熱帯夜に似つかわしくない寒さ、だが湿った空気が頬を撫で、ふと目を覚ますと、薄暗いトンネルにいた。
白熱電球の薄明かりに照らされるコンクリート製のトンネルには、人が隠れるのに十分な窪みが規則的に連なっている。
酷く整然とした足音がこだまする。
反射的に身を隠すと、巡回の兵士が—何故気がつかなかったのだろう—トンネルの出口だと思われる、分厚いコンクリート製のドアにいた歩哨と交代をする様だ。
身を隠していると、また違う方向から足音が聞こえる。
ふと見やると、ガソリンの臭いを漂わせながら軍服姿の男性がジョギングをしていた。
普段であれば起こるであろう反応—驚き—が無いのが不思議だが、それはヒトラーだった。
コンクリートの様などこか煤けた顔色をしたジョギング中のヒトラーは髪を整えるが、
灰色の汗が絶えず流れており、特徴的な髪型を崩れる度に忙しなく直していた。
余りのガソリン臭さに絶えかねた私は、窪みの中にあった錆びたドアノブを回し、ドアを開けた。
コンクリート製のドアはにわかに温もりを持っている。
開けた先には人1人が通れるサイズの細いトンネルがあり、壁の向こうには白く燃え盛る家々と黒い血を流す死体の山々、石畳の通りには黒ずんだ川が流れている。
国破れて山河あり
意味合いが異なるが、そんな言葉が頭をよぎった。
居た堪れず、棺を戻す様にドアを締めると、ジョギングをしていた筈のヒトラーが後ろに佇んでいた。
外の様子など気にかけもせず、コンクリートの壁越しに汗を流しながら健康的な運動をしていた彼は、言葉をかけてきた。
「どうだったかね、私の千年帝国だったものは。」
私は答えに窮していたが、耳を澄ますとトンネルの奥から陶酔的なオペラやクラシックが聞こえて来た。
しかし、素晴らしい協奏曲の裏では段々と壁が爆撃で破壊されて家々が燃える外の音が大きくなっている。
そう遅くない内に彼らの現実逃避の場所は崩れ去り、現実ー彼らの悪夢ーが姿を表すのだろうか。
クラシックは終幕を迎え、何かの讃美歌が聞こえる。
「行きなさい、ここは我々の見るべき悪夢だ
貴方は貴方の現実に帰りなさい」
ヒトラーは手形を渡すと、炸裂音が響くドアの向こうに消えていった。
私はトンネルの出口—上下に広く扉だろうか—に近付き、渡された手形を歩哨に見せると、直立不動だった歩哨は、今では禁止されている古い敬礼を見せて、通してくれた。
先ほどまで鼻腔を焦がしていたガソリンの臭いは消え、白黒だった色に彩りが戻る。
そして、トンネルの瞼が開くと、日本の蒸し暑い寝室が広がっていた。