時計塔にいる、時計塔のマリアさん(偽)   作:アスタロット

3 / 19
カレー屋にいる、時計塔のマリアさん(偽)

 

報告は短く、妙に平和だった。 

 

日本・東京都総耶区。


執行者マリア・アストラルが、聖堂教会・埋葬機関第七位と接触。交戦。双方生存。民間被害なし。 

——私用にて。

 

ロード・エルメロイⅡ世は、机の上の抄録を二度読んだ。
三度目で、指が止まった。

 

「……埋葬機関、だと?」

 

声が、思ったより低かった。
グレイが顔を上げる。

 

「師匠?」

 

「第七位…」

 

椅子の背に、体重がかかる。
アルビオンの生還でも、紙袋事件でも、ここまでは来なかった。

協会が触れてはいけない場所がある。
政治でも、力でも、「止まれ」としか言いようのない領域だ。


埋葬機関。

 

教会の、さらに外側。

死徒を狩るために最適化された、少数の災害。
一人で街を消しうる、と本気で語られる連中である。

 

「あそこに名を連ねる者は、代行者の中の代行者だ。交渉のテーブルに乗らない。乗らないように作られている」

 

抄録の「双方生存」の文字を、もう一度見る。
目が痛むようだった。

 

「接触するな、が基本だ。見かけるな。名を出すな。運が悪ければ、記録からも消される」

 

「……なのに」

 

総耶で交戦。死徒反応なし。

確認の一合。
そして、そのあと飯。

Ⅱ世の喉が、からからに鳴った。

 

「なぜ生きて戻った。なぜ、その報告が“私用”の欄にある。なぜ、店名まで書いてある」

 

筆を折りそうになって、止める。額に、薄い汗。

 

「グレイ。これは呆れる案件じゃない」

 

「はい」

 

「恐怖する案件だ。あいつの規格外を、協会がまだ甘く見ている」

 

——もっとも、本報告がⅡ世の机に来るわけではない。
執行者の指揮系統は別だ。

届いたのは、特別講師の監督責任としての共有と、短い注意喚起にすぎない。
時計塔も教会も、本件を大事にしたくはないらしく、結果は不問。

小さく止める。
それでも、学部長の机には届く。

うちの講師が埋葬機関と刃を交えた以上は。

 

書斎の時計が、一つ鳴った。
Ⅱ世は抄録を伏せ、しばらく、窓の外を見ていた。

 

埋葬機関と刃を交えて帰ってきた執行者が、自分の教室に、また普通に来る。


その事実だけが、今夜の空気を重くしていた。

そして数日後——本人は、本当に普通に現れた。

 

 

話は少し戻る。

アルビオンから戻ったあと、マリアの肩は落ちたままだった。
協会が喜ぶ品々は接収され、本人の求めた血の遺志も血晶石も、そこにはなかった。
狩りを全うするための収穫がない。

それだけで、彼女の一日は薄くなる。

 

「次を、探す」

 

その言葉のあとに続いたのが、日本だった。
東京都内、総耶区。

駅から彼女の足は、迷わず繁華街へ向いた。

 

ボーボーカレー総耶店。

 

夜でも照明が白く、壁の黄と黒が目に刺さる。
ステンレスの皿にフォークが刺さる金属音がする。

カウンターの奥では、黒いルーが湯気を上げている。
キャベツの容器が、お代わり用に手前へ出されている。
ボルゾイの絵がメニュー表の端で舌を出し、「一粒残さず」と書かれた紙が、少し斜めに貼ってあった。

入口で、店員の声が一つ上がった。

 

「いらっしゃい……あ、どうもです」

 

羽付きの帽子。金糸の刺繍に彩られた豪華な衣装。
総耶の繁華街では、明らかに浮いている。
それでも店員は、慣れたように首を下げた。

“たまに来る、豪華な格好のすごい美人”

レトルトもよく買う。

顔は完全に覚えられている。

 

「ワールドチャンピオン。キャベツ、多めに」

 

短く、淡々と。
席に着くと、狩装束の金糸が店内の明るさに浮かび上がる。

 

——そこに、もう一人が入ってきた。

青みを帯びた髪。眼鏡。落ち着いた私服。
シエルは、ドアの開閉とともに店内の匂いを吸い込んで、足を止めた。

最初に来たのは、目ではなかった。

血の匂いだ。

傷のそれではない。今ついた生々しい出血でもない。
何度も浴びて、洗い、また浴びて、染み込んだ——常習の血の気配。
狩る側がまとう、乾ききらない鉄と、古い赤の残り。

死徒のそれとも違う。
腐敗した呪詛がない。

食欲の方向へ寄らない。
なのに、濃い。

 

そして、もう一つ。

血の下に、冷たい層がある。
名前のつけられない、夜の匂い。
花のようでもあり、石のようでもあり、遠くの空のようでもある。
血腥さを打ち消すのではなく、その横に静かに乗っている。

 

シエルの喉が、わずかに鳴る。

 

(人外だ。……死徒の気配は、ない。
なのに、血に濡れている。夜の匂いがする)

 

黒鍵に指をかけそうになって、止める。
神聖なカレー屋だ。民間人がいる。

それに——この店は、自分が定期的に巡回している店の一つでもある。

 

相手は、すでにこちらを見ていた。
帽子の影で表情は読めないが、敵意というより、観察に近い視線。

 

「……協会の方ですか?」

 

「そうだ…あなたは代行者か?」

 

「はい」

 

短く、確認し合う。
殺意は、まだない。

店の明るいBGMが、二人の言葉を薄める。

シエルは、自分の席へ坐った。
注文は、いつものように滑らかだ。

 

ワールドチャンピオンクラス。

 

二人のあいだに、ステンレスの皿が供される。

 

ステンレスの皿に、黒いルーが縁まで盛られる。

カツ、エビ、ウインナー、ゆで卵——トッピングが層になって、ご飯の白さが見えない。

湯気が太い。皿を置いた瞬間、卓上の空気が重くなる。

総重量は、一人前というより挑戦用。

 

「食事」より「山」に近い。


先に舌に来るのは辛さではなく、煮込みの時間だ。

カツの衣は油を抱えすぎず、ソースの甘みが表面だけを締める。
キャベツの千切りを挟むと、口の中の熱が一度整理される。
——構成が、計算されている。

ご飯は粒が残り、ルーを吸っても崩れない。
爆盛でありながら、一口ごとに役割が分かれている。

 

(……美味しい。この店の、中心はルーですね。トッピングは引き立て役)

誰にも言わない。
フォークだけが、静かに進む。

向かいでは、銀髪の帽子女も黙って食べている。

 

皿が来る。黒い。熱い。量がある。
フォークを立てる。

——ほう。

濃い…匂い立つなぁ。


いかにも、飯らしい飯だ。

衣を割る。肉の熱が来る。
キャベツを足す。油が切れる。また進める。

(こういうのでいい。こういうので。狩りが終わったあとの、正しい報酬だ)

長時間煮込まれた漆黒のカレールゥが食欲を刺激して、フライを次々に胃袋へ放り込む。


あえて素晴らしさは口にしない。 

 

底が見えるまで、フォークを握る手は止まらない。

外から見れば、ただの目立つ二人だ。
貴族じみた装いの美女と、眼鏡の女性が、爆盛カレーを黙々と平らげている。


会話はない。感想もない。


フォークの音と、皿の縁に当たる金属音だけが、規則正しく続く。

 

シエルがキャベツをお代わりする。
マリアも、黙って追従する。

 

「……キャベツお代わり」

 

「キャベツのお代わり、お願いします」

 

それだけのやり取りで、また沈黙に戻る。
敵対組織。死徒反応なしの人外。

血の匂い。夜の匂い。
しかし、今はカレーが優先されている。

 

皿の底が見えたころ、シエルはフォークを置いた。

 

「不死の執行者。たびたび日本に来ていると記録には、ありますが——」

 

「確認、か」

 

「はい」

 

店を出る。
繁華街の裏路地。

シエルが指を一つ動かすと、人の流れが自然とその角を避ける。

喧騒が遠のく。
一般人に、被害は出ない。

 

黒鍵が、指の間に滑る。指先が、わずかに白い。

 

「死徒の気配は、ありません。……ですが、尋常ではありませんね」

 

マリアは何処からか取り出した落葉の柄に、手を置くだけだった。

 

「……!!」

 

黒鍵が放たれる。
距離、角度、タイミング、すべて正しい。
胸の中心を貫く軌道——間違い無く当たる。
しかし、手応えが来ない。

 

銀髪の女は、下がらなかった。
半歩、前へ滑る。

鍵の軌跡と体が交差する——交差したはずの位置に、もう彼女はいない。
いるのは、半歩近い距離。落葉の間合い。

 

シエルの喉が、小さく鳴った。

 

(当たった。今の、当たった)

 

続く二本。焦りを抑えて、接近と投擲を混ぜる。
マリアは再び前へ入る。斜め前だ。
軌道の外側へ回ると同時に、側面へ靴音が移る。

布を裂く感触はない。風だけが袖を揺らす。

 

「おかしい……」

 

声が、掠れる。
死徒の高速移動ではない。残像もない。空間の歪みもない。
防御膜の感触もない。
なのに、当てたはずの攻撃が、ことごとく空を切る。

回避のたびに、距離が縮まる。

下がらない。詰めてくる。

 

一度、黒鍵の柄が肩をかすめた。
布が裂け、浅い赤が滲る。
——通った、という安堵が、一瞬だけ胸をよぎる。

 

その安堵を、マリアが壊した。

一旦の間合いを取って、腰から小さなガラス瓶を抜く。
街灯を受けて、中の血が赤く透ける。

液面が暗く光る。

傾けると、縁を鮮やかな赤が走る。

彼女は徐に右の太ももに、瓶の先端を突き立てる。
短い音。液が沈む。

一切の澱みなく、忽ちにその動作を終えた。


抜くと、肩の傷の深さがすでに薄れている。

シエルの足が、半歩下がった。

 

「今——何を、したんですか」

 

「輸血液だよ。足りなくなった」

 

説明になっていない。
秘蹟でも、復元呪詛でも、教会の知っているどの回復でもない。
自分の脚に瓶を刺して、傷を消す女。

 

呼吸が、浅い。
黒鍵を握る手が、きつく締まる。

踏み込む。
確認を、終わらせなければいけない。
黒鍵を近接の刃のように扱い攻める。

マリアは受けない。
また前へ。
連撃の隙間をすり抜け、体が死角へ回る。
片手が、胸のあたりへ伸びる——急所を取る形。

シエルの背筋に、冷たいものが走った。
距離を戻すのが、かろうじて間に合う。

牽制の鍵を放つ。
届く距離。届くタイミング。

しかし通らない。

 

「なんで、当たらないの」

 

言葉が、意図せず口を衝く。
マリアのモーションが終わるまで、攻撃だけが空を切った。

 

両者、同時に止まった。

シエルの肩が、上下している。
黒鍵の先端が、ごくわずかに揺れていた。

 

「……死徒、ではありませんね」

 

自分に言い聞かせるように、言う。

 

「そうか」

 

「協会の執行者。記録以上です。でも、回避が——防御になっていない。下がらない。詰めてくる。当てた感触があるのに、傷がない」

 

言葉が、少し速い。

整理しきれていない。

マリアは瓶の破片を足元で踏み、落葉を収めた。

 

「避けて、詰める。それだけさ…まあ、狩りの相手では、なかったな」

 

短い沈黙。
シエルは黒鍵を袖へ戻す。

指が、一度滑った。

 

カレーの匂いが、風に乗っている。

 

「店は、まだ開いているか」

 

質問の日常さに、シエルの思考が一瞬、空白になる。

 

「……営業時間内なら、追加注文は、できます」

 

声の高さが、さっきより不安定だ。

 

「そうか。なら、戻るさ」

 

二人は、同じ方角へ歩き出した。


路地の壁には黒鍵の穴が残るだけ。

 

 

追加の皿のあと、店を出るころには、夜が深かった。


総耶の繁華街の灯りが、遠ざかる。

別れ際、マリアが立ち止まった。

 

「ガスコイン、という神父を知っているか」

 

シエルが、少しだけ首を傾げる。

 

「いえ。どなたですか?」

 

「何度も、何度も殺された。腕の立つ狩人だった」

 

「……あなたほどの方がそう言うなら、相当の手練れだったのですね」

 

「神父と聞いていたから、もしや、と思ったが」

 

「私の知る限りでは、そういった方はいません」

 

「そうか。ありがとう」

 

それだけだった。
説明はない。深追いもない。
シエルの中にだけ、名前が薄く残る。

 

(ガスコイン神父……代行者のデータ、照会してみようかしら)

 

後日、教会に問い合わせても、該当はなかった。
行方不明の代行者でも、記録に残る神父でもない。
ただの、知らない名前。
それでも、別れ際の声の温度だけが、妙に残った。

 

二人は敵対組織のまま。


死徒ではない異質者。
血の匂いと、夜の匂い。
なのに、食事の趣味だけは噛み合う。

それが、二人の関係の入口だった。

 

 

数日後、時計塔。

ロード・エルメロイⅡ世の書斎に、特別講師が普通に現れた。
手には、また紙袋。

Ⅱ世の顔が、引きつる。

 

「……生きて、戻ったな」

 

「ああ」

 

「埋葬機関だぞ。第七位だ。あそことは——」

 

「カレーが、濃かった。相変わらず素晴らしい」

 

言葉が、噛み合わない。
Ⅱ世が報告書の共有を振り回しても、返ってくるのは食事の話ばかりだ。

 

「ルーは深い。キャベツは足せる。ワールドチャンピオンは、とても良い実りだった」

 

「実り、だと……?」

 

「狩りが終わったあとの、飯だ。大事さ」

 

グレイが、師匠の横で小さく息を殺す。
Ⅱ世のこめかみが、ひくひく動いている。

やがて、紙袋が机の上に置かれた。
ボルゾイのパッケージ。

ボーボーカレーのレトルト。

 

「いつも話を聞いてもらっている礼だ」

 

「聞いていない!聞いていないだろう、私は!私用で埋葬機関と刃を交えて、生きて帰って、飯の話だけして——」

 

「また、来る」

 

短く、淡々と。
帽子の影で表情は読めない。
それでも、レトルトの角が、机の上で小さく光っていた。

 

Ⅱ世は、しばらく天井を仰いだ。
協会も教会も、本件を大きくしない。つまりは不問。小さく止める。


その判断は正しいのかもしれない。正しいからこそ、怖い。

規格外の執行者が、教室に戻ってくる。


カレーの話しかしない。
埋葬機関と一合交えたあとも、同じ顔で。

 

「……グレイ」

 

「はい」

 

「次に紙袋を見たら、中身を確認してくれ。レトルトカレーならまだいい。次は何が入っているか、もう分からない」

 

「……拙、努力します」

 

窓の外で、ロンドンの夜が静かに流れていた。
総耶の黒いルーの話は、まだ誰の公式記録にも、まともに載っていない。

——載らなくていい。
載らないまま、特別講師はまた日本へ行き、また戻ってくるのだろう。

 

Ⅱ世は、レトルトのパッケージを指で一つ弾いた。
ボルゾイが、舌を出して笑っているように見えた。

 

「……胃が、痛い」

 

誰にも届かない呟きだけが、書斎に残った。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。