「少しいいか?桜」
「なんですか?マリアさん」
夕食の支度をしていた桜が、包丁を持ったまま振り返った。
まな板の上には切りかけの青物があり、その向こうでは鍋から出汁の匂いが立っている。
「実は言うべきか言うまいか迷っていた事があってな…。やはり言っておこうと思う」
そして、マリアは少し迷った。
言うべきかどうかではなく、どう言えばいいのかを考えていたのである。
こういうことは、本人に教えてやった方がいい。少なくとも、自分なら知らないままでいるより教えてほしい。
「臭いぞ」
包丁が止まった。
「…………え?」
「マリアさん?」
士郎まで振り返ったので、マリアはもう一度鼻を鳴らした。
やはりする。
桜と初めて会った日から何度か気になっていた臭いで、近くにいる今日は特に分かりやすかった。
「前から少し気になってたんだ。いつもじゃないが、桜が近くに来ると臭う。すまない、料理中にこんなことを…」
「ま、前から……?」
「ああ。初めて会った時からだ」
桜は手にしていた包丁を、ひどく静かな動作でまな板の上へ戻した。
「マリアさん、それ本当か?」
士郎が鼻を動かし、桜の方へ顔を向けて空気を嗅いでみる。
しかし、すぐに首を傾げた。
「いや……俺は全然分からないぞ。出汁と醤油の匂いしかしないけど」
「そうか。士郎には分からないのか」
「ええと……マリアさんには分かるんですか?」
「分かるぞ。近いとかなり」
桜が俯いた。
耳まで赤くなっているのを見て、マリアはようやく少し申し訳なくなる。
やはり言い方が悪かったらしい。
こういうことを本人へ指摘するのは、敵を攻略するよりずっと難しい。
「でも、そんなに酷くはないぞ。離れていればほとんど分からない」
慰めたつもりだったが、桜の耳はさらに赤くなった。
どうやら、これも違ったらしい。
「その……マリアさん」
「なんだ?」
「それって、私からするんですよね?」
「そうだな。正確には中からだと思う」
「中から……」
桜が小さな声で復唱した。
隣では士郎も困惑している。
何の臭いなのか確かめようとしたのだろう、もう一度桜の方へ顔を寄せかけたところで、当の本人が勢いよく半歩下がった。
「せ、先輩は近づかないでください!」
「えっ」
「い、今は!です!」
「お、おう……俺こそ申し訳ない」
士郎が止まった。
マリアにはよく分からなかったが、桜が臭いを相当に気にしているらしいことだけは分かった。
自分では気づいていなかったのかもしれない。
本人の臭いというものは、慣れてしまえば分からなくなることもあると聞く。
もっとも、マリアが嗅いでいるものは汗や皮脂とは随分違う。
湿った土に、古い血。腐った臓物に似た生臭さが混ざり、そのさらに奥には、小さな生き物が狭い場所で蠢いているような気配まである。
そこまで説明してやろうかとも思ったが、桜は俯いたままだった。
やめておいた。
これ以上詳しく言えば、たぶんもっと傷つく。
マリアにもそれくらいの配慮はあった。
「あの……マリアさん。一つお願いがあるんですけど」
「うん?」
桜はようやく顔を上げた。
笑ってはいる。
笑ってはいるのだが、昨日までとは何かが違う。
「このこと、他の人には言わないでください。ね?」
「分かった。気にしてるなら言わない」
「ありがとうございます」
マリアは固く約束した。
士郎が二人を交互に見ている。
「でも桜、本当に俺には何も――」
「セ、ン、パ、イ…?」
「はい」
士郎も黙った。
その日の夕食は、途中から妙に静かだった。
◇
翌日。
「これで全部だな?」
衛宮士郎が差し出した紙には、米、鶏肉、卵、玉ねぎと書かれていた。
昨日、マリアが使い込んだものである。
正確には昼食の親子丼に使った。 四人分を作るために米を五合炊き、そのうち三合をマリアが食べた。
料理の味については、客から苦情は出なかった。
量については家主から、文句がかなり出た。
「昨日も言ったけど、別に食べるなって言ってるんじゃないからな。使ったらその分は補充する。それと、使う前に一言。分かった?」
「ああ、無論だ。分かっている」
「本当かあ?じゃあ宣言してくれ」
マリアは紙を見た。
「えっと…米、鶏肉、卵、玉ねぎ」
「そっちじゃない!」
全部覚えているのに、なぜか駄目だった。
士郎はしばらくマリアを見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……まあいいや。とにかく気をつけてな」
「買い物だぞ?狩りじゃない」
「あんたの場合、その買い物の途中で何が起きるか分からないから言ってるんだよ。出先でイリヤ達を拾ってきたりとか」
それは買い物ではない。
そう反論しようと思ったが、話が長くなりそうなのでやめた。
紙を懐へ入れて帽子を被る。
「行ってくる」
「ああ、くれぐれも頼んだからな」
玄関を出る。
戸が閉じたところで、向こうから士郎の声が聞こえた。
「……ちゃんと買い物だけして帰ってくるよな?」
まこと失礼な話である。
◇
買い物そのものは、何の問題もなく終わった。
米、鶏肉、卵、玉ねぎ。紙に書かれていたものは一つ残らず揃っている。
完璧だった。
マリアは両手に袋を提げ、少し満足しながら商店街を歩いていた。
米は重いが、マリアにとっては軽い。
問題は卵だ。コレは割れないように、特段に気をつけなければならない。
「あっ、こんにちはマリアさん。お買い物ですか?」
聞き覚えのある声に振り返ると、制服姿の間桐桜が立っていた。
「桜か」
「……すごい量ですね」
桜の視線が両手の袋へ落ちる。
「昨日使った分だ。米を五合炊いて、私は三合食べた。そしたら士郎に怒られた」
「三合……」
なぜか、それだけで全部納得された。
桜は買い物袋とマリアを交互に見て、小さく笑う。
「先輩らしいですね。でも、それはマリアさんも悪いと思いますよ?」
「反省している。だから買った」
「マリアさんでも反省できるんですね」
まこと失礼である。
「あの、それ重そうですし、少し持ちましょうか?」
「大丈夫だ。問題ない」
「お米ですよね?」
無言で自慢げに片手で持ち上げてみせると、桜は何も言わなくなった。
二人で並んで歩く。
昨日のことがあったので、マリアは桜の臭いについて触れなかった。
今日も同じ臭いはしているが、本人が気にしていると言った以上、わざわざ蒸し返す必要はない。
何度か桜はこちらを窺っていたが、やがて少し安心したような顔になった。
どうやら気遣いは成功している。
なら、別の話をしよう。
「ところで、士郎とはどうだ?」
「なんでその話になるんですか!?」
話題の選定に失敗したらしい。
「昨日は聞けなかったからな。何か進展はあったか?」
「ありません!というか、事あるごとに先輩との進展を確認しないでください!」
「そうか。残念だ」
「なんでマリアさんが残念そうなんですか……」
「私は桜を応援しているからな」
「それは……ありがとうございます。でも先輩は、誰にでも優しいんです。だから私だけが特別とか、そういうわけじゃなくて……」
桜は言いながら少し俯いた。
「それに今は色々ありますし」
「セイバーもいるな……あ、凛もいる」
「はい……」
マリアは少し考えた。
「敵が多いな」
「敵って言わないでください!」
桜の声に、近くを歩いていた通行人が振り返った。
本人も気づいたらしく、途端に小さくなる。
「もう……そういうのじゃないんです。私だと、無理ですから」
「なら急いだ方がいいんじゃないか?」
「何をですか」
「アレだ。既成事実とか」
「そ、そういう意味じゃありません!」
「そうとも限らないぞ?桜なら士郎をアレするのも余裕だろう」
「ー!!」
難しい。
本人がそう言うなら、無理強いすることでもない。
ただ、マリアは桜を応援している。それだけは以前から変わらなかった。
「まあ、その…頑張れ」
「何を何ですか……」
「アレを色々だ」
「マ、マリアさん!」
今度は昨日とは違う理由で顔が赤くなっている。
商店街を抜け、人通りが少なくなったところで、マリアはもう一つの用事を思い出した。
「そういえば桜。間桐の家は、古い家系と聞いたことがある。冬木にはどれくらい前からいるんだ?」
それまで士郎の話で赤くなっていた桜の顔から、すっと色が引いた。
「……かなり昔からだと思います。私も詳しいことまでは知りませんけど、お祖父様はずっと冬木にいますから。でも、どうして急にうちのことを?」
「ならちょうどいい。その祖父に会いたいんだ。紹介してくれ」
桜の足が止まったので、マリアも少し先で立ち止まって振り返った。
「お祖父様に……ですか?」
「ああ。バゼット・フラガ・マクレミッツというアイルランド人の女を探してる。知り合いだ。冬木に来てるはずなんだが見つからない。知ってる場所を探してもいないなら、この土地に長くいる長者に聞いた方が早いだろう」
その名前に心当たりはなかったらしく、桜は少し考えてから首を横に振った。
「私は会ったことがありません。少なくとも、私は見てないです。それなら、お祖父様も知らないんじゃ……」
「桜が知らないだけかもしれない。それに、冬木に長くいるなら、何かしら知ってるかもしれない」
そこまで聞いて、桜にもようやく意図が伝わったらしい。
マリアは間桐家を疑っているわけでも、乗り込んで何かをするつもりでもない。
単純に、地元の名主へ聞き込みをしようとしているだけである。
ただし、相手が間桐臓硯となれば、桜にとってはそれだけで済まないらしい。
「……他の人じゃ駄目なんですか?お祖父様、怖い人なんです。マリアさんは話を聞くだけのつもりでも、お祖父様がどうするかは……」
そこで言葉が途切れた。
家族についてどこまで話していいのか迷っているのか、それ以上は言わずに俯いてしまう。
マリアは急かさなかった。
知られたくないことは誰にでもあるし、桜が怖いと言うなら、少なくとも桜にとっては本当に怖い相手なのだろう。
「分かった。気をつける。でも話は聞きたい」
それで諦めることはないらしい。
桜もそれを悟ったのか、しばらく考え込んだ末に小さく息を吐いた。
「……分かりました。それなら私も行きます。一人で行かせる方が心配ですから、私からお祖父様に話してみます」
「心配してくれるのか?」
「他に誰を心配するんですか…」
初対面の家へノンアポで押しかけるより、孫娘から取りなしてもらえる方が話は早い。
「ありがたい、では今から頼めるか?」
「寄り道ですけど、大丈夫ですか?」
「長居する気もない。用事が済めば帰るさ」
桜が先に歩き出し、マリアもその隣へ並んだ。
◇
間桐邸へ向かう間、桜はそれまでより明らかに口数が少なくなった。
道案内に迷っているわけではない。曲がり角では自然に先へ出て、信号を渡ればまたマリアの隣へ戻ってくる。それでも、家へ近づくにつれて表情が硬くなっていくので、マリアも余計なことは聞かなかった。
代わりに、途中から別のものが気になり始めた。
隣を歩く桜から漂う匂いは、昨日と同じあの妙な香りである。
ところが、ある角を曲がった辺りから様子が変わった。
マリアは歩調を緩めて鼻を鳴らした。
最初は桜から強く臭うようになったのかと思ったが、違う。風が吹くたびに、同じ臭いが進行方向から流れてくる。
桜を見る、風上を見る、もう一度確かめる。
「……マリアさん、どうかしました?」
「ちょっと待て。昨日の臭いなんだが――」
そこまで言った瞬間、桜の身体が固まった。
約束を思い出す。
「ああ、違うぞ。昨日の話を蒸し返したいんじゃない。もとは桜の臭いじゃなかったみたいだ」
「…………え?」
「同じ臭いが向こうからしてる。桜よりずっと強いから、たぶん別の何かが桜についてるか、近くにあったんだと思う。良かったな、体臭じゃなくて」
よかった、と言われても桜はすぐには喜べなかったらしい。
昨日から自分の体臭だと思い込んでいたものが違ったというところまでは朗報だが、では何だったのかという問題が残る。
「……向こうって、どっちですか?」
マリアが進行方向を指すと、桜はその先を見た。
「間桐の家は、あっちだろ?」
「……はい」
「なら、たぶん家の方からだな。近づくほど強くなってる」
今度は別の意味で桜の顔が曇った。
「何の匂いなんですか?」
「まだ分からない。思ってたのと少し違うし、生き物っぽいんだが……小さいのが沢山いるような感じがする」
「小さい生き物が、沢山……?」
桜は不思議そうに自分の制服の袖を嗅いでみたが、当然ながら何も分からないらしい。
その様子を見る限り、心当たりもなさそうだった。
「私は全然分からないです。昨日もそうでしたけど、本当に匂ってるんですか?」
「ああ。でも士郎にも分からなかったから、普通は分からないんだろう。だったら気にしなくていいんじゃないか?」
「それを昨日の私に、二人だけのタイミングで言ってほしかったです……」
「すまん。昨日は桜から臭ってると思ってたからな」
「そうですよね……」
申し訳ないことをした。
それについては本当に反省している。
とはいえ、今度は臭いの出所らしい場所が目の前にある。
マリアが再び歩き出すと、桜も少し遅れて隣へ戻った。
「行けば何か分かるだろ」
「……そうやって、とりあえず確かめに行くところ、本当にマリアさんですよね」
「どういう意味だ?」
「いえ。もういいです」
◇
やがて古い洋館が見えてきた。
桜が「あそこです」と示すまでもなく、マリアには分かった。
屋敷へ近づくほど臭いが濃くなり、昨日まで桜一人から嗅いでいた時には一つに思えたものが、実際には幾つもの臭いが混ざったものだと分かってくる。
その奥で、何かが生きている。
しかも、一匹や二匹ではない。屋敷の中だけでなく、庭にも地面の下にも、同じ気配が薄く広がっている。
「……やっぱりここだな。桜からしてたのと同じ臭いが、この家にはかなり染みついてる。ペットでも飼っているのか?」
「そんなにですか?私は全然分からないんですけど……」
「分からないなら、その方がいい。少なくとも昨日のは桜自身の臭いじゃなかったみたいだしな」
「だから、その話を何度も確認しないでください……」
それもそうだった。
門の前まで来たところで、桜がマリアの両手に提げられた買い物袋へ目を落とした。
「その荷物、持ったまま入るんですか?お米もありますよね」
「重くはないぞ。ただ、卵がある」
「それなら玄関に置いて大丈夫ですよ」
「すまない、助かる」
門を開け、そのままマリアを中へ招く。
敷地へ一歩入ったところで、空気の感触が変わった。
術式の名前も構造も分からないが、何かが張られているのは分かる。
「桜の祖父には、私が入った事も分かるのか?」
「はい。普通に入れば、お祖父様には分かると思います。でも今日は私がお客さんとして連れて来てますから、大丈夫です」
「なるほど」
だからこそ、桜に同行してもらった意味がある。
マリアは素直にその後をついていった。
庭を進むにつれて例の臭いはさらに濃くなり、それとは別に、小さな何かがこちらを認識したような感覚もあった。
人間の視線ではない。
マリアが庭の端へ目を向けると、桜がすぐに気づいた。
「何かありました?」
「何かいる。でも、まだ何かは分からない」
「……お祖父様に会うだけですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
その答えが安心材料になったかどうかは怪しい。
玄関へ着くと、桜が戸を開けた。
「ただいま帰りました」
返事はない。
靴を脱いで中へ入り、マリアもそれに続いた。買い物袋は玄関の隅へまとめて置く。
桜は廊下の奥へ向かって声をかけた。
「お祖父様、いらっしゃいますか? お客様を連れてきたんですけど」
少し間を置いて、
「おるよ。珍しいこともあるものじゃな、桜が客を連れてくるとは」
嗄れた声が返ってきた。
それとほとんど同時に、マリアは鼻につく臭いが一段濃くなったことに気づいた。
廊下の向こうから、小柄な老人が杖をついて歩いてくる。
背は曲がり、顔には深い皺が刻まれている。見た目だけなら随分と年老いているのに、こちらを見る目だけが不釣り合いなほど生きていた。
そして何より、臭う。
屋敷よりも濃い。桜より、ずっと。
マリアが老人を観察している間に、桜が一歩前へ出た。
「お祖父様。突然すみません。こちら、マリアさんです。衛宮先輩のお知り合いで、お祖父様に聞きたいことがあるそうなんです」
「ほう。マリアさん、とな」
老人の視線が、マリアの帽子から金糸の狩装束へゆっくり降りていった。
やがて口元が歪む。
「桜や、ご苦労だった。部屋に戻るが良い。これより、客人への対応は儂がやろう」
「…はい、お祖父様」
老人に促され、桜はマリアに視線を残しつつ自部屋に向かった。
「さて…先程の紹介では少々足りんのではないか?時計塔の封印指定執行者が家まできて、『衛宮の知り合い』で済ませるのはいささか無理があろう」
「なんだ、知ってたのか」
「聖杯戦争のマスターでもなし。ソレが冬木でこれだけ派手に動いておる。知らん方が難しい。他で随分と暴れたそうじゃな」
「見てたのか?」
「さてのう…長く住んでおれば、自ずと耳へ入ってくることもあるというだけじゃ。さて、お主も知っておろうが、儂こそが間桐臓硯じゃ」
「マリア・アストラルだ。私の方も、貴公のことはある程度は調べた」
「間桐の何を調べたのやら。まあよい、桜がわざわざ連れてきた客じゃ。立ち話を続けるのも無粋じゃろう。茶くらい出そう」
「助かる。聞きたいことがある」
「カカカッ。噂通り、随分とせっかちな御仁じゃな。茶が出てくるまでくらい待てるじゃろう?」
どうやら追い返されることはなさそうだと分かった。
それでも完全に安心したわけではない。
ここは魔術師の縄張りなのだから。
「変なものは入れないでくれ」
臓硯がその言葉を聞き、喉の奥で笑った。
「カカカッ。随分と信用がないようじゃな、儂は。心配せずとも、せっかく時計塔から珍しい客が来たんじゃ。いきなり取って食ったりはせんよ」
マリアは改めて臓硯を見た。
近くで確かめれば、もう間違えようがない。
桜からしていた臭いも、この屋敷に染みついている臭いも、目の前の老人から最も濃く漂っている。
「先ほどから気になっておったが、お主は儂を見るたびに鼻を鳴らしておらんか?加齢臭でも気になるかのう」
「ああ、いや。そうじゃない。桜からしてたのと同じ臭いが貴公からするんだ。この家にも染みついてるが、貴公が一番強い」
臓硯の笑みが、ほんの僅かに止まった。
その変化をマリアは見逃さなかった。
まだ、何の臭いなのかは分からない。
ただ、どうやら聞く相手は間違っていない。
そこへ臓硯は何事もなかったように自分の湯呑みを取り、向かいの一つをマリアへ勧めた。
「まあ、まずは飲むがよい。お主が儂に聞きたいことも、今の臭いとやらの話も、茶を飲みながらで構わんじゃろう」
マリアは湯呑みの茶を啜り、一息ついて老人に尋ねる。
「そうだな。じゃあ先に本来の用件から聞く。バゼット・フラガ・マクレミッツという女を探してるんだが、お前は知らないか?」
「バゼット・フラガ・マクレミッツという女か。時計塔の参加枠…その一人じゃったと記憶しておるが。儂の知る限り、この家へ来たことはない。協会から来た女が聖杯戦争の序盤で一人消えたという話なら耳にしておるが、それがお主の探し人かどうかまでは知らんよ」
「そうか」
有力な情報ではない。
だが、少なくともこの家にバゼットがいる様子はなかった。
マリアは残っていた茶を飲み、湯呑みを置いた。
「分かった。なら帰る」
「まあ待て。わざわざ儂の家まで来て、探し人がおらんと分かった途端に帰るのか?本当にせっかちな女じゃな」
「用は済んだ」
「他には何もないのか?」
そこでマリアは立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。
そうだった、もう一つある、座り直す。
「ある。桜についてるやつ、貴公によるモノだろう?」
先ほどまで笑っていた臓硯の目が、ほんの少し細くなった。
「……いったい、何の話かのう」
「小さいのがいる。ここ来て分かったが、虫みたいな臭いがする。この家にもいるし、お前からはもっと強く臭う。だから、お前のだと思った」
臓硯は杖を撫でていた指を止めた。
「お主には分かるようじゃから言うが、蟲のことか?お主、それをどうやって知った?」
「今言っただろ。臭うと」
「臭うと?いくら臭っても、桜に付いたソレは感じ取れん筈じゃがのう」
「そこまでは知らない。桜から前から同じ臭いがしてた。この家に近づいたらもっと強くなって、貴公の臭いはさらに強い。なら、関係はあるだろう」
臓硯はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「大したものじゃ。魔眼でも霊視でもなく、嗅覚だけでそこまで辿るとはのう」
臓硯は珍しい生き物でも見るようにマリアを眺めた。
「それで?儂の仕業だと分かって、どうするつもりじゃ」
「桜についてる分は取ってやれ。他の人間は分からないかもだが、私は臭いと思うぞ。きっと本人も気にしてる」
臓硯の目から、そこで初めて笑いが消えた。
「……待て。お主は何処まで分かっておる?」
「何が?」
「その蟲が桜に何をしておるかじゃ」
「知らない。何か変な事でもしてるのか?」
「知らんくせに、随分な言い様じゃのう」
「臭うからだ。自分が臭いのは誰だって嫌だろう。私だってここ最近は、こまめにシャワーを浴びたり、風呂に入るぞ」
臓硯は湯呑みを持ったまま動きを止めた。
今度の沈黙は警戒ではない。
純粋に、話が噛み合っていない人間のそれだった。
「……桜が、何を気にしておると?」
「だから臭いだろう」
「本人がそう言ったのか?」
「ああ。人には言わないでくれと言われた」
「…………」
臓硯の顔から、今度は別の意味で表情が消えた。
「お主、もしや桜本人に『臭い』と言ったのか?どう言った」
「普通に言ったぞ」
「その普通を聞いておる」
面倒な老人だな、とマリアは思った。
だが説明した。
昨日、衛宮邸で前から気になっていた臭いについて教えたこと。
士郎には分からなかったので、自分には近くなら分かると説明したこと。
桜本人からするのかと聞かれたので、おそらく中からだと答えたこと。
そして桜から、
他の人には言わないでほしい、と頼まれた。
そこまで聞いたところで、臓硯が俯いた。やや肩が震えている。
「……なんだ?」
返事がない。
「臓硯?」
「カ……」
老人が顔を上げた。
「カカッ、カカカカカカッ!」
爆笑だった。
杖の先で畳まで叩いている。
「何がおかしい」
「お主、それで桜が何を気にしておると思ったか!」
「だから臭いだろう」
「そうじゃろうな!お主にとってはな!」
何を言っているのか分からない。
臓硯は笑いながら目元を拭った。
「桜は蟲の臭いなど知らんわ。お主のように自分の中の蟲を嗅ぎ分けられるとでも思ったか?ましてや衛宮の小倅は何も分からなかったんじゃろう」
「ああ」
「なら、桜が何の話だと思ったか少しは考えてみい。前から臭う。近くへ来れば分かる。中から臭う。それを”惚れた男”の目の前で言われたんじゃぞ」
マリアは考えた。
昨日の桜を思い出す。
耳まで赤かった。
士郎に近づくなと言った。
笑顔で怒られたのが怖かった。
「…………」
なるほど。
「士郎の前で言ったのが悪かったか」
「お主、ようやくか…」
臓硯がまた笑った。
昨日の会話を最初から思い返してみる。
確かに酷い。
「……あれは怒るな」
「今さら反省しても遅いわ。よりにもよって惚れた男の前で『前から臭う』『近いと分かる』『中からだ』と畳み掛けおって。儂が言うのもなんじゃが、お主はもう少し人の機微というものを学んだ方がよいぞ」
「今日桜に会った」
「ほう。それで?」
「普通だった」
「なら、このまま黙っておれ。墓まで持っていけ」
「分かった」
大変参考になる助言だった。
マリアは覚えておくことにした。
臓硯はまだ笑っている。
「しかしまあ、哀れな娘じゃ。好いた男の前であれだけ言われて、それでも今日お主と普通に話したのか」
「桜はいい子だからな」
「儂の”可愛い孫”に何をしておる、お主は」
「悪かったと思ってる」
「本当にかのぅ…」
そこまで話して、マリアは思い出した。
「それはそれとして、蟲は取ってやれ」
臓硯の笑いが止まった。
「……まだ言うか」
「私が勘違いしていたのと、桜の中にお前の蟲がいるのは別の話だろう」
臓硯は一瞬黙り、それから喉の奥で笑った。
「そこは分けるか。まあよい。だが、断る」
「なぜだ?」
「儂に必要だからじゃ。お主も気づいておるようじゃが、この蟲はそこらを這いつくばるような虫とは違う。儂の魔術に必要なものであり、儂自身が生きながらえるためにも必要になる」
「桜じゃなくて、お前に?」
「儂に、じゃ。魔術師とて人間よ。肉は腐り、骨は脆くなり、魂も摩耗する。何もせず千年を生きられるほど世界は親切ではない。儂は儂なりのやり方で、それを繋いできたということじゃ」
「だから蟲を使ってるのか」
「大雑把に言えばな。じゃから、臭いと言われた程度でやめる気はない」
「桜の中にいるアレも必要あるのか?」
「さて。そこまで話してやる義理はあるまい」
それはそうだ。
分からないことが多い。
蟲が桜の中で何をしているのかも分からないし、無理に取り除けばどうなるのかも知らない。
臓硯を殺せば全部死ぬのか、それとも桜まで巻き込むのか、それすら不明である。
昔は知らないまま手を出しまくって、それは痛い目を何度も見た。
狩りでも何でも、あまり賢いやり方ではない。
だから、今すぐ何かをするのはやめた。
ただし一つだけは言っておく。
「だが”可愛い孫”のためにも取るべきなのでは」
臓硯が目を細めた。
「本人がそう願ったのか?」
「いや、ちゃんとした返事は聞いた事ない。だが、変なものを勝手に入れられるのは嫌だろう」
「魔術師の家というものは、必ずしも本人の好き嫌いだけで決まるものではないぞ」
「私は魔術師だが、本業は狩人だ」
「時計塔の封印指定執行者が、今更何を言うか」
「講師もしているぞ」
臓硯は一拍置いてから笑った。
「カカカッ、講師か。それはまあよい。その”狩り”とやらが魔術師狩りと言うのであれば、当たらずとも遠からずか」
茶はすっかり冷めていた。
臓硯は自分の湯呑みを置き、今度は先ほどまでとは違う目でマリアを見た。
「次は儂の番じゃ。その狩人殿について、一つ聞いてもよいかの?」
「いいぞ、なんだ?」
「お主は、随分と死に慣れておるように見える。時計塔での、お主の噂も知っとる。普通、一度でも死を身近に感じた者は、もう少し慎重になるものじゃが」
「じゅうぶんに私は慎重だぞ」
「儂の結界を正面から踏み越えてきた女が言う台詞ではないわ」
言われてみれば、説得力はあまりない。
臓硯は笑わなかった。
「死ぬのが怖くないのか?」
その問いだけは、今までと少し違った。
魔術師が珍しい術を聞いているというより、長く生きてきた老人が、本当に答えを知りたがっているように聞こえた。
マリアは少し考えてから答えた。
「怖いぞ。死ぬのは痛いし、苦しい。嫌な死に方も沢山ある」
「……即答するのか」
「本当だからな」
「ならば、なぜお主はそこまで死を軽く扱える?」
「死は軽くない。ただ、良くも悪くも死ぬと戻る。それだけだ」
臓硯の指が止まった。
「……戻る?」
「ああ」
「それは何処からじゃ。彼岸か?冥界か?」
「…夢だ」
「…ほう。夢、とな?」
臓硯が黙った。
先ほど桜の勘違いを聞いた時とは、まるで質の違う沈黙だった。
「待て。お主は死なぬのではなく、本当に死ぬのか?」
「死ぬぞ。普通に」
「その後、その夢とやらへ行き、そこから再びこちらへ戻る?」
「大体そんな感じだ」
「肉体が再生しておるのか。それとも魂を別の器へ移しておる?いや、死の直前まで時間を遡っている可能性も――」
「知らない」
臓硯が止まった。
「……何?」
「仕組みは知らない」
「では、その夢とやらが何なのかは?」
「それも説明しろと言われると難しいな」
「お主は何なら知っておるんじゃ」
「死ぬと夢に戻る。そこからまた戻ってくる。狩人はそういうものだ」
臓硯は額へ手を当てた。
「それは説明ではなく現象をそのまま言っておるだけじゃ」
「そうなのか?」
「そうじゃ!」
珍しく大きな声だった。
しかし、臓硯はすぐに黙り込んだ。
怒ったわけではない。
考えている。
「……その夢へは、好きな時に行けるのか?」
「今は少し違うが、灯りを探すか、死ぬのが一番早かった」
「つまり、お主を殺せば夢へ行く。そしてそこから、またここへ戻ってくる」
「ああ、戻るべき場所がここなら」
臓硯は長く息を吐いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「なるほど。不死ではない。死そのものは普通に成立する。にもかかわらず、それで終わらんわけか」
「そうだな」
「しかも当人は、その仕組みを知らん」
「仕組みを知らないで困ったことはないからな」
「儂なら気になって眠れんわ」
「そうか?」
「魔術師とは、そういう生き物じゃよ。知らぬものがあれば知りたくなる。ましてや死の先から生身人間を連れ戻す仕組みとなれば、なおさらじゃ。それは神話のナワバリぞ」
臓硯の視線が変わった。
顔を見ていたはずの目が、首へ落ち、胸へ移り、腕を辿る。
皮膚ではない。
その下を見ようとしている。
「血を調べれば何か分かるかもしれん。肉はどうじゃ。骨、神経、魔術回路……あるいは魂そのものに何か刻まれておる可能性もある。お主が原理を知らんというのなら、なおさら調べ甲斐があるというものじゃ」
「私を調べたいのか?」
問い返すと、臓硯は少し意外そうな顔をした。
「嫌か?」
マリアは考えた。
自分の身体がどうなっているのか。
実のところ、マリア自身も全部を知っているわけではない。
ヤーナムにいた頃と今とで何が同じなのか。
上位者となったことで何が変わったのか。
こちらの世界の魔術師が調べたら、何を見つけるのか。
少し興味はある。
だが、今日は駄目だった。
「今日は帰る」
「……なぜじゃ」
「夕飯がある」
臓硯が黙った。
「世界の理から外れておるかもしれん己の身体より、夕飯を優先するのか?」
「士郎に怒られるからな」
昨日は正座までさせられた。
同じ失敗は避けるべきである。
臓硯は数秒マリアを見つめ、それから盛大に笑った。
「カカカカッ!なるほど、それは大事じゃ!」
「大事だぞ」
「分かった分かった。今日は帰るがよい。じゃが、気が向いたらまた来るといい。時計塔の連中とは違う見方くらいはしてやれるかもしれんぞ」
マリアは立ち上がり、襖へ向かった。
そこで一度振り返る。
「桜の蟲を取るなら考える」
「それはまた別の話じゃ」
「じゃあ考えない」
「お主、交渉というものを知らんのか?」
「知らない」
「ならば、これから知るとよかろうて」
襖を開ける。
「茶は美味かった。またな」
「ああ。いつでも来るが良い」
◇
自室に篭っていた桜を連れて屋敷を出て、庭を通り、結界を抜ける。
夕飯までには十分戻れるだろう。
桜のためにも昨日の臭いの件については、士郎の前で二度と触れない方がいい。
あれは体臭の話ではなかったと教えれば誤解自体は解けるのだが、そうすると今度は「では何の臭いだったのか」という話になる。
蟲だった。
桜の中にいる、祖父の蟲。
そこまで話していいのかは、まだ分からない。
よって、黙っておく。
結果として臓硯の助言通りになった。
墓まで持っていこう。
マリアは食材を持ち直し、衛宮邸へ向かって歩き出した。
◇
屋敷の奥では、間桐臓硯が一人、冷めた茶を前に座っていた。
「……死ぬ、か」
不死ではない。
あの女は間違いなく死ぬ。痛みも恐怖も知っているし、肉体そのものが死を拒絶しているわけでもない。
それでも、死ねば夢とやらへ戻り、そこから再びこちらへ現れる。
本人はそれ以上を知らない。
知らなくても困らないのだろう。
それが何より異様だった。
魔術師ならば知ろうとする。
未知の現象があれば術式を探し、原理を求め、可能であれば再現する。臓硯自身、そうして長い年月を生きてきた。
だが、あの女にとって死と帰還は呼吸と大して変わらないらしい。
本人は、まっとうに死を恐れていると言うが、そもそも視点が異なる。
死ぬ、戻る、また狩る。
ただそれだけ。
「あの女、まことに面白いのう」
臓硯は目を閉じた。
肉体の再生かもしれない。
違う器への魂の転写かもしれない。
時間の遡行、因果への干渉、あるいは現在の魔術体系では説明できない何か。
考えられる可能性はいくらでもある。
ならば、一つずつ潰せばいい。
血を調べ、体組織を調べる。
骨、眼、神経、魔術回路。
それでも見つからなければ、最後には魂まで探ればいい。
そのどこかに、追い求めるモノのヒントがあるはずだ。
あの女を、死の向こうから連れ戻しているものが。
臓硯は長く生きた、あまりにも長く。
人としての肉体など、とっくに捨てた。蟲へ移り、喰らい、繋ぎ、腐りながら、それでも生き延びてきた。
死にたくなかったし、それは今でも変わらない。
だが、もし腐り続ける必要すらない方法が存在するのなら。
「……カカッ」
小さな笑いが漏れた。
普通の執行者が屋敷へ踏み込んできたなら、まずどう殺すかを考える。
だが、あの女は違う。
おそらく殺すと面倒。
死そのものが、拘束したあの女をこちらの手の届かない場所へ逃がす条件になり得る。
ならば、生かしたまま調べるしかない。
しかも都合のいいことに、向こうにもこちらへ用がある。
桜と蟲。
本人は随分と間の抜けた経緯でそれを嗅ぎつけたものだが、見つけた以上は忘れないだろう。
桜から蟲を取れ、とヤツは言った。
そして自分の身体にも、少なからず興味を示した。
臓硯は杖を撫でながら、先ほどの女の顔を思い出す。
無理に捕らえる必要すらないのかもしれない。
知りたいものを見せてやれば、自分から来る。
「ふむ…知る過程で、死なせてはならんのう。いかがしたものか」
今度の笑いは、しばらく止まらなかった。