っていない。
持っているのは、一成の名前だけだ。
マリアはガイドブックを卓に置いた。
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「良い場所だった」
セイバーは、開いた口を、ようやく閉じた。
士郎は閉じない。
柳洞寺という三文字が、友人の家から、門番のいる山へずれて、戻ってこなかった。