野良猫のくせに太りやがって。
男は20代前半で、鋭い異様な目つきをしている。
誰か餌をやってるやつがいるな。
少女が歩いてきた。
「お前が猫に餌をやっているのか?」
「いや私、猫に餌なんかやってません」
「本当か?」
「野良猫に餌をやったりするのは、よくないと私は知っていますから」
猫は非常に繁殖力が高く、下手すると野良猫がそこら中に溢れかえってしまう。
そう伝えると、「その通りだ」と男はうなずいた。
「俺は猫を殺すことにする」男は決意に満ちた声を出した。
「毒で殺す。俺はいつも毒を持ち歩いている」
そう言って男は首のペンダントを示した。
「ここに毒が入っている。いつでもこれを飲んで死ねるように」
「そんなに死にたいんですか?」
「別に死にたいわけじゃない。死を身近に感じて、人生は有限だと意識するのが、大切だと思ってるだけだ」男は朗々と語った。
「猫を殺すのはやめてください。いけないことです」少女は止めた。
「いけないことなもんか、俺はいままで何匹も猫を殺している」
「とにかくやめてください」少女は頼み込んだ。
「わかった、いいだろう」男はうなずいた。
「猫の代わりに人を殺す」男は断言した。
「やめてください。それは猫を殺すよりもっといけないことです」
猫殺しは彼女が「もっといけないこと」と言ったのを面白く思った。
彼女の中では人間>猫という序列があるのだ。
「猫に向いていた毒殺衝動が人間に向かうことになった。お前のせいだ」
猫殺しは彼女を挑発するように言った。
「菓子を売っている店でチューインガムが売っていたんだ」猫殺しは唐突に語り出した。
「在庫を一斉に処理したかったんだろう、ただ同然の値段だった。それはいい。問題は売り文句だ。
『モグラ退治にうってつけ』そんな言葉とともに売りに出されていた。最低だ、残酷だよ」
ガムの成分をモグラは消化することができず、胃や腸に詰まり、消化不良を引き起こし死ぬのだと言う。
「モグラを殺すのは良くて猫はダメだと言うのはちょっとおかしいんじゃないか?何か独善的な気がする」
少女は猫殺しの語る理屈がとてつもなく薄っぺらに感じ辟易した。
「法律的に決まってるんじゃないですかね?」
何とか猫殺しを阻止しようと一生懸命しゃべる。
「前、家のベランダに鳩が住みついてしまったことがあって、その時いろいろ調べたんですけど、鳩って殺したらダメなんですよ、卵も。勝手に住みついてるのに…」
少女は思い出しながら、だんだんと腹が立ってきた。
「鳩に餌をやっているおじいさんがいる」
少女は、唐突に思い出して言った。
「鳩に餌をやらないでください、と書いてあるのにやってるんですよ」
「迷惑な奴だな」
やれやれと、猫殺しは首を振る。
「よし、そいつを殺すことにしよう」
猫殺しは平然と言った。
少女は言われるがままに鳩に餌をやっているおじいさんの家に行くことになった。
おじいさんは60歳ぐらいで、短く刈り込んだ短髪でサングラスをかけ、両耳にバカでかいピアスをして、オレンジ色のタンクトップと短パンを履いていた。
おじいさんは骨と皮だけのようなガリガリの体なのに、褐色に日焼けし、健康で頑丈そうだ。
「まあ、とりあえず上がりなよ。コーヒーぐらい出すよ」そう言っておじいさんは私たちを招き入れた。
鳩に餌をやる以外にも、笛を吹きながら通りを歩いているのをよく見かける。
鳩おじいさんは、どこの街にもいそうな、近所でそこそこ有名な変人、と言った感じだ。
特に近所の人から愛されているわけでもなく、嫌われているわけでもない。
しかし鳩に餌をやるのも、笛を吹いて通りを歩くのも迷惑行為といえば迷惑行為だ。
牛乳と砂糖をとりに台所に行くと、猫殺しは首の瓶からおじいさんの分のコーヒーに毒を入れた。
「長い話になりそうだからその前にトイレに行かしてくれ」
そう言って猫殺しはトイレに行った。
おじいさんは、自分のコーヒーと猫殺しのコーヒーを入れ替えた。
「彼がコーヒーに何かを入れるのを見てしまったんだよ。別にいいだろ、入れ替えても?まさか危険なものを入れたわけじゃないだろ?」
私は何も答えられなかった。
「君も同罪だよ、警察を呼ばれたくなかったら黙って見ているんだ」
私は何も言えず怯えていた。
人間というのは面白いもので、追い込まれると、どんどん自分を正当化するような理屈を考え出す。
このままでは猫殺しが死んでしまう。
その死に私も関与したことになってしまう。
でも猫を殺すような男が死ぬのは自業自得じゃないか?
そもそもおじいさんを殺そうとしたわけだし…
あの液体が本当に毒かもわからない、
猫殺しの言うことは、すべてがこけおどしのハッタリではないか?
猫だって1匹も殺してないんじゃないか?
ぐるぐると頭の中で思考が巡る。
そんなふうにして私は何もできずに黙って見ているだけだった。
コーヒーを飲んでしまうんじゃないかとハラハラした。
2人は鳩に餌をやること、鳩を殺すこと、猫を殺すことについて議論を戦わせていた。
議論が白熱しすぎて全くコーヒーには手をつけていない。
お願いだから、そのままコーヒーを口にしないでくれ。
私は強く願った。
2人はコーヒーに口もつけずに、激論を交わしている。
猫殺しを得意げに語る男と60過ぎの初老の男の言い争い。
そのまま4時間が経過して、私はだんだんイライラしてきて早くコーヒー飲めよと思った。
窓の外を見ると、太った野良猫がもそもそと歩いている。
猫は退屈そうにあくびをすると、去っていった。