報告は短く、妙に平和だった。
日本・東京都総耶区。
執行者マリア・アストラルが、聖堂教会・埋葬機関第七位と接触。交戦。双方生存。民間被害なし。
——私用にて。
ロード・エルメロイⅡ世は、机の上の抄録を二度読んだ。 三度目で、指が止まった。
「……埋葬機関、だと?」
声が、思ったより低かった。 グレイが顔を上げる。
「師匠?」
「第七位…」
椅子の背に、体重がかかる。 アルビオンの生還でも、紙袋事件でも、ここまでは来なかった。
協会が触れてはいけない場所がある。 政治でも、力でも、「止まれ」としか言いようのない領域だ。
埋葬機関。
教会の、さらに外側。
死徒を狩るために最適化された、少数の災害。 一人で街を消しうる、と本気で語られる連中である。
「あそこに名を連ねる者は、代行者の中の代行者だ。交渉のテーブルに乗らない。乗らないように作られている」
抄録の「双方生存」の文字を、もう一度見る。 目が痛むようだった。
「接触するな、が基本だ。見かけるな。名を出すな。運が悪ければ、記録からも消される」
「……なのに」
総耶で交戦。死徒反応なし。
確認の一合。 そして、そのあと飯。
Ⅱ世の喉が、からからに鳴った。
「なぜ生きて戻った。なぜ、その報告が“私用”の欄にある。なぜ、店名まで書いてある」
筆を折りそうになって、止める。額に、薄い汗。
「グレイ。これは呆れる案件じゃない」
「はい」
「恐怖する案件だ。あいつの規格外を、協会がまだ甘く見ている」
——もっとも、本報告がⅡ世の机に来るわけではない。 執行者の指揮系統は別だ。
届いたのは、特別講師の監督責任としての共有と、短い注意喚起にすぎない。 時計塔も教会も、本件を大事にしたくはないらしく、結果は不問。
小さく止める。 それでも、学部長の机には届く。
うちの講師が埋葬機関と刃を交えた以上は。
書斎の時計が、一つ鳴った。 Ⅱ世は抄録を伏せ、しばらく、窓の外を見ていた。
埋葬機関と刃を交えて帰ってきた執行者が、自分の教室に、また普通に来る。
その事実だけが、今夜の空気を重くしていた。
そして数日後——本人は、本当に普通に現れた。
話は少し戻る。
アルビオンから戻ったあと、マリアの肩は落ちたままだった。 協会が喜ぶ品々は接収され、本人の求めた血の遺志も血晶石も、そこにはなかった。 狩りを全うするための収穫がない。
それだけで、彼女の一日は薄くなる。
「次を、探す」
その言葉のあとに続いたのが、日本だった。 東京都内、総耶区。
駅から彼女の足は、迷わず繁華街へ向いた。
ボーボーカレー総耶店。
夜でも照明が白く、壁の黄と黒が目に刺さる。 ステンレスの皿にフォークが刺さる金属音がする。
カウンターの奥では、黒いルーが湯気を上げている。 キャベツの容器が、お代わり用に手前へ出されている。 ボルゾイの絵がメニュー表の端で舌を出し、「一粒残さず」と書かれた紙が、少し斜めに貼ってあった。
入口で、店員の声が一つ上がった。
「いらっしゃい……あ、どうもです」
羽付きの帽子。金糸の刺繍に彩られた豪華な衣装。 総耶の繁華街では、明らかに浮いている。 それでも店員は、慣れたように首を下げた。
“たまに来る、豪華な格好のすごい美人”
レトルトもよく買う。
顔は完全に覚えられている。
「ワールドチャンピオン。キャベツ、多めに」
短く、淡々と。 席に着くと、狩装束の金糸が店内の明るさに浮かび上がる。
——そこに、もう一人が入ってきた。
青みを帯びた髪。眼鏡。落ち着いた私服。 シエルは、ドアの開閉とともに店内の匂いを吸い込んで、足を止めた。
最初に来たのは、目ではなかった。
血の匂いだ。
傷のそれではない。今ついた生々しい出血でもない。 何度も浴びて、洗い、また浴びて、染み込んだ——常習の血の気配。 狩る側がまとう、乾ききらない鉄と、古い赤の残り。
死徒のそれとも違う。 腐敗した呪詛がない。
食欲の方向へ寄らない。 なのに、濃い。
そして、もう一つ。
血の下に、冷たい層がある。 名前のつけられない、夜の匂い。 花のようでもあり、石のようでもあり、遠くの空のようでもある。 血腥さを打ち消すのではなく、その横に静かに乗っている。
シエルの喉が、わずかに鳴る。
(人外だ。……死徒の気配は、ない。 なのに、血に濡れている。夜の匂いがする)
黒鍵に指をかけそうになって、止める。 神聖なカレー屋だ。民間人がいる。
それに——この店は、自分が定期的に巡回している店の一つでもある。
相手は、すでにこちらを見ていた。 帽子の影で表情は読めないが、敵意というより、観察に近い視線。
「……協会の方ですか?」
「そうだ…あなたは代行者か?」
「はい」
短く、確認し合う。 殺意は、まだない。
店の明るいBGMが、二人の言葉を薄める。
シエルは、自分の席へ坐った。 注文は、いつものように滑らかだ。
ワールドチャンピオンクラス。
二人のあいだに、ステンレスの皿が供される。
ステンレスの皿に、黒いルーが縁まで盛られる。
カツ、エビ、ウインナー、ゆで卵——トッピングが層になって、ご飯の白さが見えない。
湯気が太い。皿を置いた瞬間、卓上の空気が重くなる。
総重量は、一人前というより挑戦用。
「食事」より「山」に近い。
先に舌に来るのは辛さではなく、煮込みの時間だ。
カツの衣は油を抱えすぎず、ソースの甘みが表面だけを締める。 キャベツの千切りを挟むと、口の中の熱が一度整理される。 ——構成が、計算されている。
ご飯は粒が残り、ルーを吸っても崩れない。 爆盛でありながら、一口ごとに役割が分かれている。
(……美味しい。この店の、中心はルーですね。トッピングは引き立て役)
誰にも言わない。 フォークだけが、静かに進む。
向かいでは、銀髪の帽子女も黙って食べている。
皿が来る。黒い。熱い。量がある。 フォークを立てる。
——ほう。
濃い…匂い立つなぁ。
いかにも、飯らしい飯だ。
衣を割る。肉の熱が来る。 キャベツを足す。油が切れる。また進める。
(こういうのでいい。こういうので。狩りが終わったあとの、正しい報酬だ)
長時間煮込まれた漆黒のカレールゥが食欲を刺激して、フライを次々に胃袋へ放り込む。
あえて素晴らしさは口にしない。
底が見えるまで、フォークを握る手は止まらない。
外から見れば、ただの目立つ二人だ。 貴族じみた装いの美女と、眼鏡の女性が、爆盛カレーを黙々と平らげている。
会話はない。感想もない。
フォークの音と、皿の縁に当たる金属音だけが、規則正しく続く。
シエルがキャベツをお代わりする。 マリアも、黙って追従する。
「……キャベツお代わり」
「キャベツのお代わり、お願いします」
それだけのやり取りで、また沈黙に戻る。 敵対組織。死徒反応なしの人外。
血の匂い。夜の匂い。 しかし、今はカレーが優先されている。
皿の底が見えたころ、シエルはフォークを置いた。
「不死の執行者。たびたび日本に来ていると記録には、ありますが——」
「確認、か」
「はい」
店を出る。 繁華街の裏路地。
シエルが指を一つ動かすと、人の流れが自然とその角を避ける。
喧騒が遠のく。 一般人に、被害は出ない。
黒鍵が、指の間に滑る。指先が、わずかに白い。
「死徒の気配は、ありません。……ですが、尋常ではありませんね」
マリアは何処からか取り出した落葉の柄に、手を置くだけだった。
「……!!」
黒鍵が放たれる。 距離、角度、タイミング、すべて正しい。 胸の中心を貫く軌道——間違い無く当たる。 しかし、手応えが来ない。
銀髪の女は、下がらなかった。 半歩、前へ滑る。
鍵の軌跡と体が交差する——交差したはずの位置に、もう彼女はいない。 いるのは、半歩近い距離。落葉の間合い。
シエルの喉が、小さく鳴った。
(当たった。今の、当たった)
続く二本。焦りを抑えて、接近と投擲を混ぜる。 マリアは再び前へ入る。斜め前だ。 軌道の外側へ回ると同時に、側面へ靴音が移る。
布を裂く感触はない。風だけが袖を揺らす。
「おかしい……」
声が、掠れる。 死徒の高速移動ではない。残像もない。空間の歪みもない。 防御膜の感触もない。 なのに、当てたはずの攻撃が、ことごとく空を切る。
回避のたびに、距離が縮まる。
下がらない。詰めてくる。
一度、黒鍵の柄が肩をかすめた。 布が裂け、浅い赤が滲る。 ——通った、という安堵が、一瞬だけ胸をよぎる。
その安堵を、マリアが壊した。
一旦の間合いを取って、腰から小さなガラス瓶を抜く。 街灯を受けて、中の血が赤く透ける。
液面が暗く光る。
傾けると、縁を鮮やかな赤が走る。
彼女は徐に右の太ももに、瓶の先端を突き立てる。 短い音。液が沈む。
一切の澱みなく、忽ちにその動作を終えた。
抜くと、肩の傷の深さがすでに薄れている。
シエルの足が、半歩下がった。
「今——何を、したんですか」
「輸血液だよ。足りなくなった」
説明になっていない。 秘蹟でも、復元呪詛でも、教会の知っているどの回復でもない。 自分の脚に瓶を刺して、傷を消す女。
呼吸が、浅い。 黒鍵を握る手が、きつく締まる。
踏み込む。 確認を、終わらせなければいけない。 黒鍵を近接の刃のように扱い攻める。
マリアは受けない。 また前へ。 連撃の隙間をすり抜け、体が死角へ回る。 片手が、胸のあたりへ伸びる——急所を取る形。
シエルの背筋に、冷たいものが走った。 距離を戻すのが、かろうじて間に合う。
牽制の鍵を放つ。 届く距離。届くタイミング。
しかし通らない。
「なんで、当たらないの」
言葉が、意図せず口を衝く。 マリアのモーションが終わるまで、攻撃だけが空を切った。
両者、同時に止まった。
シエルの肩が、上下している。 黒鍵の先端が、ごくわずかに揺れていた。
「……死徒、ではありませんね」
自分に言い聞かせるように、言う。
「そうか」
「協会の執行者。記録以上です。でも、回避が——防御になっていない。下がらない。詰めてくる。当てた感触があるのに、傷がない」
言葉が、少し速い。
整理しきれていない。
マリアは瓶の破片を足元で踏み、落葉を収めた。
「避けて、詰める。それだけさ…まあ、狩りの相手では、なかったな」
短い沈黙。 シエルは黒鍵を袖へ戻す。
指が、一度滑った。
カレーの匂いが、風に乗っている。
「店は、まだ開いているか」
質問の日常さに、シエルの思考が一瞬、空白になる。
「……営業時間内なら、追加注文は、できます」
声の高さが、さっきより不安定だ。
「そうか。なら、戻るさ」
二人は、同じ方角へ歩き出した。 壁には黒鍵の穴。
路地には、赤い液の名残がついた小さなガラスの破片だけが残った。
追加の皿のあと、店を出るころには、夜が深かった。
総耶の繁華街の灯りが、遠ざかる。
別れ際、マリアが立ち止まった。
「ガスコイン、という神父を知っているか」
シエルが、少しだけ首を傾げる。
「いえ。どなたですか?」
「何度も、何度も殺された。腕の立つ狩人だった」
「……あなたほどの方がそう言うなら、相当の手練れだったのですね」
「神父と聞いていたから、もしや、と思ったが」
「私の知る限りでは、そういった方はいません」
「そうか。ありがとう」
それだけだった。 説明はない。深追いもない。 シエルの中にだけ、名前が薄く残る。
(ガスコイン神父……代行者のデータ、照会してみようかしら)
後日、教会に問い合わせても、該当はなかった。 行方不明の代行者でも、記録に残る神父でもない。 ただの、知らない名前。 それでも、別れ際の声の温度だけが、妙に残った。
二人は敵対組織のまま。
死徒ではない異質者。 血の匂いと、夜の匂い。 なのに、食事の趣味だけは噛み合う。
それが、二人の関係の入口だった。
数日後、時計塔。
ロード・エルメロイⅡ世の書斎に、特別講師が普通に現れた。 手には、また紙袋。
Ⅱ世の顔が、引きつる。
「……生きて、戻ったな」
「ああ」
「埋葬機関だぞ。第七位だ。あそことは——」
「カレーが、濃かった。相変わらず素晴らしい」
言葉が、噛み合わない。 Ⅱ世が報告書の共有を振り回しても、返ってくるのは食事の話ばかりだ。
「ルーは深い。キャベツは足せる。ワールドチャンピオンは、とても良い実りだった」
「実り、だと……?」
「狩りが終わったあとの、飯だ。大事さ」
グレイが、師匠の横で小さく息を殺す。 Ⅱ世のこめかみが、ひくひく動いている。
やがて、紙袋が机の上に置かれた。 ボルゾイのパッケージ。
ボーボーカレーのレトルト。
「いつも話を聞いてもらっている礼だ」
「聞いていない!聞いていないだろう、私は!私用で埋葬機関と刃を交えて、生きて帰って、飯の話だけして——」
「また、来る」
短く、淡々と。 帽子の影で表情は読めない。 それでも、レトルトの角が、机の上で小さく光っていた。
Ⅱ世は、しばらく天井を仰いだ。 協会も教会も、本件を大きくしない。つまりは不問。小さく止める。
その判断は正しいのかもしれない。正しいからこそ、怖い。
規格外の執行者が、教室に戻ってくる。
カレーの話しかしない。 埋葬機関と一合交えたあとも、同じ顔で。
「……グレイ」
「はい」
「次に紙袋を見たら、中身を確認してくれ。レトルトカレーならまだいい。次は何が入っているか、もう分からない」
「……拙、努力します」
窓の外で、ロンドンの夜が静かに流れていた。 総耶の黒いルーの話は、まだ誰の公式記録にも、まともに載っていない。
——載らなくていい。 載らないまま、特別講師はまた日本へ行き、また戻ってくるのだろう。
Ⅱ世は、レトルトのパッケージを指で一つ弾いた。 ボルゾイが、舌を出して笑っているように見えた。
「……胃が、痛い」
誰にも届かない呟きだけが、書斎に残った。