時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)   作:アスタロット

23 / 23
帰ってきた、時計塔のマリアさん(偽)

 

 間桐邸を出てからしばらく歩いたところで、前方からサイレンの音が聞こえてきた。

 

 マリアは道の端へ寄る。

 

 やがて消防車が二台、赤色灯を回しながら横を走り抜けていった。その後を救急車が続き、少し遅れて警察車両まで同じ方向へ向かっていく。

 

「…………」

 

 振り返る。

 

 どれも、自分が来た道を走っていた。

 

 行き先はおそらく同じだろう。

 

 大変そうだった。

 

 マリアは前を向き、再び歩き始めた。

 

 途中でまだ開いている店を見つけ、今朝士郎に頼まれていた豆腐を一丁買った。あとは寄り道もせず、そのまま衛宮邸へ向かう。

 

 金糸の狩装束は土埃にまみれ、帽子も少し潰れている。

 

 片手には豆腐。

 

 それ以外は、いつも通りだった。

 

     ◇

 

 衛宮邸の居間は、妙に静かだった。

 

 人数が少ないわけではない。

 

 士郎にセイバー、凛、イリヤ。さらにセラとリーゼリットまでいるのだから、むしろ普段より多いくらいだった。

 

 それでも誰も積極的に口を開こうとしないのは、桜の様子がおかしいからだった。

 

「桜、本当に大丈夫か?」

 

「はい」

 

 士郎に聞かれ、桜は小さく頷いた。

 

 少し前から、右手はずっと胸元に置かれている。

 

「痛いところは?」

 

「ありません」

 

「苦しいとか、気分が悪いとか」

 

「それも、大丈夫です」

 

 答えそのものは普段と変わらない。

 

 けれど、桜自身が戸惑っていることだけは、士郎にも分かった。

 

 ずっと昔から自分の中にあったものが、突然なくなった。

 

 桜が説明できたのは、それだけだった。

 

「遠坂」

 

「私を見ても分からないわよ」

 

 士郎に視線を向けられ、凛は腕を組んだ。

 

「少なくとも、今すぐ倒れそうには見えない。でも、それ以上はちゃんと調べないと何とも言えないわ。本人に痛みも苦しさもないなら、今は無理にどうこうしない方がいい」

 

「そっか」

 

「安心していいって意味じゃないからね」

 

「分かってる」

 

 セイバーも桜の様子を見ていたが、やがて静かに声をかけた。

 

「サクラ。何か変化を感じたなら、すぐに言ってください」

 

「はい。ありがとうございます、セイバーさん」

 

 桜は笑おうとした。

 

 いつものようには、うまく笑えなかった。

 

 その時、玄関の戸が開く音がした。

 

「ただいま」

 

「あ」

 

 聞き慣れた声に、士郎が立ち上がる。

 

「マリアだ」

 

 廊下へ出て、玄関へ向かう。

 

「おかえ――」

 

 途中で言葉が止まった。

 

「…………」

 

「ただいま」

 

 マリアが立っていた。

 

 全身が土埃にまみれている。金糸の狩装束は汚れ、帽子も微妙に潰れていた。

 

 怪我をしている様子こそないが、どう見ても普通に外出して帰ってきた人間の格好ではない。

 

「……マリア」

 

「ああ」

 

「何があった?」

 

「待て」

 

「え?」

 

 マリアは片手に提げていた袋を持ち上げた。

 

「手を出せ」

 

「……こう?」

 

 言われるまま、士郎が両手を出す。

 

 その上へ、袋が置かれた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「豆腐だ」

 

「……うん」

 

「頼まれた」

 

「うん」

 

「買ってきた」

 

 ほんの少し、胸を張る。

 

 士郎は袋を見る。

 

 マリアを見る。

 

 もう一度、袋を見る。

 

「ありがとう」

 

「ああ」

 

「助かった」

 

「ああ」

 

 マリアは満足そうに頷いた。

 

「それはそれとして」

 

「何だ」

 

「何があったんだよ!?」

 

「色々だ」

 

「色々って、その格好……!」

 

「怪我はない」

 

 マリアは両手を見せた。

 

「ちゃんとある」

 

「何が?」

 

「手」

 

「あるだろ、普通!」

 

「そうだな」

 

「なんで確認したんだよ!?」

 

「…………」

 

「黙るなよ!」

 

 騒ぎを聞きつけたのか、居間から桜が顔を出した。

 

「マリアさん?」

 

「ああ」

 

 マリアが振り返る。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい……」

 

 桜はそこまで言って、マリアの姿を上から下まで見た。

 

「……何があったんですか?」

 

「色々だ」

 

 士郎と同じ質問には、同じ答えが返ってきた。

 

 マリアは靴を脱ぐ。

 

「風呂に入りたい」

 

「待て待て待て」

 

 士郎が止める。

 

「その前に、せめて何があったか――」

 

「腹も減った」

 

「マリア」

 

「豆腐は買った」

 

「それはもう分かった!」

 

     ◇

 

 結局、マリアは風呂へ行く前に居間へ連行された。

 

 本人は不満そうだったが、抵抗はしなかった。

 

 帽子を脱いで卓上へ置き、出された茶を飲んでいる。

 

 士郎が尋ねても、間桐邸へ行ったことまでは話すものの、その先になると「色々あった」で済ませようとする。

 

 凛が追及しても同じだった。

 

「だから、その色々を聞いてるのよ」

 

「長いぞ」

 

「要点だけでいいわよ」

 

「調べられた」

 

「誰に?」

 

「間桐臓硯」

 

 桜の肩がわずかに揺れた。

 

 マリアはそれを見て、茶を置いた。

 

「…………」

 

 桜を見る。

 

 少し鼻から息を吸った。

 

 もう一度。

 

「マリアさん?」

 

「臭わないな」

 

「え?」

 

 マリアは席を立つと、桜の前まで歩いた。

 

 顔を近づける。

 

「マ、マリアさん?」

 

「前は臭った」

 

「何が?」

 

「蟲」

 

 桜の顔が強張った。

 

 凛も眉を寄せる。

 

「ちょっと待って。何の話?」

 

「桜の中から臭っていた」

 

「私の、中から……?」

 

「ああ」

 

 マリアはもう一度確かめるように鼻を鳴らした。

 

「今はしない」

 

「……マリア」

 

 士郎が声を上げた。

 

「何だ」

 

「それ、もしかして……」

 

 桜を見る。

 

「さっき桜も、変なことを言ってたんだ」

 

「何と?」

 

「『いない』って」

 

 マリアの目が桜へ戻る。

 

「何がいない」

 

「……分からないんです」

 

 桜は胸元へ手を置いた。

 

「ずっと……ここに、何かがいたんです」

 

 自分でも奇妙なことを言っているのは分かっているのだろう。

 

 それでも桜は続けた。

 

「ずっと昔から、あって当然だったものが……急に、なくなって」

 

「心臓は?」

 

「え?」

 

「心臓は動いているか」

 

「はい」

 

「痛むか?」

 

「いいえ」

 

「苦しいか?」

 

「……いいえ」

 

「そうか」

 

 マリアは少し考える。

 

「…前はいた」

 

 鼻を鳴らす。

 

「今はいない」

 

「マリア。それって何なんだ?」

 

「私にもよく分からん」

 

「でも、蟲って……」

 

「ああ」

 

 マリアは桜を見る。

 

「間桐の地下と同じ臭いだった」

 

「地下……?」

 

 桜が俯き、手が胸元を強く掴んだ。

 

「マリアさん、昨日……お爺様に会ったんですよね」

 

「ああ」

 

「今日は?」

 

「会った」

 

「それで、その格好なの?」

 

 凛が割って入る。

 

「ああ」

 

「一体何をされたのよ」

 

「調べられた」

 

「何を?」

 

「私を」

 

「どうやって?」

 

「色々だ」

 

「そこで色々に戻るな!」

 

 マリアは平然と茶を飲んだ。

 

 凛は額を押さえた。

 

「……じゃあ質問を変えるわ。桜の…間桐のお爺様は、今どこ?」

 

「いない」

 

 今度は、誰もすぐには口を開かなかった。

 

 桜がマリアを見る。

 

「お爺様が……いない?」

 

「ああ」

 

「お爺様が死んだ、ということですか?」

 

「いや、死んではいない。が、分からない」

 

「じゃあ、どこに」

 

「それも分からない」

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 凛が身を乗り出した。

 

「間桐邸で何があったの?」

 

「臓硯が覗いた」

 

「何を?」

 

「向こうを」

 

「向こうってどこよ」

 

「あまり知らない方がいい」

 

「何よそれ……」

 

「見るな、とは言った」

 

 マリアは少し考えた。

 

「だが見た」

 

「だから何を!?」

 

「知らない方がいい」

 

「話が一周した!」

 

 イリヤがじっとマリアを見ていた。

 

「それで、お爺さんはいなくなったの?」

 

「たぶん」

 

「屋敷は?」

 

「崩れた」

 

 凛が固まった。

 

「……は?」

 

「崩れた」

 

「間桐のお屋敷が?」

 

「ああ」

 

「全部?」

 

「まぁ、おおむね…だいたい…ほとんど」

 

 凛は数秒、何も言わなかった。

 

 そして改めて、マリアの土埃まみれの格好を見る。

 

「…………何したのよ」

 

「何もしていない」

 

「その格好で言われても説得力ないわよ!」

 

「私が直接壊したわけではない」

 

「じゃあ何で崩れたの!?」

 

「知らん」

 

「知らんで済ませるな!」

 

「見るなとは言った」

 

「それは聞いた!」

 

 士郎は二人のやり取りを聞きながら、ふと桜を見た。

 

 桜は笑っていなかった。

 

 ただ胸元に手を置き、マリアの言葉を一つずつ確かめるように聞いている。

 

「マリア」

 

「何だ」

 

「桜の中にいたものがいなくなったのと、桜の家が崩れたのは……関係あるのか?」

 

「分からない」

 

 マリアは即答した。

 

「ただ」

 

 桜を見る。

 

「前はいた」

 

 鼻を鳴らす。

 

「今はいない」

 

 それ以上のことは言わなかった。

 

 士郎も、今はそれで納得するしかなかった。

 

     ◇

 

 屋根の上にいたアーチャーが異変に気づいたのは、その少し後だった。

 

 周囲の警戒を続けていた彼は、住宅街をこちらへ近づいてくる気配に顔を上げる。

 

 人間ではない。

 

 サーヴァントだった。

 

 しかも、気配を隠そうとする様子がない。

 

 霊体化を解いたアーチャーは屋根の縁へ歩き、門の方へ視線を向けた。

 

 長い紫色の髪。

 

 目元を覆う眼帯。

 

 女が一人、門の前に立っていた。

 

「止まれ」

 

 アーチャーが屋根から声をかける。

 

 女は顔を上げた。

 

「こちらに戦闘の意思はありません」

 

「ならば、何をしに来た」

 

「話があります」

 

「誰にだ」

 

 わずかな間。

 

「桜に」

 

 アーチャーの眉が動いた。

 

 同時に、凛へ念話を飛ばす。

 

『凛。火急の用だ』

 

『何?』

 

『サーヴァントが来た』

 

『はぁ!?』

 

『門前だ。今のところ敵意はない』

 

『クラスは?』

 

『分からん。だが、間桐桜に用があるそうだ』

 

 そこで一拍置いて。

 

『長い紫髪の女だ』

 

 居間で、凛が桜を振り返った。

 

「…桜」

 

「はい?」

 

「心当たりある?」

 

「え?」

 

「サーヴァント。紫の長い髪で、目を隠してる女」

 

 桜の目が見開かれた。

 

「……ライダー?」

 

 セイバーが立ち上がった。

 

     ◇

 

 ライダーを家へ入れるかについて、短い話し合いがあった。

 

 最終的には、桜が知っているサーヴァントであり、本人にも戦闘の意思がないということで、玄関先ではなく居間で話を聞くことになった。

 

 もっとも、警戒が解かれたわけではない。

 

 セイバーは士郎の近くに立ち、アーチャーも庭側へ移動している。凛はいつでも動ける位置に座り、リーゼリットは自然な顔でイリヤの近くへ寄っていた。

 

 そんな中、マリアだけは呑気に音を立てながら茶を啜っていた。

 

「マリア」

 

「何だ」

 

「あなたも少しは警戒しなさいよ」

 

「している」

 

「お茶飲みながら?」

 

「ああ」

 

 凛は何か言おうとして、やめた。

 

 ライダーは桜の姿を確認すると、わずかに表情を緩めた。

 

「ご無事で何よりです、桜」

 

「ライダー……」

 

「まず、お伝えしなければならないことがあります」

 

 居間の空気が引き締まる。

 

「桜…家が倒壊しました」

 

「それは聞いたわ」

 

 凛がマリアを見る。

 

「ついさっき、犯人というか、当事者っぽい人から」

 

「犯人ではない、当事者でもない」

 

「黙ってなさい」

 

「はい」

 

 ライダーは二人を一度見てから続けた。

 

「倒壊する直前、地下から異常な気配を感じました。少なくとも、私が知る通常の魔術的なものとは違いました」

 

 マリアの茶を啜る音が響く。

 

「危険と判断し、私はその場を離れました。直後に屋敷が崩壊しています」

 

「慎二は?」

 

 士郎が尋ねた。

 

 桜も顔を上げる。

 

「兄さんは……?」

 

「無事です」

 

 ライダーは即答した。

 

「私が連れ出しました。少なくとも、命に関わる怪我はありません」

 

 桜の肩から、ほんの少し力が抜けた。

 

 士郎も息を吐く。

 

「よかった……」

 

「現在は屋敷から離れた場所にいます。今夜、あの場所へ戻ることはないでしょう」

 

「そっか」

 

 そこで凛がライダーを見る。

 

「一つ聞いていい?」

 

「何でしょう」

 

「あなた、間桐のサーヴァントなのよね」

 

「はい」

 

「なら、慎二がマスター?」

 

 ライダーは答えなかった。

 

 代わりに桜を見る。

 

「桜」

 

「…………」

 

「もう、お話ししてもよいでしょう」

 

 桜は俯いた。

 

 しばらく迷ってから、静かに手を出す。

 

「先輩」

 

「桜?」

 

「ごめんなさい」

 

 その手に、令呪があった。

 

 士郎の目が見開かれる。

 

「それ……」

 

「私なんです」

 

 桜の声は小さかった。

 

「私が、ライダーを召喚したんです」

 

「桜が……?」

 

「はい」

 

 士郎は桜を見る。

 

 それからライダーを見る。

 

「じゃあ慎二は?」

 

「シンジは、私の本来のマスターではありません」

 

 ライダーが答えた。

 

「シンジは、桜から私に対する命令権を移譲されていました」

 

「そんなことができるの?」

 

 凛が問う。

 

「できていたから、これまで私はシンジのサーヴァントとして振る舞っていました」

 

「…………」

 

 士郎はしばらく黙った。

 

 桜の表情が強張る。

 

「先輩、私――」

 

「いや」

 

 士郎が首を振った。

 

「責めてるわけじゃない。ただ、驚いただけだ」

 

「……先輩」

 

「今まで言えなかった理由も、何かあったんだろ」

 

 桜は答えなかった。

 

 答えられないなら、今ここで無理に聞くことでもない。

 

 士郎はそう判断した。

 

 ライダーも、それ以上は何も言わなかった。

 

     ◇

 

「待って」

 

 凛が指を立てた。

 

「一回整理させて」

 

 全員がそちらを見る。

 

「バーサーカーは消滅。イリヤはここにいる」

 

「いるわよ」

 

「間桐の家は倒壊。間桐のお爺様は……」

 

「いないぞ。私は何もしていない」

 

「だから行方不明!」

 

「そうか」

 

「慎二は生存。ライダーが連れ出した。そしてライダーの本来のマスターは桜」

 

「はい」

 

「……一気に状況が変わりすぎでしょ」

 

 凛は深く息を吐いた。

 

「聖杯戦争って、こんな一日ごとに盤面ひっくり返るものなの?」

 

「知らん」

 

「あなたが言うと腹立つわね」

 

「そうか」

 

 イリヤがくすりと笑う。

 

「これで御三家のうち、まともに残ってるのって遠坂だけね」

 

「やめて」

 

 凛が即答した。

 

「そういう縁起でもないこと言わないで」

 

「アインツベルンの城は残ってるわよ?」

 

「本丸のあなた本人が!ここにいるでしょうが!」

 

「そうね」

 

「三つだったのか」

 

 マリアが言った。

 

 凛が振り返る。

 

「今そこから!?」

 

「遠坂と、間桐と」

 

「アインツベルン!」

 

「ああ」

 

「何年この国にいるのよ!」

 

「そんなに長くない」

 

「そういう問題!?」

 

 小さく。

 

 本当に小さく、桜が笑った。

 

 全員の視線が集まりそうになって、士郎だけが慌てて逸らした。

 

 今は、それでいい気がした。

 

     ◇

 

 話を終えると、ライダーは立ち上がった。

 

「私は戻ります」

 

「慎二のところに?」

 

 士郎が聞く。

 

「はい」

 

「でも、マスターは桜なんだろ?」

 

「それと、今夜シンジを一人にするかどうかは別の話です」

 

 士郎は少し驚いた顔をした。

 

 やがて頷く。

 

「そっか」

 

 桜がライダーを見る。

 

「ライダー」

 

「はい」

 

「兄さんを、お願いします」

 

「承知しました」

 

 ライダーは静かに頭を下げる。

 

「また来ます、桜」

 

「はい」

 

 アーチャーが門まで同行し、ライダーは夜の住宅街へ消えていった。

 

 その背中が見えなくなってから。

 

 士郎は、ようやく一つの問題に気づいた。

 

「……あ」

 

「何よ」

 

 凛が見る。

 

 士郎は桜を見る。

 

「桜、今日どうするんだ?」

 

「え?」

 

「間桐の家、なくなったんだろ」

 

「…………」

 

 桜も、そこで初めて気づいたような顔をした。

 

「えっと……」

 

「泊まれ」

 

 マリアが言った。

 

「マリア」

 

「家がないだろう」

 

「言い方!」

 

「違うのか?」

 

「違わないけど!」

 

 桜は困ったように二人を見る。

 

「でも、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」

 

「迷惑じゃないぞ」

 

 士郎が答えた。

 

「部屋なら何とかなる。今日はここに泊まっていけよ」

 

「でも、先輩。イリヤちゃんたちもいますし……」

 

「一人増えるくらい、今さらだろ」

 

「私は賛成だ」

 

 マリアが言う。

 

「かなり賛成している」

 

「マリアさん?」

 

「良い、とても良いと思う」

 

「……マリアさん、圧がすごいです」

 

「そうか?」

 

「はい、すごいです」

 

 リーゼリットが部屋の数を数えるように指を折った。

 

「寝る場所、作れる」

 

「リズ、勝手に決めないでください」

 

「でも、作れる」

 

「そういう問題ではありません」

 

 セラは額を押さえた。

 

 士郎が苦笑する。

 

「先のことは明日考えよう。今日は色々ありすぎたし」

 

「ああ」

 

 マリアも頷いた。

 

「明日のことは、明日決めればいい」

 

 桜はしばらく黙っていた。

 

 胸元に置いていた手を、ゆっくり下ろす。

 

「……じゃあ」

 

 小さく息を吸った。

 

「今夜だけ、お世話になります」

 

「ああ」

 

 士郎はいつも通りに頷いた。

 

「そうしろ」

 

     ◇

 

 夕飯は、すき焼きになった。

 

 人数が人数なので鍋も大きい。

 

 食卓の中央で肉と野菜が煮え、湯気と甘辛い匂いが居間いっぱいに広がっている。

 

「マリア」

 

「何だ」

 

「その前に風呂」

 

「飯が先では駄目か」

 

「駄目」

 

「なぜ」

 

「土埃まみれだから」

 

「落としたぞ」

 

「どこを?」

 

 マリアは袖を見る。

 

「少し」

 

「風呂」

 

「はい」

 

 風呂から戻ったマリアが席についた頃には、鍋の中身がちょうど食べ頃になっていた。

 

 セイバーの箸が速い。

 

 リーゼリットは白菜を大量に取っている。

 

 セラはそれを注意しながら、自分の分もしっかり確保していた。

 

 凛が肉を取ろうとする。

 

 その直前。

 

 横から箸が伸びた。

 

「あ」

 

 肉が消えた。

 

 マリアの器に入っている。

 

「…………」

 

「…………」

 

「今の私のだったんだけど」

 

「そうなのか」

 

「返しなさいよ」

 

「もう入れたぞ」

 

「まだ食べてないでしょうが!」

 

 マリアは少し考え、肉を箸で摘んだ。

 

「返そうか」

 

「人の器に一回入れたやつを戻すな!」

 

「難しいな」

 

「何がよ!」

 

 マリアは肉を食べた。

 

「おいしい」

 

「でしょうね!」

 

 その隣で、士郎が豆腐を取る。

 

 マリアの目が止まった。

 

「あ」

 

「何だよ」

 

「それ」

 

「豆腐?」

 

「ああ」

 

「お前が買ってきたやつだぞ」

 

「そうか」

 

 マリアも一つ取った。

 

 食べる。

 

「うまいな」

 

「そりゃよかった」

 

「私が買った」

 

「知ってるよ」

 

「頼まれたからな」

 

「……ちゃんと買ってきたのは偉いけどさ」

 

 マリアは満足そうに、もう一つ取った。

 

 桜がそれを見て笑う。

 

 今度は、さっきより少しだけ自然だった。

 

     ◇

 

 夕食が終わると、桜はいつものように台所へ立った。

 

「今日はいいぞ」と士郎は言ったが、桜は首を振った。

 

 何かをしていた方が落ち着くのだという。

 

 ならば無理に止めることもない。

 

 二人で皿を洗い、マリアは拭く係を任された。途中で一枚危うく落としかけたので、士郎から「両手で持て」と注意され、それ以降は素直に従った。

 

 やがて、いつもなら桜が帰る時間になった。

 

 玄関には、桜の鞄が置かれている。

 

 桜は一度だけそちらを見た。

 

 けれど、取りには行かなかった。

 

「桜」

 

「はい」

 

「明日の朝、何食べたい?」

 

 士郎に聞かれ、桜は少し驚いた。

 

「私が作りますよ?」

 

「泊まりに来た日にまでやらなくていいって」

 

「でも……」

 

「明日決めよう」

 

「…………はい」

 

 胸元へ手を置く。

 

 何もいない。

 

 まだ、その感覚には慣れなかった。

 

 間桐の屋敷はなくなった。

 

 祖父もいない。

 

 兄がこれからどうするのかも分からない。

 

 自分の身体に何が起きたのかさえ、まだ分からない。

 

 聖杯戦争も終わってはいない。

 

 明日になれば、また何かが起こるのかもしれない。

 

 それでも今夜だけは。

 

 帰らなくていい。

 

 桜は鞄から目を離した。

 

     ◇

 

 玄関が勢いよく開いたのは、それからしばらくしてだった。

 

「たっだいまー!」

 

 藤村大河の声が家中に響く。

 

「もう最悪! なんでこんな日に限って残業なのよー!」

 

「藤ねえ、おかえり」

 

「ただいま士郎! もうご飯ない!? 私お腹ぺこぺ――」

 

 居間に入る。

 

 鍋を見る。

 

 止まる。

 

「…………」

 

 鍋を見る。

 

 人数を見る。

 

 もう一度、鍋を見る。

 

「すき焼き!? 知ってたら早く帰ったのに!! なんですき焼きの日を私に教えないのよー!!」

 

「仕事中にどうやって教えるんだよ!」

 

「メールがあるでしょうが!」

 

「すき焼きにするって決めたの夕方だぞ!」

 

「なら夕方にメールしてよ!」

 

「仕事しろよ!」

 

 大河は残っている肉を見つけた。

 

「あっ、まだある!」

 

「大河」

 

「何、マリアさん!」

 

「それ、最後の肉だぞ」

 

「だから食べるの!」

 

 取った。

 

 食べた。

 

「おいしー!」

 

 マリアは感心したように大河を見る。

 

「大河はよく食べるな」

 

「マリアさんにだけは言われたくない!」

 

 桜が吹き出した。

 

 今度は、誰もそちらを見なかった。

 

 ただ士郎だけが少し笑って、空になった鍋を片づけ始める。

 

 その夜。

 

 いつもなら帰る時間を過ぎても、桜の靴は玄関に残っていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

TS憑依ゼンゼ(作者:TS好き)(原作:葬送のフリーレン)

幼少期のゼンゼに憑依した。▼とりあえず、死なないように頑張ろう。


総合評価:1878/評価:8.08/連載:15話/更新日時:2026年08月22日(土) 20:13 小説情報

超古代に『剣』の概念を生み出した男の話(作者:柴犬ダックス)(原作:Fate/)

タイトルそのまま。▼メソポタミア文明よりも以前の神代の黎明期。▼神獣達が大地を闊歩し、まだ人類が石器を用いてた時代に転生した主人公が、ガイアに『剣』の概念をブチ込む物語。▼


総合評価:1816/評価:8.75/連載:2話/更新日時:2026年08月15日(土) 00:11 小説情報

TS転生したら小鳥遊ホシノだったので青春を………Q.誰?お前?A.エーテリアスです(作者:如月トッポ)(原作:ゼンレスゾーンゼロ)

ある日、少年だった人物は見知らぬところで目を覚ました、▼よく見てみるとなんとブルアカの小鳥遊ホシノに転生していた!?▼けれど、転生先はブルアカでは無いようで……▼色々ちぐはぐすぎるこの主人公はこの終末世界でどう生きるのか………


総合評価:3641/評価:7.7/連載:18話/更新日時:2026年09月23日(水) 22:46 小説情報

傲慢の魔女『フラン』(作者:オド・ラグナの対義語)(原作:Re:ゼロから始める異世界生活)

私は『傲慢の魔女』、フランダース・スカーレット。495歳まであと90年くらいの約400歳児。フランドールほどの狂気はないけど、頑張るよ。──これはよくある転生をした一人の少女の物語。  


総合評価:3592/評価:8.18/短編:9話/更新日時:2026年06月11日(木) 18:23 小説情報

ミレニアム首席技術者ノルムーなのだ!!!(作者:モコマリ)(原作:ブルーアーカイブ)

「ミレニアム首席技術者!ノルムーなのだ!!」▼火急の案件を終え久しぶりの帰宅、次の日はようやく推しの実装日!!さぁさっさと寝よう…と思っていたら・。▼これはノルムー(見た目だけ)転生してしまった一般男性?が、キヴォトスでおもしろおかしくトラブルに巻き込み巻き込まれて行く…そんなストーリー


総合評価:3642/評価:8.24/連載:12話/更新日時:2026年09月15日(火) 17:30 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>