翌日。
マリアは、また間桐邸の前にいた。
「…………」
帰りたい。
かなり帰りたい。
昨日と同じ門。
昨日と同じ古い屋敷。
昨日と同じ、湿った土と古い血と、腐った臓物のような臭い。
ただ。
昨日より、その意味がよく分かる。
桜の中にいたもの。
あれと同じ臭いが、この家には染みついている。
「……仕方ない」
門を押した。
錆びた蝶番が鳴る。
一歩。
結界。
二歩。
視線。
昨日と同じだ。
マリアはそのまま玄関まで歩いた。
呼び鈴に手を伸ばすより先に、扉が開く。
「来たか」
「ああ」
間桐臓硯が立っていた。
「カカカッ。律儀なものじゃ」
「そうか?」
「逃げ出してもおかしくはないと思っておったがの」
「逃げる理由はない」
「そうか」
老人が笑う。
マリアはその顔を見てから、鼻を鳴らした。
「やっぱり臭いな」
「老人に向かって酷い言い草じゃ」
「そういう意味じゃない」
「分かっておるわ」
臓硯が身体を退ける。
「入れ」
「ああ」
マリアは屋敷へ入った。
◇
「腕を出せ」
「こうか」
「もう少し上じゃ」
「こう?」
「そうじゃ」
袖を捲る。
針が刺さった。
「痛い」
「この程度でか?」
「痛いものは痛い」
「死ぬことには慣れておるくせに」
「関係ないだろう」
「そういうものかの」
「そういうものだ」
小瓶に血が溜まる。
臓硯はそれを光に透かした。
赤い。
当たり前だった。
何かが浮かぶわけでもない。
術式に反応して変色することもない。
「普通じゃの」
「そうだろうな」
「お主が言うな」
血。
髪。
皮膚。
瞳孔。
脈拍。
呼吸。
魔力への反応。
簡単な術式。
小さく切り取った組織。
マリアの理解では、概ね健康診断だった。
時計塔でも似たようなことをされたことがある。
もっとも、あちらでは途中から担当者の顔がだんだん怖くなっていったが。
「魔術回路は?」
「知らん」
「本当に魔術師か、お主」
「一応」
「一応で魔術師を名乗るでない」
「時計塔では通ったぞ」
「時計塔も落ちたものじゃ」
「二世も似たようなことを言っていた」
臓硯の眉が僅かに動く。
「ロード・エルメロイとかいう若造か?」
「ああ」
「……お主、本当に時計塔の人間なのじゃな」
「今さらか」
また針。
「痛い」
「先ほども聞いた」
「二度刺されたからな」
「黙っておれ」
「はい」
マリアは黙った。
臓硯も、しばらく黙った。
血を調べる。
組織を見る。
術式を変える。
もう一度。
そして。
「……分からん」
「何が」
「何もかもじゃ」
小瓶を置く。
「死徒の類ならば、まだ分かる。肉体に異常があれば調べようもある。魂に細工があるならば、それもじゃ」
「うん」
「お主には、何もない」
「健康なんだな」
「そういう話ではない」
臓硯が額を押さえた。
「お主、本当に死ぬのじゃな?」
「死ぬぞ」
「そして戻る、と」
「ああ」
「どうやって」
「知らない」
「どこから」
「夢」
「その夢とは何じゃ」
「夢は夢だ」
「…………」
「昨日も言っただろう」
マリアは袖を戻した。
「私は知らない」
臓硯は彼女を見た。
長く。
「……ならば、もう少し詳しく調べよう」
「まだやるのか?」
「ああ」
「もう健康だと分かっただろう」
「健康診断をしておるのではない」
「違ったのか」
「…………」
臓硯が一瞬、言葉を失った。
「お主のそれが解れば、儂とて今の方法に拘る理由はない」
マリアの手が止まった。
「今の方法?」
「分かっておろう」
蟲。
桜。
「桜のも?」
「さて」
臓硯は笑う。
「それは調べてみねば分からんの」
「…………」
「やめるか?」
マリアは少し考えた。
「いや」
袖を下ろす。
「続けよう」
「よいのか?」
「可能性はあるんだろう?」
「可能性ならばな」
「ならいい」
「カカカッ」
「何だ」
「いや」
臓硯は立ち上がった。
「では、場所を変えるぞ」
◇
「飲め」
「何だ、これ」
「薬じゃ」
「見れば分かる」
小さな杯。
透明な液体。
マリアは匂いを嗅いだ。
薬草。
それから、知らない何か。
「何の薬だ」
「麻酔じゃよ」
「いらない」
「痛いのは嫌なのじゃろう?」
「…………」
少し考える。
「それはそうだな」
一息に飲んだ。
「苦い」
「薬じゃからな」
「まずい」
「薬じゃからな」
「もう少しどうにかならなかったのか」
「菓子でも食べに来たつもりか?」
「それは違う」
地下へ降りる。
一階。
地下。
さらに奥。
空気が湿っていく。
途中から、マリアは眉を顰めた。
「……暑いな」
「そうかのう?ここは地下、むしろ涼しい筈じゃ」
「ああ」
首元を少し緩める。
妙だ。
地下へ降りている。
空気は冷たい。
なのに身体だけが熱い。
脈も少し速い。
「臓硯」
「なんじゃ」
「薬、本当に麻酔か?」
「そうじゃ」
「身体が熱い」
「副作用じゃよ」
「先に言え」
「聞かれなんだからの」
「…………」
嫌な爺だ。
地下の一室。
中央に台があった。
白い布。
革の拘束具。
金属製の器具。
マリアは入口で止まる。
「…………」
知っている。
こういう部屋を。
こういう台を。
“診療所”
“実験棟”
妙な既視感。
あまり良いものではない。
「どうした?」
「嫌いだ」
「何がじゃ」
「こういうの」
「経験があるのか?」
「ああ」
「何をされた」
「昔、負けた」
「それで?」
「実験材料にされた」
臓硯が振り返る。
「誰に?」
「医者」
「その医者はどうなった?」
「…」
マリアは台へ近づいた。
白い布を指で触る。
清潔だった。
それが余計に嫌だった。
「寝ればいいのか」
「ああ」
帽子を脱ぐ。
上着も外す。
言われるまま、仰向けになる。
「腕を固定するぞ」
「動かないぞ」
「念のためじゃ」
「そうか」
分厚い革が手首を締める。
足首も。
身体にも一本。
「きつい」
「緩ければ意味があるまい」
「それもそうだな」
この時点では。
まだ。
そう思っていた。
◇
金属音がした。
マリアが横を見る。
臓硯が器具を並べている。
針。
刃。
鉗子。
鋸。
「…………」
もう一度見る。
鋸。
「待て」
「なんじゃ」
「それは何だ」
「見れば分かるじゃろう」
「分かるから聞いている」
臓硯が刃を取った。
「より詳しく調べる」
「外せ」
「何故じゃ」
「そこまでは許していない」
「許しておらん?」
「切って調べるとは聞いていない」
「カカカッ」
「何がおかしい」
「嘘はついとらん」
臓硯は笑った。
「儂はお主を調べたいと言った」
「…………」
「どう調べるかなど、一言も言っとらん」
老人の指が拘束具を叩く。
「それに――」
笑みが深くなる。
「“拘束せぬ”とも言わんかったじゃろう?」
数秒。
マリアは臓硯を見た。
「……騙したな」
「お主が勝手に思い込んだのじゃ」
「そうか」
ぎしり。
台が鳴った。
臓硯の笑みが消える。
ぎし。
ぎしり。
革が引き伸ばされる。
金属の留め具が曲がる。
「なるほど」
臓硯が呟いた。
「薬を入れてなお、これか」
「外せ」
「断る」
「なら壊す」
ばき、と。
右手側の固定具に亀裂が入った。
「待て」
「嫌だ」
「桜はどうする」
止まった。
ほんの一瞬で。
軋んでいた台も。
引き千切られかけていた革も。
マリアの身体も。
全部が止まった。
「…………」
「帰るのは自由じゃ」
臓硯が言う。
「儂は追わん」
「…………」
「ただ、何も分からぬままならば、何も変わらん」
「卑怯だな」
「魔術師じゃからの」
「魔術師は皆そうなのか?」
「さてな」
「二世は違うぞ」
「ならば奴が変わり者なのじゃろう」
マリアは天井を見た。
息を吐く。
ゆっくり。
力を抜いた。
ひびの入った固定具が静かになる。
「……早くしろ」
「よいのか?」
「よくない」
「では」
「だから、やれ」
臓硯が笑った。
「よかろう」
◇
痛かった。
当然である。
麻酔は効いている。
それでも痛いものは痛かった。
「痛い」
「分かっておる」
「やめろ」
「それはできん」
「嫌だ」
「それも聞いた」
「外せ」
「それも聞いた」
「…………嫌いだ、お前」
「光栄じゃの」
時間の感覚が曖昧になる。
薬のせいか。
痛みのせいか。
あるいは両方。
臓硯は慎重だった。
不愉快なほど慎重だった。
出血を見る。
脈を取る。
意識を確認する。
必要なら術を施す。
決して、その先へは行かない。
「……殺す気はないのか」
「馬鹿を言え」
老人は手を止めない。
「死なれては困る」
「そうか」
「お主は死ねば逃げるのじゃろう?」
「逃げるつもりはない」
「結果として逃げる」
「まあ、そうだな」
「ならば死なせん」
マリアは顔を顰めた。
「それは困るな」
「お互い様じゃ」
血。
肉。
骨。
臓硯は調べる。
だが。
「……ない」
「何が」
「何もない」
「だから言っただろう」
「黙れ」
「はい」
異常な再生機構。
魂を固定する術式。
魔術刻印。
肉体情報を保存する機構。
ない。
どこにも。
「……では」
臓硯が考える。
「どこにある」
「知らん」
「お主に聞いておらん」
「そうか」
しばらくして。
臓硯が顔を上げた。
「調べ方が足りん」
「まだやるのか」
「ああ」
「長い」
「お主が妙な身体をしておるからじゃ」
「私のせいにするな」
◇
扉が開いた。
臭いがした。
“運ばれる”マリアの目が細くなる。
「…………」
昨日、この家へ入ったときから感じていたもの。
だが。
ここは濃すぎる。
「臓硯」
「なんじゃ」
「ここは嫌だ」
「まだ何も見ておらんぞ」
「臭いで分かる」
暗い。
湿っている。
そして。
動いている。
床に。
壁際に。
闇そのものが。
無数に。
「……蟲か」
「ああ」
「多いな」
「儂の工房じゃからの」
「帰っていいか?」
「その身体でかのう?それに、桜は?」
「…………」
「カカカッ」
「笑うな」
蟲が寄ってくる。
マリアは反射的に払おうとした。
何も動かなかった。
彼女に動かせる手足は無かった。
「…………」
「どうした?」
「見るな」
「何をじゃ」
「今のをだ」
「無茶を言う」
一匹が身体へ触れた。
ぞわり。
肩が跳ねる。
「……気持ち悪い」
「まだ一匹じゃぞ」
「数の問題ではない」
二匹。
三匹。
増える。
生き物の温度。
柔らかな腹。
湿った表面。
身体を縮めては伸ばしながら、少しずつ這ってくる。
「取れ」
「嫌じゃ」
「取れ」
「検査にならん」
「これのどこが検査だ」
「こやつらは優秀じゃぞ」
臓硯が杖を鳴らす。
「血を知る。魔力を知る。肉を知る。神経を知る。そして、宿主が生きている限り――」
さらに増える。
「宿主を生かそうとする」
マリアが臓硯を見る。
「食うのか」
「少しずつじゃ」
「嫌だ」
「安心せい」
「何を」
「死にはせん」
老人が笑った。
「お主は死ねば逃げる」
蟲が這う。
マリアの身体が強張る。
「ならば――死なぬように食えばよい」
「…………」
しばらくして。
「今日は酷い日だ」
マリアが言った。
◇
冷たい方が、まだよかった。
蟲は温かかった。
生きているからだ。
這う。
止まる。
身体を縮める。
また這う。
逃れようと身を捩れば、空いた場所へ別の一匹が入り込む。
「動くな」
「なら止めろ」
「それでは意味がない」
「……嫌いだ」
「それは先ほど聞いた」
「二度目だ」
「そうか」
痛みは遠い。
薬は確かに効いている。
なのに、触れられていることだけは分かる。
妙に鮮明に。
「……麻酔が効いてない」
「効いておる」
「なら、なんでこんなに分かる」
「痛覚と触覚は同じものではあるまい」
「…………」
「どうした」
「騙したな」
「二度目じゃな」
「覚えてろ」
「覚えておこう」
時間が経つ。
蟲が増える。
銀の髪。
顔。
首筋。
見えているものが、次第に少なくなっていく。
マリアは目を閉じなかった。
閉じると余計に分かる。
温度。
重み。
這う感触。
自分ではないものが、自分の輪郭に沿って動いていく感覚。
だから天井を見る。
「まだか」
「まだじゃ」
「長い」
「辛抱せい」
「嫌だ」
「子供か、お主は」
「嫌なものは嫌だ」
下腹部が重い。
呼吸をするたび、身体の内側でも何かが遅れて動く。
「…………」
マリアの眉が寄る。
「臓硯」
「なんじゃ」
「薬、本当に麻酔だけか」
「麻酔じゃよ」
「だけか、と聞いた」
「副作用があるとは言ったじゃろう」
「…………」
「身体が熱いか?」
「ああ」
「感覚も妙に鮮明か?」
「ああ」
「ならば効いておる。痛みは”別の感覚”に置き換わる故な」
「お前とは話が合わないな」
「奇遇じゃの」
しばらくして。
臓硯の視線が止まった。
「ほう」
「何だ」
「面白い」
「その言葉は嫌いだ」
マリアにも分かっていた。
下腹部が、先ほどまでとは違っている。
不自然に丸い。
何かを抱え込んだように。
「見るな」
「観察せずにどう調べる」
「そういう意味じゃない」
直後。
僅かに動いた。
自分ではない。
「――っ」
息が詰まる。
「…………」
「どうした?」
「今のは、嫌だ」
「胎内で場所を変えたのじゃろう」
「説明するな」
少し。
沈黙。
「臓硯」
「なんじゃ」
「桜も」
そこで一度、止まった。
「これを?」
「ああ」
短い答えだった。
「…………そうか」
それから。
マリアは、しばらく何も言わなかった。
◇
蟲は食べ続けた。
少しずつ。
身体の輪郭が失われていく。
それでも死なない。
死なせてもらえない。
臓硯は脈を測り続ける。
蟲が循環を補う。
失われたものを、別の何かで埋める。
人間の形だけが。
少しずつ。
なくなっていった。
やがて。
一匹が止まった。
「……?」
次に。
二匹。
三匹。
蟲が食べるのをやめる。
「なんじゃ?」
臓硯が眉を顰めた。
命令する。
動かない。
別の蟲を寄せる。
それも止まる。
黒い塊が。
ゆっくりと退いていった。
食い尽くしたのではない。
食べられない。
その先を。
蟲が避けている。
「…………」
臓硯が一歩、近づいた。
そして。
止まった。
そこに、人間の女はいなかった。
小さい。
あまりにも小さい。
濡れたような身体。
人の赤子とは似ても似つかない。
けれど。
どこか幼い。
小さな何かが。
蟲の海の中央にいた。
「……なんじゃ」
臓硯の声から、初めて余裕が消えた。
「それは」
小さなものが動く。
「私だ」
声だけは。
マリアだった。
◇
臓硯は調べた。
人の肉体を剥いだ。
その下にあったものを。
だが。
ない。
術式がない。
刻印もない。
死から帰還するための仕掛けなど、どこにもない。
「……夢」
臓硯が呟いた。
小さなものが動きを止める。
「お主は、夢から戻ると言ったな」
「やめろ」
臓硯が顔を上げた。
初めてだった。
マリアが。
調べること、そのものを止めたのは。
「そこから先は、やめた方がいい」
「何故じゃ」
「お前が危ない」
臓硯の目が細くなる。
肉ではない。
魂でもない。
この女を。
死の向こうから引き戻す何か。
その繋がり。
「触るな」
臓硯は手を伸ばした。
「見るな」
届く。
「――見られるぞ」
◇
蟲が止まった。
一匹ではない。
全部。
地下を埋め尽くしていた蟲が。
同時に。
止まった。
「……なんじゃ?」
臓硯が辺りを見る。
蟲たちは動かない。
ただ。
同じ方向を向いている。
上。
臓硯も。
上を見た。
天井がなかった。
「…………」
夜だった。
地下のはずなのに。
夜空。
星。
暗い。
あまりにも遠い。
そして。
その夜空に。
瞳があった。
「…………」
マリアが、小さく声を漏らす。
「……あ」
夜空の瞳が。
無意識に開く。
間桐臓硯は。
それを見た。
そして。
向こうも。
間桐臓硯を見た。
◇
冬木の夜に。
轟音が響いた。
間桐邸が。
内側から。
崩れた。
◇
その少し前。
ライダーは顔を上げていた。
地下。
何かが起きた。
いや。
いる。
それで正しいのかすら分からない。
けれど。
近づいてはいけない。
そう判断するまでに、時間はかからなかった。
「慎二」
「な、なんだよ」
返事を待たない。
強引に掴む。
「おい!?」
窓を破った。
「なにして――」
飛ぶ。
次の瞬間。
背後で屋敷が崩れた。
「――は?」
慎二の声だけが。
夜の住宅街に、間抜けに残った。
◇
「……先輩?」
衛宮邸。
桜が胸元へ手を置いた。
「どうした、桜」
「いえ」
士郎が振り返る。
「なんでも……」
そこで止まる。
違う。
何かが。
ない。
ずっと。
ずっと昔から。
自分の中にあったもの。
あって当然になっていたもの。
「…………」
「桜?」
「いない」
「え?」
「……いない」
それ以上。
桜は何も言わなかった。
◇
夜空が閉じた。
瞳も消えた。
そして。
崩れ落ちる屋敷の中に。
一人だけ残された。
死んではいない。
戻されたのでもない。
人が、残った。
◇
瓦礫が動いた。
「…………」
銀髪。
金糸の狩装束。
マリアが這い出した。
瓦礫を払い。
立ち上がる。
「……帽子」
探す。
あった。
少し潰れている。
叩く。
被る。
周囲を見る。
蟲。
いない。
瓦礫を蹴る。
いない。
土を見る。
いない。
目を閉じる。
あの臭いも。
もうない。
「…………」
その時。
頭の奥で。
ものすごく聞き覚えのある声がした。
『ああ、同志。よい目になってきたな』
「…………」
『「虫」を潰し、潰し、潰し、潰し、潰し――』
「うるさい」
静かになった。
マリアは帽子を深く被った。
しばらく。
瓦礫を見る。
「…………」
何かを忘れている。
かなり大事な。
今日。
自分は何をする予定だった。
間桐。
桜。
蟲。
その前。
「……買い物」
米。
鶏肉。
卵。
玉葱。
昨日使った分は補充した。
今日の夕飯は。
依頼された、買い足すべき食材は。
「…………」
ない。
「士郎に怒られる」
屋敷が一軒なくなったことより。
そちらの方が。
少しだけ憂鬱だった。
◇
間桐臓硯は。
目を覚ました。
「…………」
天井。
染みのある白い。
知らない天井だった。
身体を起こす。
軽い。
「……?」
手を見る。
皺がない。
指を曲げる。
軋まず動く。
皮膚がある。
肉がある。
血が流れている。
「…………」
顔に触れる。
頬。
顎。
鼻。
およそ老人のものではない。
鏡を探した。
あった。
そこに。
男がいた。
若い。
まだ。
理想を捨てるより前の。
まだ。
蟲になるより前の。
マキリ・ゾォルケンが。
「…………」
震える手で。
鏡に触れた。
「成功……したのか?」
窓の外で。
鐘が鳴った。
「…………?」
一度。
二度。
遠く。
獣の呻き声がした。
窓へ近づく。
知らない街。
知らない夜。
知らない月。
石畳。
古い建物。
煙。
そして。
どこかから。
また。
獣が吠えた。
「……ここは」
机の上に。
一枚の紙があった。
マキリはそれを取った。
文字を読む。
ただ。
それだけが。
そこに記されていた。
青ざめた血を求めよ
狩りを全うするために