落星の継承者 重量変化だけしか使えない主人公が、バカでかい武器を振り回す話 作:青井リンボ
横倒しになったゴアグリズリーが、瓦礫を押し退けながら立ち上がる。
その動きには、先ほどまでの慎重さが消えていた。
「ゴアアアアアッ!」
血を流す左目を見開き、狂乱の形相でサビ目掛けて四肢で床を蹴る。
「来る!」
ミリーの声と同時に、巨体が一直線に迫った。
避けなければ押し潰される。
サビは自分の身体へ魔力を流し込み、横へ向かって床を蹴った。
重さを失った身体が、地面すれすれを滑るように跳ぶ。
ゴアグリズリーの巨体が、すぐ脇を轟音とともに通過した。
踏み砕かれた石床の破片が、サビの頬を掠める。
(避けた――)
そう思った直後だった。
ゴアグリズリーは前進する勢いを殺さないまま、上体を強引に捻った。
振り返るよりも早く、巨大な右前脚がサビへ迫る。
まだ空中にいる。
足場もなければ、もう一度方向を変えることもできない。
(……なんて動きだ!)
サビは巨剣槍を身体の前へ引き寄せ、柄と刃を盾にするように構えた。
前脚が触れる寸前、巨剣槍の軽量化を解除する。
本来の質量を取り戻した巨剣槍と、ゴアグリズリーの前脚が激突した。
「ぐあっ!」
金属が軋み、衝撃が両腕から肩へ突き抜ける。
巨剣槍が間にあってなお、サビの身体は紙切れのように弾き飛ばされた。
視界の中で、床と天井が何度も入れ替わる。
(このまま落ちたら――)
サビは巨剣槍を再び軽くし、続けて自分の身体からも重さを抜いた。
落下の勢いが、空気の抵抗を受けて僅かに弱まる。
空中で巨剣槍を振り、その反動で無理やり身体の向きを変えた。
直後、巨剣槍を下にして床へ叩きつけられる。
「がっ……!」
それでも身体は一度弾み、そのまま石床を転がった。
全身に痛みが走る。
握った両手も痺れ、すぐには力が入らない。
だが、骨を砕かれた感触はなかった。
サビは荒い息を吐きながら、再びゴアグリズリーを睨んだ。
その巨体へ、ミリーの魔力矢が立て続けに突き刺さる。
首元に一本。肩に二本。 さらに頬を掠めた矢が、赤黒い毛皮を裂いた。
それでも、ゴアグリズリーは振り返らなかった。
潰された左目から血を流し、口元から唾液を撒き散らしながら、残った右目だけでサビを睨みつけている。
矢が刺さっていることすら、認識していないようだった。
(完全に頭へ血が上ってやがる……!)
「サビ! こっちを見ない!」
ミリーが声を上げ、さらに矢を放つ。
一本が耳元へ浅く突き刺さり、ゴアグリズリーの頭が僅かに揺れた。
だが、その足はサビへ向いたままだった。
低い唸り声を漏らしながら四肢を沈める。
傷も、痛みも、目の前の獲物以外も、すべて無視している。
次の瞬間、石床を砕いて突進してきた。
サビの体には直接的な負傷だけでなく、何度も使った重量変化の消耗が蓄積していた。
身体まで軽くした分、次に巨剣槍を軽くする余裕が残るかは分からない。
サビは痺れる両腕に力を込め、巨剣槍を構え直した。
ゴアグリズリーが再び地面を蹴る。
巨体が右前脚を大きく振り上げる。
まともに受ければ、今度こそ潰される。
身体を軽くして逃げれば、もう一度だけ避けられるかもしれない。
だが、その次は分からない。
次の一撃をどう凌ぐか。
そのことだけを考えていたはずだった。
ふいに、まるで関係のない光景が脳裏を横切った。
青い髪。
連れ去られていくアオを前に何もできず、泥に沈んでいた自分の姿。
(そうか——)
いつもそうだった。
殴られれば身を縮め、危険が迫れば物陰へ隠れる。
反抗しても、魔力もろくに使えない身では、地面に叩きつけられるばかりだった。
奴隷だった頃も、スラムにいた頃も、生き残るために逃げ続けてきた。
それしか選べなかった。
胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
恐怖が消えたわけではない。
痛みも、荒い呼吸も、そのままだった。
ただ、ゴアグリズリーの動きだけが、妙にはっきりと見えた。
肩が沈む。
前脚に力が集まる。
爪がサビの頭上へ落ちてくる。
(逃げるんじゃない)
サビは身体を軽くし、前へ踏み込んだ。
振り下ろされる前脚へ向けて、軽量化した巨剣槍を最短の軌道で振り上げる。
接触の寸前、巨剣槍の重さを元へ戻した。
刃の腹と太い前腕が激突する。
「ぐっ……!」
真正面から受け止めることはできない。
サビは衝撃に逆らわず、巨剣槍を斜めに滑らせた。
刀身から、ぴしりと嫌な音が鳴る。
それでも、振り下ろされるはずだった前脚は僅かに軌道を外れ、サビのすぐ脇へ叩きつけられた。
石床が砕け、弾けた破片が頬を掠める。
直撃はしていない。
(合わせられる……!)
両腕は痺れ、肩にも鋭い痛みが走っていた。
だが、逃げるよりも早く、次の動きへ移れる。
ゴアグリズリーが床へ叩きつけた前脚を持ち上げようとする。
その動きさえ、今のサビには遅く見えた。
視界の端で、魔力の矢が赤黒い毛皮の首元に一本、突き立つ。
矢を受けるたびに巨体の筋肉が僅かに震えたが、残された右目はサビだけを睨んでいた。
ミリーがどれほど矢を射かけても、ゴアグリズリーは振り返ろうともしない。
怒りを優先しているだけで、痛みは感じてるようだ。
(俺しか見えてねえな……)
サビは一歩だけ間合いを外しながら、巨剣槍を頭上へ振りかぶった。
血に濡れた口の端が、僅かに吊り上がる。
薄く覗いた歯は、笑みというよりも、相手へ向けた牙のようだった。
それは好都合でもあった。
だが、もしあの怒りがミリーへ向けば、彼女に巨体の突進を避け続ける術はない。
ここで仕留める。
サビはゴアグリズリーの頭部へ、巨剣槍を振り下ろした。
巨大な鉄塊が、唸りを上げる。
だが、ゴアグリズリーも前腕を振りかぶっていた。
視界の端で、太い前腕が横薙ぎに迫る。
その顔へ、ミリーの魔力矢が突き立った。
それでも、ゴアグリズリーは残った右目をサビへ向けたまま、前腕を振り抜く。
「サビィィッ!」
ミリーの叫びが広場へ響いた。
次の瞬間、巨剣槍と前腕が再び接触する。
「……ガ?」
ゴアグリズリーは前腕を大きく振り抜いていた。
先ほどと同じように、重い刃を弾き返すつもりだったのだろう。
だが、巨剣槍は軽量化されたままだった。
前腕に返ってくるはずの手応えがない。
ゴアグリズリーは振り抜いた勢いを殺せず、そのまま大きく前のめりに倒れかける。
巨体まで腕に引っ張られるように流れ、頭部の側面を無防備に晒した。
サビも、振り払われた巨剣槍を無理に止めなかった。
軽くなった武器の軌道へ身体ごと乗せ、床を蹴る。
巨剣槍に引かれるように、1回転。
回り切った先に、ゴアグリズリーの側頭部があった。
「ォォォォラァッ!」
命中の寸前、軽量化を解除する。
本来の質量を取り戻した巨剣槍が、回転の勢いを乗せて側頭部へ叩き込まれた。
硬いものが、砕ける音が響く。
同時に、巨剣槍を通して凄まじい反動が両腕へ返った。
「ぐぅッ……!」
堪えきれず、低い呻きが漏れる。
痺れていた手首と肩が悲鳴を上げる。 それでも、これまでとは違う。
刃の向こうで、何かが明確に潰れた手応えがあった。
赤黒い毛皮と肉が潰れ、その下の頭蓋が大きく陥没した。
ゴアグリズリーの巨体は抗う暇もなく傾き、巨剣槍に押し込まれるように石床へ叩きつけられた。
広場全体を揺らすような衝撃が走った。
砕けた石片が床を跳ね、崩れかけた天井から細かな砂と埃が降り注ぐ。
ゴアグリズリーの巨体は、側頭部を石床へ押しつけられたまま、一度だけ大きく痙攣した。
太い前脚が床を引っ掻く。
だが、それきり動かなかった。
広場に、急速に静けさが戻っていく。
先ほどまで響き渡っていた咆哮も、石床を踏み砕く足音もない。
聞こえるのは、崩れた天井から小石が落ちる音と、サビ自身の荒い呼吸だけだった。
サビは巨剣槍を握ったまま、倒れた巨獣を見下ろしていた。
耳の奥では、まだ激しい鼓動が鳴り続けている。
息を吸うたびに胸が痛み、痺れた両腕にはほとんど力が残っていなかった。
柄を握る指も震えている。
それでも、立っている。
自分は生きている。
崩れた天井から差し込む日差しが、舞い上がった埃の中へ斜めに伸びていた。
その光の下で、赤黒い巨体が微動だにせず横たわっていた。
目の前の魔物は、もう動かない。
「……倒した」
口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
奴隷だった頃なら、あれほどの魔物を見た瞬間に死を覚悟していた。
戦おうと考えることすらなかったはずだ。
それを今は、自分の手で倒した。
胸の奥から、遅れて熱いものが込み上げてくる。
「サビ!」
ミリーの声に振り返る。
彼女は弓を下ろし、倒れたゴアグリズリーを大きく迂回しながら駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 何発かまともに受けたように見えたけど……!」
サビの腕や肩へ視線を走らせ、血の付いた場所を確かめていく。
その手は僅かに震えていた。
「多分、折れてはいない」
そう答えたサビを見て、ミリーの視線が止まる。
「……ヘルム」
「ん?」
「外して」
言われるまま、サビはヘルムへ手を掛けた。
側面は大きく抉れていた。
金属が潰れ、爪の跡が残っている。
その下の頬には深い傷が走り、血が首筋へ流れていた。
サビはそこで初めて、自分の頬に触れた。
「……血、出てたのか」
ミリーは呆れたように息を吐く。
だが、その表情には安堵と心配が混じっていた。
あの一撃を受けて、今こうして立っていられるのは偶然ではない。
ヘルムがなければ、終わっていた。
「……無茶しすぎよ」
小さく呟いた声には、微かな震えが混じっていた。
「まあ、生きてる」
サビは短く答えた。
ミリーはしばらく何も言わなかった。
「……よかった」
それは、戦っている最中の鋭い声とは違う、消え入りそうな呟きだった。
その後すぐ、ミリーは回復軟膏や保護布の入った袋を取り出すと、サビの傷の処置を始める。
サビは何と返せばいいのか分からず、されるがままになっていた。
頬の傷を消毒するときだけ、僅かに眉を寄せた。
やがて視線を戻す。
そこには、先ほどまで自分たちを殺そうとしていたゴアグリズリーの巨体が横たわっている。
勝った。
だが、まだ胸の奥には戦いの余韻と、僅かな震えが残っていた。
「……こいつは、どれくらい危ない魔物なんだ?」
「危ないなんてものじゃないわ」
ミリーも巨体を見下ろし、表情を引き締めた。
「普通なら、中堅以上の傭兵が何人も組んで仕留める相手よ。正面から戦うなら、二人だけで倒せるような魔物じゃないわ」
そう言ったあと、ゴアグリズリーの全身に残された傷へ目を向ける。
首や肩、胸元には、魔力矢の突き刺さった跡がいくつも残っていた。
矢そのものは既に霧散し、赤黒い毛皮の間から血が滲んでいる。
「……それにしても、私の攻撃はほとんど効いてなかった」
「あれだけ撃って、効いてないわけないだろ」
サビは即座に返した。
しかし、ミリーは首を横に振る。
「あいつを倒したのはサビよ。私の矢は、毛皮を少し裂いた程度だった」
ミリーは自分の弓へ視線を落とした。
「……でも、少しだけ分かったこともある」
「何だ」
「あの時、何故か普段よりずっと強い魔力を込められていた」
サビが顔を向ける。
「矢を作る速度も、数も、いつもより上だったと思う」
ミリーは悔しそうに唇を噛んだ。
「それでも、あいつの動きを止めるには足りなかった」
サビは眉をしかめた。
ミリーは自分の放った矢を、必要以上に低く評価しているように聞こえた。
「ずっとサビに任せきりだった。あいつが私に狙いを変えていたら、何もできなかったと思う」
「俺だって、一人なら死んでた」
サビは即座に答えた。
ミリーが顔を上げる。
「左目を射抜いた時に怯まなかったら、身体を軽くする余裕はなかった。それに、お前が撃ち続けてたから、俺はあいつだけ見て戦えた」
「でも――」
「最後に踏み込んだのは俺の判断だ」
サビは倒れたゴアグリズリーへ目を向けた。
「でも、そこまで持ち込めたのはあの矢があったからだ」
ミリーはしばらく黙っていた。
戦いの最中に乱れた白銀の髪が、頬や額へ張りついている。
薄い埃を被った顔には疲労が滲み、弓を握る指にもまだ僅かな震えが残っていた。
それでも、サビを見る琥珀色の瞳からは、先ほどまでの焦りが少しずつ薄れていく。
やがて、強張っていた肩から力が抜けた。
ミリーは小さく息を吐く。
その直後、張り詰めていたものがようやく切れたように、表情が僅かに緩んだ。
「……うん。ありがとう、サビ」
戦っている最中の鋭い声とは違う。
安堵と喜びが滲んだ、柔らかな声だった。
「ああ」
サビは短く答えた。
他に何を言えばいいのかは分からなかった。
ただ、ミリーが無事に立っていることと、その顔から恐怖が消えていくことを見て、胸の奥に残っていた緊張も少しだけ解けた。
広場に静けさが戻る。
先ほどまで鳴り響いていた咆哮も、瓦礫や床が粉砕される音も、もう聞こえない。
崩れた天井から日差しが差し込み、空中を漂う埃を淡く照らしていた。
その光の中で、倒れたゴアグリズリーの巨体と、その傍らに立つ二人の影が、石床へ長く伸びている。
サビは改めて、手の中の巨剣槍を見下ろす。
柄には細い亀裂が走り、刃にも僅かな歪みができていた。
勝てた。
巨体を翻弄し、最後には頭蓋を砕いた。
奴隷だった頃には、考えることさえできなかった勝利だった。
胸の奥には、まだ熱が残っている。
だが、あと少し相手が頑丈だったなら、同じ一撃では倒せなかったかもしれない。
軽くして速く振るだけでは、いつか届かなくなる。
(元の重さへ戻すだけじゃ足りない――もっと重くできねえか)
勝利の熱の奥に、次に越えるべき壁が残っていた。