稽古場の片隅に落ちる、歪な暗がり。
体育座りのように膝を深く抱え込み、黒川あかねは冷たく固いフローリングの上に小さく丸まっていた。膝頭に押し当てた額から、すりガラスのような床の冷気がじわりと脳裏へ染み込んでくる。呼吸を殺すたびに、自分の肺が縮こまり、小さくなっていくような錯覚に襲われた。
稽古場の中心では、眩しいスポットライト代わりの白い蛍光灯が、容赦のない光を煌々と撒き散らしている。その明かりの渦の中で、ハルト演じる『波旬』と、鳴嶋メルト演じる『キザミ』の大立ち回りが繰り広げられていた。
激しく交差する模造刀の甲高い金属音。バシッ、と重く打突が響くたび、木床を蹴る踏み込みの衝撃があかねの丸めた身体に伝わってくる。
『ブレイド』と『刀鬼』が、『波旬』の絶対的な力によって『隷属』せしめられた『つるぎ』と『鞘姫』を救い出すための時間稼ぎとして、単身『キザミ』が立ち塞がり、絶大な支配者たる『波旬』を引きつける――物語後半のクライマックスへと繋がる、極めて重要な一幕だ。
最終的に『キザミ』は『波旬』の圧倒的な存在感の前に潰され、自身の“盟刀”を奪われる形で敗北する。しかし、命を比類なき気迫で燃やしたその必死の剣技は『波旬』の体勢をわずかに崩し、一矢報いることに成功するのだ。この死闘の陰で『ブレイド』たちは無事に『つるぎ』たちを解放することに成功し、さらにここで『キザミ』がつけた『波旬』のわずかな傷が、後の最終決戦における攻略の糸口となる。
冷たい床に顔を埋めたまま、あかねは瞳だけをわずかに持ち上げ、虚ろな眼差しで二人の殺陣を眺めていた。
あかねの中に棲む、冷徹で鋭利なプロの女優としての視線は、メルトの殺陣やセリフ回しを瞬時に分析してしまう。
『踏み込みが甘い。視線が固定されていて次の動作の予測がついてしまう。セリフも、まだ台本の文字を頭の中でなぞりながら声に出しているだけ……まだまだ拙く、形をなぞっている域を出ていない』。
だが、その一方で——あかねの胸を激しく締め付けたのは、ハルトの佇まいだった。
ハルトは、その不器用なメルトの必死なぶつかり合いを、どこか心底楽しそうに、そして役者として愛おしそうに全身で受け止め、刃を打ち合わせている。その圧倒的なオーラと、相手を引き上げる懐の深さ。間近で見つめるハルトの瞳には、演劇という底なしの魔界に対する純粋な歓喜が宿っていた。
その光景が目に入った瞬間、あかねの胸の奥が鋭く、刃物で引き裂かれるような激痛を訴えた。
(……ハルトくんに、嫌われちゃった……)
喉の奥が苦く収縮する。
役者として、一番見せたくなかった無様な姿を晒し、失望させてしまったという容赦のない事実。あかねはその重圧に、徹底的に打ちのめされていた。
あれほど深く注がれていたハルトの恋人としての愛情すら、今の自分には残っているのかどうか確信が持てない。握りしめた自分の指先が、冷たく震えていた。
『お前自身の私情が、『鞘姫』の役としての感情を完全に邪魔してる。……芝居の上に私生活を持ち込むな』
稽古の合間、ハルトに投げかけられた容赦のない言葉が、刃となって耳奥で何度もリフレインする。痛いところを、正確すぎる精度で撃ち抜かれていた。
『鞘姫』が出演するシーンのほとんどは、『波旬』と同伴するものだ。
そしてあかねは、夢にまで見た大好きなハルトとの本格的な共演、それも同じ舞台の上で対峙するという夢のようなシチュエーションに、あまりにも酔いしれすぎていた。
太陽のようにまばゆい輝きを放つハルトと向かい合い、間近で芝居を交わす時の胸の高鳴り。周囲の空気を一瞬で塗り替えてしまうほどの圧倒的な存在感を全身で浴びる幸福感——女優としての最高の悦びと、一人の少女としてのあかねの深く純粋すぎる愛情が泥のように混ざり合い、『鞘姫』という役に求められる“恐怖”“拒絶”“怨嗟”といった負の感情を、根本から塗り潰してしまっていたのだ。
「……ぐすっ……」
口唇を固く噛み締め、漏れ出そうになる小さな呻きを押し殺す。
一度ハルトから冷たく指摘され、頭でそれを修整しようと意識すればするほど、意識と身体のギアが狂っていく。身体の動きと感情の出力はどこまでもチグハグになり、焦れば焦るほど芝居はグズグズと崩れていった。
そして何より、ハルトと至近距離で並び、立ち回りの最中に肌や衣装の生地が触れ合うたび、抑え込もうとした愛情が勝手に溢れ出してしまうのだ。指先の一挙一動、視線の泳ぎ方一つまで、自分の身体と心がどうしてもコントロールできない。
今回の改訂脚本において、『鞘姫』は救出対象である囚われのヒロインであると同時に、敵組織の恐ろしい幹部でもある。そして『波旬』の元ネタは仏教の第六天に座する煩悩の権化であり、支配下に置いた『鞘姫』や『つるぎ』に対し、精神的な屈辱と情欲を煽るような退廃的な演出が数多く組み込まれていた。
もちろん直接的な濡れ場のような描写はない。だが、耳元に顔を近づけられ、息がかかる距離で胸元に手を差し伸べられるような身体的接触の機会は、殊の外多かった。ヒロインたちの悲壮感と絶望を煽るための原作・脚本両人の狙い通りではあったが、今のあかねにとってその接触は、甘やかな愛おしさと役者としての罪悪感を同時に掻き立てる過酷な毒でしかなかった。ハルトの手のぬくもりを感じるたびに、役としての絶望ではなく、女としての歓喜が肌を駆け巡ってしまうのだ。
特に『ブレイド』や『つるぎ』との交差殺陣のシーンなどは、目も当てられない惨状だった。
『鞘姫』の繊細な感情構築はもちろんのこと、これまで自分の最大の武器であり自信の拠点でもあった『アイ』の完璧なトレースの仮面すら出力できず、ただただ台本のト書きを機械的に追うだけの、酷く無機質で乾いた立ち回り。
辛うじて心を固く封じられた傀儡のフリをすることでその場の形だけは誤魔化したが、そんな浅はかな小手先の逃避など、ハルトはもちろんのこと、有馬かなや姫川大輝といった本物の天才たちに見抜けないはずがなかった。彼らの視線が突き刺さるたび、あかねの背中には嫌な汗が伝った。
まるで全裸で大勢の観客の前に放り出されたかのような、屈辱と気恥ずかしさ。
視線一つに怯え、声の震え一つを隠そうと必死になる自分。
そんな地獄のような時間が稽古中何度も繰り返され、そのたびにあかねは自分が惨めで、いっそこの空間から消えてしまいたくなった。まるで役者として駆け出しだった頃、自分の無力さに打ちひしがれ、暗闇の中でもがいていたあの頃に戻ってしまったかのようだった。
「黒川さん、次の立ち位置入ってください」
スタッフに出番を呼ばれれば、あかねはハッと息を呑み、血の引いた顔で立ち上がる。心を殺し、ロボットのようにト書き通りに身体を動かすが、物語の最高潮を彩るべきクライマックスの芝居としては、圧倒的に表現力が不足している。ただ動いているだけの木偶の坊。
そうして、この日の立ち稽古という名の拷問を何とかやり過ごしたあかねは、稽古終了の合図とともに逃げるように部屋の隅へと引き返し、大きな瞳に溜まった涙をぽろぽろと零しながら、再び小さく丸まっていたのだった。
カサ、と遠くでパイプ椅子が畳まれる音が響く。タオルの擦れる音、ペットボトルのキャップを開ける音。稽古場の熱気が冷めていく中で、あかねの周りだけ時間が止まっているかのようだった。
「……あかね、帰るぞ」
立ち稽古の全メニューが終了し、すっかり静まり返った稽古場で、頭上からハルトの低く落ち着いた声が落ちてきた。
あかねはビクッと肩を跳ね上げ、涙で濡れた睫毛を揺らした。ハルトの顔を見上げることができず、ただ膝を抱えたまま、掠れた声で答える。
「……うん」
ハルトはそれ以上、詰じることも慰めることも何も言わなかった。ただ静かに腰を落とすと、あかねの震える小さな手を大きな掌で包み込み、ゆっくりと引き上げるようにして立たせた。
あかねは力なく立ち上がり、俯いたままハルトの少し前を行く背中に引きずられるようにして稽古場を後にする。
背後では、まだ残っていた有馬かなやアクア、メルトたちが、それぞれの思いを込めた重い視線を送っていた。かなの痛々しいものを見るような目、アクアの静かな懸念、メルトの申し訳なさそうな表情。それらの心配そうな視線があかねの背中に痛いほど突き刺さっていたが、振り返る余裕などどこにもなかった。
☆ ★ ☆
稽古場の更衣室で、稽古着から私服へと機械的な動作で着替えを済ませたあかねは、壁の鏡に映る自分の顔を一瞬だけ見た。目は真っ赤に腫れ上がり、髪は乱れ、酷い顔だった。すぐに視線を逸らし、バッグを肩にかける。
ハルトの後ろに数歩下がって付き、二人は静かに帰路についた。
夜の長い地下廊下を歩く二人の間には、靴底がコンクリートを打つ乾いた音と、重苦しい沈黙だけが横たわっている。蛍光灯の白い光があかねたちの長い影を床に落とし、それが引きずられるように動いていく。
ハルトは移動中、右手と左手をいつものようにしっかりと恋人繋ぎで握ってくれていた。指と指が組み合わされ、掌が密着する。
だが、そのぬくもりが、今のあかねには胸が潰れるほど痛いくらいに辛かった。ハルトがまだ自分を一人の恋人として大切に思ってくれているという、温かく誠実な熱量が、ダイレクトに手掌から伝わってくるからだ。
ハルトに失望されたこと自体が悲しいのではない。
ハルトという大好きな人を、役者としての甘さや浮つきで失望させてしまった自分自身が悔しくて、情けなくて、たまらなかったのだ。自分の幼稚さが、彼のプロ意識を汚してしまったのではないかという恐れがあかねを苛む。
エレベーターを下り、ひんやりとした湿気が漂う地下駐車場に辿り着くと、ハルトは愛車であるオレンジのスポーツバイクの傍らで足を止めた。金属質の冷たい光を反射するバイクの横で、彼はヘルメットをあかねに無言で差し出した。
黒いヘルメットを両手で受け取ったあかねは、その冷たいシールドの感触を確かめるように指を滑らせた。そして、ここまで稽古場からずっと胸の奥で反芻し、押し潰されそうになりながら固めていた決意を、震える声で絞り出した。
「……あのね、ハルトくん」
「どうした?」
ハルトが足を止め、静かに振り返る。その真っ直ぐな瞳が見つめてくることに耐えられず、あかねは視線を足元に落としたまま、固く唇を噛み締めた。ぎゅっとヘルメットを抱きしめる手に力を込める。
「私……しばらく、実家に帰ろうと思うの」
「……」
ハルトは一瞬だけ沈黙した。地下駐車場の冷たく湿った空気の中に、彼の小さく短い吐息が白く漏れる。
「……わかった。あかねが決めたことなら、そうするといい」
ハルトの声には、怒りも呆れもなく、ただ穏やかな理解だけがあった。それが逆にあかねの胸を深く抉る。ハルトは少しだけ視線を和らげると、言葉を続けた。
「……でも、実家まで送り届けることくらいは、やらせてくれるよな?」
あかねは溢れそうになる涙を必死にこらえ、喉を鳴らして短く答えた。
「うん……」
二人はそれ以上の言葉を交わさなかった。余計な言葉を口にすれば、崩れてしまいそうだったからだ。ハルトが先に跨がり、あかねもヘルメットを被って後ろに乗る。
エンジンが重低音を響かせて目を覚まし、バイクは地下駐車場を滑り出していった。
いつものようにタンデムで夜の都市高速を走り抜ける。街灯のオレンジ色の光があかねのヘルメットのシールドを規則的に掠めていく。
いつもと違うのは、インカム越しに交わされる甘い会話や他愛のない雑談が一切なく、ただ風切り音と猛烈なエンジン音だけがむなしく空間を埋めていることだった。あかねはハルトの腰に回した手にそっと力を込めた。この背中の広さと暖かさを、今は素直に受け取ることができない。
一刻もしないうちに、バイクは高速を下り、あかねの実家がある閑静な住宅街へと到着した。夜深い街は静まり返り、虫の息のような静寂が広がっている。
街灯のほのかな黄色い明かりが照らす、見慣れた我が家の玄関前。
バイクがアイドリングの鼓動を刻み、やがてハルトがエンジンを止めた。突如として訪れる沈黙。
「……」
あかねはバイクから降り、ヘルメットを脱いで抱えたまま、うつむいて立ち尽くしていた。夜風が頬の涙の跡を冷たく撫でていく。
ハルトもヘルメットを脱いで片手に抱えると、もう片方の手でウルフカットの自分の髪をワサワサと乱暴に掻き乱した。少しだけ困ったような、だがどこか愛おしむような眼差しがあかねに向けられる。夜風が二人の髪を冷たく揺らしていた。
「……じゃあ、な。あとでウチにある荷物持ってくるから」
「うん」
「おやすみ。……風邪引くなよ」
「うん……おやすみなさい……」
小さな声で答えると、あかねはゆっくりと体を翻した。門をくぐり、玄関のドアへ向かう。
一歩進むごとに、背中に刺さるハルトの視線を感じた。あかねは何度もうしろを振り返り、名残惜しそうに、暗がりの中に立つハルトのシルエットを目に焼き付けた。彼は逃げずに、ただじっとこちらを見つめ返してくれていた。
震える手で鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリと金属音が響き、ドアを開けて薄暗い家の中へと入った。
ハルトは彼女の華奢な姿が完全に家の中に消え、重い扉がパタンと閉まるのをじっと見届けた。
それから、静寂を破るようにセルモーターが勢いよく回り、重厚なエンジン音が夜の住宅街に大きく響き渡った。アクセルが吹かされ、バイクが疾走して走り去っていく金属的な音が、次第に遠ざかり、やがて夜の闇の中へ完全に溶けて消えていった。
カチャン、と内側から鍵がかかる音。
その無機質な音を聞いた瞬間、あかねの中でピンと張り詰めていた透明な糸が、プツリと音を立てて切れた。
「……う……うぁ……ぁぁっ……!」
立っていることすらできなくなり、あかねはたたきの上にどさりと膝から崩れ落ちた。冷たいタイルに膝を打ち付けた痛みすら感じない。
膝の上に顔を強く押し当て、あかねは抑えきれないしゃくり上げとともに、子供のように声を上げてボロボロと大きな涙を流した。
自分のあまりの無力さと不甲斐なさ、役者としての甘さに対する苛立ちと悔しさ。そして何より、大好きな、心から愛する人に自ら背を向けてしまった猛烈な寂しさと恐怖が、暗い玄関の中で激しい奔流となって溢れ出していく。
「あかね……? あかねなの!?」
その激しい泣き声を聞きつけた母親が、驚いた様子で奥の部屋から慌ただしく廊下を駆け寄ってくる気配がした。パタパタとスリッパの音が近づいてくる。だが、その声すら今のあかねには遠く聞こえていた。あかねはただただ、冷たく暗い玄関の床で、自分の体を強く抱きしめながら泣き続けていた。
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