特別講義の日だった。
ロード・エルメロイⅡ世は、教室の後方に立っていた。
内弟子のグレイは生徒席に座り、ノートを開いている。
教壇には、例の講師が立っていた。
羽の付いた帽子に、古風な貴族的な衣装。
腰に落葉を帯びたまま、淡々と生徒を見渡している。
マリアだ。
紙袋の事件から、そう日は経っていない。
Ⅱ世は、彼女の講義の様子を見ておくつもりで同席していた。
「今日は、実戦の話をする」
声は低い。余分な抑揚はない。
「受け止めるな。避けろ。相手が崩れたら、迷うな。急所を狙え」
短い命題が、黒板に並ぶ。
生徒の中には筆を走らせる者もいれば、表情を硬くする者もいる。
「長い戦いを、好むな。血は便利だ。だが、借り物の力は、いつか形を変える」
Ⅱ世は腕を組んだ。
言葉自体は理解できる。
だが体系が、協会の一般的な実戦論とはどこかズレている。
マリアは、黒板の端に短い文字を記した。
——聖杯。
「もし獣が手強く、君の手に余るようなら——聖杯を、拝領したまえよ」
教室が、少しざわついた。
最前列に近い席から、手が上がった。
フラット・エスカルドスだった。
「え? 聖杯って、願望器のことですか?願いを叶えるやつで」
「……知らないな」
講師は静かに首を傾げる。
その直後、彼女の口調が、わずかに変わった。
「聖杯とは、ダンジョンの封印を解く鍵だよ。儀式で開く。深度が上がるほど、実りが太い」
「固定もある。中身が決まっているものだ。汎聖杯は、毎回変わる。共有もできる」
早口だ。情報が連続する。
「血晶石の質が違う。放射、三角、欠損。深度五の汎は、特にいい。追加の供犠を載せると、難度が上がる。その分、実りも変わる。だから潜る。何度でも、潜るさ」
フラットの目が輝いた。
スヴィン・グラシュエートが眉を寄せる。
グレイが、フードの下で小さく息を詰めた。
Ⅱ世のこめかみが、疼く気配を見せた。
願望器の話ではない。
深度、固定と汎、血晶石。
言葉は分かる。
しかし意味の体系が、噛み合わない。
別の生徒が口を開いた。
「ダンジョンといえば……霊墓アルビオン、ですよね。時計塔の地下の。先生の言うダンジョンって、それと同じなんですか?」
マリアは、ほんの一瞬だけ止まった。
「ほう…アルビオン。聞いたことがないな」
教室が、再びざわついた。
封印指定執行者で、特別講師で、実戦の知見を買われている女が、霊墓アルビオンを知らない。
話題が聖杯から離れると、彼女の口調はまた短く戻った。
「血に、頼りすぎるな。人が人でなくなる」
短い間。
「我ら血によって生まれ、人となり、また人を失う。知らぬ者よ。かねて血を、恐れたまえ」
ひどく曖昧なアドバイスだけを置いて、講義は終わった。
フラットはメモを取り、スヴィンは沈黙。
グレイは席を立つとⅡ世のそばへ寄ってきた。
「師匠……拙、よく分かりません」
「俺もだ」
Ⅱ世は短く答えた。
講義のあと、マリアはⅡ世の前に立った。
「アルビオン、とは?」
問いは、それだけだった。
Ⅱ世は説明した。
時計塔の地下に広がる大迷宮であること。
幻想種が闊歩し、地上では失われた呪体が眠ること。
運営は秘骸解剖局が行い、許可なく潜ることはできないこと。
一般の魔術師が潜れば、まず戻ってこないこと。
まれな生還者は、サヴァイバーと呼ばれること。
マリアは、黙って聞いた。
「狩場、か」
「比喩ではない。文字通りの死地だ」
「許可が必要なら、取りに行く」
Ⅱ世の眉が動いた。
「簡単に言うな。解剖局は——」
「狩りを、全うするためにね」
そう言い残し、彼女は廊下へ歩いていった。
金糸の刺繍が、灯りの下で淡く光った。
Ⅱ世は、しばらくその背を見送ったまま動けなかった。
「……師匠」
「分かっている。規格外だ」
その後、Ⅱ世の元に入った情報は短い。
マリア・アストラルが、秘骸解剖局へ出向いた。
執行者の籍を示し、霊墓アルビオンへ潜る許可を求めた。
詳細は分からない。
担当者が困惑した、という噂だけが残った。
教室では、フラットが「先生、ダンジョン行くらしいっすよ!」と騒ぎ
スヴィンが「危険です」と繰り返し
グレイが「止めた方が……」と呟いた。
Ⅱ世は、止めなかった。
止められる相手でもなかった。
そして、戻ってきた。
解剖局での検分が終わったあと、マリアはⅡ世の書斎に現れた。
その手は空だ。
傷は処置された気配があり、装いはいつものままだった。
「報告する」
Ⅱ世は筆を置き、顔を上げた。
グレイが扉の近くで立ち止まる。
「アルビオンから戻った、とは聞いている。戦利品も、解剖局が接収したそうだな」
「ああ。渡した」
短く、淡々としている。
周囲の騒ぎ——サヴァイバー、貴重品の回収、生きて戻れた——それら武勇伝を、彼女は何一つ誇らない。
「価値のあるものだったらしい。解剖局の者は、かなり良い顔をしていた」
「そうか」
喜びも、誇も、乗らない。
肩が、わずかに落ちている。
「……だが、目当てのものは、なかった」
「目当て?」
「ああ…血の遺志も、血晶石も、見当たらなかったな」
書斎に、短い沈黙が落ちる。
Ⅱ世は、その二つの言葉を繰り返した。
「血の遺志と、血晶石。お前にとって、相当に大切なものらしいが…それは何なんだ?」
マリアは、淡々と答えた。
「血の遺志は、倒した相手の残り香のようなものだよ。力になる。強さにも、品物にも、変わる。死ぬと落とす。だから戻って拾い直す」
「……魔力残滓か。概念の核か」
「知らん。遺志だよ」
「では血晶石は?」
「狩りの道具を、強化する石だ。嵌める。形がある。放射、三角、欠損——」
「触媒か。強化礼装の核か」
「石だよ。嵌める。それぞれ質が違う。実りが太いほど、狩りが楽になる」
Ⅱ世は、言葉を追った。
追えた。
だがそれらは、協会の技術体系のどこにも載っていないものだ。
「接収された品は、協会にとっては実りだ。お前にとっては、違うのか」
「違う」
間を置いて、続ける。
「狩りの道具を、強化するものではなかった。だから、実りではなかった」
彼女の手元に貴重品はない。
全部、解剖局へ消えた。
残ったのは、落胆した生還者の短い説明だけだ。
実害はない。
むしろ協会としては、悪くない結果ですらある。
生還し、貴重な品物の回収までして、本人はがっかりしている。
大切なものの名称は聞き、説明も受けた。
それでもII世は中身が分からない。
「……規格外だな」
グレイが、小さな声で言う。
「拙……喜ぶべきなのか、慰めるべきなのか、分かりません」
「お前だけじゃない」
マリアは、窓の外に一度視線をやる。
「地下は、悪くなかった。広かったし、深かった。獣が…狩りの相手がいた」
「だが、実りが違ったと?」
「そうさ。まあ次を、探すさ」
そう言い残し、彼女は扉へ向かう。
Ⅱ世が呼び止める。
「マリア」
足が、止まる。
「今回の件は、記録に残るだろう。数少ない生還者としてな」
「構わない」
「その、血の遺志と血晶石が、何かは——」
「説明しても、分からんだろう」
静かに、そう返して、出ていった。
Ⅱ世は椅子の背に体重を預ける。
「呆れるよ。本当に」
グレイが、遠慮がちにティーカップを差し出す。
Ⅱ世はそれを受け取りながら、短く息を吐いた。
時計塔には、今日もマリアがいる。
そしてⅡ世は、今日も彼女に呆れていた。