休憩室の片隅。長机の上には、ぬるくなった飲みかけのペットボトル飲料や、油の固まりかけた空の弁当箱、そして丸められたプラスチックのゴミ袋が雑然と散らばっていた。
深夜特有の重たく冷たい静けさが漂う室内で、古い電子レンジが発する低く微かな動作音と、誰かが身動ぎするたびにポリ袋がカサつく音だけが、不穏な旋律のように微かに響いている。壁の蛍光灯がじじじ、と羽虫の羽ばたきのような不快なノイズを立て、室内を無機質な白で満たしていた。
「日野、前から思ってたがお前、めちゃくちゃ食うのな……」
コンビニの幕の内弁当と唐揚げ弁当の二つをきれいに平らげ、今なおツナマヨの和風おにぎりを勢いよく頬張っているハルトに対し、アクアは眉間にしわを寄せ、心底呆れたような視線を向けた。アクア自身は、手元にあるプラスチックケースに入ったミックスサンドイッチを小さく一口ずつ、まるで味のないスポンジでも噛み締めるようにモソモソと消費している。あれだけの過呼吸を起こして激しく倒れた直後だというのに、自分の身体が当たり前のように食べ物を受け入れていることに、アクアはどこか他人事のような奇妙さと気味悪さを感じていた。胸の奥に、泥のような重苦しい塊が残ったままだ。
「俺は他人より頭脳とボディの出来が違う分、必要なエネルギーも多いんだよ。それに……ここ最近はずっと仕事と稽古の詰め込みで働き詰めだ。食わなきゃ身体が持たねぇんだよ」
モグモグと口を動かし、口の端に小さな米粒を付けたまま胸を張るハルト。そのすぐ隣で、あかねは鮭おにぎりを両手で包み込むように大事そうに持ち、嬉しそうに目を細めていた。
「ふふ、ハルトくん、昔からいっぱい食べてくれるもんね」
あかねの声には、柔らかい安心感が滲んでいた。実家に帰って以来、数日ぶりに大好きな恋人の体温と、かすかに漂う香水の匂いに直接触れ、直近のパニックからも解放されたことで、あかねの疲弊しきっていたメンタルは急速に毒気を抜かれ、穏やかな輝きを取り戻しつつあった。ハルトの腕の固さや、すぐ隣にいるという確かな実感が、あかねのささくれ立った心を優しく包み込んでいく。
やがて、それぞれの空腹が落ち着き、ゴミを片付ける音が止むと、三人の間にふっと密度の濃い静寂が戻った。
カチリと音を立ててペットボトルのキャップを閉め、アクアがゆっくりと背筋を伸ばす。その表情から先ほどまでの軽口や冗談めいた色は綺麗に消え去り、静かな決意を秘めた蒼い瞳が、ハルトとあかねの姿を交互に捉えた。
「……なあ、二人とも」
アクアが静かに口火を切る。掠れた声が、静まり返った部屋の空気をかすかに揺らした。
「あのあと、一人でじっくり考えてみたんだ。……それでな」
「……?」
あかねがおにぎりを抱えたまま首をかしげ、ハルトもまた咀嚼を止めてアクアを見つめる。
「……俺の、いや……
絞り出すようなアクアの言葉に、あかねの肩が大きく跳ねた。抱えていたおにぎりの袋がカシャリと音を立てる。ハルトは持っていたおにぎりのビニールゴミを握り潰し、そのまま近くのゴミ箱へ正確に放り投げると、被っていたハットの庇を指先で少し持ち上げてアクアを見据えた。
「いいのかよ? 話さなくても、俺たちは追求しねぇぞ」
「あそこまで外枠を分析されて、今さら隠し通したって仕方ないだろ。……それに、このまま『刀鬼』を演じ続けたら、またさっきみたいに倒れるかもしれない」
「そうだな。選択としては妥当だ」
ハルトは短く頷き、腕を組み直した。
しかし、アクア自身も心の底では理解していた。『刀鬼』の演技に支障が出るから、というのは単なる表面上の、自分を納得させるための口実に過ぎないことを。
トラウマのフラッシュバックによって激しく倒れ、己の心の防壁が残酷なまでに打ち砕かれた今、アクアの深層心理は、これまで誰にも明かすことの出来なかったあまりに重すぎる秘密を二人に打ち明け、ほんの少しでも肩の荷を降ろしたいという弱い逃避を求めていたのだ。
冷徹に復讐を誓い、一人で闇を歩み続けていたはずのアクアにとって、目の前にいる二人は――自分を害することのない、無意識に頼り、寄りかかっても良いと許された安全な存在として位置づけられていた。
アクアは重い口を開き、途切れ途切れに自らの過去を語り始めた。
アイの誕生日である12月25日。冬の刺すような冷気。ドーム公演当日の高揚感。ドアのスコープ越しに見えた、花束と束の間の幸福。
突如として現れた、ファンを名乗る男。鋭い刃物が皮膚を裂く不快な音。鮮血に染まって床へ崩れ落ちた母。縋り付く自分と、ドアの陰で息を殺して震えていた妹の姿。
三歳だった幼い自分が、血の匂いの中で次第に冷たくなっていく母の温もりをその小さな腕に抱きしめ、絶望の中でただ彼女の最期を看取るしかなかったこと。溢れ出る赤色が、自分の服を染めていった感触。
そして、その惨劇の陰に潜む〝父親〟という、顔も名前も知らぬ存在の暗い影――。
アクア自身の抑調を極限まで抑えた、けれど感情の濁流が静かに滲み出るような言葉で紡がれる過酷な真実。部屋の中の空気が、まるで氷のように冷たく凝固していくようだった。
「そんな……っ、ひどい……」
あかねはあまりの悲壮さと凄惨さに絶句し、両手で固く口を覆った。大きな瞳から涙がボロボロと零れ落ち、溢れる雫が膝の上で膝掛けの布地を固く濡らしていく。わずか三歳の子どもが目の当たりにした、あまりにも濃密な地獄を想像するだけで、あかねの胸は押し潰されそうだった。息を吸うことすら苦しいほどの激痛があかねを襲う。
「……それで、復讐か」
ハルトは深く腕を組み、脚を組んだまま険しい表情で重い息を吐き出した。
(そこまで正確に看破しているのか……)
自分の行動の動機どころか、人生の最終目的まで完璧に言い当ててみせたハルトの恐るべき洞察力に、アクアは改めて背筋が凍るような戦慄を覚えた。自身の暗い深淵を覗き込まれたような感覚に苛まれながら、アクアは自嘲気味に口元を歪め、低く掠れた声で問いかける。
「……不毛な行為だって、止めるのか?」
「いや? さっきは不毛って言ったけどな、復讐、結構。お前がやりたければやり続ければいいんじゃねぇの」
「ハルトくん!?」
ハルトのあまりにもあっけらかんとした肯定に、あかねが弾かれたように目を見開いてハルトの顔を見つめた。濡れた瞳に驚愕の色が浮かぶ。アクアもまた、予想外の反応に一瞬思考がフリーズし、その場で固まった。
「……本気で言ってるのか?」
「本気も本気よ。……よく物語や説法だと
吐き捨てるように言ったハルトは、だがそこでぴたりと言葉を切り、先ほどまでの表情の甘さを完全に消し去った。眼光が恐ろしいほど冷たく研ぎ澄まされる。
「――ただしだ」
ハルトの瞳に、相手の魂を射抜くような刺すような鋭い光が宿る。
「星野、お前……仮にその父親とやらが判明したとして、具体的にどうやって復讐を果たすつもりなんだ?」
ビッ、とハルトの人差し指が伸ばされ、アクアの胸元を正確に突き刺した。戯れや冗談ではない、真剣そのものの圧迫感。指先から伝わる威圧感に、アクアの体が硬直する。
ドクンッ、とアクアの胸の奥で、心臓が大きく脈打つ音が響いた。
「……」
返答に詰まり、固く唇を噤んだアクアに対し、ハルトは容赦なく言葉の刃を重ねていく。
「過去の殺人教唆の証拠を暴いて警察に突きつけ、法の裁きを受けさせるか? ……それとも、別れた内縁の妻を殺させたと世間に暴露して、社会的に抹殺するか? ……あるいは、自分の手で直接そいつを殺害するか?」
「ハルトくん、やめて……!」
あかねの悲痛な制止の声すら完全に無視し、ハルトの鋭い視線はアクアの魂の奥底を執拗に抉り続ける。
「最後の選択肢は、絶対にお勧めしねぇぞ。……直接殺すか、あるいは刺し違えて無理心中するか……まあどちらでもいいが、そりゃお前自身は積年の恨みが晴れてスッキリ満足するかもしれない。だが――その後に残された周りの奴らは、全員不幸になる」
「……っ!?」
頭をガツンと重い鈍器で殴られたような激しい衝撃が、アクアの脳腔を駆け抜けた。血の引く音が耳の奥で鳴り響く。
明確なプランはまだ無かったものの、最悪の結末として自らの手で父親を殺め、己の人生を終わらせることすら視野に入れていたアクアにとって、ハルトの言葉は致命的な急所を正確に撃ち抜くものだった。
「ルビーちゃんや有馬、MEMちゃん、ミヤコ社長……その他、今のお前と関わって、お前を大切に思っている大勢の人間を一生消えない傷を付けて悲しませ、絶望の底に突き落として不幸にする。現実は、エンドマークでハイ終わりの物語とは違うんだ、その後にもそれぞれの人生は続いていく。……自分と周りを顧みない選択をするお前自身は、お前の愛する母親を殺した父親と、一体何が違うんだ?」
静かな、けれど圧倒的な説得力を持った問いかけ。ハルトの言葉一つ一つが重く重くアクアの肩にのしかかる。アクアは喉を強く詰まらせ、何ひとつ言葉を返すことができなかった。指先が微かに震え、冷や汗が額を伝う。
ただ漠然と「父親を見つければ、それで復讐は終わりだ」「自分がどうなろうと知ったことではない」と考えていた。だが――その先は? 自分の命と引き換えに果たした復讐のあとに残るものは何だ?
ぐらり、と視界が大きく歪む。
(――だが、見つけた後……俺はどうする? 俺は、一体どうしたいんだ……?)
どれほど脳内で自問を繰り返しても、答えは真っ暗な闇の中に霧散していく。出口のない迷宮に迷い込んだかのように、思考がぐるぐると空回りした。
言葉を失って青ざめるアクアを、あかねは痛ましさと切なさに満ちた瞳で見つめていた。胸元でキュッと手を握りしめ、二人のやり取りを祈るような思いで見守っている。
そんな重苦しく、息も詰まるような沈黙を切り裂くように、ハルトがポンと自分の膝を威勢よく叩いた。パンと甲高い音が部屋に響く。
「……ま、ちょうどいい腹ごなしだ。おい星野、ちょっと付き合え」
☆ ★ ☆
三人が脚を運んで移動したのは、人影も消え、静まり返った劇場の本番用メインステージだった。
ハルトが舞台袖にある巨大な配電盤へと歩み寄り、慣れた手つきでいくつかのレバーとスイッチを操作すると、バチッと重い音とともにパッと眩しいスポットライトが天井から照射された。深閑とした暗闇の中に、円形の広い舞台上の空間が鮮烈に浮かび上がる。光の中にチラチラとホコリが舞っていた。
ステージの中央には、作中の象徴である満開の桜の樹を模した巨大な大道具のセットが静かに鎮座しており、夜の劇場ならではの独特な静寂と、肌を刺すようなピンと張り詰めた冷気が漂っている。客席の闇はどこまでも深く、まるで巨大な怪物が口を開けてこちらを見ているかのようだった。
「……一体何をするつもりだ、日野」
ハルトの強引で迷いのない勢いに押されてここまで着いてきたアクアは、腕を組みながら不満げに、そして警戒感を露わにしながら尋ねた。
ハルトは何も答えない。代わりに、控室の脇から持ってきていた練習用の木製模擬刀――『刀鬼』と『波旬』の二本のうち、『刀鬼』の意匠が施された重厚な一本を、容赦なくアクアに向かって乱暴に投げ渡した。
ガランッ! と甲高い木撃音が舞台上に空虚に響き、滑らかな木肌の模擬刀がアクアの足元のフローリングを滑っていく。
「星野。今から俺と立ち合え」
ハルトの顔から、先ほどまでの軽薄さや一切の雑味が消え去っていた。静謐かつ凄絶な面持ちで自身用の『波旬』の模擬刀を力強く構えると、柄の握り心地を確かめるように、鋭く一閃の血振りを行った。
シュンッ、とただの木刀とは思えない鋭い風切音が、静まり返った無人の客席へと激しく反響する。あかねは息を飲み、舞台袖で思わず身を竦ませた。ハルトの体から放たれる圧迫感が、劇場の空気を一変させていた。
「――お前の
SEKKYO回その二。
どちらかといえば言いくるめか。
こっそりあらすじを変えました。アンケでは変えなくていいって言われたけど、伸びない原因でしょ明らかに。まあ、遅きに失した感もありにけり(ーー;)