特別枠の講義は、いつもより早く始まる。
エルメロイ教室——ノーリッジの第十二科、現代魔術の棟の一室は、朝の光を斜めに受けて、チョークの粉と古い紙の匂いがしていた。
私は教壇脇に立ち、出席簿ではなく、今日の「特別講師」の方を見ていた。
羽根つき帽子に金糸の刺繍に彩られた、古臭い貴族的な装い。
落葉と呼ばれる仕込み刀を、当たり前のように帯びている。
時計塔の執行者としては目立ちすぎるし、講師としては、なおさら場違いだった。
「時間だ」
「分かっている」
短い返事だけが返る。
彼女は——マリアは、教壇の中央へ歩いた。
私用の報告、という名の世間話は授業後。
そう釘を刺したはずだが、果たしてどこまで守られるかは、過去の実績からして怪しい。
講義でいきなり、カレーや牛丼の素晴らしさを語ってもおかしくない。
そう思える程度に、彼女は自由だった。
それでも、今日の枠は必要だった。
対獣の現場知を、机上の定義だけで終わらせたくなかったからだ。
封印指定の執行者が、案件の合間に教室へ顔を出す機会など、そう多くない。
変則であっても、使える時間は使う。
生徒たちの視線が、一斉に集まる。
特に最前列のスヴィン・グラシュエートは、すでに背筋を伸ばしていた。
フラット・エスカルドスは、興味本位の笑みを浮かべている。
グレイはフードの陰で、静かに筆記具を構えていた。
私は咳払いをして、導入を切り出した。
「本日の特別講義は『獣』だ。定義は複数ある。実演は提示まで。質問は後でまとめて受ける」
マリアは、短く頷いた。
「では、始めろ」
「血の医療、というものがある」
教壇の声は、意外なほど澄んでいた。冷たく、短い。余計な飾りがない。
「しかしそれは同時に、人を獣にもする」
チョークの音はしない。
彼女は板書をほとんどしない。言葉だけを、必要な分だけ置く。
「血によって人を失った獣。これは外敵である前に、内側の問題だ。なるな。借りても、寄るな。狩れる位置に立て」
教室の空気が、わずかに締まる。
「抑えが強いほど、その蓋が外れたとき反動は大きい。戻る手順がない力は、時限だ」
私は内心で舌打ちしたくなった。
内容は悪くない。
悪いのは、その飛ばし方だ。
現代魔術科の用語に落とす前に、結論だけが先に来る。
「質問は?」
私が促すより先に、手が挙がった。
「死徒と同じ、ですか?」
「当然違う。血に寄る点で似て見えるが、同じ棚ではない」
「では、強化と何が違うんです?」
フラットの軽口が混じる。
「強くなる話と、人でなくなる話は、別ですよね?」
「別だ。強さの話をするな。戻れるかどうかの話をしろ」
グレイのペンが、小さく動いた。私は補足を挟む。
「死徒化現象と、獣性の暴走と、単なる身体強化は、協会の分類では分けて扱え。今日の主題は、内側に寄っていく変化と、それに対する現場の距離感だ。混線させるな」
そこで、スヴィンが口を開いた。
「講師殿。一つ、よろしいでしょうか」
礼を失わない声だ。家門の矜持はあるが、教壇への敬意が先に来ている。
「なんだ」
「制御と時限は、同じではないと愚考します。回帰できるなら、それは制御の範疇かと。往復できる器もある。『寄るな』だけでは、成功例まで否定することになりませんか」
獣性魔術の家門らしい、核心を突いた指摘だった。
それでも詰問にはなっていない。マリアは、スヴィンを見据えたまま、短く答える。
「戻れるうちは、人の側だ。手順があるなら制御。ないなら時限。成功を否定はしない」
スヴィンの耳が、ぴくりと動いた気がした。否定されなかったことへの、わずかな安堵か、それとも別の違和感か。私には、後者にも見えた。
「いいだろう。制御と処理は併記する。成功例を、現場の失敗だけで潰すな。それは後で私も繰り返す。よし、実務に入れ。ただし、提示までだ」
私はそう言って、次へ促した。
マリアの手が、空を掻いた。
落葉は最初から腰にある。だが次に現れた得物は、明らかに「持って入室した」ものではなかった。
何処からともなく——と言ってしまえばそれまでだが、教壇の前に、二つの異形が置かれる。
一つは、杭を打ち込むような機構を思わせる鎚。 もう一つは、火薬の匂いを想像させる、無骨な爆発用の金槌。
生徒の誰かが、息を呑んだ。
「対獣の仕掛け武器だ。工房の異端——火薬庫と呼ばれる技術集団の系譜」
彼女は、一方を手に取り、変形の機構だけを見せる。
刃や杭が位置を変え、用途が切り替わる。
実弾も、爆発音もない。
それでも、設計思想の暴力性は伝わる。
「つまらないものは、それだけでよい武器ではあり得ない」
その一文は、説明というより、暗記した格言のように落ちた。
私は眉間を押さえた。
許可したのは提示で、理念の宣伝ではない。
「間合い」
マリアは、変形を戻しながら続ける。
「避けて、詰めろ。敵を削り、割れ」
短い。あまりにも短い。
だが、現場の人間が言うと、重みが違う。
フラットが何か冗談を言いかけるのを、私は目配せで止めた。
誰かが例に出したのか、あるいは彼女から触れたのか。
“ある”単語が空気に乗った瞬間、教壇の温度が落ちた。
「犬は——」
優先順位が変わったような、短い沈黙がある。
「…犬は真っ先に潰せ」
それだけ言って、マリアは得物を手放した。
異形の二振は、また何処へともなく消える。
腰に残るのは、落葉だけだった。
私は回収に入った。
「以上を、今日の共有部分とする。獣化魔術の制御と処理は対立させすぎるな。現場は両方いる。火薬庫と呼ばれる技術者集団の思想については、あくまでも備考欄に留めておけ。対獣の機構は、ひとつの実例を示したに過ぎない」
拍手が起きるほど賑やかな終わり方ではなかったが、講義としては成立した。
少なくとも、私はそう自分に言い聞かせた。
教室で、スヴィンが残った。
「講師殿。一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「一つだぞ」
「はい。あの——本日の内容は、よく分かりました。ただ、講師殿の獣の知り方は、家門の制御とは何か大きく違うように感じます。何というか、匂いが……分類できない、とだけ……その、講師殿も、獣性魔術を使えるのですか?」
丁寧に切り出そうとして、それでも嗅覚の話が出てしまう。
スヴィンらしい。
マリアは、振り向きざまに短く言った。
「獣化は私も使える。貴公の家とは、技術体系がまったく違うが」
スヴィンは、深く頭を下げた。
「ッ!?……そうですか。本日は、ありがとうございました」
スヴィンはそれ以上問わない、優秀だ。
下手に深入りすると、私の胃の領域になる。
「解散だ」
「はい、先生」
スヴィンが去ると、教室に残るのは私と、執行者だけになった。
「書斎へ来い。フィードバックする」
「分かっている」
善処する気があるのかどうか、声からは読めなかった。
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書斎の窓からは、ノーリッジの空がよく見える。
私は机の向こう側に座り、彼女を立たせたまま話を始めた。
「先に言っておく。中身が無意味だと言っているのではない」
マリアの目が、わずかに動く。
「対獣の実務として、聞く価値はあった。命題の骨格も、現場の距離感も、悪くない。スヴィンの指摘への返し方も、最低限はできていた」
「なら」
「なら、二点だけだ」
私は指を二本立てる。全部を並べても、彼女は動かない。
動かす気がない相手に、優先順位のない説教は無意味だ。
教室の縁だけを押さえる。
それが私の仕事の仕方だった。
「一点目。理念の披露だ」
「つまらぬものは、よい武器ではない、か」
「そうだ。独自の技術家思想を宣伝するのは、あまり適切とは言えない。」
「格言は、短く、分かりやすい」
「短くても、ノートに残る。残ると、他科に飛ぶ。飛んだ先で、どんな意味に翻訳されるか、お前は責任を取らないだろう。結果として”機構が派手な武器だけが良い”という思想に繋がりかねない」
沈黙。否定もしない。
私は二本目の指を折る。
「二点目。得物の出し方だ」
「提示した」
「提示の許可を、見せびらかしに利用するな。何処からともなく出す挙動も、生徒の印象に残る。カタナはまだいい。常装備として説明がつく。しかしあの二振は、明らかに異質だ。先程のやり取りと重複するが…あれらは、まさに”浪漫”を追い求める武装だ」
「対獣の実物が、一番早い」
「早さの話をしているのではない。記録と外聞の話をしている。ゲームに出てくるような、浪漫装備を出すな。私はロードの代理でもある。教室から出た噂は、私の机に返ってくる」
マリアは、短く頷いた。
「分かった」
「善処するのか?」
「分かる、と言った」
同じ意味ではない、と私は理解した。
期待していない、と言ったのは本当だ。
それでも言わなければ、次の特別枠で同じ穴が開く。
徒労を承知で縁を押さえる。
それが、規格外を切り捨てない代わりの、私のやり方だった。
執行者が教鞭を取るのは、それだけで貴重だ。
「次は、もっと学生たちに配慮してくれ」
「講義内容次第だ」
「次はどんな講義をするつもりだ」
「………そうだな。宇宙、について語ろうか?隕石…流星を降らせる事もできる」
「………冗談、だろう?」
「できる」
「………それは天体科の領域だ。それと、これは聞かなかったことにしておく。出来るとしても、絶対にやるな」
「善処する」
私の胃が、小さく鳴った。
そうして——そのタイミングで、扉がノックもなく開いた。
「おお!噂の講師が、本当にいるとはな」
水銀の気配、トリムマウ。
そして、義妹。
「ライネスか。いまは会議中だ」
「そういえば!最近、面白い人材を雇っているそうじゃないか、”お兄様”?」
私を無視して彼女の視線が、マリアへ移る。
観察の目だ。愉しみの目でもある。
「マリアだ」
「私はライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。そちらの義妹だとも」
「知っている」
「執行者に名前を覚えられるとは、光栄だ。あなたの噂も、もう教室の外まで出ているぞ。執行者が教壇に立ち、獣を語り、異形の得物まで出した、と」
「それを、今指導しているんだ」
「兄上はそう弁明するだろうな。だがそれでは、すでに開いた生徒の口は閉じられない」
私は額に手をやった。
椅子も勧められないままに座り、ライネスは足を組む。
まるでこの部屋の主のように。
「獣の講義をしたそうだな。で、内容そぐわず今はお叱り中、か」
「フィードバックだ」
「聞こえる範囲では、お叱りにしか聞こえなかったが。一点目が理念、二点目が得物——だろう? 扉の外にいても、だいたい分かる。で、隕石を降らせる、というのは本当かい?」
「聞いていたのか…冗談に決まっているだろ」
「冗談じゃな「冗談だ」」
強引に言葉を被せる。
もう何も言わないでほしい、本当に。
「ああ…冗談だ」
「冗談なのか、それは残念だ。面白そうだったのに」
そうライネスは言いつつも、焔色が、一瞬だけ彼女の瞳に差す。
魔眼だ。
私は止める間もなかった。
ライネスの視線が、マリアの瞳へ沈む。
次の瞬間、ライネスの指が目頭へ触れた。
(熱か)
いつもの過剰反応——にしては、魔眼による観察の切り上げが早い。
「……ふうん」
「その眼で視るな。あまり良くない」
マリアは観察の眼を拒絶した。
それは嫌悪というよりは、ライネスを気遣っているように見える。
「悪いね、今視た。短いがね」
ライネスの声から、笑いは消えていない。
だが、いつもの弄りとは輪郭が違う。
「魔眼にしては、中が広すぎる。底がない。回路の地図としても、閉じない。暗い空でも覗いているようだ」
「比喩にするな、もう少し分かりやすく言ってくれ」
「比喩かどうかは、まだ決めていない。兄上は、この瞳をどこまで見ている?」
「私は魔眼持ちではない。出来ることは限られている」
「知識と経験だけで扱うには、穴が空きすぎているな。執行者、教壇、異形の得物——それに、この深さだ」
マリアは、短く言った。
「視るな、と言った筈だ」
「執行者殿…命令の口調は、嫌いじゃない。だが、私はこれの義妹でね。兄上の講師に、どこまで従う義務があるか」
「義務はない。必要がないだけだ」
「必要がない、か。だが私は興味がある」
ライネスは目薬に手を伸ばし、素早く差してから、私を見る。
愉悦の鉾先は、私に変わったようだ。
「執行者を教壇に立たせて、獣を語らせて、特異な得物まで出させる。兄上も、趣味が変わったな」
「趣味ではない。戦力と実務の共有だ」
「建前はいい。その戦力、他科の人間にも見せてやっても構わないか?」
「何の話だ」
「天体科だ。オルガマリー•アニムスフィア。例の列車事件以来、私と親交があるのは、知っているだろう?空の話が好きな子でね」
私の顔色が、変わったのが自分でも分かった。
「なぜ、天体科だ」
「今、視たからだよ。底がなくて、広すぎる。私の語彙では、魔眼の棚に載らない。なら、空を扱う子の反応を見た方が早い」
「政争の試料にするな」
「政争の試料、という言葉は傷つくな。紹介だ。茶会に呼びたまえ。面白い講師がいる、と。私も同席する」
「断る」
「講師本人に聞いたらどうだ? 執行者なら、案件次第で動くのだろう」
ライネスが顎をしゃくる。
マリアは、私を一度見てから、短く言った。
「宇宙は、空にある」
室内の時計の音が、不必要に大きく聞こえた。
「……は?」
当たり前の発言に、私は絶句した。
「それ以上の事は、ない」
ライネスの唇が、ゆっくりとほころぶ。
魔眼で触れた広がり。
そして、その短文が、彼女の中で何らかの経路を結んだのだろう。
「いい。とてもいい。頭の上、空か。当たり前の事だが…天体科の子が聞いたら、きっと眠れなくなる」
「茶会は、まだ決めていない」
「決めるのは私だ、兄上。他派の間諜から勝手に嗅がれるより、よほどマシだろう」
「それは、保護か」
「愉悦と、盤面だ。どちらが主か、教えたら面白くない」
そこで、マリアが口を開いた。
政争の続きではない。
優先順位の、別の棚からだった。
「茶会なら…茶菓子は、出るのか」
室内の空気が、一度だけ止まった。
ライネスが、目を細める。
「もちろん、出るとも」
「どんなのだ」
「私が催すんだ。無論、豪華絢爛に決まっているとも」
短い沈黙のあと、マリアは頷いた。
「……行く」
私は、思わず声を上げていた。
「執行者が、食事に釣られるな」
「釣られた、とは限らない」
「限っているだろう」
ライネスは、腹の底から愉しそうに笑った。
トリムマウが、静かに控えている。
「ふっ。いい。動機は菓子で構わない。席には、座ればいい」
「もう用は済んだだろう?なら、出ていけ」
「はいはい。トリムマウ、メモを。オルガマリー宛に。面白い講師がいる、とな。茶菓子は豪華絢爛——これも書いておけ」
「かしこまりました、お嬢様」
水銀の足音が遠ざかる。
書斎に残るのは、未完のフィードバックと、私の胃袋と、茶会を承諾した執行者だけだった。
「本当に、行くのか」
「出る、と言った」
「菓子が気になるのか」
「豪華絢爛、だぞ」
私は机の上の、今日の講義メモを見つめた。
制御と時限。火薬庫。広すぎる瞳。頭上の空。そして茶菓子。
「……私の胃は、一つしかないんだが」
「知っている。貴公は牛ではない」
「そういう事を言ってるんじゃない」
マリアは、短く頷いただけだった。
特別講師としての本日の実務は、これで終わりである。 終わっているはずだった。
だが私は、すでに次の茶会の席が、義妹の手と、執行者の胃袋の都合で、確定しつつあることを理解していた。