間桐邸を出てからしばらく歩いたところで、前方からサイレンの音が聞こえてきた。
マリアは道の端へ寄る。
やがて消防車が二台、赤色灯を回しながら横を走り抜けていった。その後を救急車が続き、少し遅れて警察車両まで同じ方向へ向かっていく。
「…………」
振り返る。
どれも、自分が来た道を走っていた。
行き先はおそらく同じだろう。
大変そうだった。
マリアは前を向き、再び歩き始めた。
途中でまだ開いている店を見つけ、今朝士郎に頼まれていた豆腐を一丁買った。あとは寄り道もせず、そのまま衛宮邸へ向かう。
金糸の狩装束は土埃にまみれ、帽子も少し潰れている。
片手には豆腐。
それ以外は、いつも通りだった。
◇
衛宮邸の居間は、妙に静かだった。
人数が少ないわけではない。
士郎にセイバー、凛、イリヤ。さらにセラとリーゼリットまでいるのだから、むしろ普段より多いくらいだった。
それでも誰も積極的に口を開こうとしないのは、桜の様子がおかしいからだった。
「桜、本当に大丈夫か?」
「はい」
士郎に聞かれ、桜は小さく頷いた。
少し前から、右手はずっと胸元に置かれている。
「痛いところは?」
「ありません」
「苦しいとか、気分が悪いとか」
「それも、大丈夫です」
答えそのものは普段と変わらない。
けれど、桜自身が戸惑っていることだけは、士郎にも分かった。
ずっと昔から自分の中にあったものが、突然なくなった。
桜が説明できたのは、それだけだった。
「遠坂」
「私を見ても分からないわよ」
士郎に視線を向けられ、凛は腕を組んだ。
「少なくとも、今すぐ倒れそうには見えない。でも、それ以上はちゃんと調べないと何とも言えないわ。本人に痛みも苦しさもないなら、今は無理にどうこうしない方がいい」
「そっか」
「安心していいって意味じゃないからね」
「分かってる」
セイバーも桜の様子を見ていたが、やがて静かに声をかけた。
「サクラ。何か変化を感じたなら、すぐに言ってください」
「はい。ありがとうございます、セイバーさん」
桜は笑おうとした。
いつものようには、うまく笑えなかった。
その時、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま」
「あ」
聞き慣れた声に、士郎が立ち上がる。
「マリアだ」
廊下へ出て、玄関へ向かう。
「おかえ――」
途中で言葉が止まった。
「…………」
「ただいま」
マリアが立っていた。
全身が土埃にまみれている。金糸の狩装束は汚れ、帽子も微妙に潰れていた。
怪我をしている様子こそないが、どう見ても普通に外出して帰ってきた人間の格好ではない。
「……マリア」
「ああ」
「何があった?」
「待て」
「え?」
マリアは片手に提げていた袋を持ち上げた。
「手を出せ」
「……こう?」
言われるまま、士郎が両手を出す。
その上へ、袋が置かれた。
「…………」
「…………」
「豆腐だ」
「……うん」
「頼まれた」
「うん」
「買ってきた」
ほんの少し、胸を張る。
士郎は袋を見る。
マリアを見る。
もう一度、袋を見る。
「ありがとう」
「ああ」
「助かった」
「ああ」
マリアは満足そうに頷いた。
「それはそれとして」
「何だ」
「何があったんだよ!?」
「色々だ」
「色々って、その格好……!」
「怪我はない」
マリアは両手を見せた。
「ちゃんとある」
「何が?」
「手」
「あるだろ、普通!」
「そうだな」
「なんで確認したんだよ!?」
「…………」
「黙るなよ!」
騒ぎを聞きつけたのか、居間から桜が顔を出した。
「マリアさん?」
「ああ」
マリアが振り返る。
「ただいま」
「おかえりなさい……」
桜はそこまで言って、マリアの姿を上から下まで見た。
「……何があったんですか?」
「色々だ」
士郎と同じ質問には、同じ答えが返ってきた。
マリアは靴を脱ぐ。
「風呂に入りたい」
「待て待て待て」
士郎が止める。
「その前に、せめて何があったか――」
「腹も減った」
「マリア」
「豆腐は買った」
「それはもう分かった!」
◇
結局、マリアは風呂へ行く前に居間へ連行された。
本人は不満そうだったが、抵抗はしなかった。
帽子を脱いで卓上へ置き、出された茶を飲んでいる。
士郎が尋ねても、間桐邸へ行ったことまでは話すものの、その先になると「色々あった」で済ませようとする。
凛が追及しても同じだった。
「だから、その色々を聞いてるのよ」
「長いぞ」
「要点だけでいいわよ」
「調べられた」
「誰に?」
「間桐臓硯」
桜の肩がわずかに揺れた。
マリアはそれを見て、茶を置いた。
「…………」
桜を見る。
少し鼻から息を吸った。
もう一度。
「マリアさん?」
「臭わないな」
「え?」
マリアは席を立つと、桜の前まで歩いた。
顔を近づける。
「マ、マリアさん?」
「前は臭った」
「何が?」
「蟲」
桜の顔が強張った。
凛も眉を寄せる。
「ちょっと待って。何の話?」
「桜の中から臭っていた」
「私の、中から……?」
「ああ」
マリアはもう一度確かめるように鼻を鳴らした。
「今はしない」
「……マリア」
士郎が声を上げた。
「何だ」
「それ、もしかして……」
桜を見る。
「さっき桜も、変なことを言ってたんだ」
「何と?」
「『いない』って」
マリアの目が桜へ戻る。
「何がいない」
「……分からないんです」
桜は胸元へ手を置いた。
「ずっと……ここに、何かがいたんです」
自分でも奇妙なことを言っているのは分かっているのだろう。
それでも桜は続けた。
「ずっと昔から、あって当然だったものが……急に、なくなって」
「心臓は?」
「え?」
「心臓は動いているか」
「はい」
「痛むか?」
「いいえ」
「苦しいか?」
「……いいえ」
「そうか」
マリアは少し考える。
「…前はいた」
鼻を鳴らす。
「今はいない」
「マリア。それって何なんだ?」
「私にもよく分からん」
「でも、蟲って……」
「ああ」
マリアは桜を見る。
「間桐の地下と同じ臭いだった」
「地下……?」
桜が俯き、手が胸元を強く掴んだ。
「マリアさん、昨日……お爺様に会ったんですよね」
「ああ」
「今日は?」
「会った」
「それで、その格好なの?」
凛が割って入る。
「ああ」
「一体何をされたのよ」
「調べられた」
「何を?」
「私を」
「どうやって?」
「色々だ」
「そこで色々に戻るな!」
マリアは平然と茶を飲んだ。
凛は額を押さえた。
「……じゃあ質問を変えるわ。桜の…間桐のお爺様は、今どこ?」
「いない」
今度は、誰もすぐには口を開かなかった。
桜がマリアを見る。
「お爺様が……いない?」
「ああ」
「お爺様が死んだ、ということですか?」
「いや、死んではいない。が、分からない」
「じゃあ、どこに」
「それも分からない」
「ちょっと待ちなさい」
凛が身を乗り出した。
「間桐邸で何があったの?」
「臓硯が覗いた」
「何を?」
「向こうを」
「向こうってどこよ」
「あまり知らない方がいい」
「何よそれ……」
「見るな、とは言った」
マリアは少し考えた。
「だが見た」
「だから何を!?」
「知らない方がいい」
「話が一周した!」
イリヤがじっとマリアを見ていた。
「それで、お爺さんはいなくなったの?」
「たぶん」
「屋敷は?」
「崩れた」
凛が固まった。
「……は?」
「崩れた」
「間桐のお屋敷が?」
「ああ」
「全部?」
「まぁ、おおむね…だいたい…ほとんど」
凛は数秒、何も言わなかった。
そして改めて、マリアの土埃まみれの格好を見る。
「…………何したのよ」
「何もしていない」
「その格好で言われても説得力ないわよ!」
「私が直接壊したわけではない」
「じゃあ何で崩れたの!?」
「知らん」
「知らんで済ませるな!」
「見るなとは言った」
「それは聞いた!」
士郎は二人のやり取りを聞きながら、ふと桜を見た。
桜は笑っていなかった。
ただ胸元に手を置き、マリアの言葉を一つずつ確かめるように聞いている。
「マリア」
「何だ」
「桜の中にいたものがいなくなったのと、桜の家が崩れたのは……関係あるのか?」
「分からない」
マリアは即答した。
「ただ」
桜を見る。
「前はいた」
鼻を鳴らす。
「今はいない」
それ以上のことは言わなかった。
士郎も、今はそれで納得するしかなかった。
◇
屋根の上にいたアーチャーが異変に気づいたのは、その少し後だった。
周囲の警戒を続けていた彼は、住宅街をこちらへ近づいてくる気配に顔を上げる。
人間ではない。
サーヴァントだった。
しかも、気配を隠そうとする様子がない。
霊体化を解いたアーチャーは屋根の縁へ歩き、門の方へ視線を向けた。
長い紫色の髪。
目元を覆う眼帯。
女が一人、門の前に立っていた。
「止まれ」
アーチャーが屋根から声をかける。
女は顔を上げた。
「こちらに戦闘の意思はありません」
「ならば、何をしに来た」
「話があります」
「誰にだ」
わずかな間。
「桜に」
アーチャーの眉が動いた。
同時に、凛へ念話を飛ばす。
『凛。火急の用だ』
『何?』
『サーヴァントが来た』
『はぁ!?』
『門前だ。今のところ敵意はない』
『クラスは?』
『分からん。だが、間桐桜に用があるそうだ』
そこで一拍置いて。
『長い紫髪の女だ』
居間で、凛が桜を振り返った。
「…桜」
「はい?」
「心当たりある?」
「え?」
「サーヴァント。紫の長い髪で、目を隠してる女」
桜の目が見開かれた。
「……ライダー?」
セイバーが立ち上がった。
◇
ライダーを家へ入れるかについて、短い話し合いがあった。
最終的には、桜が知っているサーヴァントであり、本人にも戦闘の意思がないということで、玄関先ではなく居間で話を聞くことになった。
もっとも、警戒が解かれたわけではない。
セイバーは士郎の近くに立ち、アーチャーも庭側へ移動している。凛はいつでも動ける位置に座り、リーゼリットは自然な顔でイリヤの近くへ寄っていた。
そんな中、マリアだけは呑気に音を立てながら茶を啜っていた。
「マリア」
「何だ」
「あなたも少しは警戒しなさいよ」
「している」
「お茶飲みながら?」
「ああ」
凛は何か言おうとして、やめた。
ライダーは桜の姿を確認すると、わずかに表情を緩めた。
「ご無事で何よりです、桜」
「ライダー……」
「まず、お伝えしなければならないことがあります」
居間の空気が引き締まる。
「桜…家が倒壊しました」
「それは聞いたわ」
凛がマリアを見る。
「ついさっき、犯人というか、当事者っぽい人から」
「犯人ではない、当事者でもない」
「黙ってなさい」
「はい」
ライダーは二人を一度見てから続けた。
「倒壊する直前、地下から異常な気配を感じました。少なくとも、私が知る通常の魔術的なものとは違いました」
マリアの茶を啜る音が響く。
「危険と判断し、私はその場を離れました。直後に屋敷が崩壊しています」
「慎二は?」
士郎が尋ねた。
桜も顔を上げる。
「兄さんは……?」
「無事です」
ライダーは即答した。
「私が連れ出しました。少なくとも、命に関わる怪我はありません」
桜の肩から、ほんの少し力が抜けた。
士郎も息を吐く。
「よかった……」
「現在は屋敷から離れた場所にいます。今夜、あの場所へ戻ることはないでしょう」
「そっか」
そこで凛がライダーを見る。
「一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「あなた、間桐のサーヴァントなのよね」
「はい」
「なら、慎二がマスター?」
ライダーは答えなかった。
代わりに桜を見る。
「桜」
「…………」
「もう、お話ししてもよいでしょう」
桜は俯いた。
しばらく迷ってから、静かに手を出す。
「先輩」
「桜?」
「ごめんなさい」
その手に、令呪があった。
士郎の目が見開かれる。
「それ……」
「私なんです」
桜の声は小さかった。
「私が、ライダーを召喚したんです」
「桜が……?」
「はい」
士郎は桜を見る。
それからライダーを見る。
「じゃあ慎二は?」
「シンジは、私の本来のマスターではありません」
ライダーが答えた。
「シンジは、桜から私に対する命令権を移譲されていました」
「そんなことができるの?」
凛が問う。
「できていたから、これまで私はシンジのサーヴァントとして振る舞っていました」
「…………」
士郎はしばらく黙った。
桜の表情が強張る。
「先輩、私――」
「いや」
士郎が首を振った。
「責めてるわけじゃない。ただ、驚いただけだ」
「……先輩」
「今まで言えなかった理由も、何かあったんだろ」
桜は答えなかった。
答えられないなら、今ここで無理に聞くことでもない。
士郎はそう判断した。
ライダーも、それ以上は何も言わなかった。
◇
「待って」
凛が指を立てた。
「一回整理させて」
全員がそちらを見る。
「バーサーカーは消滅。イリヤはここにいる」
「いるわよ」
「間桐の家は倒壊。間桐のお爺様は……」
「いないぞ。私は何もしていない」
「だから行方不明!」
「そうか」
「慎二は生存。ライダーが連れ出した。そしてライダーの本来のマスターは桜」
「はい」
「……一気に状況が変わりすぎでしょ」
凛は深く息を吐いた。
「聖杯戦争って、こんな一日ごとに盤面ひっくり返るものなの?」
「知らん」
「あなたが言うと腹立つわね」
「そうか」
イリヤがくすりと笑う。
「これで御三家のうち、まともに残ってるのって遠坂だけね」
「やめて」
凛が即答した。
「そういう縁起でもないこと言わないで」
「アインツベルンの城は残ってるわよ?」
「本丸のあなた本人が!ここにいるでしょうが!」
「そうね」
「三つだったのか」
マリアが言った。
凛が振り返る。
「今そこから!?」
「遠坂と、間桐と」
「アインツベルン!」
「ああ」
「何年この国にいるのよ!」
「そんなに長くない」
「そういう問題!?」
小さく。
本当に小さく、桜が笑った。
全員の視線が集まりそうになって、士郎だけが慌てて逸らした。
今は、それでいい気がした。
◇
話を終えると、ライダーは立ち上がった。
「私は戻ります」
「慎二のところに?」
士郎が聞く。
「はい」
「でも、マスターは桜なんだろ?」
「それと、今夜シンジを一人にするかどうかは別の話です」
士郎は少し驚いた顔をした。
やがて頷く。
「そっか」
桜がライダーを見る。
「ライダー」
「はい」
「兄さんを、お願いします」
「承知しました」
ライダーは静かに頭を下げる。
「また来ます、桜」
「はい」
アーチャーが門まで同行し、ライダーは夜の住宅街へ消えていった。
その背中が見えなくなってから。
士郎は、ようやく一つの問題に気づいた。
「……あ」
「何よ」
凛が見る。
士郎は桜を見る。
「桜、今日どうするんだ?」
「え?」
「間桐の家、なくなったんだろ」
「…………」
桜も、そこで初めて気づいたような顔をした。
「えっと……」
「泊まれ」
マリアが言った。
「マリア」
「家がないだろう」
「言い方!」
「違うのか?」
「違わないけど!」
桜は困ったように二人を見る。
「でも、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」
「迷惑じゃないぞ」
士郎が答えた。
「部屋なら何とかなる。今日はここに泊まっていけよ」
「でも、先輩。イリヤちゃんたちもいますし……」
「一人増えるくらい、今さらだろ」
「私は賛成だ」
マリアが言う。
「かなり賛成している」
「マリアさん?」
「良い、とても良いと思う」
「……マリアさん、圧がすごいです」
「そうか?」
「はい、すごいです」
リーゼリットが部屋の数を数えるように指を折った。
「寝る場所、作れる」
「リズ、勝手に決めないでください」
「でも、作れる」
「そういう問題ではありません」
セラは額を押さえた。
士郎が苦笑する。
「先のことは明日考えよう。今日は色々ありすぎたし」
「ああ」
マリアも頷いた。
「明日のことは、明日決めればいい」
桜はしばらく黙っていた。
胸元に置いていた手を、ゆっくり下ろす。
「……じゃあ」
小さく息を吸った。
「今夜だけ、お世話になります」
「ああ」
士郎はいつも通りに頷いた。
「そうしろ」
◇
夕飯は、すき焼きになった。
人数が人数なので鍋も大きい。
食卓の中央で肉と野菜が煮え、湯気と甘辛い匂いが居間いっぱいに広がっている。
「マリア」
「何だ」
「その前に風呂」
「飯が先では駄目か」
「駄目」
「なぜ」
「土埃まみれだから」
「落としたぞ」
「どこを?」
マリアは袖を見る。
「少し」
「風呂」
「はい」
風呂から戻ったマリアが席についた頃には、鍋の中身がちょうど食べ頃になっていた。
セイバーの箸が速い。
リーゼリットは白菜を大量に取っている。
セラはそれを注意しながら、自分の分もしっかり確保していた。
凛が肉を取ろうとする。
その直前。
横から箸が伸びた。
「あ」
肉が消えた。
マリアの器に入っている。
「…………」
「…………」
「今の私のだったんだけど」
「そうなのか」
「返しなさいよ」
「もう入れたぞ」
「まだ食べてないでしょうが!」
マリアは少し考え、肉を箸で摘んだ。
「返そうか」
「人の器に一回入れたやつを戻すな!」
「難しいな」
「何がよ!」
マリアは肉を食べた。
「おいしい」
「でしょうね!」
その隣で、士郎が豆腐を取る。
マリアの目が止まった。
「あ」
「何だよ」
「それ」
「豆腐?」
「ああ」
「お前が買ってきたやつだぞ」
「そうか」
マリアも一つ取った。
食べる。
「うまいな」
「そりゃよかった」
「私が買った」
「知ってるよ」
「頼まれたからな」
「……ちゃんと買ってきたのは偉いけどさ」
マリアは満足そうに、もう一つ取った。
桜がそれを見て笑う。
今度は、さっきより少しだけ自然だった。
◇
夕食が終わると、桜はいつものように台所へ立った。
「今日はいいぞ」と士郎は言ったが、桜は首を振った。
何かをしていた方が落ち着くのだという。
ならば無理に止めることもない。
二人で皿を洗い、マリアは拭く係を任された。途中で一枚危うく落としかけたので、士郎から「両手で持て」と注意され、それ以降は素直に従った。
やがて、いつもなら桜が帰る時間になった。
玄関には、桜の鞄が置かれている。
桜は一度だけそちらを見た。
けれど、取りには行かなかった。
「桜」
「はい」
「明日の朝、何食べたい?」
士郎に聞かれ、桜は少し驚いた。
「私が作りますよ?」
「泊まりに来た日にまでやらなくていいって」
「でも……」
「明日決めよう」
「…………はい」
胸元へ手を置く。
何もいない。
まだ、その感覚には慣れなかった。
間桐の屋敷はなくなった。
祖父もいない。
兄がこれからどうするのかも分からない。
自分の身体に何が起きたのかさえ、まだ分からない。
聖杯戦争も終わってはいない。
明日になれば、また何かが起こるのかもしれない。
それでも今夜だけは。
帰らなくていい。
桜は鞄から目を離した。
◇
玄関が勢いよく開いたのは、それからしばらくしてだった。
「たっだいまー!」
藤村大河の声が家中に響く。
「もう最悪! なんでこんな日に限って残業なのよー!」
「藤ねえ、おかえり」
「ただいま士郎! もうご飯ない!? 私お腹ぺこぺ――」
居間に入る。
鍋を見る。
止まる。
「…………」
鍋を見る。
人数を見る。
もう一度、鍋を見る。
「すき焼き!? 知ってたら早く帰ったのに!! なんですき焼きの日を私に教えないのよー!!」
「仕事中にどうやって教えるんだよ!」
「メールがあるでしょうが!」
「すき焼きにするって決めたの夕方だぞ!」
「なら夕方にメールしてよ!」
「仕事しろよ!」
大河は残っている肉を見つけた。
「あっ、まだある!」
「大河」
「何、マリアさん!」
「それ、最後の肉だぞ」
「だから食べるの!」
取った。
食べた。
「おいしー!」
マリアは感心したように大河を見る。
「大河はよく食べるな」
「マリアさんにだけは言われたくない!」
桜が吹き出した。
今度は、誰もそちらを見なかった。
ただ士郎だけが少し笑って、空になった鍋を片づけ始める。
その夜。
いつもなら帰る時間を過ぎても、桜の靴は玄関に残っていた。