時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)   作:アスタロット

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サブタイトルで察せる通りですが、控えめながらグロでエロです。苦手な方はご注意願います。


蟲蔵にいる、時計塔のマリアさん(偽)

 

 翌日。

 

 マリアは、また間桐邸の前にいた。

 

「…………」

 

 帰りたい。

 かなり帰りたい。

 

 昨日と同じ門。

 昨日と同じ古い屋敷。

 

 昨日と同じ、湿った土と古い血と、腐った臓物のような臭い。

 

 ただ。

 昨日より、その意味がよく分かる。

 

 桜の中にいたもの。

 

 あれと同じ臭いが、この家には染みついている。

 

「……仕方ない」

 

 門を押した。

 錆びた蝶番が鳴る。

 

 一歩。

 結界。

 

 二歩。

 視線。

 

 昨日と同じだ。

 

 マリアはそのまま玄関まで歩いた。

 呼び鈴に手を伸ばすより先に、扉が開く。

 

「来たか」

 

「ああ」

 

 間桐臓硯が立っていた。

 

「カカカッ。律儀なものじゃ」

 

「そうか?」

 

「逃げ出してもおかしくはないと思っておったがの」

 

「逃げる理由はない」

 

「そうか」

 

 老人が笑う。

 マリアはその顔を見てから、鼻を鳴らした。

 

「やっぱり臭いな」

 

「老人に向かって酷い言い草じゃ」

 

「そういう意味じゃない」

 

「分かっておるわ」

 

 臓硯が身体を退ける。

 

「入れ」

 

「ああ」

 

 マリアは屋敷へ入った。

 

     ◇

 

「腕を出せ」

 

「こうか」

 

「もう少し上じゃ」

 

「こう?」

 

「そうじゃ」

 

 袖を捲る。

 針が刺さった。

 

「痛い」

 

「この程度でか?」

 

「痛いものは痛い」

 

「死ぬことには慣れておるくせに」

 

「関係ないだろう」

 

「そういうものかの」

 

「そういうものだ」

 

 小瓶に血が溜まる。

 臓硯はそれを光に透かした。

 

 赤い。

 

 当たり前だった。

 何かが浮かぶわけでもない。

 

 術式に反応して変色することもない。

 

「普通じゃの」

 

「そうだろうな」

 

「お主が言うな」

 

 血。

 髪。

 皮膚。

 瞳孔。

 脈拍。

 呼吸。

 魔力への反応。

 簡単な術式。

 小さく切り取った組織。

 

 マリアの理解では、概ね健康診断だった。

 時計塔でも似たようなことをされたことがある。

 もっとも、あちらでは途中から担当者の顔がだんだん怖くなっていったが。

 

「魔術回路は?」

 

「知らん」

 

「本当に魔術師か、お主」

 

「一応」

 

「一応で魔術師を名乗るでない」

 

「時計塔では通ったぞ」

 

「時計塔も落ちたものじゃ」

 

「二世も似たようなことを言っていた」

 

 臓硯の眉が僅かに動く。

 

「ロード・エルメロイとかいう若造か?」

 

「ああ」

 

「……お主、本当に時計塔の人間なのじゃな」

 

「今さらか」

 

 また針。

 

「痛い」

 

「先ほども聞いた」

 

「二度刺されたからな」

 

「黙っておれ」

 

「はい」

 

 マリアは黙った。

 

 臓硯も、しばらく黙った。

 

 血を調べる。

 組織を見る。

 術式を変える。

 

 もう一度。

 そして。

 

「……分からん」

 

「何が」

 

「何もかもじゃ」

 

 小瓶を置く。

 

「死徒の類ならば、まだ分かる。肉体に異常があれば調べようもある。魂に細工があるならば、それもじゃ」

 

「うん」

 

「お主には、何もない」

 

「健康なんだな」

 

「そういう話ではない」

 

 臓硯が額を押さえた。

 

「お主、本当に死ぬのじゃな?」

 

「死ぬぞ」

 

「そして戻る、と」

 

「ああ」

 

「どうやって」

 

「知らない」

 

「どこから」

 

「夢」

 

「その夢とは何じゃ」

 

「夢は夢だ」

 

「…………」

 

「昨日も言っただろう」

 

 マリアは袖を戻した。

 

「私は知らない」

 

 臓硯は彼女を見た。

 長く。

 

「……ならば、もう少し詳しく調べよう」

 

「まだやるのか?」

 

「ああ」

 

「もう健康だと分かっただろう」

 

「健康診断をしておるのではない」

 

「違ったのか」

 

「…………」

 

 臓硯が一瞬、言葉を失った。

 

「お主のそれが解れば、儂とて今の方法に拘る理由はない」

 

 マリアの手が止まった。

 

「今の方法?」

 

「分かっておろう」

 

 蟲。

 桜。

 

「桜のも?」

 

「さて」

 

 臓硯は笑う。

 

「それは調べてみねば分からんの」

 

「…………」

 

「やめるか?」

 

 マリアは少し考えた。

 

「いや」

 

 袖を下ろす。

 

「続けよう」

 

「よいのか?」

 

「可能性はあるんだろう?」

 

「可能性ならばな」

 

「ならいい」

 

「カカカッ」

 

「何だ」

 

「いや」

 

 臓硯は立ち上がった。

 

「では、場所を変えるぞ」

 

     ◇

 

「飲め」

 

「何だ、これ」

 

「薬じゃ」

 

「見れば分かる」

 

 小さな杯。

 透明な液体。

 

 マリアは匂いを嗅いだ。

 

 薬草。

 

 それから、知らない何か。

 

「何の薬だ」

 

「麻酔じゃよ」

 

「いらない」

 

「痛いのは嫌なのじゃろう?」

 

「…………」

 

 少し考える。

 

「それはそうだな」

 

 一息に飲んだ。

 

「苦い」

 

「薬じゃからな」

 

「まずい」

 

「薬じゃからな」

 

「もう少しどうにかならなかったのか」

 

「菓子でも食べに来たつもりか?」

 

「それは違う」

 

 地下へ降りる。

 

 一階。

 地下。

 

 さらに奥。

 空気が湿っていく。

 

 途中から、マリアは眉を顰めた。

 

「……暑いな」

 

「そうかのう?ここは地下、むしろ涼しい筈じゃ」

 

「ああ」

 

 首元を少し緩める。

 

 妙だ。

 

 地下へ降りている。

 

 空気は冷たい。

 

 なのに身体だけが熱い。

 

 脈も少し速い。

 

「臓硯」

 

「なんじゃ」

 

「薬、本当に麻酔か?」

 

「そうじゃ」

 

「身体が熱い」

 

「副作用じゃよ」

 

「先に言え」

 

「聞かれなんだからの」

 

「…………」

 

 嫌な爺だ。

 

 地下の一室。

 中央に台があった。

 

 白い布。

 革の拘束具。

 金属製の器具。

 

 マリアは入口で止まる。

 

「…………」

 

 知っている。

 

 こういう部屋を。

 こういう台を。

 

“診療所”

“実験棟”

 

 妙な既視感。

 あまり良いものではない。

 

「どうした?」

 

「嫌いだ」

 

「何がじゃ」

 

「こういうの」

 

「経験があるのか?」

 

「ああ」

 

「何をされた」

 

「昔、負けた」

 

「それで?」

 

「実験材料にされた」

 

 臓硯が振り返る。

 

「誰に?」

 

「医者」

 

「その医者はどうなった?」

 

「…」

 

 マリアは台へ近づいた。

 白い布を指で触る。

 

 清潔だった。

 それが余計に嫌だった。

 

「寝ればいいのか」

 

「ああ」

 

 帽子を脱ぐ。

 上着も外す。

 

 言われるまま、仰向けになる。

 

「腕を固定するぞ」

 

「動かないぞ」

 

「念のためじゃ」

 

「そうか」

 

 分厚い革が手首を締める。

 足首も。

 身体にも一本。

 

「きつい」

 

「緩ければ意味があるまい」

 

「それもそうだな」

 

 この時点では。

 

 まだ。

 

 そう思っていた。

 

     ◇

 

 金属音がした。

 

 マリアが横を見る。

 

 臓硯が器具を並べている。

 

 針。

 刃。

 鉗子。

 鋸。

 

「…………」

 

 もう一度見る。

 

 鋸。

 

「待て」

 

「なんじゃ」

 

「それは何だ」

 

「見れば分かるじゃろう」

 

「分かるから聞いている」

 

 臓硯が刃を取った。

 

「より詳しく調べる」

 

「外せ」

 

「何故じゃ」

 

「そこまでは許していない」

 

「許しておらん?」

 

「切って調べるとは聞いていない」

 

「カカカッ」

 

「何がおかしい」

 

「嘘はついとらん」

 

 臓硯は笑った。

 

「儂はお主を調べたいと言った」

 

「…………」

 

「どう調べるかなど、一言も言っとらん」

 

 老人の指が拘束具を叩く。

 

「それに――」

 

 笑みが深くなる。

 

「“拘束せぬ”とも言わんかったじゃろう?」

 

 数秒。

 

 マリアは臓硯を見た。

 

「……騙したな」

 

「お主が勝手に思い込んだのじゃ」

 

「そうか」

 

 ぎしり。

 

 台が鳴った。

 

 臓硯の笑みが消える。

 

 ぎし。

 

 ぎしり。

 

 革が引き伸ばされる。

 金属の留め具が曲がる。

 

「なるほど」

 

 臓硯が呟いた。

 

「薬を入れてなお、これか」

 

「外せ」

 

「断る」

 

「なら壊す」

 

 ばき、と。

 

 右手側の固定具に亀裂が入った。

 

「待て」

 

「嫌だ」

 

「桜はどうする」

 

 止まった。

 

 ほんの一瞬で。

 

 軋んでいた台も。

 

 引き千切られかけていた革も。

 

 マリアの身体も。

 

 全部が止まった。

 

「…………」

 

「帰るのは自由じゃ」

 

 臓硯が言う。

 

「儂は追わん」

 

「…………」

 

「ただ、何も分からぬままならば、何も変わらん」

 

「卑怯だな」

 

「魔術師じゃからの」

 

「魔術師は皆そうなのか?」

 

「さてな」

 

「二世は違うぞ」

 

「ならば奴が変わり者なのじゃろう」

 

 マリアは天井を見た。

 

 息を吐く。

 

 ゆっくり。

 

 力を抜いた。

 

 ひびの入った固定具が静かになる。

 

「……早くしろ」

 

「よいのか?」

 

「よくない」

 

「では」

 

「だから、やれ」

 

 臓硯が笑った。

 

「よかろう」

 

     ◇

 

 痛かった。

 

 当然である。

 

 麻酔は効いている。

 

 それでも痛いものは痛かった。

 

「痛い」

 

「分かっておる」

 

「やめろ」

 

「それはできん」

 

「嫌だ」

 

「それも聞いた」

 

「外せ」

 

「それも聞いた」

 

「…………嫌いだ、お前」

 

「光栄じゃの」

 

 時間の感覚が曖昧になる。

 

 薬のせいか。

 

 痛みのせいか。

 

 あるいは両方。

 

 臓硯は慎重だった。

 

 不愉快なほど慎重だった。

 

 出血を見る。

 

 脈を取る。

 

 意識を確認する。

 

 必要なら術を施す。

 

 決して、その先へは行かない。

 

「……殺す気はないのか」

 

「馬鹿を言え」

 

 老人は手を止めない。

 

「死なれては困る」

 

「そうか」

 

「お主は死ねば逃げるのじゃろう?」

 

「逃げるつもりはない」

 

「結果として逃げる」

 

「まあ、そうだな」

 

「ならば死なせん」

 

 マリアは顔を顰めた。

 

「それは困るな」

 

「お互い様じゃ」

 

 血。

 

 肉。

 

 骨。

 

 臓硯は調べる。

 

 だが。

 

「……ない」

 

「何が」

 

「何もない」

 

「だから言っただろう」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

 異常な再生機構。

 

 魂を固定する術式。

 

 魔術刻印。

 

 肉体情報を保存する機構。

 

 ない。

 

 どこにも。

 

「……では」

 

 臓硯が考える。

 

「どこにある」

 

「知らん」

 

「お主に聞いておらん」

 

「そうか」

 

 しばらくして。

 

 臓硯が顔を上げた。

 

「調べ方が足りん」

 

「まだやるのか」

 

「ああ」

 

「長い」

 

「お主が妙な身体をしておるからじゃ」

 

「私のせいにするな」

 

     ◇

 

 扉が開いた。

 

 臭いがした。

 

 “運ばれる”マリアの目が細くなる。

 

「…………」

 

 昨日、この家へ入ったときから感じていたもの。

 

 だが。

 

 ここは濃すぎる。

 

「臓硯」

 

「なんじゃ」

 

「ここは嫌だ」

 

「まだ何も見ておらんぞ」

 

「臭いで分かる」

 

 暗い。

 

 湿っている。

 

 そして。

 

 動いている。

 

 床に。

 

 壁際に。

 

 闇そのものが。

 

 無数に。

 

「……蟲か」

 

「ああ」

 

「多いな」

 

「儂の工房じゃからの」

 

「帰っていいか?」

 

「その身体でかのう?それに、桜は?」

 

「…………」

 

「カカカッ」

 

「笑うな」

 

 蟲が寄ってくる。

 

 マリアは反射的に払おうとした。

 何も動かなかった。

 彼女に動かせる手足は無かった。

 

「…………」

 

「どうした?」

 

「見るな」

 

「何をじゃ」

 

「今のをだ」

 

「無茶を言う」

 

 一匹が身体へ触れた。

 

 ぞわり。

 

 肩が跳ねる。

 

「……気持ち悪い」

 

「まだ一匹じゃぞ」

 

「数の問題ではない」

 

 二匹。

 

 三匹。

 

 増える。

 

 生き物の温度。

 

 柔らかな腹。

 

 湿った表面。

 

 身体を縮めては伸ばしながら、少しずつ這ってくる。

 

「取れ」

 

「嫌じゃ」

 

「取れ」

 

「検査にならん」

 

「これのどこが検査だ」

 

「こやつらは優秀じゃぞ」

 

 臓硯が杖を鳴らす。

 

「血を知る。魔力を知る。肉を知る。神経を知る。そして、宿主が生きている限り――」

 

 さらに増える。

 

「宿主を生かそうとする」

 

 マリアが臓硯を見る。

 

「食うのか」

 

「少しずつじゃ」

 

「嫌だ」

 

「安心せい」

 

「何を」

 

「死にはせん」

 

 老人が笑った。

 

「お主は死ねば逃げる」

 

 蟲が這う。

 

 マリアの身体が強張る。

 

「ならば――死なぬように食えばよい」

 

「…………」

 

 しばらくして。

 

「今日は酷い日だ」

 

 マリアが言った。

 

     ◇

 

 冷たい方が、まだよかった。

 

 蟲は温かかった。

 

 生きているからだ。

 

 這う。

 

 止まる。

 

 身体を縮める。

 

 また這う。

 

 逃れようと身を捩れば、空いた場所へ別の一匹が入り込む。

 

「動くな」

 

「なら止めろ」

 

「それでは意味がない」

 

「……嫌いだ」

 

「それは先ほど聞いた」

 

「二度目だ」

 

「そうか」

 

 痛みは遠い。

 

 薬は確かに効いている。

 

 なのに、触れられていることだけは分かる。

 

 妙に鮮明に。

 

「……麻酔が効いてない」

 

「効いておる」

 

「なら、なんでこんなに分かる」

 

「痛覚と触覚は同じものではあるまい」

 

「…………」

 

「どうした」

 

「騙したな」

 

「二度目じゃな」

 

「覚えてろ」

 

「覚えておこう」

 

 時間が経つ。

 

 蟲が増える。

 

 銀の髪。

 

 顔。

 

 首筋。

 

 見えているものが、次第に少なくなっていく。

 

 マリアは目を閉じなかった。

 

 閉じると余計に分かる。

 

 温度。

 

 重み。

 

 這う感触。

 

 自分ではないものが、自分の輪郭に沿って動いていく感覚。

 

 だから天井を見る。

 

「まだか」

 

「まだじゃ」

 

「長い」

 

「辛抱せい」

 

「嫌だ」

 

「子供か、お主は」

 

「嫌なものは嫌だ」

 

 下腹部が重い。

 

 呼吸をするたび、身体の内側でも何かが遅れて動く。

 

「…………」

 

 マリアの眉が寄る。

 

「臓硯」

 

「なんじゃ」

 

「薬、本当に麻酔だけか」

 

「麻酔じゃよ」

 

「だけか、と聞いた」

 

「副作用があるとは言ったじゃろう」

 

「…………」

 

「身体が熱いか?」

 

「ああ」

 

「感覚も妙に鮮明か?」

 

「ああ」

 

「ならば効いておる。痛みは”別の感覚”に置き換わる故な」

 

「お前とは話が合わないな」

 

「奇遇じゃの」

 

 しばらくして。

 

 臓硯の視線が止まった。

 

「ほう」

 

「何だ」

 

「面白い」

 

「その言葉は嫌いだ」

 

 マリアにも分かっていた。

 

 下腹部が、先ほどまでとは違っている。

 

 不自然に丸い。

 

 何かを抱え込んだように。

 

「見るな」

 

「観察せずにどう調べる」

 

「そういう意味じゃない」

 

 直後。

 

 僅かに動いた。

 

 自分ではない。

 

「――っ」

 

 息が詰まる。

 

「…………」

 

「どうした?」

 

「今のは、嫌だ」

 

「胎内で場所を変えたのじゃろう」

 

「説明するな」

 

 少し。

 

 沈黙。

 

「臓硯」

 

「なんじゃ」

 

「桜も」

 

 そこで一度、止まった。

 

「これを?」

 

「ああ」

 

 短い答えだった。

 

「…………そうか」

 

 それから。

 

 マリアは、しばらく何も言わなかった。

 

     ◇

 

 蟲は食べ続けた。

 

 少しずつ。

 

 身体の輪郭が失われていく。

 

 それでも死なない。

 

 死なせてもらえない。

 

 臓硯は脈を測り続ける。

 

 蟲が循環を補う。

 

 失われたものを、別の何かで埋める。

 

 人間の形だけが。

 

 少しずつ。

 

 なくなっていった。

 

 やがて。

 

 一匹が止まった。

 

「……?」

 

 次に。

 

 二匹。

 

 三匹。

 

 蟲が食べるのをやめる。

 

「なんじゃ?」

 

 臓硯が眉を顰めた。

 

 命令する。

 

 動かない。

 

 別の蟲を寄せる。

 

 それも止まる。

 

 黒い塊が。

 

 ゆっくりと退いていった。

 

 食い尽くしたのではない。

 

 食べられない。

 

 その先を。

 

 蟲が避けている。

 

「…………」

 

 臓硯が一歩、近づいた。

 

 そして。

 

 止まった。

 

 そこに、人間の女はいなかった。

 

 小さい。

 

 あまりにも小さい。

 

 濡れたような身体。

 

 人の赤子とは似ても似つかない。

 

 けれど。

 

 どこか幼い。

 

 小さな何かが。

 

 蟲の海の中央にいた。

 

「……なんじゃ」

 

 臓硯の声から、初めて余裕が消えた。

 

「それは」

 

 小さなものが動く。

 

「私だ」

 

 声だけは。

 

 マリアだった。

 

     ◇

 

 臓硯は調べた。

 

 人の肉体を剥いだ。

 

 その下にあったものを。

 

 だが。

 

 ない。

 

 術式がない。

 

 刻印もない。

 

 死から帰還するための仕掛けなど、どこにもない。

 

「……夢」

 

 臓硯が呟いた。

 

 小さなものが動きを止める。

 

「お主は、夢から戻ると言ったな」

 

「やめろ」

 

 臓硯が顔を上げた。

 

 初めてだった。

 

 マリアが。

 

 調べること、そのものを止めたのは。

 

「そこから先は、やめた方がいい」

 

「何故じゃ」

 

「お前が危ない」

 

 臓硯の目が細くなる。

 

 肉ではない。

 

 魂でもない。

 

 この女を。

 

 死の向こうから引き戻す何か。

 

 その繋がり。

 

「触るな」

 

 臓硯は手を伸ばした。

 

「見るな」

 

 届く。

 

「――見られるぞ」

 

     ◇

 

 蟲が止まった。

 

 一匹ではない。

 

 全部。

 

 地下を埋め尽くしていた蟲が。

 

 同時に。

 

 止まった。

 

「……なんじゃ?」

 

 臓硯が辺りを見る。

 

 蟲たちは動かない。

 

 ただ。

 

 同じ方向を向いている。

 

 上。

 

 臓硯も。

 

 上を見た。

 

 天井がなかった。

 

「…………」

 

 夜だった。

 

 地下のはずなのに。

 

 夜空。

 

 星。

 

 暗い。

 

 あまりにも遠い。

 

 そして。

 

 その夜空に。

 

 瞳があった。

 

「…………」

 

 マリアが、小さく声を漏らす。

 

「……あ」

 

 夜空の瞳が。

 

 無意識に開く。

 

 間桐臓硯は。

 

 それを見た。

 

 そして。

 

 向こうも。

 

 間桐臓硯を見た。

 

     ◇

 

 冬木の夜に。

 

 轟音が響いた。

 

 間桐邸が。

 

 内側から。

 

 崩れた。

 

     ◇

 

 その少し前。

 

 ライダーは顔を上げていた。

 

 地下。

 何かが起きた。

 

 いや。

 いる。

 

 それで正しいのかすら分からない。

 

 けれど。

 近づいてはいけない。

 

 そう判断するまでに、時間はかからなかった。

 

「慎二」

 

「な、なんだよ」

 

 返事を待たない。

 強引に掴む。

 

「おい!?」

 

 窓を破った。

 

「なにして――」

 

 飛ぶ。

 

 次の瞬間。

 

 背後で屋敷が崩れた。

 

「――は?」

 

 慎二の声だけが。

 

 夜の住宅街に、間抜けに残った。

 

     ◇

 

「……先輩?」

 

 衛宮邸。

 

 桜が胸元へ手を置いた。

 

「どうした、桜」

 

「いえ」

 

 士郎が振り返る。

 

「なんでも……」

 

 そこで止まる。

 

 違う。

 

 何かが。

 

 ない。

 

 ずっと。

 

 ずっと昔から。

 

 自分の中にあったもの。

 

 あって当然になっていたもの。

 

「…………」

 

「桜?」

 

「いない」

 

「え?」

 

「……いない」

 

 それ以上。

 

 桜は何も言わなかった。

 

     ◇

 

 夜空が閉じた。

 

 瞳も消えた。

 

 そして。

 

 崩れ落ちる屋敷の中に。

 

 一人だけ残された。

 

 死んではいない。

 

 戻されたのでもない。

 

 人が、残った。

 

     ◇

 

 瓦礫が動いた。

 

「…………」

 

 銀髪。

 

 金糸の狩装束。

 

 マリアが這い出した。

 

 瓦礫を払い。

 

 立ち上がる。

 

「……帽子」

 

 探す。

 

 あった。

 

 少し潰れている。

 

 叩く。

 

 被る。

 

 周囲を見る。

 

 蟲。

 

 いない。

 

 瓦礫を蹴る。

 

 いない。

 

 土を見る。

 

 いない。

 

 目を閉じる。

 

 あの臭いも。

 

 もうない。

 

「…………」

 

 その時。

 

 頭の奥で。

 

 ものすごく聞き覚えのある声がした。

 

『ああ、同志。よい目になってきたな』

 

「…………」

 

『「虫」を潰し、潰し、潰し、潰し、潰し――』

 

「うるさい」

 

 静かになった。

 

 マリアは帽子を深く被った。

 

 しばらく。

 

 瓦礫を見る。

 

「…………」

 

 何かを忘れている。

 

 かなり大事な。

 

 今日。

 

 自分は何をする予定だった。

 

 間桐。

 

 桜。

 

 蟲。

 

 その前。

 

「……買い物」

 

 米。

 

 鶏肉。

 

 卵。

 

 玉葱。

 

 昨日使った分は補充した。

 

 今日の夕飯は。

 依頼された、買い足すべき食材は。

 

「…………」

 

 ない。

 

「士郎に怒られる」

 

 屋敷が一軒なくなったことより。

 

 そちらの方が。

 

 少しだけ憂鬱だった。

 

     ◇

 

 間桐臓硯は。

 

 目を覚ました。

 

「…………」

 

 天井。

 

 染みのある白い。

 知らない天井だった。

 

 身体を起こす。

 軽い。

 

「……?」

 

 手を見る。

 皺がない。

 

 指を曲げる。

 軋まず動く。

 

 皮膚がある。

 肉がある。

 血が流れている。

 

「…………」

 

 顔に触れる。

 

 頬。

 顎。

 鼻。

 

 およそ老人のものではない。

 

 鏡を探した。

 

 あった。

 

 そこに。

 

 男がいた。

 

 若い。

 

 まだ。

 

 理想を捨てるより前の。

 

 まだ。

 

 蟲になるより前の。

 

 マキリ・ゾォルケンが。

 

「…………」

 

 震える手で。

 

 鏡に触れた。

 

「成功……したのか?」

 

 窓の外で。

 

 鐘が鳴った。

 

「…………?」

 

 一度。

 

 二度。

 

 遠く。

 

 獣の呻き声がした。

 

 窓へ近づく。

 

 知らない街。

 

 知らない夜。

 

 知らない月。

 

 石畳。

 

 古い建物。

 

 煙。

 

 そして。

 

 どこかから。

 

 また。

 

 獣が吠えた。

 

「……ここは」

 

 机の上に。

 

 一枚の紙があった。

 

 マキリはそれを取った。

 

 文字を読む。

 

 ただ。

 

 それだけが。

 

 そこに記されていた。

 

 

青ざめた血を求めよ

 

狩りを全うするために

 

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