時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)   作:アスタロット

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蟲蔵にいる、時計塔のマリアさん(偽)

 

翌日、マリアはまた間桐邸を訪れていた。

 

「しかし、儂が言うのもなんじゃが、身体を調べたいだけなら時計塔でいくらでもできたじゃろう。設備も術者も、儂一人より余程揃っておる」

 

「それはそう。だが、一つの石で鳥を何かする、というアレだ」

 

「………一石二鳥か?」

 

「そう、それだ。私も自分の身体について知ってみたいし、貴公も調べたい。それで上手くいけば、桜にいる蟲もなんとかなるかもしれないんだろ?」

 

微妙に違ったコトワザを訂正されても、マリアは特に気にしなかった。

 

時計塔で調べるという選択肢がないわけではない。

しかし、封印指定執行者でありながら魔術回路を持たず、死んでも戻ってくる身体を時計塔へ差し出せば、検査だけで話が済む保証もない。

その点、臓硯なら既に事情の一端を知っているうえ、桜の中にいる蟲の持ち主でもある。

一度で二つ片付くなら、その方がいい。

 

「そこまで桜を気に入りおったか」

 

臓硯はしばらくマリアを眺めてから訊いた。

 

「気に入ってるぞ。それに、あれのせいで臭うんだろ?桜は随分嫌がってたからな。取れるなら取ってやれ」

 

特段に悲壮な理由ではなかった。

 

マリアは刻印蟲が桜に何をしてきたのか知らない。

何のために植えられ、魔術的にどんな役割を持ち、少女の身体へ何をしているのかも詳しくは知らない。

ただ、自分には臭う。

そして桜は、自分が臭うと思われることを嫌がった。

 

何より、士郎にそう思われることを酷く嫌がった。

 

昨日の食卓で「先輩は近づかないでください!」と叫んだ時の顔を思い出せば、それだけでも取り除けるものなら取り除いてやろう、くらいにはマリアは思う。

 

「随分と雑な善意じゃな」

 

「駄目か?」

 

「いや、お主らしいとは思うがの。ただし、桜の蟲をどうするかは儂が得られる結果次第じゃ。何も分からぬまま要求だけ呑めと言われても困る」

 

「分かった。なら好きに調べろ」

 

それで取引は成立した。

とはいえ間桐の老魔術師は、桜から蟲を取り除く事など、微塵も考えていなかったが。

 

◇

 

最初に行われたのは、拍子抜けするほど普通の検査だった。

 

血を採り、髪や皮膚の一部を調べ、瞳を覗き、脈を測る。

魔術的な反応も一通り試され、必要になれば服も脱いだ。

マリアにとっては医者に診せるのと大差なく、恥じらう理由もない。

 

むしろ困っていたのは臓硯の方だった。

一通り調べ終えたところで、老人は何度目かになる確認を済ませ、眉間の皺を更に深くした。

 

「ふむ……本当にないのう」

 

「無いって、何がだ?」

 

「魔術回路に決まっとるじゃろ。昨日聞いてはいたが、時計塔の封印指定執行者で、講師までしておる女に一本もない。そうなると、実際に確かめても納得しづらい」

 

「一応、狩人の方が本職だ。魔術師は、入塔した時に勝手に付いてきた肩書きだ」

 

「その一応でよく時計塔に居座れるものじゃな」

 

それからも検査は続いた。

 

一時間ほど経った頃には、分かることだけなら随分増えていた。

肉体は異常に強靱で、傷の治癒も人間の範疇から外れている。

しかし、それはあくまで生きている肉体の性質であって、死者が帰ってくる理由にはならない。

 

魔術回路は存在しない。

肉体情報を保存している術式もなく、魂を別の器へ移している痕跡も見つからない。

少なくとも臓硯が知る転生や憑依の術式とは違い、時間遡行を疑ってみても、マリアが死んだ後まで周囲の出来事が継続する以上、世界そのものを巻き戻しているわけでもない。

 

分かることが増えるほど、肝心な部分だけが空白のまま残った。

 

とうとう臓硯は道具を置いた。

 

「ないのう。これだけ調べても、お主が死んだ後に戻ってくる仕掛けだけが見つからん。死んで、夢へ行き、灯とやらを経て戻る――お主が知っておるのは本当にそれだけか?」

 

「それだけだ」

 

「その夢とやらがお主を保存しておる可能性は?夢にいるお主と、ここにいるお主は同じものなのか。戻る時には肉体が再生されるのか、それとも別に作り直されておるのか」

 

「正直、あんまり分かってない」

 

臓硯の眉間の皺が一本増えた。

 

「……お主のぅ、本当に何も分かっとらんな」

 

「だから調べてもらいに来た」

 

それを言われると、その通りだった。

 

外から調べられるものは一通り調べた。

それでも分からないなら、同じ検査を繰り返したところで答えは出ない。

臓硯はしばらく考えた末、杖を取って立ち上がった。

 

「ならば試しに、ちと内側を見てみるかのう…」

 

◇

 

間桐家の最奥にして、禁忌の修練場。

臓硯は、もはや隠す気もない。

案内されたその地下には、無数の蟲がいた。

 

床を這い、壁際で蠢き、床を埋め尽くす。

丸く肥えた幼虫めいたものから、マリアにも用途の分からない異形まで、その姿は様々だった。

 

臭いの正体を目の前に並べられて、マリアは納得した。

 

「臭いな、それにとても臭い」

 

「皆まで言うな。それに、それは昨日から何度も聞いておるわ」

 

マリアはしゃがみ込み、近くを這っていた一匹を眺めた。

白っぽく丸い身体をくねらせる、少し珍しい形をした蟲だった。

 

「コレ、もらって良いか?」

 

臓硯が黙ったので、マリアは顔を上げる。

 

「おい、聞いてるか?」

 

「…儂が言うのもじゃが、こんなもん貰ってどうするのじゃ。張形代わりにして自慰でもするかの?」

 

「いや、別に。珍しいからな。二世への土産にしようかと。ダメか?」

 

「……さてはお主、アホじゃな」

 

「アホじゃない。で、貰って良いか?臭うけど、よく見るとカワイイし。良いだろ、ポケットに一匹くらい」

 

「この蟲は術の核心ぞ。駄目に決まっとるじゃろ。まったく、こんな戯言を言う輩は初めてじゃわい」

 

褒められてはいないらしい。

マリアが蟲を諦めて立ち上がると、臓硯は蟲蔵の奥を示した。

 

「今度は、こやつらを使う。お主の身体へ直接入れ、外からでは届かぬ場所を調べさせる」

 

「どうやって?」

 

今度は説明があった。

 

刻印蟲を体内へ入れる。

口や鼻、耳、必要ならばその他の経路も使い、人間の手や通常の術式では届きにくい場所へ生きた蟲を這わせ、組織や臓器、神経の状態を内側から直接探らせる。

場合によっては組織を喰わせることもあり、当然ながら痛みも伴う。

 

最後まで聞いてから、マリアは台と蟲を順番に見た。

 

「なるほど」

 

「帰るなら今じゃぞ。始めてから嫌になったと言われても面倒じゃからな。先に聞いておく」

 

「構わない。ただ、気をつけろよ」

 

「ほう…何にじゃ?」

 

「知らない」

 

「……知らんのか」

 

「私も自分がどうなってるのか全部知ってるわけじゃないからな。何が起きても知らんぞ」

 

臓硯は数秒、マリアを見た。

 

「それを今から調べるのじゃろうが」

 

「そうだった」

 

「本当に大丈夫か、お主」

 

「…多分」

 

信用ならない返事だった。

臓硯は小さな杯を差し出した。

透明な液体が入っている。

マリアは受け取ると、いつものようにまず匂いを嗅いだ。

 

「麻酔か?」

 

「そうじゃ。眠っておった方が楽じゃろう。蟲が神経に触れれば、いくらお主でも気持ちのよいものではあるまい。そう言った趣味があるならば、別じゃがな」

 

「ん、寝る方でいい」

 

一息で飲んで、すぐに顔を顰める。

 

「まずい…シロップにして欲しかった」

 

「薬に甘味を求めるな」

 

蟲蔵に自ら入り横になったものの、すぐには何も起きなかったが、しばらくした所で声が少し遠くなった。

 

天井がぼやける。

瞬きを一つ、もう一つ。

急速に重くなっていく瞼に逆らわず目を閉じかけたところで、マリアは何かを思い出したように口を開いた。

 

「……臓硯。桜の事…」

 

「分かっておる。まずは儂が満足するだけのものを見せてもらおう。それで得るものがあれば、約束についても考えてやる」

 

「…そうか」

 

それを最後に目を閉じ、ほどなくして寝息が聞こえ始めた。

 

臓硯は完全に意識が落ちたことを確認してから、蟲たちへ命じた。

 

◇

 

検査は、しばらく何事もなく進んだ。

 

蟲はマリアの身体へ侵入し、臓硯の指示に従って内部へ散っていく。

口から入ったものは喉を越え、鼻腔から入ったものは別の経路を探り、耳へ潜ったものは微細な振動を拾いながら奥へ進む。

外からでは触れられなかった場所を内側から探り、血管を避け、あるいは沿い、筋肉と臓器の隙間へ潜り込んでいった。

 

必要ならば組織を僅かに喰わせ、神経にも触れさせる。

 

普通の人間なら、とっくに検査という言葉では済まなくなっている。

 

だが、マリアの身体は耐えた。

傷つけば塞がり、喰われれば補い、血が失われても生命活動そのものは容易に揺らがない。

 

異常であり、非常に興味深くもある。

しかし、違う。

これらが臓硯が欲しい答えではない。

 

「しかし……これでは説明がつかんの」

 

いくら再生能力が高かろうと、死んでから戻る理由にはならない。

心臓が止まり、脳が死に、肉体そのものが失われても戻るというなら、身体の丈夫さだけを調べ続けても仕方がない。

 

ならば、さらに深く調べればいい。

 

臓硯は急いでいなかった。

数百年を生きた老人にとって、数時間など短いものだ。

分からないなら調べ、結果が出れば仮説を立て、外れれば別の場所を探る。

それを繰り返せばよい。

 

一方の調べられている本人は、ぐうぐうと呑気に眠っている。

聞こえるのは寝息だけだ。

 

そうして漸く。

やがて、一匹の蟲が止まった。

 

「……なんじゃ?」

 

命令を送っても動かない。

死んだわけではなく、別の蟲を寄せると、そちらも同じ場所で妙な反応を返した。

 

臓硯は眉を顰め、感覚を繋ぐ。

そこで初めて、濡れた石畳を見た。

 

「…………」

 

見えたのは蟲蔵の底ではない。

 

“夜”だった。

 

見覚えのない古い建物が並び、遠くでは鐘が鳴っている。

風には血の臭いが混じり、人の叫びに重なるようにして獣の声が響いた。

 

臓硯はその接続を切らなかった。

 

身体を調べていた蟲が、突然、存在しない街を見せたのである。

ならば何が起きているのかを確かめるのは当然だったし、ここで止めれば異常を発見した意味すらない。

 

魔術師としては、至極まともな判断だった。

 

“あと少し、もう少しだけ”

 

老人は蟲を進ませた。

 

◇

 

はじめ、”夜の街”は死の意味を変えた。

 

臓硯はそこで、獣を狩る女を見た。血に濡れ、傷つき、それでも進む。

武器を振るい、銃を撃ち、獣を殺し、時には人だったものまで殺した。

そして、女も死んだ。

集団に嬲られ、爪に裂かれ、巨大な腕に叩き潰された。

どれも見間違えようのない死であり、少なくとも人間なら、その先などあるはずがない。

ところが次に臓硯が見た時、女は灯の傍に立っていた。

 

「……なるほど。昨日聞いた時には俄には信じ難かったが、本当に死そのものが終わりになっておらんのか」

 

蟲蔵で、老人の口元が歪んだ。

言葉で聞くのと、自ら見るのとでは違う。

死んで戻る。

その事実を、自分自身の感覚で確かめた。

ならば、この景色には何かある。

もっと見れば仕組みが分かるかもしれないし、この街に答えがないのなら、女が辿った先にあるかもしれない。

 

だから景色を先に進めた。

 

 

つぎに見たのは、”古い学び舎”だった。

地下から得たものを研究し、血を知り、瞳を求めた者たち。

人間には見えないものがあり、人間には届かない場所があるのなら、認識そのものを変えればいい。

人のままでは届かぬものへ、人の側から手を伸ばそうとした者たちがいた。

 

臓硯が求めてきたのは、生きることだった。

 

死なないことだった。

 

だが、ここにはその先を求めた者がいる。

 

人間そのものを超える。

そんな可能性があるなら、確かめる価値がある。

 

 

そして三つ目の”廃城”。

そこは、老人が長年求め続けたものを、あまりにも容易く見せてしまった。

雪に閉ざされた廃城。

滅びた血族と、その女王。

肉体を破壊されても、それで終わらない。

人から生まれながら、人の死に方から外れた存在。

 

「……あるではないか」

 

老人が呟いた。

何百年も腐る肉体を蟲で繋ぎ、魂を磨耗させ、それでも手放せなかったもの。

 

死なない、終わらない。

 

ただそれだけが望みなら、ここで十分だった。

 

“三つ目で終わっていれば良かったのに”、と誰かが言った。

けれども老人は、そこで思ってしまった。

 

――では、その先は?

 

◇

 

“隠された街”では、思想が実践へ移されていた。

 

人が集められ、鐘が鳴り、祈りと儀式が繰り返されている。その中心にあるのは人間そのものであり、上位の存在へ触れるためならば、己と同じ人間さえ材料として使う者たちがいた。

 

学舎で考えられていたことを、別の者たちは実際に試している。

 

ならば結果がある。

 

臓硯はそれを追い、さらに先へ進んだ。

 

“悪夢”

 

そこでは肉体と存在が、既に同じものではなかった。

現実にある身体がどうなろうと、意識は別の場所に存在している。

夢という一語で片付けるには、そこはあまりにも具体的だった。

石造りの建物があり、生き物が歩き、人が存在し、苦痛さえある。

現実と呼んでいた場所から離れてなお、存在は続いている。

 

「カカ……なるほどの。儂は随分と狭いところに拘っておったらしい」

 

小さな笑いが漏れた。

蟲で腐肉を繋ぐ。

 

そんなものに、いつまで拘る必要がある?

 

肉体が腐るなら、肉体でなくなればよい。自分が自分であり続けるのなら、器が人の肉である必要など最初からなかったのではないか。

 

少なくとも、その時の臓硯には簡単な話に思えた。

 

その先には、また別の悪夢があった。

 

 

“狩人の悪夢”

 

そこにも死んだはずの者たちがいる。

狩人も、獣も、聖職者たちも、死んでなお狩り、苦しみ、吠え続けていた。

 

終わらない。

確かに、終わってはいない。

 

ただし、それが救いであるかどうかは別の話である。

むしろ地獄と呼んだ方が近いだろう。

 

「存在し続ければよい、というほど単純でもないか。まあよい。失敗の形が分かるなら、それもまた得るものはある」

 

臓硯は止めなかった。

 

永遠に存在することが幸福とは限らない。

そんなことは分かるし、危険であることも分かる。

失敗すれば、今より酷い有様になるかもしれない。

 

それも分かる。

 

だが、危険だと知ることと、知りたくなくなることは違う。

 

まして、ここまで来れば次があることをもう知っている。

 

だからさらに進む。

 

 

“実験棟”

そこでは、人間そのものへ手が加えられていた。頭を膨らませ、脳液を求め、星へ近づこうとした者たち。肉体だけではない。認識を変え、在り方を変え、人という器そのものを別の何かへ作り替えようとしている。

 

その大半は、どう見ても失敗だった。

けれども、全てが失敗という訳でもなかった。

 

人は変わることはできる。

人は、人でなくなることができる。

それは幸福なのか、正義なのか。

そんな問いは、いつの間にか後ろへ追いやられていた。

 

どうやったらできるのか、できないのか。

今の臓硯には、そちらの方が重要だった。

 

さらに先へ。

 

◇

 

“漁村”

その悍ましき光景の向こう側に、海があった。

 

それまで見てきた場所とは、何もかもが違う。

潮の臭いが漂い、濡れた板の上には腐った魚が転がり、重く垂れ込めた空の下で波だけが寄せては引いている。

 

臓硯はそこで、人が何をしたのかを見た。

何を求め、何を傷つけ、そして何を持ち帰ったのか。

 

何かの死体。

その遺されたもの。

 

呪いと、悪夢。

 

長く辿ってきた道が、ここへ戻ってきた。

 

夜の街から始まり、学舎を経て教会へ繋がり、狩人たちを巻き込み、いくつもの悪夢を生んだもの。

その源へ辿り着いたところで、道は尽きた。

 

その先には、海しかない。

 

波が寄せては引き、また寄せる。

 

老人は、そこで止まった。

 

止まることができた。

 

マリアという女がどこを歩いてきたのか。

死んでもなお戻る狩人という存在。肉体の外にある世界と、死を越えて続く意識。

そして”青ざめた血”。

人を超えようとした者たちと、人でなくなる可能性。

 

知りたかったことは、とうに知っている。

 

何より、臓硯が何百年も求め続けてきたものだけなら、廃城にさえあった。

 

それでも海は、その先まで続いていた。

どこまで続くのかは分からない。

 

水平線のあなた、海のあなた。

あるいは、もっと遠い宇宙の彼方。

 

それらが同じものなのか、まったく違うものなのかも分からない。

ただ、目の前で終わっているように見える世界の向こうに、まだ何かが続いているように思えた。

 

それだけで十分だった。

 

ここまで来たのだから、ではない。

 

答えが必要だからでもない。

 

何かを救うためでも、成すためでもない。

 

先がある。ならば見たい。

 

臓硯はさらに蟲へ意識を預けた。

それまで見てきたものより遠く、深く。

 

その先へ。

 

◇

 

何を見たのか。それは、分からない。

 

海だったのか、宇宙だったのか。

 

そのどちらでもなかったのか。

 

何かがあったのか、何もなかったのか。

そもそも老人が何をもって「見た」としたのかさえ分からない。

 

ただ、長い沈黙のあと。

 

蟲蔵にいる老人が、笑った。

 

「みえるぞ……儂にもみえるぞ」

 

夜だった。

 

臓硯の視界を、夜が覆っていた。

 

上を見たわけではない。

 

そもそも、上も下もなかった。

 

右を見ても、左を見ても、前にも後ろにも、見えるもの全てが夜空だった。

星があり、その向こうには暗闇があり、さらにその先は分からない。

 

老人の身体は蟲蔵から一歩も動いていない。

それでも視界だけが三百六十度、どこまでも広がっていた。

 

「これが……これが、お主の視ていた景色か」

 

返事はない。

当然である。

マリアは寝ている。

 

呼吸は規則正しく、時折小さく胸が上下するだけだった。

蟲が一匹、口元から這い出して頬を横切り、髪の下へ消えていく。

別の蟲はまだ身体の奥を探り、その感覚を主人へ送り続けている。

 

この場で最も酷い目に遭っているはずの本人が、一番よく寝ていた。

 

そして。

 

その背後にも、星があった。

 

臓硯が見ている景色の中ではない。

 

眠るマリアの向こう、本来なら湿った石壁があるはずの場所にも夜があり、床の際にも天井の隅にも星が浮かんでいる。

 

いつからそうなっていたのかは分からない。

 

一条の光が走った。

 

暗い夜空を横切るそれは流星に似ていて、ひどく綺麗だった。

 

ただし、落ちなかった。

 

横へ飛んだ。

 

轟音と共に、地下室の壁が吹き飛んだ。

 

◇

 

屋敷の上階で、ライダーが顔を上げた。

 

最初の音だけなら地震と思ったかもしれない。

だが二度目の轟音は明らかに地下から響き、床を突き上げて棚の中身を揺らした。三度目には柱そのものが軋み、窓硝子へ細い亀裂が走る。

 

異常だと判断するには、それで十分だった。

 

ライダーは地下へ向かわなかった。

 

先に確保すべき人間がいる。

 

慎二の部屋へ入ると、本人もさすがに異変には気づいていた。

 

「な、なんだよ今の音――」

 

「慎二、出ます」

 

「は!? おい、待て! 何が起きて――お爺様はどうしたんだよ!」

 

「分かりません。ですが、この屋敷は危険です。今は貴方が先です」

 

腕を掴んだ直後、次の轟音で窓硝子が割れた。

 

さすがに慎二も、それ以上は逆らわなかった。

 

桜はいない、衛宮邸にいる。

 

ならば、ここから連れ出すべき人間は一人でいい。

 

ライダーが慎二を伴って屋敷を脱出した直後、二人の背後で地面が沈んだ。

 

◇

 

地下では、まだ夜だった。

 

流星に似た光は一つで終わらなかった。

 

一つは壁を穿ち、別の一つは床を砕き、また別の光は地下を支えていた柱を削り飛ばした。

上から下へ降るのではなく、横へ、斜めへ、時には地下室という空間では説明しづらい方向へ飛び交っていく。

 

夜空の方が、この場所の都合に合わせる理由などない。

 

それでも臓硯は気づかなかった。

 

老人の目は開いているが、目の前の蟲蔵など、もう見ていない。石壁が砕けても、床が割れても、天井から土砂が落ちても、その五感と意識は別の場所へ向けられたままだった。

 

何かを見ている。

何かを知ろうとしている。

何を見て、何を理解したのかは分からない。

 

ただ、臓硯は笑っていた。

 

「カカ……カカカッ……!」

 

蟲が蠢き、夜空が満ちる。

 

そのすぐ傍らでは、マリアが寝ている。

 

やがて一本の光が走り、地下を支えていた太い柱をまともに砕いた。

 

今までとは違う、長く嫌な音がした。

 

屋敷全体が軋み、地下の天井から大量の土が落ちる。

床へ走った亀裂が壁まで伸び、次の瞬間には地下室そのものが崩れ始めた。

 

その上にあった庭が沈み、地盤が落ち、基礎が割れる。

 

古い屋敷が傾いた。

それでも一瞬は耐えた。

 

長い年月を冬木で過ごした間桐の屋敷は、それなりに頑丈だったらしい。

 

だが、地下室に夜空を飼うことまでは、想定していなかった。

 

間桐邸が崩れた。

 

◇

 

どれほど経ったのか。

 

瓦礫の一角が動いた。

 

板がずれ、石が転がり、今度は下からまとめて押し上げられる。

できた隙間から手が出て、続いて頭と肩が現れた。

 

「…………」

 

マリアだった。

 

瓦礫の下から這い出て立ち上がり、頭を振ると、髪から大量の埃が落ちた。

 

周囲を見る。

 

屋敷がない、庭も半分ない。

 

さっきまで自分が寝ていた地下室に至っては、どこにあったのかさえ分かりにくい。

 

「……なんだ、これ」

 

寝て起きたら家がなくなっていた。

 

さすがに経験がない。

 

とりあえず自分の身体を確認する。右手も左手もあり、足も二本ある。動かしてみても問題はない。

服は酷い有様で、帽子はもっと酷いが、身体そのものには大した異常がなかった。

 

ならば次である。

 

「臓硯?おい、どこにいる」

 

返事はなかった。

 

マリアは瓦礫をいくつか越え、崩れた地下室の周辺を見回したが、老人の姿は見つからない。

 

そこで鼻を動かした。

 

「…………?」

 

臭いがない。

 

昨日から間桐邸のどこへ行っても感じていた、湿った土と古い血と腐った臓物。あれほど濃かった蟲の臭いが、綺麗に消えている。

 

臓硯の姿もない。

 

「どこ行ったんだ、あの爺さん」

 

もう少しだけ探した。

 

屋敷だった場所を歩き、瓦礫の隙間も覗く。

死体はなく、蟲もいない。

だからといって、臓硯が死んだとも言えない。

あの老人が普通の老人でないことくらい、マリアも知っている。

 

どうしたものかと考えていると、遠くからサイレンが聞こえた。

 

音は一つではない。

 

少しずつ近づいてくる。

 

マリアは崩壊した間桐邸を見て、次に自分を見た。

全身埃まみれで、ほぼ無傷。

その背後には原因不明で倒壊した旧家が一軒ある。

 

もうすぐ消防が来る。

救急も来る。

おそらく警察も来るし、近所の人間も集まるだろう。

 

そうなれば当然、説明を求められる。

 

「…………」

 

面倒だ。

 

臓硯は見つからず、死体もない。

今ここに残ったところで、できることもなさそうだった。

 

多少は心配してやった。多少は。

 

「まあ、あの爺さんなら簡単には死なんだろ。今度会ったら何があったか聞けばいい」

 

サイレンがさらに近づいてくる。

 

「帰ろう」

 

マリアは人が集まる前に、そそくさと間桐邸を離れた。

 

そのまま数分ほど歩いたところで、ふと足が止まる。

 

何か忘れている。

 

今日、家を出る前。

 

士郎、夕飯、買い物、頼まれたもの。

 

「あっ…………豆腐」

 

そうだった。

 

一丁。

 

マリアは進路を変え、商店街へ向かった。

 

 

◇

 

 

目を覚ますと、天井があった。

 

知らない天井だった。

 

白く、古い。薬品の臭いがする。

 

男はしばらくそれを見つめてから身体を起こし、その瞬間に違和感を覚えた。

 

軽い、あまりにも。

 

自分の手を見る。皺がない

。指を曲げても軋まず、薄い皮膚の下には肉があり、温かな血が流れている。

 

頬へ触れた。

 

そして顎、鼻、顔。

 

老人のものではない。

 

男は寝台から降り、薄暗い部屋の中を見回して鏡を探した。

壁際に置かれていたそれを見つけ、前に立つ。

 

そこにいたのは、若い男だった。

まだ蟲になるより前の。

長い年月に肉体を腐らせるより前の。

まだ、マキリ・ゾォルケンだった頃の男。

 

「…………」

 

震える手で鏡へ触れる。

 

「成功……したのか?」

 

“何が?”

 

その疑問だけが、妙に遠かった。

 

若い、それが嬉しい。

どうしようもなく嬉しい。

 

なのに、なぜ自分が若さを欲していたのか思い出せない。

 

何を恐れていたのか。

何を求めていたのか。

何のために。

 

「……儂は」

 

続きがない。

 

記憶を探る、名前は分かる、魔術も分かる。

遠い故郷のことも、まだ覚えている。

 

だが、その先に大きな穴があった。一つではない。

長い年月が、虫に食われた本のようにところどころ抜け落ちている。

 

窓の外で鐘が鳴った。

 

一度、二度。

 

マキリは振り返った。

知らない夜だった。

見覚えのない月が浮かび、その下には古い建物と石畳が続いている。

遠くから獣の呻き声が聞こえ、さらに遠くでは何かが吠えていた。

 

「ここは……」

 

答える者はいない。

ふと机を見ると、一枚の紙が置かれていた。

男はそれを手に取った。

書かれているのは、短い文章だけだった。

 

青ざめた血を求めよ。

 

狩りを全うするために。

 

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