「どうして!どうしてこうなってるのよ!!」
柳洞寺の一室に、女の悲鳴じみた声が響いた。
時は深夜である。
当然ながら、寺の者たちは既に寝静まっている。
だからこそ、キャスター――メディアは辛うじて声を抑えずに済んでいた。
もっとも、あまり大声を出し続ければ、いずれ誰かが起きてくるだろう。
それは分かっている、分かっているのだが。
「おかしいでしょう……!どう考えても、おかしいでしょう、こんなの……!」
目の前には、水鏡が浮かんでいた。
そこに映るのは、冬木市の一角に建つ日本家屋。
セイバーのマスターと思われる魔術師の拠点。
今やメディアにとって、頭痛の種そのものとなった場所である。
そもそも、事の始まりは朗報だった。
“バーサーカー敗退”
あの規格外の英霊が、聖杯戦争から脱落したのだ。
十二の命を持ち、並大抵の攻撃では傷一つ負わない大英雄。
正面から挑むなど愚の骨頂であり、メディアとしても、できることなら最後まで関わり合いたくない相手だった。
それが消えた。
喜ばしい、実に喜ばしい。
少なくとも、最初はそう思っていた。
「なのに、どうしてバーサーカーのマスターがあの家にいるのよ……」
アインツベルン。
聖杯戦争の御三家の一角を担う、由緒ある魔術師の家系。
その一族から送り込まれた少女が、敗北したにもかかわらず、敵対していたはずのセイバー陣営に身を寄せている。
しかも、一人ではない。
従者と思しき女たちまで連れていた。
敗北したマスターが生き残ること自体は、別段おかしくない。
聖杯戦争とはいえ、敗者が必ず殺されるわけではない。
そういった者は、中立の聖域たる教会へ保護を願い出るものだ。
問題は、その行き先だった。
かの家にはセイバーがいる。
そして、そこへ別のサーヴァントと、そのマスターであると思しき少女の魔術師も出入りしている。
つまり、外から見れば、複数の陣営が一か所に集まっているのである。
「おそらくは、場当たり同盟を組んで、バーサーカーを倒した。それだけなら分かるわ。ええ、分かる。厄介な敵を排除するための共闘なんて、珍しくもないもの」
メディアは自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、倒した相手のマスターまで迎え入れる必要がどこにあるのよ?」
もちろん、理由はいくつも考えられる。
人質。保護。
御三家の一角たる、アインツベルンから情報を引き出すため。
あるいは、彼女自身が何らかの取引材料を持っている可能性もある。
問題は、どれなのか分からないことだ。
そして、それ以上に。
「……あの女まで、いるのよね」
メディアは水鏡を睨んだ。
そこに映っているのは、静かな夜の外観だけである。
今、この瞬間に誰が何をしているのかまでは分からない。
この家屋には魔術的な防御が施されていた。
誰が、いつ、何のために設けたものなのか。
そこまでは判然としない。
だが、使い魔を近づけて屋内を探ろうとすれば、容易には踏み込めないことだけは確かだった。
無理に突破を試みれば、こちらの監視を悟られる危険がある。
相手が一人なら、それでも構わない。
しかし、複数のサーヴァントがいるかもしれない屋敷に対して、迂闊な挑発をする理由はなかった。
したがって、今のところ得られる情報は屋敷の外側に限られる。
誰が出入りしたか、その程度だ。
それでも、ひとつだけ確実に分かったことがある。
例の女が、あの屋敷に出入りしている。
そして、どうやら追い払われてはいない。
「……まりあ」
メディアは、その名前を口にした。
奇妙な響きだった。
いや、名前そのものは別に奇妙ではない。
奇妙なのは、それを知った経緯である。
*
最初の遭遇は、夜の山門だった。
アサシンから、見慣れない女が現れたとの報告を受けた。
魔術師らしき気配は薄い。
しかし、ただの人間とも思えない。
そんな曖昧な報告だった。
山門は自陣営の守りの要である。
聖杯戦争の最中に、正体不明の者を無条件で通すわけにはいかない。
彼女はアサシンに排除を命じた。
そして、見事に女は首を斬り落とされた。
そこまではよかった。
問題は、その後である。
死んだはずの女が、また現れた。
再び山門に立ち、まるで何事もなかったかのように振る舞っていたのだ。
アサシンは再度、その首を斬り落とした。
確かに斬った、見間違いではない。
ところが、女はまた戻ってきた。
「…………」
あのときのことを思い出すだけで、メディアは眉間を押さえたくなる。
再生能力、不死性、身代わり、幻術…
思い当たる可能性はいくつもあった。
だが、どれも決め手に欠ける。
少なくとも、アサシンが二度にわたって仕留めた相手が、平然と山門に戻ってきたという事実だけは動かしようがなかった。
ならば、三度目を試すべきか。
メディアはそう考え、そして思いとどまった。
殺しても戻ってくる相手を、同じ方法で何度殺したところで意味があるのか。
まして、その女は積極的に寺を攻めようとしている様子でもなかった。
山門の向こうを気にしている。
何かを探しているようにも見える。
だが、聖杯を求めるマスターの態度とは、どうにも違う。
アサシンを突破するための策を練るでもなく、こちらの戦力を探るでもない。
ただ、妙に好奇心が旺盛だった。
結局、メディアはそれ以上の交戦を控えさせた。
女は帰っていった。
また来るようなことを言い残して。
その言葉を、メディアは警戒していた。
そして数日後。
女は本当に現れた。
*
「……普通、来る?」
メディアは小さく呟いた。
来ると言ったのだから、来ること自体は不思議ではない。
しかしこの時、日中。
まさに白昼堂々であった。
寺には参拝客がいるし、住職も、寺の者たちもいる。
葛木宗一郎も、場合によっては顔を出す。
そんな場所へ、あの女はごく普通にやってきた。
しかも、参拝客として。
メディアは当然、その動向を見張っていた。
(また山門で騒ぎを起こされては困るわね)
まして、二度も首を斬り落とされて平然としている相手である。
正体が分からない以上、むやみに刺激するべきではない。
それに、今度は昼間だ。
無駄な損耗を抑えるために、寺の人間を巻き込むような戦闘はできる限り避けたかった。
そんなキャスターの内心とは裏腹に、女は境内を堂々と歩いた。
建物を眺めたり、景色を楽しんでいるようだった。
そして、一通り観光していくと、女は何事もなく帰っていった。
実に平和だった。
平和すぎて、かえって不気味だった。
だが、彼女はひとつだけ、確かなものを残していった。
参拝者の記帳簿である。
メディアは机の引き出しを開けた。
取り出したのは、一冊の帳面。
その目的の頁を開く。
そこには、他の参拝者たちの名前に交じって、ひらがなで三文字。
『まりあ』
「…………」
メディアはそれを見つめた。
丸みを帯びた文字だった。
特別な暗号もない。
魔術的な細工や呪詛も、少なくとも見た限りではない。
ただの名前。
それも、姓すらない。
「……ご丁寧に、記帳までしていくなんて」
思わず口から漏れた。
もちろん、この名前が本名である保証などどこにもない。
偽名かもしれないし、適当に書いたのかもしれない。
それでも…
二度首を斬り落としても死ななかった女が、昼間に寺へ観光に来て、参拝者名簿へ律儀に名前を書いて帰ったのである。
何をどう考えればよいのか。
メディアには分からなかった。
「何なのよ、コレ…ほんと、何なのよ…」
当たり前だが、帳面は答えてくれない。
ただ、そこには相変わらず『まりあ』と書かれている。
メディアはそっと帳面を閉じた。
そして、深いため息をついた。
*
また厄介なのは、その女の足取りが柳洞寺だけで終わらなかったことだ。
ある時の間桐家。
冬木に根を張る、魔術師の家系。
聖杯戦争に関係する以上、キャスターも当然、注意を払っていた。
間桐の屋敷の周辺にも使い魔を配し、目立たぬよに動きを探らせていたのである。
そして、その日。
監視網が、あの女の姿を捉えた。
“まりあ”
柳洞寺の山門で二度死に、昼間には参拝者名簿に堂々と名前を残していった訳のわからない女。
その女が、間桐邸へ向かっていた。
それも、メディアが把握する限り、二度目の訪問だった。
「間桐とも、関係がある……?」
最初は、そう考えた。
衛宮邸へ出入りしているだけなら、偶然という可能性もあった。
だが、間桐にまで接触しているとなれば、話は違う。
複数の陣営を渡り歩く交渉役か。
あるいは、どこかの陣営が放ったサーヴァントか。
どちらにせよ、調べる価値はある。
そう判断して監視を続けた。
そして。
屋敷は崩れた。
「…………は?」
そのとき、メディアは本当にそんな声を漏らした。
使い魔が伝えてきた光景を、すぐには理解できなかったのである。
間桐の邸宅が倒壊していた。
古くから魔術師が住まう工房が、見るも無惨な有様になっていた。
何が起きたのか。
どんな攻撃を受けたのか。
屋敷の内部で何らかの術式が暴走したのか。
それとも、まったく別の原因なのか。
使い魔が捉えたのは、あくまで外から見えた光景だけだ。
倒壊の原因を断定できる材料はなかった。
まして”あの女”が直接破壊したところを目撃したわけでもない。
だが、女は訪れた。
そして、屋敷は崩れた。
この二つの事実が並んでしまった。
「偶然、かしら…」
偶然ということもあるかもしれない。
そんな事もあるだろう。
魔術師の屋敷が倒壊するなど、そう頻繁に起きることではないが。
しかも、訪問者は二度首を斬り落としても死なない女だ。
メディアは考えた。
考えた末に、結論を出した。
“まったく分からない”
それだけだった。
*
「……本当に、何者なのよ」
現在に戻り、メディアは水鏡を見つめた。
衛宮家
複数のサーヴァントが、一つの屋敷を拠点として行き来している。
聖杯戦争は、最後の一騎になるまで殺し合うものだ。
一時的な共闘なら理解できる。
だが、敗北したマスターまで迎え入れて、一つ屋根の下に集まるとなれば話は別だった。
彼らがどの程度協力しているのかも、未だ不明。
複数の陣営が共同で行動したからといって、恒久的な同盟を結んだとは限らない。
バーサーカーのマスターがそこにいるからといって、彼女が完全に味方になったとも限らない。
“まりあ”と名乗る女に至っては、そもそも何を目的としているのかすら分からない。
ならば、現時点で屋敷を襲うべきではない。
それは極めて正しい判断であった。
敵の内情が見えないまま、複数の英霊を相手に戦いを挑むなど、あまりに危険すぎる。
「……衛宮士郎」
マスターが教鞭を取る学園の
家主と思われる、セイバーのマスター。
まだ若い未熟な魔術師。
本人だけを見れば、最も手を出しやすい相手だろう。
だが、問題はセイバーだった。
あの剣士の対魔力は、並の魔術では突破できないほど高い。
三騎士には対魔力のクラススキルが備わっているが、その中でもセイバーのそれは別格であると分析していた。
魔術師である自分にとって、正面から相手をするにはあまりにも分が悪い。
アーチャーにも対魔力はある。
セイバーほどではないにせよ、未知の宝具や戦闘能力を考えれば、軽視できる相手ではなかった。
それに、ライダーの動向も気に掛かる。
間桐の屋敷が倒壊した今、あの陣営がどうなっているのか、確かなことは分からない。
ランサーも同様だった。
序盤に姿を現した槍兵は、その後、目立った動きを見せていない。
マスターが誰なのかも、依然として不明である。
アサシンは山門を守っている。
自分たちの守りは健在だ。
しかし、守りが堅いだけでは聖杯は手に入らない。
いずれは攻めに出なければならない。
そのためには、まず敵を分断する必要があった。
だが、どうやって?
メディアは再び、水鏡に映る衛宮邸を見つめた。
そして、意識は自然ともう一人の人物へ向かった。
“まりあ”
あの女が弱いとは、到底思えない。
むしろ、どのような手段なら対処できるのかすら分からない相手だ。
そもそも、サーヴァントかどうかすら不明。
しかし、少なくとも彼女は、自分から柳洞寺へ足を運んできた。
それも、二度首を斬られた後で。
「敵の懐に踏み込むより…場合によっては、向こうから来てもらう方が賢明、かもしれないわね」
メディアは静かに呟いた。
「キャスター」
すると、背後から声がした。
振り返ると、襖の向こうに葛木宗一郎が立っていた。
「……宗一郎様」
「まだ起きていたのか」
「え、ええ…少し、考え事を」
葛木は室内に目を向けた。
水鏡。
散らばった資料。
そして、机の上に置かれた参拝者名簿。
彼はそれらを一瞥したが、特に問いただそうとはしなかった。
「難航しているようだな」
「……少々、予想外のことが重なりまして」
「そうか」
短い返事だった。
葛木はそれ以上、戦況を尋ねなかった。
メディアも、あえて説明しなかった。
(この人は、魔術師ではない)
聖杯戦争について最低限必要なことは伝えているが、英霊同士の駆け引きや魔術の細部まで理解する必要はない。
それでも、彼は自分のマスターとして、ここにいてくれる。
その事実だけで十分だった。
「無理はするな」
葛木が言った。
「……はい」
「休めるときには休んでおけ」
「分かりました」
メディアは微笑んだ。
つい先ほどまでの苛立ちが、少しだけ薄らいでいく。
葛木は頷くと、静かに襖を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
メディアは、しばらくその方向を見つめていた。
そして、もう一度、水鏡へ目を戻した。
(この場所を守りたい。宗一郎様と過ごす、この日常を)
そのために聖杯が必要なのだと、メディアは考えている。
ならば、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「……あの”まりあ”とか言う女を、もう少し調べる必要があるわね」
メディアは水鏡に映る衛宮邸を見つめた。
本来なら、互いに聖杯を争うはずの者たちが、一つの屋敷に集まっている。
その中に、あの女がいた。
“まりあ”
「……妙ね」
メディアは考え込んだ。
あの女は、どの陣営の人間なのか。
少なくとも、あの家では敵として扱われていない。
屋敷の者たちと連れ立って外出し、気安く言葉を交わしている姿も確認できた。
単なる居候にしては、妙な立ち位置だった。
「……ひょっとすると、使えるかもしれないわね」
もっとも、何に使えるのかは、まだ分からない。
だからこそ、調べる必要がある。
今すぐ捕らえるつもりはない。
そもそも、何もわからない状態で確実に捕らえられるかどうかさえ怪しい。
だが、相手を知れば、利用できるものが見つかるかもしれない。
「……まずは、あなたからね」
メディアは静かに微笑んだ。
その視線が、机の上の参拝者名簿へ向かう。
開かれた頁には、ひらがなで三文字。
『まりあ』
「せっかく名前を教えてくれたんですもの。もう少し、お付き合いしてもらうわよ」
神代の魔術師は帳面を閉じた。
柳洞寺の夜は、静かに更けていった。