衛宮邸の電話が鳴ったのは、居間にいた凛が、テレビの脇へ置かれた取扱説明書を開いたところだった。
聞いていたよりも、随分と厚い。
士郎は出かける前に、録画の予約など簡単だと言っていた。ならば、その簡単な操作を済ませてから出かければよかったのではないか。そう考えていたところへ電話まで鳴り始めたので、凛は説明書を伏せ、廊下へ出た。
「はい、衛宮です」
受話器の向こうから、落ち着いた女の声がした。
「はい………はい」
背筋が伸びた。
先ほどまで説明書へ向けていた不満も忘れ、相手の名乗りと用件を聞き終える。それから受話器を手で覆い、居間へ声をかけた。
「マリア、あなたに電話。時計塔の法政科からよ。あなた、何かやらかしたの?」
座卓に広げた新聞から顔を上げ、マリアは少し考えた。
「知らんが、分かった。とりあえず出る」
「もう……冷や汗かいちゃったじゃないの」
受話器を渡した凛は、すぐには居間へ戻らなかった。何事かと様子を窺うその横で、マリアは受話器を耳に当てる。
「代わったぞ」
『お久しぶりです、マリアさん』
「……化野か」
聞き覚えのある声に、女は眉を動かした。
「なぜここの電話番号を知っている」
『そんな事ですか。朝食をいただく前でも、容易な事です』
凛が、何とも言えない顔をした。
マリアは彼女を一度見てから、受話器へ向き直る。
「そうか。それで、私に何の用だ?」
『あなたから照会のあった件です。バゼット・フラガ・マクレミッツ。彼女の任務歴と、現地で接触し得る関係者について』
「ああ。何か分かったのか」
新聞を読んでいた時の気安さが、その声から消えた。
『まず、こちらでも彼女の所在は確認できていません。帰還も、死亡も、です。冬木へ入った後の足取りが途絶えたままという状況に、変わりはありません』
「そちらからも調べているんだな」
『行方不明のまま、処理を終えるわけにはいきませんので。彼女自身はもちろん、彼女が携えているものについても、所在を確かめる必要があります』
マリアは受話器の線へ落としていた視線を上げた。
「死体でも構わない、ということか」
『生きているなら、それに越したことはありません。ただ、そうでなかった場合にも、回収すべきものはあるでしょう』
穏やかな返答だった。
伝承保菌者。その身と共に受け継がれてきたものを、本人の消息が途絶えたからという理由で放置するつもりはないらしい。
「私は、生きている方を見つけたいがな」
『ええ。ですから、引き続き捜索をお願いしたいのです。何か分かれば、こちらにもご連絡を』
マリアは短く了承した。今のところ、探す場所は同じだ。
『それから、関係者について一人。冬木の聖杯戦争で監督役を務めている、言峰綺礼という人物はご存じですね』
「会ったぞ。バゼットのことも聞いた」
『では、お話は早い。彼と彼女には、以前から面識があります。言峰氏が代行者として活動していた頃、任務上で接触した記録がありました。協力したことも、対立したこともあるようです』
マリアは黙った。
教会で会った神父は、バゼットが手続きのために訪れたことは認めていた。それ以上は知らないと、居所についても曖昧な答えを返している。
「……以前からの知り合いとは、聞いていないな」
『そうでしたか』
「ほかには?」
『今お伝えできるのは、そこまでです。古い記録が、そのまま現在の関係を示すとは限りませんから』
分かっている、とマリアは答えた。
知り合いだった。それだけで、今どこにいるかまで知っているとは限らない。
ただ、改めて聞くことはできた。
「助かった。何か分かれば、こちらからも知らせる」
『よろしくお願いします。どうぞ、お気をつけて』
通話が切れた。
受話器を戻すと、まだ廊下にいた凛と目が合った。
「……何かやらかしたわけじゃないのね?」
「ああ。探し人の件だ」
「なら、最初からそう言ってほしいわよ」
凛は息をつき、居間へ戻っていった。
座卓へ戻ったマリアは、開いたままの新聞へ目を落としたが、しばらくその続きを読まなかった。
◇
赤い穂先が、喉元を狙って伸びた。
アーチャーは半身を引いてかわし、槍の柄へ白い刃を沿わせる。押し流すつもりで加えた力は、しかし、手応えになる前に逃げた。
引き戻された槍が低く走る。
膝を狙った一撃を黒い剣で受けると、腕を痺れさせる衝撃と共に、靴底が舗装を削った。
「どうした。下がってばかりじゃ、いつまで経っても届かねえぞ」
ランサーは笑っていた。
その口調とは裏腹に、槍先には遊びがない。頭、喉、胸。守りの動きを誘いながら、次の一撃が既に別の急所へ向かっている。
左右を建物に挟まれた路地で、長柄の得物が扱いづらいなどという期待は、とうに捨てていた。男は壁際の僅かな空間まで使い、槍を短く持ち替え、時には石突きさえ交えて間合いを守る。
双剣の届く場所へ踏み込むには、もう一手、必要だった。
「その割には、随分と攻めあぐねているようだが」
「言ってろ」
槍が止まった。
そう見えた瞬間、アーチャーは身を沈めていた。
直前まで頭のあった場所を穂先が貫き、背後の壁を削る。その下を潜り、右の剣を胴へ振り抜く。
ランサーが槍の柄で受けた。
刃と柄が噛み合うより早く、左の剣が反対側から首へ迫る。青い影が後ろへ跳び、切っ先が髪を掠めた。
離れた距離を、互いに一歩で詰め直す。
「バゼットという女を知らないか」
場違いな声に、二人の足が止まった。
ランサーが身を捻り、アーチャーも片方の剣を声の方へ向ける。互いを視界から外さぬまま、路地の入口へ鋭い視線を走らせた。
そこに、マリアがいた。
片手には、中身の詰まったビニール袋。もう片方の手には、包み紙にくるまれたコロッケがある。
女は二人に見られていることに気づくと、咀嚼を終え、口の中のものを飲み込んだ。
「……お前、何やってんだ?」
ランサーの視線が、女の顔からコロッケへ落ちた。
「買い物だ。貴公に聞きたいことがある」
「ちょ、こっちは戦ってんだ!」
槍先で示されたアーチャーへ、マリアも目を向けた。彼はまだ剣を構え、こちらを窺っている。
それを確かめた女は、再びランサーを見た。
「バゼットという女を知らないか」
「だからうるせぇ!!」
「油断するとは、笑止!」
ランサーの意識が逸れた瞬間、アーチャーは踏み込んでいた。白い刃が、槍を持つ腕へ振り下ろされる。
「クッソ! このやろう!」
ランサーは柄を跳ね上げて剣を弾き、その勢いのまま身体を捻った。脇腹へ迫るもう一刀をかわし、蹴りを放って間合いを開ける。
マリアは巻き添えにならないよう半歩下がり、二人の得物が離れるのを待った。
「バゼットという女を知らないか」
「あー!!!うるせぇ!!!」
怒鳴りながら繰り出した槍が、双剣に挟まれた。
金属音が路地に響く。押し込もうとするランサーへ、アーチャーは刃の角度を変えた。柄を滑り落ちるように、白い剣が男の指へ迫る。
ランサーは槍を引き抜き、大きく後ろへ跳んだ。
「待て!アーチャー!ちょ、だから!待て待て!!」
「殺し合いに待て、とはな。度し難いな、ランサー」
「良いから!ちょ、待って!……おい!お前!」
穂先をアーチャーへ向けたまま、ランサーが横を睨む。
マリアはコロッケから顔を上げた。
「なんだ?バゼットの行方か」
「ちげえ!!この勝負が終わるまで、そこで座って待ってろ!」
「良いが、いつまで待つんだ?」
「知るか!コイツに聞け!!」
マリアの視線が、赤い外套の男へ移った。
「いつまでやるんだ?」
「…知らん」
アーチャーは双剣を構えたまま答えた。
女は頷き、再びランサーを見る。
「だそうだ。で、バゼットという女を知らないか?」
「だぁぁぁぁぁ!!!!!もういや!!やめ!やめやめ!!」
ランサーが槍を立てた。
その様子を見て、アーチャーも追い打ちを止める。ただし、剣は下ろさなかった。
「どうした、逃げるのか? ランサー」
「そうだ、逃げるのは良くないぞ。ランサー」
「がぁぁぁぁ!!おめーのせいだろうが!!」
マリアは目を瞬いた。
「えっ、そうなのか?」
「…まあ、そうだろうな。正直、私も邪魔に思っていた」
「お前もそうなんじゃねーか!!」
ランサーの声が、両側の壁に反響した。
マリアは二人を見比べ、それから手元のコロッケへ目を落とす。
「そうだったのか……その、すまない」
素直に頭を下げると、路地の端へ歩いていった。
壁際へ袋を置き、外套の裾をまとめて腰を下ろす。両膝を抱えるようにして座った女は、その膝の上でコロッケの包み紙を開き直した。
アーチャーは、女の隣に置かれた袋へ目を向けた。
「そのパンパンの袋はなんだ?」
「商店街で買い物をしたら、どこもおまけをくれるんだ。みな、暖かいな」
袋の口からは長葱が突き出し、その下には幾つもの包みが詰め込まれていた。細い持ち手が、今にも伸び切りそうになっている。
マリアは満足そうに袋を眺めた。そしてその後、コロッケを齧った。
ランサーは黙っていた。
アーチャーも、何も言わなかった。
遠くの通りで、自動車の音が風に紛れて過ぎ去る。
「どうした、やらないのか?」
膝を抱えたまま、マリアが尋ねた。
ランサーは、深く息を吐いた。
「流石に興が冷めるな」
「…同意だ」
それでも、互いの得物はまだ消えない。
マリアは二人の顔を順に見上げたが、今度は黙って待っていた。残っていたコロッケを口へ運び、空いた包み紙を折り畳む。
ふと、ランサーの表情が変わった。
何か言いかけた口を閉じ、僅かに眉を寄せる。誰もいない場所へ視線を流したのは、ほんの一瞬だった。
「……ああ、分かったよ」
その返事は、ここにいる二人へ向けたものではなかった。
アーチャーの目が細くなる。
「呼び戻されたか」
「そういうこった。続きは、また今度だな」
ランサーは槍を肩へ担ぎ直した。アーチャーを捉えた目だけは、少しも緩んでいない。
数秒、互いの出方を見た後で、アーチャーが双剣を消した。
「……私も、戻る用事があった」
「へえ。そっちも呼び出しか?」
「いや。家主がマスターに頼んだ番組の録画を、そのマスターから頼まれていたのでね」
ランサーは、すぐには答えなかった。
「……なんだ、そりゃ?」
「私にも聞かないでくれ。弓兵を呼び出して、行き着く先の任務が録画係とはな」
アーチャーは路地の外へ目を向けた。
「放送が始まる前には、設定を済ませておかねばならん」
「律儀なこった」
「君も、待たせているのではないかね」
「言われなくても帰るさ」
ランサーは肩を竦めた。
それから、壁際に座ったままのマリアへ顔を向ける。
「……で。お前は、なんで俺にその女のことを聞く?」
ようやく話を聞く気になったらしい。
マリアは折り畳んだ包み紙を袋へしまい、立ち上がった。
「バゼットは、聖杯戦争に参加するためにこの街へ来た。それから、行方が分からない」
「それが、俺とどう繋がる」
「セイバー、アーチャー、ライダー、バーサーカーのマスターは知っている。アサシンも場所は知ってる。そちらにも当たれる」
袋の持ち手を拾い上げると、中の包みが擦れ合った。
「まだ分からないのは、キャスターと貴公だ。バゼットのサーヴァントなら、何か知っているかと思った」
ランサーは答えなかった。
「違ったとしても、どこかで会っているかもしれない。だから、聞きたかったんだ」
マリアは、男の顔を見ていた。
急かしもしなければ、先ほどのように同じ問いを繰り返すこともしない。
ランサーは一度、視線を外した。
帰還を命じた相手は、待っている。
肩に担いだ槍を持ち直し、男は路地の出口へ身体を向けた。そのまま歩き出すかに見えたが、一歩目を踏み出す前に、口を開いた。
「今の俺が言えんのは一つだ。”教会に来い”、それだけだ」