茶会の招待状が届いたとき、私は胃のあたりを押さえた。
差出人は義妹だ。
宛名は私と、特別講師のマリア。
同席予定に、天体科のオルガマリー・アニムスフィアの名がある。
経路はエルメロイ家経由。
表向きは「面白い講師の紹介」。
裏は、前回の書斎でライネスが視た瞳の続きである。
「監修だと思って出てくれ、兄上」
ライネスの声が、まだ耳に残っていた。
監修のつもりで出る。
興味がない、と言えば嘘になる。
天体科の令嬢が、自教室の執行者に本気で食いつく座を、空けるわけにはいかなかった。
会場は、ライネスが私的に押さえた小部屋だった。
窓の外にノーリッジの午後。
テーブルには、すでに三段の銀のスタンドが据えられている。
磨かれた段が、短い光を返す。
紅茶碗は薄手の骨磁器で、縁に金彩がある。
ポットを持つと軽く、熱がすぐ掌へ来る類だ。
安物の厚みはない。
エルメロイの令嬢が「豪華絢爛」と約束した席の、最低限の証拠だった。
マリアは、着席より先に盛付を見た。
「……豪華だ。紅茶も?」
「当然だろう。フォートナムだ」
ライネスが、満足げに足を組む。
トリムマウが無言で配膳を整える。
オルガマリーは、紅茶ではなく珈琲のカップに手を添えていた。
同じ金縁でも、形状だけが少し違う。
用意の良さだ。
私は端の席に坐った。
司会はしない、止め役は最小限。
表は監修、裏は傍聴である。
オルガが、執行者の顔を見る。
まず目に留まるのは色ではない。
焦点の奥が、どこか一段、遠い。
窓の光を受けても、瞳孔の向こうがすぐに閉じない。
底を探そうとすると、視線の方が先に滑る——そういう深さだ。
「あなたが、エルメロイ教室の特別講師」
「マリアだ」
「オルガマリー・アニムスフィアよ。噂は聞いている。獣を語り、異形の得物を出し、瞳が——」
「視たか」
「いえ、ライネスから聞いた。底がない、と」
「視るな、とライネスにも言った」
「聞いたわ。でも悪いけど、今日は自分の目で確かめる」
短い間。
マリアはスコーンを取り、クロテッドクリームを先に乗せた。
順不同だ。
ジャムは後から山になる。会話の重力が、一瞬だけ皿の側へ落ちる。
「宇宙は、空にある」
銀のスタンドの光が、一度だけ止まったように見えた。
句が落ちたあと、マリアがこちらを見据える。
瞬きのあいだ、黒目の奥が、ほんの一瞬だけ広くなる。
星を映している、とまでは言えない。
言えるのは、閉じきっていない、ということだけだ。
オルガの指が、カップの取っ手で止まった。
「……その一文は、知っているわ。いいえ、知っているつもりだった。当たり前の結論のように聞こえる。でも、あなたはそれを、観測の終わりのように言う」
「終わりではない。位置だ」
「位置?」
「頭上だ」
ライネスが、興味深そうに口を挟む。
「天体科の子の前で、空の話をするか。胆量があるな」
「胆量ではない。茶菓子の礼だ」
マリアは紅茶を一口含んだ。
フォートナムの湯気を、潤滑油として流す。
「豪華だった。だから、返す」
菓子への返礼は、そこから先の言葉に乗った。
「初めは、下に求めた。遺跡の底に、人ならざる痕跡があった」
「地下に、宇宙を?」
オルガの声が、思わず重なる。
「古い血と、歪んだ知。宇宙は地下にある、と信じた。ビルゲンワース——そういう探究の場があった」
固有名が、テーブルに落ちる。
私の指が、茶碗の縁で止まった。
「血に寄った者たちもいた。医療教会、と呼ばれた。血の医療だ。癒しと、だが獣を、同時に増やした」
「のち、意識を空に転じた者たちがいた。聖歌隊だ。すぐ頭上にこそある、と気づいた」
「下を掘った者たち。血に寄った者たち。空に転じた者たち」
オルガが、家門の語彙で反復する。笑ってはいない。
「だが、届かないことがある。のち、気づく。宇宙は、空にある」
「それ以上の手順は、必要ない」
オルガはカップを置いた。
星の形、宙の形、神の形、我の形——その長い道が、喉まで来ているのが分かった。
「私たちは、星の形から入る。宙の形。神の形。我の形。天体は空洞なり。空洞は虚空なり。虚空には神ありき——そこまで言って、初めて手が届く」
「長い」
「長い? あれは手順よ。設計よ。宇宙図を回路にして、初めてソレを降らせる」
「降るものは、ある」
「詠唱なしで?」
「必要ないこともある」
私は口を開きかけた。実演の匂いがしたからだ。
だがマリアは、手のひらを空へ向けなかった。
次の菓子に指が行く。
金箔のついた小さな一段。視線が、一度だけそこへ吸われる。
「すごい。金が、ついている」
「絢爛の約束だとも」
ライネスが愉しそうに言う。私は、短くだけ釘を刺した。
「実演は、するな」
「必要ない」
マリアの返事は、制止より先に来た。
私の役割は、確認で済んだ。
オルガの声が、一段だけ低くなる。
「同じ空を見ていないのか。同じ空を、別の言葉で呼んでいるのか」
「問うなら、頭上を見ろ」
「説明しなさい」
「それ以上は、必要ない」
ここで、地名が一つだけ追加された。
「ヤーナム、という閉じた土地があった。そこでの話だ」
室内の空気が、変わった。
私は、監修者として口を開く。
「その名は、協会のどの台帳にもない。外には出すな。この席の外には」
「愉しみは内密に、とも言えるな」
ライネスが、わざとらしく肩をすくめる。
オルガは否定しなかった。
オフレコが、この四者の間に落ちる。
「閉じた、とは」
オルガが、すぐ拾う。
「結界か。裏側か。霊地か」
「近いが、同じではない」
「誰が閉じた」
「血と、月と、夢だ」
私の眉が、一度寄る。
「夢、か。固有結界の類を想定しているのか」
「似ている、と言った者もいる。私は、閉じた土地、としか言わない」
ライネスが、紅茶を回す。
「住民は。いまもいるのかね」
「いた。多くは、獣になった。あるいは、沈んだ」
「獣——先日の講義の」
「同じ棚だ。血に寄り、人を失う」
「ビルゲンワースと言うのは?」
「探究の場だ。下を掘った」
「医療教会は」
「さっきも言った。血で人を癒そうとした。同時に、獣を増やす」
「聖歌隊は」
「空に転じた。宇宙は頭上にある、と気づいた者たちだ。なぜ気づきを得たのか…それは、分かってない」
「記録は。系譜は。君主の名は」
「ここでは、出さない」
私は、短く制止する。
「聞く側も、メモするな。名称の照会は私経由だ。おそらくヒットしないと思うが」
「ヒットしない?」
オルガが、振り返る。
「台帳にない。土地も、組織も。それでも——」
私は、執行者の瞳を見た。閉じきっていない。奥が、一段遠い。
「嘘の目、には見えない」
ライネスが、愉しそうに息を吐く。
「面白い。在るのに、載っていない。載っていないのに、句が一貫している」
「往来は…」
オルガが、核心を突く。
「いまも、行けるの?」
「連れて行けなくも無いが、私以外、簡単には戻れない」
「簡単には、ということは、手段はあるのね」
「案件ではない。今日の話でもない」
「ヤーナムの空は、こちらの空と同じか」
「赤い月が、近い」
「赤い月」
「近いと、人は狂う。獣は増える。空の話は、そこでも続く」
「天体の影響として、観測できる?」
「お前の式では、分からない。赤い月は、こちらの月ではない。私の目では、分かる」
「その目を、見せなさい」
「視るな」
「分析するわ」
「必要ない」
スコーンにクリームを乗せる横顔では、ただの美人の目に戻る。
談義に戻った瞬間だけ、奥が開く。優先順位が皿にあるあいだは深い。
句を置くあいだだけ、更深くなる。
「では、なぜ時計塔に」
オルガが、ようやく帰属の理由へ戻る。
ライネスが、顎を手に預けて待つ。
私は、良い知らせを期待していなかった。
マリアは、金箔の菓子を一つ摘まんでから答えた。
「ダジャレだ」
「……は?」
「時計塔の、マリアだからな」
——沈黙。
銀のスプーンが、ライネスの指から皿に落ちた。
小さな音なのに、室内では必要以上に響いた。
「……ぷっ」
品位を保てなかったのは、義妹の方だった。
肩が一度震え、次に、抑えきれない笑い声が短い弧を描く。
「待って。待ってくれ、兄上。執行者が。封印指定の。教壇に立つあの目が、ダジャレで時計塔に入った、と」
「本気だ」
オルガマリーは、笑っていなかった。
分類の棚が、物理的に足りない顔をしていた。
「……ダジャレ」
「そう、ダジャレだ」
「天体科の前で、宇宙の位置を語ったあとに、帰属の理由がダジャレ」
「向こうでも、時計塔のマリア、と呼ばれていた。だから、ここへ来た」
その一行で、場の温度がもう一度だけ変わる。
ライネスの笑いが、愉悦の色を濃くする。
ただの言葉遊びではなく、二つ名と組織名の一致を、本気で実行した人間の話になったからだ。
「最高だ。最高すぎる。台帳にない土地で、同じ呼び方をされていた。で、こちらに来て、同じ名前の塔に入った」
「そうだ」
オルガの声は、低い。
「呼ばれていた、場所と、ここの時計塔が、一致したから」
「一致した、と思った」
「そう思って、入塔した」
「……記録には残さないわ。でも、これも忘れない。というか、忘れられないわ」
私は、両目を押さえていた。
「動機を、真剣な席で言うな」
「真剣なのは、空の話だ。動機は、菓子とダジャレだ」
「分けろ」
「分けている」
名前の一致。閉じた土地。台帳にない呼び方。
妄言にしては、一貫しすぎている。
だからこそ、笑える。だからこそ、胃が滅入る。
マリアは、あとの説明を一切足さない。
足さないことが、ダジャレの完成だった。
オルガは、しかし引き下がらなかった。
宇宙の熱と、分類不能の熱が、同じ喉にある。
「その宇宙に対する認識を、個人の格言で終わらせないで。天体科の外に置くのは惜しい。観測と設計に載せなさい。特別講師としてでもいい。私の前で、もう一度その言葉を組み直せば——」
「行くか?」
ライネスが、経路を示すように口を挟む。
「天体科への派遣も、吝かではない、とまで言ってあげてもいい。エルメロイ経由のまま、ね」
「だから政争の試料にするな」
私の声は、思ったより硬かった。
「紹介だよ、兄上」
マリアは、ジャムをスコーンに足してから、オルガを見た。
思想の賛成ではない。
地図の別経路の、確認だけだ。
「方向は、違う」
「……ええ」
「だが、同じく空を見ている」
言ったとき、マリアの瞳は、相手の顔ではなく、わずかに上を向いた。
天井ではない。窓の外でもない。
習慣で、頭上を測っている目つきだった。
オルガの唇が、一度結ばれる。
怒りの色ではない。
熱が、別の棚に移っただけだ。
「……それで、十分だとは思わない。でも——今日は、席に座ったわね」
「菓子が、出ると聞いた」
ライネスが、腹の底から笑った。
私は天井を見ている。
執行者が食事に釣られるな、と言った口が、自分でも遠い。
「動機は菓子で構わない。空の話は、またすればいい」
皿は、すでに空に近かった。
セイボリーは足しとして減り、スコーンと金箔の段が主に消えている。
マリアの帰宅の準備は、宇宙の結論より先に、皿の側から始まる。
「豪華絢爛、だった」
「そうとも」
オルガは珈琲を最後に一口飲んだ。
「また、会うことになるわ。そのときは——手順の話を、もう少しだけ聞いて」
「案件次第だ」
「空いていれば、ね」
私は、打ち切るように言った。
「今日は、ここまでだ。固有名は控えろ。照会するなら、私経由にしろ。実在の往来手段があるなら、今は語るな。実演も、禁止だ。そのヤーナムは、間違いなく厄ネタだろう。私の勘が、そう言っている」
マリアは短く頷いただけだった。
善処するかどうかは、また別問題である。
トリムマウが、音なく碗を下げる。
ライネスはメモを取る仕草をする。オルガの目は、まだ執行者の瞳の奥を測っている。
底はない。空でも覗いているようだ、と義妹は言った。
私には視えない。
視えないまま、危険と価値の境界だけが、今日も更新された。
席を立つとき、マリアは銀のスタンドにもう一度だけ目をくれた。中身は、もうほとんどない。
「実りは、あった」
宇宙の話か、菓子の話か。両方だ、と私は解釈した。
解釈したところで、胃は減る。
特別講師の監修のつもりで出た茶会は、こうして終わった。
終わったあとに残るのは、台帳にない土地の名と、下から空への転回と、天体科の令嬢の熱と、執行者のクリームの付け方と、ダジャレで入塔したという、真剣な軽さである。
私はすでに理解していた。 名称を照会しても、おそらく何もヒットしない。 それでも、嘘には聞こえない。 だからこそ、謎は深まる。
「……私の胃は、一つしかないんだが」
誰にともなく、そう呟いた。