最も恐ろしい敵は、優しさの面を被って現れる。 作:五日市 律
特別試験4日目、早朝。
無人島の森を包む朝もやは、夏ながらもどこか粘り気のある冷たさを孕んでいた。
Dクラスの拠点では、昨夜からの疲れを引きずりながらも生徒たちが朝の準備を始めている。
3日目が終わるまで総じて順調に進行し、一見すると穏やかなまとまりを維持しているDクラス。だが、その表面的な平穏の裏で、いくつもの不協和音が静かに、けれど着実に軋みを上げていた。
「大丈夫か、堀北。少し疲れているように見えるが」
「……ええ、問題ないわ。ただの寝不足よ。心配なら無用だから、放っておいて頂戴」
朝の点呼を終えた直後、少し離れた木陰で立ち止まる堀北に綾小路が声をかけていた。堀北の表情には大きな疲労の色が見え隠れしているが、彼女の孤高のプライドと責任感が、わずかな弱音すら吐くことを拒絶していた。
(ふふ……堀北さん、強がっているけれど、結構体調不良のダメージが溜まってきているみたいだね……)
水筒を手にした栞は、朝食の準備をする女子たちの輪の中から、そんな二人を……特に平静を装う堀北の姿を静かに見つめていた。
わずかに堀北がこちらを見ている気もするが、まったく気付かなかったふりをする。
結果的に彼女が一人で背負い込もうとすればするほど、後で訪れる崩壊の瞬間は甘美なものになるのだ。
栞は静かに視線を滑らせ、次にクラスの「大黒柱」として周囲に気を配る平田へと意識を向けた。
堀北の変調にはまだ気づかず、明るい笑顔でクラスメイトたちに指示を出す平田。だが、栞は、彼の目元の僅かな影と、指先の不自然な強張りを逃さない。
しっかりクラスをまとめているように見える平田だが、その精神は「Dクラスを完璧に導かなければならない」という過剰な責任感と、栞から与えられた「いつでも頼っていい」という甘い毒によって、既に自力で立つことができないほど歪められてきていた。
「常盤さん、水は足りてる? 重かったら代わるよ」
「あ、平田くん。ありがとう、大丈夫だよ。平田くんこそ、ずっとみんなのために動いてくれてるし……少し休んで?」
栞が控えめに微笑みながら差し出した手拭いを、平田はどこか嬉しそうな表情で受け取った。
「ありがとう……常盤さんがいてくれて、本当に助かってるよ」
「ううん。私は平田くんの味方だから……いつでも頼ってね」
周囲からは「優しい常盤さん」としか見えないやり取り。だが、平田の瞳に宿る密かな依存と安心感を、栞は舌の上で味わうように確かめていた。
※
朝食の後片付けを終えた10時過ぎ。
太陽が高く上り、森の中の湿気がじんわりと肌にまとわりつく時間帯、栞は佐藤と松下の二人とともに、川辺へと水汲みに向かっていた。
「蒸し暑〜い! もうすでに汗だくなんですけど!」
ポリタンクを両手に抱えた佐藤が、前髪を軽く仰ぎながら愚痴をこぼす。いつものギャルらしい賑やかなノリに、栞は柔らかく目を細めて微笑みかけた。
「ふふ、麻耶さん。もう少しの辛抱だよ、一緒に頑張ろうね」
「本当、栞ちゃんはいつも穏やかで癒やされる〜! 同じグループで本当に良かったよ〜!」
無邪気に腕を絡めてくる佐藤に、栞は困ったような、けれど嬉しそうな表情を返す。
相手の承認欲求を満たし、疑いの余地を一切残さない。栞にとって、人並みの傷口がありつつもまっすぐで純粋な佐藤については、一種の清涼飲料のように感じていた。
だが、二人の少し後ろを歩く松下の視線は、どこか冷ややかだった。
松下は水筒のストラップを指で弄りながら、会話の輪に入り込むように静かな声をかける。
「……それにしても常盤さんって、本当に周りをよく見てるよね。気配りもすごいし……平田くんや堀北さんのことだって、気にして見てるでしょ?」
探るような鋭さを秘めた問いかけ。
松下は探索班で一緒になった時から、栞の見せる「無害で可憐なリアクション」に微かな人工感と引っかかりを覚えていた。クラスでトラブルが起きた際も、栞は怯える素振りを見せつつ、その瞳の奥だけは決して動揺していなかったことを覚えている。
優しく心弱い少女を演じながら、その実、すべてを冷徹に見下ろしているのではないか――松下の中で育ちつつあった小さな違和感と警戒心が、試すような言葉となって放たれていた。
栞は一瞬だけ表情を曇らせ、申し訳なさそうな視線を落とす。
「え……昨日のこと……? うん、堀北さんが少し疲れてるみたいに見えて……でも、私が下手に声をかけたら余計に気を遣わせちゃうかなって……。控えめにしか話せなかったなぁ……」
申し訳なさそうに胸元で指を絡め、気後れしているような仕草。
そして栞は自然な動作で、佐藤の背中の後ろへとすっと身を隠した。
「ちょっと松下さん! 栞ちゃん、すごく真面目に心配してくれてるんだから、あんまり意地悪な聞き方しないでよー!」
予想通り、庇護欲を刺激された佐藤がすぐに間に入り、松下を制するように声を張り上げる。
佐藤麻耶という盾の影で、栞は小さく身をすくめて見せた。
「ううん、麻耶さん……私、何もできなくてダメだなと思って……ごめんね、松下さん」
「……ううん。別に責めるつもりじゃなかったから、気にしないで」
佐藤の遮断によって深く追及するタイミングを失い、松下は息を吐いて視線を逸らした。
だが、その瞳の奥の警戒が完全には消えていないことを、栞は決して見逃さない。
水場に到着し、ポリタンクを地面に置いたタイミングで、ふっと松下の隣へと移動した。
佐藤が川の水に手を浸して「つめたーい!」と声を上げている隙を突き、栞は滑らかな動きで松下の腕へとそっと寄り添った。
皮膚が触れ合う距離で、栞は両手を伸ばし、松下の細い手首を包み込むようにそっと握りしめる。
「……あのね、松下さん」
「っ……! え……? 何、常盤さん……?」
不意に触れ合わされた体温の熱さと柔らかさに、松下の身体が小さく強張る。
振り返った松下の目前には、吐息が届くほどの近距離で、ほんのり頬を朱に染めた栞の顔があった。
濡れたように潤む瞳が、縋るような密度の高い熱を帯びて自分をじっと捉えている。栞は握りしめた手を離さず、ゆっくりと自分の胸元へと引き寄せた。
「さっきね……堀北さんとのことを指摘してくれた時、実はすごく救われたの。……私ね、松下さんみたいに冷静で、誰よりも周りを深く見ている人がクラスにいてくれて……すごく、頼もしいって思ってる……」
「っ……あ、私……」
あまりの近さと甘い空気感に、松下は一瞬呼吸を詰まらせ、胸を跳ねさせた。
自分の「実力を適度に隠し、陰で観察している」立場を見透かされたような感覚と、指先から伝わる熱量に少なからず動揺させられる。
栞はそっと首を傾げ、吐息混じりの囁き声で松下の瞳をどこまでも深く覗き込んだ。
「本当だよ……? 私、もっと松下さんのことを知りたいな。……もし嫌じゃなかったら、これからは『千秋さん』って呼んでもいい……?」
「〜〜っ……!」
あまりにも自然で甘美なアプローチ。
松下は一瞬気恥ずかしさに頬を染めかけたが――その完璧すぎる「可憐な仕草」と「絶妙な距離の詰め方」に、脳のどこかで警報が鳴り響いた。
触れられている手の温もりにドギマギさせられつつも、彼女の瞳の奥に宿る「底の知れなさ」に対する警戒心までは、完全には拭い去ることができない。
「……あ、うん。嫌じゃないけど……好きに呼んでくれていいよ。じゃあ……私も栞さんって呼ぶね」
松下はなんとか平静を装って頷いたものの、その声にはわずかな硬さが残っていた。
「うふふ、本当? 嬉しい……! ありがとう、千秋さん」
栞は安堵したように可憐な笑みを咲かせ、満足そうにそっと手を解いた。
名残惜しそうに指先を滑らせて離れる栞の後ろ姿を、松下は手首に残る温もりの余韻を感じながら、じっと探るような視線で見つめ続ける。
(……やっぱり、この子……何かがおかしい。私を揺さぶるタイミングも言葉選びも、全部狙ってやってるんじゃないの……?)
甘い接触で表面上は距離を詰めながらも、松下の胸中にくすぶる小さな違和感と警戒。
川辺の冷たい水に手を浸しながら、栞はその「簡単には落ちない鋭さ」を感じ取り、胸の奥で密やかに歓喜していた。
(ふふ……千秋ちゃんったら、まだそんな目で私を見るんだ。簡単に落ちないからこそ、崩しがいがある……)
ジャージのポケットにあるPHS端末には、戸塚や姫野からのメールが続々と入ってきている。
(この穏やかな日常の陰で、劇の幕はもう上がり始めている。……その劇が全て終わった時、千秋ちゃんは一体どんな瞳を見せてくれるのかな……?)
無邪気に水を被って笑う佐藤の歓声の横で、栞の薄い唇に、誰にも見えない深く甘い笑みが静かに浮かんでいた。
※
その日の午後、日差しが一層厳しさを増す時間帯。
日中の作業を一通り終えた非番の女子たちは、日陰を求めて女子テントの中へと集まっていた。テントの中心部に輪になって座って何をするか悩んだ末、こっそり持ち込んだトランプでババ抜きが始まる。
参加しているのは軽井沢中心のグループ、その中には栞の姿もあった。
「ちょっと! リノっち、顔に出すぎ! 絶対ジョーカー持ってるでしょ!」
「え〜!? 全然出てないし! 軽井沢さんこそ、さっきから常盤さんにカード引かれる時だけ変に慎重じゃん!」
「っ……! べ、別に普通だし……!」
女子たちの賑やかな笑い声がテント内に響き渡る。
栞はカードを扇状に広げながら、困ったような、けれど心から楽しそうな可愛らしい笑みを浮かべていた。
「ふふ、千秋さん。私の手札、どれでも好きなのを引いていいんだよ?」
「……ん、じゃあ……これ」
松下が探るような視線を栞の表情に向けながら、慎重に中の方の無難なカードを選び取る。
その横で、軽井沢は手札を整えながらも、どこか刺すような視線を栞へと注いでいた。
「……ねえ、そういえば常盤さん。常盤さんって、さっき洋介とすごく仲良さそうに話してたよね?」
ゲームの最中、軽井沢がわざとらしく明るいトーンを装いつつ、探るような問いを投げかける。森や川渕もカードを持つ手を少し緩め、好奇の視線を栞へと向けた。
「え……? 平田くんと……?」
栞は驚いたようにパチクリと瞳を瞬かせ、心底困惑した様子で両手を胸の前で合わせた。
「ううん、そんな……! 平田くんはクラスのためにすごく頑張ってくれてるから、少しでも休んでほしいなって思って声をかけただけで……。彼女の軽井沢さんを嫌な気持ちにさせちゃったなら、ごめんなさい……!」
申し訳なさそうに視線を落とし、胸元で両手をぎゅっと握りしめて小さく身をすくめる栞。
その完璧なまでに可憐で無害な反応と哀しげな表情に、隣にいた佐藤がすぐさま庇うように身を乗り出し、口を挟む。
「ちょっと軽井沢さん、あんま変な言いがかりはやめなよー! 栞ちゃん、みんなのために気遣ってくれてるだけじゃん! 平田くんに無理させないようにって、すごく気にしてたんだよ?」
「……っ、なに? 佐藤さん! 私だって別に、変に疑ったり怪しんで言ってるわけじゃないし……。ただ、洋介も色々と大変そうだから、あんま負担掛けないで欲しいなって思っただけなんだけど……」
「……そういえば、常盤さんは昨日もみんなの体調とかすごく気にしてくれてたし……そんなに意地悪な言い方、しなくてもいいかも……?」
「そうだよ恵ちゃん。常盤ちゃんはクラス全体のことを心配してあげてただけだし、平田くんもみんなに平等に接してるだけじゃない……」
森と川渕までが次々と栞を擁護するように言葉を重ね、テント内の空気が一気に栞への同情へ傾いていく。
追い詰められた形の軽井沢は、爪を立てるように手札を強く握りしめ、顔を跳ね上げた。
「……なによ、みんなして常盤さんの肩持つわけ!? 私だって、彼女としてちょっと気になったから聞いただけでしょ!?」
「……でも軽井沢さんの言い方、完全に疑ってる感じだったじゃん! 栞ちゃんかわいそうだよ!」
「っ……! 別に、そんなつもりで言ったんじゃないし……! もういいわよ、ババ抜き続けるんでしょ!?」
佐藤と言い合いになりかけた軽井沢は、これ以上反論しても覆らないと察したのか、「ハァ……」と露骨に苛立ったため息を吐き、不機嫌そうに口を尖らせてプイと横を向いてしまった。
「あ……ううん、麻耶さん、みんな、ありがとね。でも私の方こそ、軽井沢さんを不安にさせちゃうような良くない行動しちゃったかも……ごめんね、軽井沢さん」
栞は消え入りそうな声で、どこまでも申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
周囲の庇護欲を完璧に煽りつつも、決して軽井沢を直接煽らない、徹底された「無害な少女」の演技。
(ふふ……軽井沢ちゃん、必死だね。自分が縋るための『平田洋介』っていう盾を奪われるのが、そんなに怖いのかな……?)
伏せられた栞の瞳の奥で、冷徹な歓喜が歪に渦巻いていた。
軽井沢が縋りつく平田の精神は、すでに栞の与える毒によって内側から蝕まれつつある。自分の庇護者が壊れていっていることすら知らず、上っ面の警戒を向けてくる軽井沢の姿は、栞にとって滑稽で、されど愛おしい玩具でしかなかった。
「あ……また負けちゃった。千秋さん、やっぱり強いなぁ」
「……ううん。たまたま運が良かっただけだよ」
残っていた二人の勝負がつき、栞の屈託のない笑顔に松下は手首に残る熱を思い出したように視線を泳がせる。
警戒しているはずなのに、こうして無邪気にゲームを楽しみ、敗北を悔しがる栞の姿を見せられると、自分の違和感の方が「考えすぎ」なのではないかという甘い眩惑に囚われそうになる。
小さな衝突はありつつも、誰もがこの束の間の平穏を疑わず、無邪気な笑顔を交わし合う空間。
だが栞は女子テントに入る前に見かけた、伊吹の何かを決心したような表情を見逃してはいなかった。
(あの伊吹さん……いかにも何か企んでますって顔をして、じっと拠点の様子を探っているけれど……きっと明日、何かが起きる。ううん、彼女が自分から動いて『何か』を起こしてくれるはず……)
カードを片付ける佐藤たちの横顔からそっと視線を外し、栞はテントの隙間から外の静けさへと意識を向け、胸の奥で深く、深く甘い吐息を漏らしていた。
異物である伊吹が引き金となり、全員がこの試験を乗り越えるという絆で繋がっているこの空間そのものが、明日にはおそらくドロドロとした疑心暗鬼の沼へと姿を変える。その崩壊の瞬間を思い描くだけで、背筋を痺れるような快感が駆け抜けていた。
※
特別試験5日目の朝――。
森の木々を覆う白もやが、まだ淡い蒼の中へと溶けきっていない薄暗い時間。
オレは男子テントの狭く薄苦しい空間で、わずかに身体の節々を襲う痛みに目を覚ましつつあった。無人島での生活も5日目を迎え、ビニールシート越しに伝わる地面の硬さは確実に体力を削りにきている。
まわりの男子たちはまだ深いまどろみの中にいて、池や山内はいびき混じりの寝息を立てていた。
だが、そのまどろみは一瞬にして破られた。
「――ちょっと!! 起きなさいよ、アンタたち!!」
バリッ、と耳障りな音を立てて男子テントの入口のシートが荒々しく捲り上げられた。
テント内に差し込んできた朝の冷気とともに叩きつけられたのは、露骨な怒気を爆発させた篠原の甲高い叫び声だった。
「うおっ!? な、なんだよ……!?」
「朝っぱらから大声出すなよ……まだ寝てんだろ……」
池や山内が目を擦りながら跳ね起き、平田もまた素早く身体を起こして困惑の表情を浮かべる。オレもまたゆっくりと体を起こし、入り口へと視線を向けた。
テントの入り口に立っていた篠原の表情は、単なる機嫌の悪さなどではなく、明らかに明確な敵意と怒りに満ちあふれていた。その背後には、女子たちが束になって殺気立った空気を漂わせている。
「いいから全員、今すぐテントの外に出てきなさい! 一刻も早くよ!」
「……な、なにを言ってるのかな、篠原さん。一体何があったんだい?」
平田が努めて冷静に問いかけるが、篠原はそれを突っぱねるように吐き捨てた。
「……何があったか、ですって!? アンタたちの誰かがやったんでしょ! 下心全開で最低なこと!」
篠原の言葉に、男子たちの間に動揺と不快感が広がる。
平田になだめられるようにして、オレたちは重い足取りでテントの外へと出た。
朝の冷気が漂う拠点の中央。そこには女子のほとんどが集まっており、皆怒りの眼差しでこちらを見つめている。
「軽井沢さんの下着が……昨日の夜にリュックに入っていた下着が、消えてるのよ!!」
篠原の放ったその決定的な一言によって、早朝の拠点に凄まじい衝撃が走った。
もうすぐクライマックスです。
無人島試験の1位はどのクラスになると思いますか?
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Aクラス
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Bクラス
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Cクラス
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Dクラス