休日。
マリアが、またあの店の名を出した。
「泰山へ行く。貴公らもどうだ」
士郎の顔が、一瞬で青くなる。
「……無理だ」
凛は湯呑みを置く音を、少し強くした。
「ごめん被るわ。あの店の名を、朝から出さないで」
セイバーは主を見る。
レンゲを下ろした夜の記憶が、まだ残っている。
「シロウが行かないなら、私も控えましょう」
当然の拒絶だった。マリアは短く頷く。
「そうか…」
その背中は、心なしかションボリしていたように見えた。
♢
深山の商店街
羽根つき帽子に、古い西洋の貴族装束。
歩くだけで、視線が寄って、避ける。
冬木の休日に、異国の貴人が混ざる。
本人は気にしない。
食事が目的だ。
紅洲宴歳館・泰山。
黒地に金の字、瓦の庇、格子の戸。
マリアは戸を開ける。
油と花椒と、乾いた唐辛子の匂い。
テーブル席に、先客がいた。
言峰綺礼。
料理を待っている。
彼と目が合う。
「お互い全く知らぬ中でもあるまい。一席、どうかね」
「…そうする」
着席。
聖杯戦争の夜は、ここ、この時においては範囲外である。
店長の魃さんが盆を持ってくる。
「アイ、マーボードーフおまたせアルー!」
器は、ただひたすらに赤い。
地獄を盛った色だ。
「お姉さんも何か頼むよろし」
マリアはメニューのある一品を指す。
「では、これを」
「はいネ」
言峰が、レンゲを持ったままこちらを見る。
「食うか――――?」
「いただこう」
言峰の目が、わずかに開く。取り皿とレンゲが来る。
マリアは表情を崩さず、分けられた赤を口へ送る。
舌が焼ける。
奥に、旨みが隠されている。
言峰はレンゲを止めない。
一口。また一口。
額に汗が光る。
「一見、雑にも見える。唐辛子を山のようにぶち込み、豆腐を沈めただけだ、と」
レンゲが器の縁に当たる。
「だが、口に含んだ瞬間、舌を焼く刺激が来る。味覚と呼ぶには、あまりに直接だ」
「そうだ。辛さこそ至高。辛さこそ、究極の味覚だ」
「マグマのような辛さが全身に染み渡るのを感じる。口にするたび、脳を焼く。この辛さこそが、価値ある刺激だ」
「だが、まだだ。腹は満たされない。刺激が、まるで足りていない」
顔を上げ、店の奥へ声を落とす。
「店主。おかわりだ」
「アイ、了解アルー!」
二杯目の湯気が、空の位置に予約される。
おかわりを空け切ったころ、言峰の汗が頬へ落ちる。
インナージャケットのファスナーが、胸の下まで下がる。
黒い服の切れ目から、十字架のネックレスが落ちて光る。
目は閉じ気味だ。
愉悦の顔ではない。
熱を逃がしている。
マリアは麻婆豆腐を評さない。
汗は、髪の際に薄い光があるかないかだ。
衣服は崩さない。
言峰が、短い問いを置く。
「君はなぜ、辛さを求める」
「奥にあるからだ」
「ほう…そのこころは?」
「辛いだけなら、要らない。辛さの後ろに…奥に旨みがある。それが良い」
言峰は分かった顔をしない。
しかし、興味は幾分か増える。
理解はしない。
「アイ、辣子鶏(ラーズーチー)おまたせアル!」
赤の山だった。
唐辛子が器から溢れている。
言峰が、短く眉を寄せる。
「なんだ、コレは」
マリアは語らない。箸が先に赤へ伸びる。
油で輝く唐辛子の山が崩れる。
種も残さず、山が減る。
ボリボリ、と店内に小さな音が落ちる。
魃さんが慌てる。
「アイヤー。お客さん、その唐辛子は食べないネ。残すよろし。食べるの下の鶏肉アルよ」
「そうなのか」
頷いて、なお山を減らし切る。
注意は理解している。
が、動作に反映しない。
彼女の趣向は、秘匿を破り核心を暴くことだ。
真っ赤な山が消える。
初めて、鶏肉に箸がつく。
熱と痛みをくぐったあとの旨みだ。秘密を暴いたあとの、皿の底だ。
取り皿を、言峰の方へずらす。
「食うか?」
言峰が、わずかに目を細める。自分が置いた型を、そのまま返されている。
「いただこう」
一口。
鶏と残っていた唐辛子を咀嚼する。
表情は崩れない。
汗の量が再び増える。
「具ではないものを先に喰み、核を最後に残すか」
「鶏肉は下にあった」
それ以上は語らない。
赤いモノを胃に入れてから、言峰が一句だけ職場を出す。
「日本で、埋葬機関の者と席を同じにしたそうだな。いや、席、だけではなかったか」
「そうだ」
「第七位は、どうだったかね」
「食事をした。刃も交えた。死徒ではない、と切られた」
「そうか。彼女の目は、正しい知見だろう」
それ以上は追わない。
バゼットも、聖杯も、令呪も出さない。
言峰の二杯目が、まだ湯気を残している。
マリアの器は、皿の中心部に真っ赤な油だけを残している。
既に空だ。
会計は先に済ませる。
辣子鶏と、最初の麻婆豆腐。
神父のおかわりまでは肩代わりしない。
盆の端に、竹の葉に包まれ凧糸で結ばれた粽(ちまき)が乗る。
事前に注文しておいた、お土産だ。
外見は、ただの中華だ。
魃さんが、小さく言う。
「あの唐辛子、全部食べる人いないネ。尻の無事は保証しないアル」
「そうなのか」
「そうアルよ」
言峰は何も言わない。
席に残る。
出がけに、目だけが合う。
「また、この店には来る」
「そうか。その時はお互い、壮健である事を祈ろう」
戸を開けて出る。
商店街の風が、襟に入る。
熱だけが落ちる。
汗は薄い。
残るのは、山をどかして鶏に辿り着いたあとの、空っぽの満足だ。
秘密を暴いたあとの、狩りの区切りだ。
風は爽やかだった。
達成は、誰とも分かち合わない。
テイクアウトした粽だけが、腕の中で静かに温かい。
♢
衛宮邸。
「泰山に行ってきた」
士郎と凛の顔が、先に死にかける。
「先客がいた。教会の男だ。味は分かっている男だった」
帽子を外す。
葉に包んだ粽が、卓に並ぶ。湯気は赤い色をしていない。
「お土産だ。粽だ」
各々がおそるおそる手に取る。
紐が解け、竹の葉が半分だけ開く。
蒸した葉の青さが先に立ち、もち米の甘い蒸気が続く。
焼き豚の脂と椎茸の香ばしさが、そのあとに乗る。
黄金色のもち米。角切りの焼き豚、筍、干し椎茸、にんじん、干しエビ。
地獄の匂いではない。
士郎が、わずかに息を吐く。
「さすがに、これなら辛くないだろ」
「葉に包んだ中華おこわよ。麻婆とは違うでしょ」
「……ならば、失礼します」
一口目。
露出した側の米が甘い。
焼き豚の脂が、筍の歯応えに乗る。
士郎の目が、わずかに細くなる。
旨い、という顔だ。
凛も、一口目は評さず、ただ二口目を付ける。
平和だ。
表面は、この上なく平和だ。
二口目。
もち米に隠れている中心へ、口が届く。
士郎の手が止まる。
咀嚼も、途中で止まる。
額に汗が浮かぶより先に、喉が閉じる。
目が開く。
水を求める手が、杯の位置を見失う。
「――ッ、ま、待……な、中が」
言葉が痛みと痺れで溶ける。
葉の芯から、十字鍋の地獄が上がってくる。
粽の表面は、輝く黄金色だ。
舌だけが、奥の泰山に当たる。
表面の香ばしさが、一気に塗り替えられる。
凛は間に合わない。
すでに中心を口にしている。
表情が、一秒だけ保たれる。
次の瞬、粽を置き損ねる。
「……ひ、卑怯よ…」
声が裏返る。コップを掴む。
しかし水では足りない。
麻婆の夜と同じ熱が、甘い米の後ろから出てきた。
想像の外だ。
外見を信じた自分が、先に死ぬ。
「粽の……中に、激辛が」
士郎は涙目のまま、次の葉へ手を伸ばす力がない。
自分の粽を、ただ置く。
しかし一度口を付けた手前、手土産を残すわけにはいかない。
この日、二人の舌が、同時に死んだ。
セイバーだけが、葉を静かに畳む。
「辛すぎて、味がわかりませんね」
「それはそうと、おかわりはありますか?」
「ある」
次の粽が渡る。
開いて検査はしない。騎士王は、また端から齧る。
士郎は答えられない。
凛も、二度目の「もう付き合わない」を、声にできない。
マリアは短く頷いた。
「やはり良い店だ」
秘密は、葉ともち米の中に入っていた。