間桐の家が崩落した同時刻、衛宮邸の居間では、桜が先ほどから胸元に手を置いていた。
「桜、本当に大丈夫か?」
「はい。痛いとか、苦しいとか、そういうのではないんです。ただ……変なんです」
「変?」
「何と言えばいいのか……」
士郎に何度目かの質問をされ、桜も何度目かの答えを返す。
顔色は悪くなく、むしろ良い。
呼吸も普段通りで、立ち上がって歩くこともできる。
少なくとも傍から見て分かるような体調不良はなく、だからこそ、本人にも説明しにくかった。
ずっと昔からそこにあり、彼女を蝕んでいた感覚が綺麗さっぱりと消えていたのは確かだった。
「遠坂。何か分からないか?」
「分からないわよ。私は医者じゃないし、本人にも説明できない感覚だけで判断できるわけないでしょう。ただ、痛みなし、息苦しさなし、意識もはっきりしてる。なら今すぐ無理に何かするより、変化がないか見ていた方がいいわ。何かあったらすぐ言いなさい。遠慮とかいらないから」
「……はい。ありがとうございます、遠坂先輩」
桜が小さく頭を下げる。
セイバーもその向かいから様子を見ていたが、凛の判断に異論はないらしい。
イリヤは何も言わずに桜を眺め、セラとリーゼリットまでいる居間は普段よりずっと人口密度が高い。
それなのに妙に静かなのは、全員が桜を気にしているからだった。
そんな空気を壊したのは、玄関の戸がガラガラと開く音だった。
“帰ったぞ”
士郎が顔を上げ、そのまま立ち上がって廊下へ出る。
「おかえ――」
途中で言葉が止まった。
玄関には、マリアがいた。
金糸の狩装束は土埃にまみれ、帽子も少し潰れている。
服のあちこちに細かな傷までついているが、本人には怪我らしい怪我が見当たらない。
「おいおい…また、何があったんだ?」
「待て、先に手を出せ」
「え?……こうか?」
何をするのかと思いながら士郎が両手を出すと、その上へマリアが持っていたビニール袋が下げられた
「頼まれた豆腐だ。買ってきたぞ」
ほんの少し、胸を張る。
士郎は袋を見て、マリアを見て、もう一度袋を見た。
「あ、ありがとう。助かったよ」
「ああ」
満足そうに頷く。
「それはそれとして、何があったんだよ!?」
「まぁ、色々だ。怪我はないぞ」
「色々あった人間の格好なのは見れば分かる!そういう問題じゃない!」
騒ぎを聞きつけたのか、居間から桜が顔を出した。
「先輩、マリアさん帰って――」
言葉が止まった。
「……マリアさん?おかえりなさい。あの……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ、問題ない。ただいま」
そう答えてから、マリアは桜を見た。
少し鼻から息を吸い、もう一度見る。
桜の表情が引きつった。何しろ昨日、この人には散々な目に遭わされている。
「マリアさん。まさか、また……」
「桜、ちょっと来い、こっちだ」
「え?」
マリアは士郎の横を通り過ぎ、そのまま廊下の奥へ歩いていった。
桜は戸惑いながら士郎を見る。
「俺も行った方がいいか?」
「士郎は来なくていい。桜の話だからだ」
それだけ言われてしまえば、士郎もついてはいけない。
桜は昨日とは別の意味で不安そうな顔をしながら、マリアの後を追った。
◇
居間から十分に離れたところで、マリアが止まった。
「桜。臭わなくなったな」
「…………」
桜は無言になった。
せっかく忘れようとしていた昨日の記憶が、一瞬にして蘇った。
「……マリアさん。それ、二人だけの時でも、もう少し言い方を考えてもらえませんか?」
「臭くない。だから昨日の話しとは違うぞ」
「昨日の話ですよね!?」
「だから、その昨日の臭いがしない。だから違う話だ」
桜の開いた口が塞がらない。
マリアは念のため、もう一度確かめた。
近づいても、何もない。
昨日まで桜の身体の奥から漂っていた、湿った土と古い血と、腐った臓物のような臭い。
間桐邸の地下にも、臓硯にも、あの無数の蟲にもあった臭いだ。
それが、今はない。
「……本当ですか?」
「ああ。昨日は近くに来ればすぐ分かったが、今は全然しない。よかったな」
桜の手が胸元へ戻る。
さっきから感じていた空白。なくなった何か。
「私も……さっきから、変なんです。痛いわけじゃないんです。逆に、何もないんです。ずっとここに、あったのに……急になくなって」
「心臓は動いてるか?息は普通にできるか。痛むところや、気持ち悪いところは?」
「心臓は大丈夫です。息も普通ですし、痛みも気持ち悪さもありません」
「なら、少なくとも今すぐ死にそうではないな」
「たまに、マリアさんの判断基準が怖くなります」
「いいか、死なないのはとても大事だぞ」
「それは、そうですけど……」
マリアは腕を組んだ。
昨日まではいた。今はいない。そして今日、間桐邸からも同じ臭いが消えていた。
だからといって、何が起きたのかまでは分からない。
「たぶん、臭いの原因がいなくなった」
「……そう、ですか」
桜はしばらく胸元に手を置いたまま動かなかった。
喜んでいいのか、怖がるべきなのか。本人にもまだ分からないらしい。
マリアは少し待ってから尋ねた。
「それで、皆にも言うか?昨日、人には言わないでくれと言っただろ。だから勝手には言わない。士郎は昨日の話を聞いてるが、他の連中は知らない。桜の自由にしろ」
迷った末、桜は小さく首を振った。
「……今は、まだ、ごめんなさい。それと……ありがとうございます」
「何がだ?」
「いえ……何でもありません」
マリアは本当に分かっていない顔をしている。
桜は少しだけ笑った。
「戻りましょう。たぶん先輩と、遠坂先輩が待っています」
「ああ。私も説明してないからな」
◇
待っていた凛は怒っていた。
「で?」
「何だ?」
「何だ?じゃないわよ。その格好で帰ってきて、何事もなかった顔で戻ってくるんじゃないの!こないだ間桐の家に行ったところまでは聞いたわよ。それで、今日は何があったの?」
「間桐臓硯に身体を調べてもらった」
「…何をされたの?」
「最初は普通に調べられた。途中からもっと詳しく調べることになって、麻酔を飲んだ」
「それで?」
「寝た」
「……その後は?」
「起きた」
「間があるでしょうが!」
「寝てたから知らん」
凛の眉間に皺が寄った。
「……つまり何?肝心なところは全部寝てたの?」
「そうなるな」
「じゃあ、その格好は?」
「寝て、起きたら瓦礫の下だった。頑張って脱出したぞ」
「…………」
今度は凛だけではない。士郎も、セイバーも、イリヤも黙った。
桜だけは事前に間桐邸へ行くことを知っていたが、さすがにそんな結末になるとは思っていなかったらしい。
「待ってくれ。一回整理させてくれ」
士郎が額を押さえた。
「桜のお爺さんに身体を調べてもらって、途中で麻酔を飲んで寝て、起きたら瓦礫の下だった、ってことか?」
「ああ」
「……何で?」
「だから知らん」
「じゃあ、桜のお爺さんは?」
「いなかった。少し探したが見つからなかった。屋敷もだいたい崩れてたぞ」
凛がゆっくりとマリアを見る。
土埃まみれの狩装束に、潰れた帽子。
そして本人だけは無傷。
「…………何したのよ」
「だから寝てた」
「そういう意味じゃない!じゃあ何で屋敷が崩れたのよ!?」
「だから知らんと言ってるだろ。私も起きたらこうなってたんだ」
知らないものは知らない。
マリアとしては、それ以上答えようがなかった。
凛もそれは理解したらしい。
納得したわけではない顔で腕を組む。
「間桐臓硯がいなくなって、屋敷まで崩壊……魔術に関するものは?」
「知らん。瓦礫の下を穿り返してまで調べてない」
「……何なのよ、それ」
「私が知りたいくらいだ」
こればかりは、本当にそうだった。
自分の身体を調べてもらいに行ったら、寝ている間に調べていた老人が消え、その家までなくなった。検査結果も聞いていない。
マリアとしても困る。
凛が何か言おうとした、その時だった。
『凛。火急の用だ』
頭の中へ届いた声に、凛の顔つきが変わった。
◇
屋根の上で周囲を警戒していたアーチャーは、住宅街をこちらへ近づいてくる気配を捉えていた。
人間ではない。サーヴァントだ。
しかも気配を消そうともせず、真っ直ぐ衛宮邸へ向かってくる。
アーチャーは屋根の縁へ移動し、門前に立った女を見下ろした。
長い紫色の髪に、目元を覆う眼帯。
「止まれ。何用だ」
「こちらに戦闘の意思はありません。伝えなければならないことがあります」
「誰にだ」
わずかな間があった。
「桜に」
◇
「……ライダー?」
凛から話を聞いた桜が目を見開き、セイバーは既に立ち上がっていた。
「知っているのですか、サクラ」
「はい。でも……どうしてここに」
桜自身にも分からない。
だからこそ、門前で追い返すわけにもいかなかった。
短い相談の末、ライダーは居間へ通された。
当然ながら警戒は解いていない。
セイバーは士郎の近くに立ち、アーチャーも庭側へ移動している。凛はいつでも動ける位置に座り、リーゼリットは何気ない顔でイリヤの近くへ寄った。
そんな中、マリアだけは呑気に茶を飲んでいた。
「マリア。あなたも少しは警戒しなさいよ」
「しているぞ」
「お茶飲みながら?」
「そうだが?」
凛は何か言おうとして、やめた。
ライダーはまず桜を見る。
「ご無事で何よりです、桜」
「ライダー……兄さんは?」
挨拶より先に出た質問だったが、ライダーはすぐに答える。
「無事です。少なくとも、命に関わるような怪我はありません」
「よかった……」
桜の肩から力が抜け、士郎も隣で息を吐いた。
「慎二も家にいたのか?」
「はい。地下から最初の大きな音がした時には、まだ屋敷の中にいました。一度ではありません。二度目には床が揺れ、その後は柱や窓にも異常が出ました。地下を確認することも考えましたが、その時点で屋敷そのものが危険だと判断し、慎二を連れて外へ出ています。屋敷が崩れ始めたのは、その直後です」
凛がマリアを見ると、相変わらずマリアは茶を飲んでいる。
「……本当に寝てたのね」
「言っただろ」
桜は、もう一度ライダーに向き直る。
「ライダー。地下で何が起きたかは分かる?」
「いいえ。確認していません」
「そう……」
つまり、増えた情報は多くない。
地下で何かが起き、大きな音がして屋敷が揺れた。
その頃、地下にいたマリアは眠っていた。
慎二はライダーによって助け出され、臓硯は見つからない。
それだけだった。
「慎二は今どこにいる?」
「屋敷から離れた場所です。今夜、あの場所へ戻ることはないでしょう。安全を確認した上で、私は桜の無事を確かめ、事情を伝えるためにこちらへ来ました」
「そうだったんだ……」
桜はもう一度、小さく息を吐いた。
そこで凛が、ライダーを見た。
「一つ聞いていい?あなた、今まで慎二のサーヴァントとして動いてたわよね。なら慎二がマスターなの?」
ライダーはすぐには答えず、代わりに桜を見る。
「桜。今となっては、隠しておく理由も少ないでしょう。ですが、話すかどうかは貴女がお決めください」
突然、居間の視線が桜へ集まった。
桜は俯き、握った手を何度か開いては、また握る。
それから士郎を見た。
「桜?」
「先輩……」
言いかけて、止まった。
それでも今度は目を逸らさなかった。
「ごめんなさい」
桜が手を差し出す。
そこにあったものを見て、士郎の目が見開かれた。
「それ……令呪?」
「はい。私なんです。私が、ライダーを召喚しました」
「桜が……?」
「はい」
士郎は桜の手を見て、それからライダーを見る。
「じゃあ、慎二は?」
「シンジは私の本来のマスターではありません。私への命令権を、桜から委譲されていたため、これまではシンジのサーヴァントとして行動していました」
「そんなことが……」
士郎はそこで言葉を切った。
驚いていないと言えば嘘になる。桜が聖杯戦争の参加者だったことも、ライダーを召喚した本人だったことも知らなかった。
「先輩、私……」
「いや、責めてるわけじゃない。ただ、びっくりしただけだ。言えなかった理由もあるんだろ。だったら、今ここで全部話せとは言わない」
「……先輩」
桜は唇を結び、それからゆっくり手を下ろした。
◇
「待って。一回整理させて。本当に一回整理しないと分からなくなってきた」
しばらくして、凛が指を立てた。
「バーサーカーは消滅、イリヤはここにいる。間桐の家は崩壊して、間桐臓硯は行方不明。慎二は生存してライダーが連れ出した。で、そのライダーの本来のマスターは桜。ここまで合ってるわよね」
イリヤ、マリア、桜がそれぞれ目を合わせて頷く。
「……一日ごとに盤面がひっくり返りすぎでしょう、この聖杯戦争」
「戦争とはそういうものではないのか?」
「聖杯戦争を知らない人は黙ってて」
「…はい」
イリヤがくすりと笑い口を開く。
「これで御三家のうち、まともに残ってるのって、遠坂だけね」
「あのねえ、そういう縁起でもないこと言わないで」
「こっちだって、アインツベルンのお城は残ってるわよ?」
「本人がここで避難生活しているでしょうが!」
「あら、そうね」
「御三家って、その三つだったのか」
マリアが言った。
凛が振り返る。
「今そこから!?遠坂、間桐、アインツベルン!何年この国にいるのよ!」
「精神的には日本人だが、生活はそんなに長くない」
「そういう問題じゃない!」
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
桜も小さく笑った。
◇
話が一段落すると、ライダーは立ち上がった。
「私は戻ります」
「慎二のところか?でも、マスターは桜なんだろ?」
「それと、彼を今夜一人にしてよいかどうかは別の話です」
士郎は少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「そっか。他のマスターは、慎二がマスターだって思ってる可能性があるしな」
ライダーが桜を見る。
桜もライダーを見返した。
「ライダー。兄さんを、お願いします」
「承知しました。また来ます、桜」
「はい」
それだけだった。
兄を許すとも、許さないとも言わない。これまでのことを忘れるとも言わない。
ただ、今夜一人にしないでほしいと桜が頼み、ライダーがそれを引き受けた。
アーチャーが門まで同行し、ライダーは夜の住宅街へ消えていった。
その姿が見えなくなってから、士郎が「あ」と声を漏らした。
「桜、今日どうするんだ?」
「え?」
「いや……間桐の家、なくなったんだろ」
「…………」
桜も、そこで初めて気づいたような顔をした。
「ならばここに泊まればいい。そもそも家がないんだから、帰れないだろ」
桜は慌てて首を振った。
「でも、これ以上ご迷惑をかけるわけには……イリヤちゃんたちもいますし」
「別に俺は迷惑じゃないぞ。部屋なら何とかなるし、一人増えるくらい今さらだ。今日はここに泊まっていけよ」
「でも、先輩……」
そこで佇んでいた、イリヤの従者が口を開く。
「寝る場所、作れる」
「リズ、勝手に決めないでください」
「でも作れる」
「作れるかどうかだけの問題ではありません」
セラが額を押さえた。
「私は賛成だ。かなり賛成している。なんなら、士郎と同じ部屋が良い。布団は一つで大丈夫だろう」
「マリアさん、その…つまり、それって…」
「ん?もちろんセッ「あー!!お腹減ったわねぇ!!今日の晩御飯は何かしらぁ!!!ねぇ!衛宮くん!!??」
マリアの言葉を、凛が大声で被せる。
「そうだな。先のことは明日考えればいい。今日は色々ありすぎたしさ。とりあえず飯にしよう」
「…………」
桜は困ったように皆を見る。
泊まっていいと言われている。迷惑ではないとも言われた。それでも何かを言おうとして、結局言葉にならない。
マリアはそんな桜をしばらく見ていた。
「桜。迷惑かどうかを聞いてるんじゃないぞ。桜はどうしたい?」
桜が黙った。
士郎も何も言わなかった。凛も、セイバーも、イリヤも、誰も代わりに答えなかった。
桜は居間を見た。
いつもの衛宮邸。いつもの、と言っても、今日は随分と人数が多い。
それから士郎を見て、最後に自分の胸元へ手を置いた。
何もいない。
帰るはずだった家も、もうない。
「……私」
声が小さくなる。
それでも、聞こえた。
「今夜は……ここにいたいです」
「ああ!」
士郎はいつも通りに頷いた。
◇
その日の夕食は、すき焼きになった。
マリアが身支度を整えて戻ってくる頃には鍋も煮え、大人数の食卓では早くも肉の争奪戦が始まっていた。
「衛宮くん、お肉追加して」
「今入れたばっかりだろ。野菜も食えよ、遠坂」
「食べてるわよ。ほら」
「春菊一本で言うな」
その凛が狙っていた肉を、横から伸びてきた箸が音速で攫った。
「あ」
マリアだった。
「……今の、私が取ろうとしてたんだけど」
「そうなのか?」
「その横に私の箸もあったでしょうが!」
既に肉はマリアの器へ、溶き卵に浸かった状態で入っている。
「…コレでよければ、返そうか?」
「一回入れたものを鍋に戻すな!」
「鍋とは難しいな」
「何が”精神は日本人”よ。自慢げに言って、全然知らないじゃない」
「それはアレだ。ブランクというヤツだ。」
そしてマリアは結局そのまま食べて、「うまい」と満足そうに頷く。
向かいで桜が小さく笑った。
その隣では、士郎が鍋から豆腐を取っている。
「それは、今日私が買った豆腐だな」
「そうだよ。ちゃんと夕飯に使ったぞ」
マリアも一つ取って食べる。
「うまいな。瓦礫から出てきた後に買った甲斐があった」
「食事中にそういう情報を足すなよ……」
また桜が笑った。
間桐邸がなくなったことも、臓硯がどこへ行ったのかも、桜の身体に何が起きたのかも分からない。
聖杯戦争だって終わってはいない。
それでも夕食になれば腹は減るし、鍋を囲めば肉の取り合いくらいは起きる。
そうして、遅れる事、大河も合流し更に騒がしくなった。
いつもよりかなり人数の多い夕食は、あっという間に過ぎていった。
その夜、いつもなら帰る時間を過ぎても、桜の靴は玄関に残っていた。