茶会のあと、名称の照会はすべて空に終わった。
台帳にない。土地も、組織も、固有の句も。
ヒットしないと分かっていながら、私は手順どおり当たった。
結果は予想どおりだった。
それでも、義妹と天体科の令嬢は諦めなかった。
「もう一文だけでいい」
「空の位置の、続きを」
「閉じた土地の、中身を」
経路は違う。ライネスは愉悦を社交に包み、オルガマリーは観測の誠実さで来る。
どちらも貴族の礼は外さない。外さないまま、回数だけが増えた。
マリアは嫌がった。
「必要ない」
「追うな」
「視るな。壊れる」
茶会は菓子の礼だった、と繰り返す。
案件ではない、と短く切る。
教壇でも、廊下でも、書斎の扉の前でも、同じだった。
ある午後、ライネスが私にだけ言った。
「これ以上は、マナー違反だな」
「分かっているなら、やめろ」
「ああ、やめるとも。方針を変えるさ」
オルガも同じ結論に至っていた。
強要すれば、執行者は塔を去る可能性がある。
興味のある相手に深淵を見せるより先に、相手がいなくなる。
檻の外から鍵をこじ開ける行為は、品がない。
方針は、対価に変わった。
ただし、何を対価にするかは、まだ決まっていなかった。
決まりは、ノーリッジの路地で唐突に来た。
紙のバーレルを両腕に抱えた執行者が、角を曲がってくる。
いつもの金糸の見える装いのまま、揚げ物の匂いを従えている。
中身はフィッシュ&チップスだった。
太切りが縁から顔を出し、衣の欠片が紙に油を染みさせている。
ライネスが呼び止め、オルガも歩みを止める。
義妹により、執行者の位置は把握済みだった。
私も胃の位置を確かめてから並んだ。
「おやおや、これは偶然だな。ごきげんよう、執行者殿。それは?」
「フィッシュ&チップスだ」
「名物、だろう?」
「名物、らしい」
彼女はバーレルの縁から一本を抜き、噛んだ。
咀嚼は丁寧で、しかし感想は残酷だった。
「あんまり、美味しくない」
短い沈黙。
私は油脂の匂いと衣の色を見た。店の方角も、おおよそ見当がつく。
「それは、ハズレの店だ」
マリアの目が、こちらを向く。
「…ハズレ」
「ノーリッジにも、当たり外れがある。今のそれは、外れだ」
ライネスの顔が、愉しげに変わった。
閃き、というより罠の完成に近い。
「もしよければ、最高のフィッシュ&チップスを、お見せしようか?執行者殿」
山盛りのバーレルを抱えたまま、執行者の優先順位が音を立てて入れ替わったのが分かった。
「……どこだ」
「シルバー・バインドだ。この街で最上の部類だ。もっとも——」
「今か」
「予約が要る。個室も、常に空いてはいない。こじ開ける。日は追って通知する」
オルガが、礼の範囲で乗った。
「見るだけでいい。連れて行かなくていい。瞳は見ない。追わない。その代わり、昔のあなたの夜を、必要分だけ」
マリアは、ハズレの衣をもう一本噛んでから、捨てるように頷いた。
「見るだけだ。飯が先だ」
私は止めた。
「餌で釣るな。講師を、飯で」
「対価だとも、兄上」
「私は知らん、では済まないぞ」
「監修として来ればいい。最小限にしろ、と釘を刺す役だ」
釘は刺した。
翌々日、義妹から日時だけが届いた。
予約表に空きはなかった、と後で聞いた。
ライネスが枠をこじ開け、個室ごと押さえたという。
紹介と名義と、愉悦のための投資——詳細は聞かなかった。
聞いても胃に悪い。
シルバー・バインドの扉の前に、列はない。
入れない者は、最初から来ない。
窓は少なく、レース越しに灯りだけが滲む。
名前を言って、初めて中へ通された。
個室の扉が閉まる。席は少ない。
今夜の枠が、取引の証だった。
私は短く結界を張った。
音と気配と、これから起きる幻視の漏れを止める。
大仰な儀式ではない。監督者の最低限だ。
オルガが一度だけ、術式の端を目で追い、何も言わなかった。
山が、運ばれてくる。
皿は最初から見えない。
太切りのチップスが峰を作り、その上に衣の魚が重なる。
割れば白い身が層になり、短い湯気が立つ。
塩は結晶のまま残っている粒があり、マッシュド・ピースが裾に沈んでいる。
紙は油を吸って透け、峰の影が机に落ちる。
屋台のバーレルではない。
取れた予約の上に、盛られた山だ。
マリアは、着席より先に山を見た。
「良い匂いだ、油が違う……それに、すごい量だ」
「約束は果たしたとも」
最初の一本が折れる。
衣が音を立て、熱い。塩が先に来る。
次の一口は魚の厚いところへ向かい、咀嚼のあいだ、彼女の顔はたしかに旨そうだった。
ハズレの路地とは、別の夜だ。
「見せるだけだ」
魚を置かずに、言った。
「連れて行かない。瞳は見るな。追うな。昔の、私だ。最初の夜だ」
灯が、一段階だけ落ちたように錯覚する。
物理的には消えていない。油の匂いが、一瞬だけ遠のく。
——視界が、重なる。
肩の少し後ろ。
つばの広い帽子の影。
革の長いコートの裾。金糸はない。夜の実務の服だ。
私は「幻視か、共有か」と分類を始め、指が卓に着く。
オルガは式を走らせようとして、式の手前で景色が来る。
ライネスは愉しみの姿勢のまま、背がわずかに伸びた。
まるで映画鑑賞に浸るようだ。
床板が剥げ、薄汚れた診療所の門が、背面に遠ざかる。
冷たい空気。石。
「閉鎖都市の、外縁……」
私の声は、地図を描こうとしているだけだった。
オルガは空を見る。まだ、ただの夜だ。
ライネスが「舞台の雰囲気は悪くない」と評する。
カットが切り替わる。
月が、近い。
屋根の向こうに、盤のように張りついている。遠い光源ではなかった。街の側にあった。
オルガの指が、白い。
「近すぎる。軌道が——おかしい。観測点の話じゃないわ」
体が先に否定している。
私は視差も既知の月とも合わないと理解し、眼鏡に手が行って、触れない。
触れても消えない。
ライネスの笑みが薄れる。
「……面白いが、趣味が悪いな」
大通り。炎が先に目に入る。
柱に獣が縛られ、焼かれている。
輪になった人影と松明。
熱は顔に来るのに、街全体の冷気は消えない。
焦げた匂い。
罵声と、人でない遠吠えが混ざる。
「……私刑、か。儀式か」
語を並べ、どれも足りないと、私は黙る。
胃が先に反応する。
オルガの顔から血の気が引く。
輪の内側の目が、こちらを獣として見ている圧。
ライネスの声が、冗談のまま喉が細い。
「歓迎、にしては手が込んでいるな」
路地。段差。人型の影が数で来る。
「数が多すぎる。戦力比が、狩りの形になっていない」
敵というより、環境だ。ライネスが「囲まれたら終わり、という設計だな」とルールを褒め、顔は硬い。
オルガは、人型なのに会話が成立しない目に、恐怖を寄せる。
そして大橋。
開けた石。風。落ちる夜。
月がまた近い。一瞬、肩の力が落ちそうになる。
先の闇で、それが消える。
「橋の向こうが、終点ではない」
橋の向こう側から。
痩せた巨躯。あばら。発達した左腕。悲鳴のような金切り声。
ライネスが口を開く。
「執行者殿、アレは——」
世界が、赤黒く沈んだ。
衝撃。上下が逆さになる感触。操作する身体がない。
死んだ。
——油の匂いが、先に戻る。
シルバー・バインドの、揚げたての匂いだ。酢。塩。個室。結界の内側。
気づけば三人とも、青ざめていた。
思考が、白い。
固有結界も、精神干渉も、危険も、思考が手の中で滑る。
ライネスの愉悦が、物理的に落ちている。
オルガの唇が動いても、音にならない。
月の距離が、網膜の内側に残っている。
椅子にいる。なのに、橋の上で潰された。
そのあいだ、マリアは揚げ物の山を崩していた。
衣を割り、熱い身を頬張り、チップスをマッシュに沈めてから口へ運ぶ。
旨そうだった。
横で人が死んだあとの席で、孤高に、丁寧に、昔の自分の死を横目に、山盛りを減らし続けている。
呼吸が、戻る。
ライネスが、先に声を戻した。
愉悦ではなく、喉の奥から押し出すような速さだった。
「執行者殿。アレは……あの化け物は、一体何なんだ?」
オルガは月の話から入ろうとして一度噛み、形の方を先に出した。
「どう見ても人じゃなかったわ…」
私は、危険、という言葉を選ぶ前に、体の倦怠感を認めた。
死を用語にできないことが、まだ残っている。
マリアは、皿から顔を上げた。
口の中の物を水で飲み下してから、彼女は短く返した。
「いや、あれは人だったモノだ。聖職者の獣、と呼ばれる」
「人だった。血によって、獣になった」
「抑えが強いほど、蓋が外れたときの反動は大きい、と先の講義で言った。ソレだ」
教室の句が、ここに接続される。
「医療教会の聖職者は、人より強く抑える。血にも、近い。しかし彼らには戻る手順がない。時限が切れた」
「追うな。それ以上は、必要ない」
論評は、そのあとに来る。
私は言った。危険は確認した、と。
固有結界とも死徒とも、同じ棚に置くな、と。
記録には残らない。残らないまま、共有された。
ライネスは、恐怖のあとに愉悦を汚れたまま戻した。
再演を尋ね、怖いのにまた見たくなる自分を、笑いで上書きしようとする。
オルガは、長い沈黙のあとで「あれは天体ではないわ…何なの…一体」と呟いた。
続きは欲しい。だが死の感触が、今にも甦る。
山が、終わる。
紙の底が見える。油を吸った紙が、空虚な地形になる。
マリアは、指の塩を一度だけ拭ってから言った。
「……終わった」
フィッシュ&チップスが、終わった。
短い間。
「だが、分かるよ」
「秘密は甘いものだ」
「だからこそ、恐ろしい死が必要なのさ」
「……愚かな好奇を、忘れるようなね」
個室の結界の内側で、その句だけが残った。
ライネスの愉悦が、一度止まる。
オルガは、茶会の宇宙の句とは別の、戒めとして受け取る。
私は、この取引の正体を理解する。
甘い秘密に、死を添えた。皿の底までしか、檻は開かなかった。
シルバー・バインドの夜に、揚げ物の匂いだけが残る。
私は眼鏡を外さなかった。外すと、橋の感触が戻ってきそうだったからである。