スコットランド北部の山岳地帯は、木をほとんど持たない。
古い岩が斜面を作り、風が常に同じ方向から来る。
遠くに湖の気配があり、空は低く、雲が岩の稜線を擦る。
その一角。
岩石に包まれた工房に、結晶が人の形をしていた。
元は鉱石科の魔術師だった。
準封印指定に相当する所業——星の外に由来する「結晶の谷」を、一部だけ再現しようとして失敗した。
結晶の谷にはならず、歪な鉱の塊と、定着しきれない概念が残った。
抱きかかえた術者は、内側から置換され、いまは鉱石の一部に近い。
その腕らしき物の中に、結晶化の苗床あり。
命令は、ロード筋の誰かから執行部へ落ち、執行者の手に渡っていた。
経路の詳細は、末端には来ない。
つばの影と金糸の見える装いが、斜面に立っていた。
マリア——少なくとも、そう名乗って動いている女だ。
対象を一目で測り、結晶化した術者には剣を向けない。
相手は既に活動を停止している。
戦いの相手ではなかった。
しかし、そこに先客がいた。
女だった。
金髪。毛皮の印象を残すコート。
宝石魔術の家門、エーデルフェルトの令嬢——ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。
正式なエルメロイ教室の所属ではなく、聴講生として名を出している程度の位置だ。
先取の情報で山に入り、解析に値する結晶を、家の論理で取りに来ていた。
二人の視線が、失敗作の結晶で重なる。
「下がれ。回収対象だ」
「あら、そちらこと、下がっていただきませんこと?先にこの地を踏んだのはわたくしですわ。先取の権利、というものを御存じなくって?」
「封印指定に準ずる。執行の優先が上だ」
「準ずる、とおっしゃいましたわね。確定していないなら、交渉の余地がありますわ。エーデルフェルトは、拾った獲物をそう簡単には手放しませんわよ」
風が、二人のコートの裾を同じ方向に倒す。
静寂は、長くは持たなかった。
ルヴィアの指先に、光が集まる。
宝石魔術の備えだ。
射撃の前兆。家門の本気の用意が、高山の冷気の中で形を取りはじめる。
執行者の目には、それが徒手に近かった。
「……徒手、か」
短く、確認するようだった。口の端が、わずかに上がる。
刀も銃も出ていない。構えが、近接に見える。
(あ、肉体言語かな——)
その程度の認識で、落葉が鞘に戻り、飛び道具が、何処ともなく仕舞われる。
「ならば、その礼に応じよう」
左手にだけ、粗い金属の塊がはまる。
ガラシャの拳。
ほぼ未使用の武器だ。
ダメージは出ないが、怯ませは付く。
殺さない礼の試合には、ちょうどいい。
まともに使うのは、初めてに近い。
ルヴィアの瞳が、一度大きく開く。
「待って下さいまし——そのメリケンサック、どういうつもりですの?」
執行者が、刃も銃も出さず、拳だけで立っている。
令嬢の脳内で、記号が組み替わる。
「……分かりましたわ。拳だけで来る、と。つまり!肉体言語ですわね!おーっほーっほっほ!わたくし、興奮しますわ!」
宝石の光が、引かれる。
ガンドも、直撃の射線も、一旦棚に上げる。
拳を上げ、重心を落とす。
「宝石はしまいします。拳と技だけで、十分でしてよ!同じ時計塔の所属同士、野暮な殺し合いをするほど、わたくし不粋ではありませんことよ!」
結果として、殺し合いは避けられた。
合意ではなく、すれ違いの産物だ。
何処からともなく、低い金属音がした。
山にゴングはない。
二人だけが、それを聞いた気がした。
岩場の一角が、仮のリングになる。
「ごめんあそばせ!」
先攻は、ルヴィアだった。
短い拳が顔を狙い、途中で軌道を変えて腋へ入る。
肘が続く。
打撃は、試合を閉じるためのものではない。
相手の間合いを測り、懐に入るための入場券だ。
マリアは、後ろへ下がらない。
前に出て、肘の軌道を外側へすり抜ける。
つばの影が一度ぶれ、間合いが詰まる。
次は、執行者。
ガラシャの質量が、ルヴィアのガードに乗る。
金属と腕の骨が、短い音を立てる。ダメージは薄い。
だがその重さがルヴィアの体勢を容易に崩す。
靴が岩で滑り、すぐ踏み直す。
「重い……! 淑女の腕に、こんな質量、反則ですわっ」
「質量ではない。怯ませだ」
「はあ?」
「この決闘にはちょうどいい」
初めての本格運用を、狩人は愉しんでいるように見えた。
ルヴィアの番が戻る。
胴、腿、再び肘を狙い、そして懐へ入る。
手首を取り、短いアームドラッグで半身を入れ替える。
位置が、崖側へ寄る。息が白い。高山の空気が、肺に刺さる。
代わってマリア。
前ステップで内側へ入り、ガラシャを肩に当てる。
ルヴィアの回転が一つ遅れ、膝が続く。
令嬢は受け、距離を取り直す。
「わたくしの技が効きませんわね。というか——終わりませんわね」
再び、ルヴィアの番だ。
打撃のあと、腰を落とす。抱え、持ち上げ、落とす。ボディスラムが、岩に響く。
技が決まった。
しかしマリアは、目を回さない。
意識は途切れない。
すぐ起き上がり、つばの角度だけを直す。
口の端が、またわずかに上がっていた。
「なんで、すぐに立ち上がれますの?確実にキメましたのに。気絶はおろか、目眩すらしていませんわね」
「その程度は効かない。毒や発狂はあるが」
「……はあ?」
「プロレスは面白い」
技は通るが、終わらない。
強度の低いものは効果に乗らない。
令嬢の計算が、一度書き換わる。
だからルヴィアは、接続を丁寧に取る。
ジャブ、ボディ——懐が近い。
関節を取りにいき、一度は拳の質量で切られる。
もう一度、打撃のあとで組みの入口を作る。
打撃か、投げか。
構えた相手に組み、組みを警戒した相手に打撃。
二択を迫る。
優美な鬣犬の圧力が、仮のリングを狭くしていく。
そして、ルヴィアの番で、接続が通る。
腰が沈み、肩が入る。
マリアの世界が、逆さに傾きかける。
「バック——!獲りましたわ!!」
バックドロップ。
今試合、唯一の大技だ。
マリアの帽子が、遠心力の外側へ向く。つばが空を向き、金の刺繍が光る。
しかし帽子は取れない。
装備は剥げない。
ルヴィアの喉が、一瞬だけ疑問の形になる。
その一拍に、マリアは腰をひねり、投げの軸をずらす。
完全な着地はしない。
両者、岩に手と膝をつく。
「……その帽子。なぜ、取れませんの?接着剤でも頭皮にお付けで、いらっしゃる?」
「いや、そういう仕様だ」
「仕様、ですって?」
「そう、取れない」
「はぁ?」
目眩もない。気絶もない。
ボディスラムも、バックドロップの不完全着地も、意識を飛ばさない。
ルヴィアから見れば、技は通るのに試合が終わらない。
実質、引き分けだった。
決め手が、どちらにも残っていない。
残っているのは、鉱石化した魔術師の腕にある危険物と、侵食の気配だけだ。
「……これ、触れたらダメですわ。わたくしの手に負えませんわね。情報が不足してますわ、全く…」
ルヴィアが、先に言った。
礼装の方を見ている。
魅力はあるし、解析の価値もある。
だが今、ここで確保すれば自分が鉱石に成り果てる。
「価値は認めますわ。けれど、この場で開けば私がミイラになりますわ。こんなモノ、淑女の趣味ではありませんわね」
一方のマリアは、侵食を承知で、結晶の男の腕から対象を受け取る。
すると、男の腕は砕け散った。
手袋の奥で、指が白く硬く寄っていく。
鉱石の温度。
結晶化が、執行者の片手から徐々に這い上がる。
呼吸は変わらない。声の温度も変わらない。
動じない。目も、回らない。
ルヴィアが止まった。
「……その手」
「状態異常の強度が、違う」
「強度……?」
「毒や発狂は、ある。目眩や気絶は、ヤーナムには無い。だが、コレは…この結晶化には強度がある。私にも効く」
ごくわずかでも、星の外の性質を残した残滓だ。
肉弾戦の延長ではない。
片手が鉱石に寄るのは、仕様ではなく、強度の問題だった。
「貴方…動じない方が、よほど異常ですわ。わたくしは、結晶の標本にはなりませんわよ」
計算が、書き換わる。
先取の権利も、家門の欲も、目の前の侵食には勝てない。
“骨折り損の、草臥れ儲け”
令嬢の内心は、悲鳴にはならない。一段だけ、声が低くなる。
そこで、執行者が大量の硬貨を出した。
“輝く硬貨”
彼女が”翌朝”のために、せっせと買い込んでいた硬貨。
それを山のように。
出所不明、発行者不明。
結果として狩人にとっては価値の薄い硬貨であったが、それは岩の陰で淡く光る。
引き際の主因ではなく、添え物だ。
ルヴィアは、一枚を摘み、まじまじと刻印を見る。重さを見る。
金に似ている。
だが既知の造幣局のどれにも一致しない。
強い神秘の塊でもない。けれど、無でもない。
薄い、異質な感触が、指の腹に残る。
「これで下がれ、ですって? ……何ですの、その硬貨は」
「輝く硬貨だ」
「発行は?国は?」
「たぶん、ヤーナム」
「ヤーナム?どこですの、そこ?……ふふっ……出所も分からぬ金貨、ですわね。神秘というほどではありませんわ。けれど、無でもありませんわ。検分のため、頂きますわ。わたくしも、手土産の一つくらいは欲しいもの」
礼装の本体は執行者、硬貨は令嬢。
矜持を折ったというより、戦場の選択を変えた、というのがルヴィアの顔だ。
「今日は引き分け、ということでよろしいかしら。次は、リングを正式に用意しても構いませんわよ?おーっほっほっほ!」
山を下りるとき、金髪の令嬢は大量の硬貨を袋に抱え、執行者は、利き手を少なく使って岩山を下った。風が、また同じ方向から二人の背を押した。
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時計塔に戻ってからの報告は、短い。
ロード・エルメロイⅡ世の書斎で、執行者は「終わった」「膠着した」「硬貨を渡した」と並べた。
聴講生のエーデルフェルト嬢と礼の範囲で拳を合わせた、と聞き、Ⅱ世は一度目に頭を抱えた。
机に置かれた出所不明の金貨を見て、二度目に頭を抱えた。
「その手は何だ??結晶化して失われたはずでは?」
「戻した」
「戻した、とは」
「一度、死んで戻した」
死んで、戻る。夢を見た、とも言う。
毒も発狂も、侵食も、死んで戻れば消える。
仕組みは語らない。
Ⅱ世は眼鏡を外さず、硬貨の光だけを見た。
金に似て、金の台帳には載らない物だ。
「……それほどの危険物なら、最終的には鉱石科のロードあたりが処理したのだろう。結局は鉱石科に帰属したわけだが…」
憶測にすぎない。
確認する気も、今はない。
扉が閉まったあと、発行者不明の円貨が、机の上でわずかに光っていた。
スコットランドの岩と、聴講生の拳と、死んで戻る執行者の文を、静かに連結している。
Ⅱ世はしばらく、ただ、輝く硬貨を眺めていた。