特別授業のあとの空気は、いつもより少し騒がしかった。
「先生、本当に埋葬機関と戦ったんですか」
「先生の言う回避ってどういう事ですか」
「輸血液の入った瓶を脚に刺すって、秘蹟ですか」
噂は噂のまま、教室を横断する。
真実の芯には届いていない。
夢の話も、再起の話もない。
それでも、質問の矢は止まなかった。
マリアは、教卓の前で一度だけ息を整えた。
短い答えで流さない。
講師として、残せるものだけを残す。
「まず、回避だ」
チョークが、黒板に短い線を引く。
間合い、踏み込み、横への移動。
図は簡素だった。
「相手の攻撃を、受けない。それだけに見える。違う」
「回避は、守りではない。避けた位置によって、次の手数になる」
「後ろへ逃げるな。前へ、または側面へ。相手の軸を外し、同時に詰める」
生徒の何人かが、筆記を止める。
スヴィンが眉を寄せ、フラットが首を傾げる。
「フレーム、などという概念は、君たちには馴染みが薄いだろう。構わない」
「大事なのは感覚だ。当てられた、と思った瞬間に、もうそこにいない。残像を残すな。体を残すな」
「……残像、ですか?」
「すまない、言葉が悪い。要するに、予測される位置に、自分を置くな」
イマイチ分からない、という顔が並ぶ。
マリアは、それ以上の物理学を語らない。
分からなくてよい。残るのは「逃げる回避は死ぬ」という一文だけでもいい。
次に、腰のあたりを示した。実際の瓶は出さない。
「回復。輸血液だ」
「飲むな。刺す。右脚の太もも。自分の血を、足りないところへ戻すイメージでいい」
「戦闘中でも、手数を止めてはいけない。刺して、すぐ動く。回復は目的ではない。狩りを続ける手段だ」
「それは、魔術的な……?」
「君たちの魔術体系とは違う。原理の話はできない。私は医療教会の人間ではないから」
「止血と、一時的な補填。それ以上でも以下でもない。回復を過信するな。瓶は有限だ」
教室が、微妙にざつく。
秘蹟でも魔力回路でもない回復を、真面目に説明されても、接続する棚がない。
それでもマリアは、淡々と続けた。
「分からなくていい。次は、分かる話をする」
黒板の端に、短い単語が並ぶ。
黒鍵。代行者。距離。詠唱。
「埋葬機関に限らず、聖堂教会の代行者を相手にする心得だ」
「黒鍵は、投擲されれば速度が早い。直撃は、身体ごと持っていかれると思っていい。受け止めるな。打て。払うか、間合いを変えろ」
「代行者は、一人でも来る。だが、現場では敵の連携も想定しろ。視界の外に、もう一人いるつもりで動け」
グレイのペンが、止まらず動く。
「対代行者で重要なのは、三つ…」
指が、三つ折られる。
「ひとつ。聖なる概念…加護の有無に関係なく、黒鍵の軌道は物理だ。まず体で避ける」
「ふたつ。長距離の詠唱を完了させるな。遠いほど痛い。詰めるか、遮蔽を置け」
「みっつ。相手を、人間として見積もるな。代行者は、人間の枠で仕事をしていない。躊躇は、死ぬ」
教室が、少し静まる。
「死徒の話ではない。時計塔の人間が、教会側と接触したときの最低限だ」
「幸い私は死徒ではなかった。確認の結果だ。だが、相手は代行者だった。黒鍵は、実際に飛んでくる」
「先生は、どう避けたんですか」
「前へ出た。避けて、詰めた。後ろへ下がらなかった」
再び、分からない顔。
前ステップの感覚は、伝わらない。伝わらなくていい。
「最後にひとつ」
マリアの声が、わずかに落ちる。
「代行者を、敵だと決めつけるな。状況によっては、同じ現場に立つこともある。だが、油断するな。組織が違う。目的が違う。飯の味が同じでも、刃の向きは同じとは限らない」
フラットが小さく笑い、スヴィンが「飯の話はいいでしょう」と呟く。
空気が、わずかに緩む。
ロード・エルメロイⅡ世は、後方の席で腕を組んでいた。
回避と輸血液の説明は、相変わらず生徒に落ちていない。
だが、黒鍵と代行者の心得は、メモに残る。
講師としての最低限は、今日も果たされている。
講義が終わると、特別講師はいつものように姿を消した。
行き先は、また日本だった。
表向きは私用に見える。
実際の目的は、様子見だ。
聖杯戦争へ向かう、同業の執行者。
過去に、同じ現場で背中を合わせた相手。
狩りに出る者の前に、一度だけ顔を出す。
それが、彼女なりの激励だった。
冬木市深山区。
住宅と坂と、静かな通り。
看板の色が目に入る。
竹屋 冬木深山店。
券売機の光。味噌汁の匂い。牛とルーの甘い香ばしさ。
カレー牛を目的に足を向けた、その手前で、彼女は立ち止まった。
店の前に、スーツの女がいた。
暗い赤毛。男物の仕立て。手袋をしていない手が、ズボンの縫い目で一度握られる。
バゼット・フラガ・マクレミッツは、入口の前で、ただ立っていた。
「……貴方も」
声は丁寧で、硬い。
「様子を、見に来た」
「私を、ですか」
「ああ、仕事の前だろ」
短い沈黙。
バゼットの視線が、券売機の方向へ一度流れ、戻る。
あの夜の同僚が——
天井の穴から落ちた先にいた、拳で獣に向かっていた同僚が、今、牛丼屋の前に立っている。
回想は、英国の山村から始まる。
夜だった。
霧が石壁に張りつき、外れの工房からは、人のものとも獣のものともつかない匂いが滲み出ていた。
血と、薬品と、古い魔力。
屋根の一部はすでに潰れている。
バゼットは、先に中へ入っていた。
硬化のルーンを刻んだ拳が、人型の失敗作の顔面を砕く。
実験体は複数。
二足でよろめくもの、四肢で床を這うもの。
協会の処分案件としては、想定の範囲内だった。
——想定の外側が、上から来た。
天井の穴から、何かが落ちる。
羽付き帽子、金糸の刺繍。細身の剣を下げた女が、真っ直ぐに落ちてくる。
慣れた足取りというより、調子に乗った乱入に近かった。
着地の音が、重い。
かかとが石床を叩き、膝が内側へ折れる。
体重が、緩衝のないまま脚に通る。
高いところからの落下は、彼女の体をはっきりと削った。
優雅な降下ではない。
落下ダメージを、直に受けた着地だった。
息が、一度詰まる。
足下が、一瞬だけ抜けたように沈む。
(……痛い。削れた)
(カレル文字、変えるの忘れてた)
獣の刻印なら、この高さでも減衰が付く。
付け替えていない。
獣狩りの夜に浮かれて、破孔から落ちただけだ。
腰の小瓶が、右太ももに沈む。
ぐさり、と音がする。
赤い液が入り、減っていた体力が戻る。
輸血液による、応急の回復だった。
バゼットの眉が、寄った。
(……今の、何)
「……貴方」
「処分、だろう?私もだ」
「聞いていますか」
「聞いている」
「階段が、あります」
「落ちた方が、楽だった」
「楽かどうかの問題では、ありません。貴方いま、落ちて削れたんです」
短気が、丁寧語のまま出る。
時計塔の増援であることは分かる。戦力であることも、動きを見れば分かる。
それでも、落ちて、瓶で立て直す同僚を、完全には信頼しきれない自分がいた。
「次は、落ちないでください」
「配慮する」
する顔ではなかった。
バゼットは、小さく舌打ちしそうになる自分を、歯の裏側で止めた。
共闘相手に、いきなり説教している。
ダメな対応だと、半分は分かっている。
分かったまま、腹が立つ。
低い影が、横から跳ねた。
女の足が、一瞬だけ止まる。
次のステップは、主人の方ではなく、犬の喉へ向いていた。
(犬は嫌だ)
理由はない。あるのは、拒否だけだ。
刃が先に走り、低い叫声が工房の床に落ちる。
それでも肩の力は、すぐには戻らない。
失敗の実験体が増える。
人型が通路を塞ぎ、犬型が足元を削る。
バゼットが正面を殴り開き、女が側面の低い影を刈る。
「組む」とは言わない。背中の位置が、先に噛み合った。
奥へ進むほど、匂いが濃くなる。
工房の主が現れた。
石梁を軋ませる巨体。金切り声。片側の腕が、人の比例を失って肥大している。
獣性魔術の失敗が、ここまで肥大化した結果だった。
バゼットの拳が、構える。
銀髪女の口端が、ごく薄く動いた。
「久しぶりだ。まるで、獣狩りの夜がやって来たみたいだ」
熱はない。声音は短い。
なのに、間合いだけが、はっきりと変わった。
落葉が収まる。
次に手にあるのは、円盤を重ねた異形の得物だった。機構が唸り、鋸の刃が回り始める。
(獣だ。なら、こちらだ)
脳裏を、別の声がよぎる。
“——貴公、よい狩人だな。
狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている。よい狩人だ”
古狩人の評価が、鏡のように重なる。否定しない。
工房の主が跳躍する。
バゼットが正面で受け止め、拳が面を砕く。
袖に、かすり傷が走る。深い傷ではない。
それでも、拳で獣に向かう者の傷だ。
硬直の隙間に、回転する刃が傷口へ沈む。
斬った、というより、削っている。
(得物を、換えた——削っている)
バゼットの内面に、一行だけの違和感が残る。追及はしない。
火炎瓶が、人型の群れへ割れる。
火が獣の臭いを炙り、通路を一時的に塞ぐ。
輸血液は、着地の一回以外は使わない。足りなければ、避ける。避けて、詰める。
犬が、また横から来る。
女の動きが、一瞬だけ荒れる。
実験体の中でも、より低い影。
刃が喉を穿ち、火焰が四つ足の側面を舐める。
(本体より、犬だ)
(狭いところで、犬が——)
工房の主がのけぞる。
銀髪女の内側で、また別の声が笑った。
“——素晴らしいじゃないか。
存分に狩り、殺したまえよ”
連盟の長の言葉。
必要なのは刃を押し込む力だけ。
バゼットの拳が、とどめに最後に落ちる。
肥大した腕の関節が、逆を向く。巨体が工房の床を叩き、金切り声が途切れる。
夜が、一度、静かになった。
残った実験体を、二人は淡々と狩る。
犬型が視界に入るたびに、女のほうが半歩早く動いた。
煙と血の匂いの中で、バゼットは手袋の汚れを一度、払った。
袖の薄い傷が、夜気に触れる。
「……貴方も、執行者、ですね」
「そうさ」
「名前は」
「マリアだ」
それ以上は言わない。
銀髪女の方が、先に口を開いた。
「……良い」
「は?」
「拳で、獣に向かうのは。実に良い」
賞賛は、それだけだった。
短く、真顔で、熱はない。
なのに、バゼットの背中が、ごく薄く熱を持った。
工房の外では、山村の夜が、まだ明けていない。
二人は別々の経路で現場を離れ、協会へは、それぞれが必要な報告だけを上げる。
処分完了。対象の性質。現場の閉鎖。
どう鏖殺したかの詳細は、残さない。
共闘の中身は、記録に残らない。
残るのは、面識と、短い名前と、拳を褒められた夜の感触だけだった。
竹屋の前で、回想が閉じる。
「いいから入れ」
「……いえ。今は」
「…?金が、ないのか」
言葉が、一瞬だけ詰まる。
生真面目な顔のまま、彼女は小さく息を吐いた。
「両替が、できなくて。——つまるところ、所持金が尽きました」
「飯は」
「……取れていません」
革手袋を嵌めたくなる種類の沈黙が、一秒あった。
嵌める前に、マリアが券売機の方へ歩いた。
「奢る」
「借りになります」
「いいさ」
「……返します」
真顔だった。
礼と矜持が、同じ温度で重なっている。
トレーが並ぶ。
片側に、カレー牛。
もう片側に、牛丼並盛りが二つ。味噌汁の椀が、二つ。
マリアは紅生姜の入れ物に手を伸ばし、無料の赤を、カレー牛の牛の部分へ山のように盛った。
説明はない。淡々と、盛る。
バゼットが、それを一瞬見ていた。
(……何をしているんですか)
自分の箸は、すでに動いている。
最初の一口で温度を確認し、あとは手数を減らすことだけを考える。
味の品評はしない。待たされなかった。早い。よい。
隣では、銀髪女が白飯を崩し、紅生姜の赤を牛に沈めて、カレーと共に静かに噛んでいる。
自分の丼は、すでに半分以下だ。
味噌汁に口をつける。
塩気が、頭の奥の軽い疼きを鎮める。
無料だ。付いてくる。
牛丼二杯なら、椀も二杯だ。 合理的だ。
ずぞぞぞっ、と彼女は椀を一気に傾ける。
口に残った牛丼の残骸を、味噌汁で流し込む。
余韻は残らない。工程が終わっただけだ。
向かいでは、マリアが味噌汁の椀を両手で持った。
音はほとんどしない。一度、静かに口をつける。
湯気で、肩の力がごく薄く落ちる。
(……整う)
バゼットの二杯目が空になるころ、トレーの上は静かだった。
「……味噌汁が付くのは良いですね」
「ああ…カレーでもな」
「無料ですね」
「そうさ」
「合理的です」
それが、この席での最大の賛辞だった。
マリアは、短い視線を相手に向けた。
「生きろ」
「……は?」
「仕事の前だ。飯を食え、生きろ」
激励としては、あまりに短い。
それでも、バゼットは姿勢を正した。
「はい。借りは、返します」
「いいさ」
店を出るころ、深山の坂に、薄い風が通った。
聖杯戦争の詳細は語られない。令呪の話も、監督者の話もない。
同業が、仕事の前に一度だけ顔を合わせ、飯を食い、別れた。
それだけの夜だった。
それから時計塔に戻ったのは、夜ではなかった。
廊下の窓から、薄い昼の光が落ちている。
マリアは、エルメロイ教室の扉の前で足を止めた。中から、生徒の話し声がする。
中へは入らず、すれ違ったグレイに紙袋を渡した。
「グレイに」
「……師匠にご用件では?」
「あとで、言う」
袋の重さを受け止めたグレイが、中を覗く。
竹屋のレトルト。牛丼の元と、カレー。
「竹屋だ、牛丼屋だ。それの冬木深山店に行った」
「ッ!!拙も、カレー牛たべたいです」
即答だった。
その顔を見て、マリアの口端が、ごく薄く動いた。
「そうか」
それだけ言って、彼女は学部長室の方へ向かう。
グレイは紙袋を胸の前で抱き直し、しばらくその背を見ていた。
学部長室では、すでに短いメモが机にあった。
私用の申し送り。冬木。
同僚の執行者。食事の援助。店名まで書いてある。
Ⅱ世は、扉を開けた本人を見て、メモを裏返した。
「伝承保菌者(ゴッズホルダー)か」
「ああ」
「聖杯戦争前の、様子見だと聞いている」
「飯を、奢った」
「……動機を聞けば聞くほど、私用にしか聞こえない」
椅子に座るよう促すでもなく、Ⅱ世は窓の方を向いた。
埋葬機関の共有文書のときのような、明確な恐怖ではない。
あるのは、同種の執行者が二人、日本の牛丼屋で何かを済ませて帰ってくる世界への、静かな呆れだった。
「彼女は、礼を言ったか」
「借りは返す、と」
「それだけか」
「生きろ、とも言ってやった」
Ⅱ世の肩が、一度だけ上下する。
笑い声にはならなかった。
「貴公の激励は、いつも短いな」
「長いと、残らない」
「……分かった。報告は受理する。本経路ではないが、机には残す」
扉に手がかかったころ、Ⅱ世が背中へ言葉を足した。
「次に日本へ行くなら、せめて店名を私用欄の一番上に書くな」
「配慮する」
しない顔のまま、特別講師は出ていった。
部屋に残ったⅡ世は、裏返したメモを再び表にする。
冬木深山店。カレー牛。牛丼並二杯。
「グレイは喜んでいたな」
誰に言うでもない。
彼はメモを引き出しに入れ、今日の講義用の紙を開いた。
胃は、痛くない。
痛いのは、もっと別の場所だ。
——たとえば、こう…
常識という名の、古い棚の方である。