「――お前の
ハルトの低く重厚な威圧感を孕んだ声が、静まり返った劇場の天井へと反響し、幾重にも重なって消えていく。
床から拾い上げた練習用の木刀を掴んだまま、アクアは困惑と警戒の混ざり合った視線をハルトへと向けた。
「俺の中の『刀鬼』……? だが、さっき俺はそれでフラッシュバックを起こして倒れたばかりだろう。これ以上感情を深掘りすれば、同じことの繰り返しになるだけだ」
「そっちじゃない」
ハルトは短くそう切り捨てると、舞台の袖で息をのんで見守っていたあかねへと一瞬だけ視線を送った。
「あかね。『刀鬼』と『波旬』が対峙するシーンの立ち位置、分かるな」
「う、うん……っ!」
あかねはしっかりと頷くと、二人の間に漂う異常な緊張感に慄きつつも、チラチラと二人を窺いながら足早に指定の位置へと移動した。
アクアは眉間に深くシワを寄せ、木刀の柄を握り直す。
「なんで急にそんな真似を……」
「お前、俺が前に言ったこと覚えてるか?」
「……。俺の演技が
「ああ、それだ。あのあと、稽古中のお前の芝居をずっと見ていた。なんでそこまで頑なに冷めきってんのかなってな」
「それは……俺にとって演技なんてものは、復讐を果たすためのただの手段、道具に過ぎないからだ」
「違うな、間違ってるぞ。お前の演技にはな、復讐っていう昏い情念すら籠もってねぇんだよ。お前の中の何かが、感情を芝居に込めることを意図的に堰き止めてる……いや、殺してるんだ」
言葉を紡ぎながら、ハルトは『波旬』の初期配置――あかね演じる『鞘姫』のすぐ隣へと静かに歩みを進めた。
普段のハルトの気さくで軽やかな歩調とは全く異なる。重厚で、一切の揺らぎがない、地面に根を張るような体捌き。足音すら殺したその静かな所作は、まさに作中絶対の支配者として君臨する『波旬』そのものの威厳を纏っていた。
「
「!!?」
アクアの息が止まり、全身の血が引いていく感覚に襲われた。
ハルトのその言葉は、まるで自分の中に存在する前世の記憶――『雨宮吾郎』という大人の理性が、現在の『星野アクア』を常に客観的に監視しているという事実を、完璧に見抜かれたかのような衝撃だった。ハルトの山吹色の瞳が、アクアの魂の深層を容赦なく暴いていく。
「その冷徹な俯瞰が、お前の長所である冷静さや視野の広さに繋がってるのは間違いない。……だが同時に、演技の舞台に立った時、その『もう一人の星野アクア』がお前自身に向かって冷笑を浮かべるんだ。『お前みたいな人間が、役者を気取るなんて烏滸がましい』ってな」
「……っ!」
ぐうの音も出ない。あまりにも正確な指摘に、アクアは言葉を詰まらせた。
山吹色の眼差しが真っ直ぐに自分を刺し穿つ。アクアは自分がハルトの発する圧倒的な空気感と、彼が創り出す世界観に呑み込まれ始めていることを強く自覚した。
ハルトは『日野ハルト』としての思考と言葉を紡ぎながら、その表情、立ち姿、身に纏う気迫は完璧に『波旬』のそれであり続けている。芝居と現実を高次元で共存させる、まさに神業と言うほかない領域だった。
「だが……その二人の『星野アクア』が同じ方向を向けば、強烈な感情を演技として爆発させることができるらしいな。さっきお前がトラウマの渦に呑み込まれて倒れたように」
「あっ……」
ハルトは隣に立つあかねの華奢な腰にスッと手を回し、その身体を抱き寄せるようにして引き寄せた。改訂脚本における、『波旬』が『鞘姫』を心身ともに支配下へと置く動作だ。
そしてハルトはあかねの耳元に顔を近づけると、ごく小さな声で囁いた。
「あかね……『アイ』の感情、出せるか?」
「えっ……うん、たぶん……できると思う、けど……」
「『鞘姫』じゃなくていい。『星野アイ』のまま、そこにいてくれ」
ハルトはそれだけ告げると、再びアクアへと視線を戻した。
あかねはハルトの意図を汲み取り、軽く深呼吸をしてそっと瞼を閉じた。数秒間、自身の中の広大な記憶の海へと没入する。そして次に瞼が開かれた瞬間――その浅葱色の瞳の奥には、かつて世界を魅了した『星野アイ』を憑依させた、輝く黄色の星が宿っていた。
「……もう、俺の言いたいことは分かるな?」
「……復讐心を演技に、殺陣に乗せろってことだろ。だが――」
「頭で理屈を考えてるようじゃ、いつまで経っても無駄だ。演技ってのはハートに刻んで、魂から吐き出すんだよ。……と言っても、今のお前にそれを自力でやれってのは無理な話だ。だから――荒療治だ」
言い切った瞬間だった。
「んっ……!?」
「なっ……!?」
ハルト――いや、『波旬』の仮面を被った男が、腕の中に抱えた『アイ』の、そして『鞘姫』の唇を力強く奪い去った。
それは、向かい立つ『刀鬼』――アクアの目の前で、見せつけるように行われた圧倒的な掠奪だった。
カッ――と、アクアの視界が真っ赤な血の色に染まった。
ハルトに指摘されたばかりの「冷静な自分」が、これはハルトの演技であり、自分から感情を引き出すための演出だと瞬時に分析する。だが次の瞬間、その理性を遥かに上回るドロドロとした激情の濁流が脳内に溢れ出し、冷徹な観察者を完全に飲み込んで打ち砕いた。
あるいはアクア自身が、その不快な冷静さを自ら握り潰したのかもしれない。
あかねを抱きかかえ、自分を冷たく見下ろすハルトの山吹色の瞳の奥に――想像の中で肥大化し続けてきた
アクアの両眼に、漆黒の殺意を秘めた一番星が禍々しく眩く輝いた。
対するハルトの瞳にも、全てを呑み込む黄金の光が渦巻く。
「――『鞘姫』を……離せぇええぇッ!!!!」
咆哮とともに、アクアの足が床を強く蹴った。
「そうだ!! それでいい!!」
ハルトはそっとあかねの身体を解放し、跳ね上がってきた『刀鬼』の刃を正面から迎え撃った。
(二人とも……お願いだから、怪我だけはしないで……!)
あかねが舞台袖で祈るような真剣な表情で見守る中、本番さながらの『刀鬼』と『波旬』の壮絶な立ち合いが繰り広げられた。
「お前の父親への煮えたぎる怒りを、『刀鬼』の殺意に乗せろ!! 母親を眼の前で奪われた惨めな悔しさを、『鞘姫』を目の前で奪われた屈辱に変えろ!! ――そして、父親への殺意をそのまま俺にぶつけて来い!!」
「うああああああっっっ!!!!」
獣のようなアクアの叫びが劇場を揺らす。
アクアが振り下ろす荒々しい木刀の軌道を、ハルトは時に真っ向から受け止め、時に弾き飛ばし、時に滑らかにいなしていく。感情のままに振り回される殺陣は、当然ながら決められた手順や型から何度も大きく脱線した。だがハルトはその破綻すら事前に予期していたかのように、完璧な反応速度と体捌きで一つ一つ丁寧に受け止めていく。
それはまるで、アクアの膨れ上がった激情を全身で受け止め、彼自身の心を内側から壊し始めていた不発の感情を、全て外へと吐き出させて救い上げようとするかのようだった。
「まだだ!! お前がこれまでの人生全てを投げ打って抱えてきた殺意は、そんな生ぬるいもんじゃねぇだろ!!」
「が……っ!?」
「怒れ! 過去のトラウマに怯える暇もないくらいに怒り狂え!! それこそがお前の演じるべき『刀鬼』だ!!」
「くっ……そおおおっっっ!!!!」
「俺はお前の父親だ!! アイを騙し、殺すように仕向け、今もどこかでノウノウと生きてやがる最高にクソったれな名無しの父親だ!!」
ガキンッ!! と激しい打撃音が響き、互いの木刀が交差して鍔迫り合いとなる。
漆黒の
「怒りも! 憎悪も! 殺意も! お前の底にある弱さも、不安も、惨めな悲しみも! 全部、お前から溢れ出たお前自身なんだよ!! そして、誰かを愛おしむ気持ちも、日々に感じる幸せも!! 」
時に突き放す壁となり、時に自らの脚で立ち上がれるように導く――厳しくも温かい“父親”のような圧倒的な存在感。
「俺がお前の全部を受け止めてやる!! だから余すことなく、全部俺に吐き出せ!!」
ハルトの放つ斬撃は、精密な技術によってアクアの肌一枚触れさせてはいない。しかし、極限まで役に没入したアクアにとっても、舞台袖で見守るあかねにとっても、ハルトの刃が通り抜けるたびに「身体を深く斬り裂かれた」と錯覚するほど、真に迫った圧巻の芝居だった。
見えない血風が吹き荒れ、虚空に火花が散る。
役に呑み込まれたアクアの暴力的な刀筋は、一歩間違えれば大怪我では済まない危険な軌道を描いていた。しかし、ハルトはその全てを理にかなった身体操作と圧倒的な動体視力で完璧にいなし、受け止めてみせる。
合理的な殺陣の術理を土台に、明晰な頭脳と類稀なる肉体から出で立つ芝居――それこそが『日野ハルト』という役者の真骨頂だった。彼の魂が宿った演舞は、共演者も観客も逃がさず芝居の世界へと引きずり込む。その太陽のような眩い輝きによって、アクアの「嘘」で覆われた表層にへばり付いていた不完全な復讐心を叩き斬り、深層心理に眠る本質を力ずくで引きずり出そうとしていた。
(ハルトくん……すごい……! こうやって芝居を通じてアクアくんの感情を引き出すなんて……直接対決する『波旬』役じゃないと絶対にできないことだけど……ここまでアクアくんの『本当』を引っ張り出せるのは、ハルトくんだからこそだ……!)
あかねは、目の前で繰り広げられる二人の魂の削り合いに強く魅了されていた。
彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。それは『黒川あかね』としての涙であり、同時に彼女の中に住まう『星野アイ』が流した涙でもあった。
目を背けることも、眩しさから逃げることもせず、あかねは瞬きすら忘れてその光景を記憶に焼き付けようとしていた。
(がんばって、ハルトくん……! 負けないで、アクアくん……!)
激しい演舞が、いよいよ終局へと向かう。
体勢の崩れたアクアの胸ぐらを、ハルトが左手で力強く掴み寄せた。
「ぐ……っ!」
「アクア……上っ面の
「……っ!?」
ハルトは大袈裟に見えるパフォーマンスを交えつつ、手加減した力でアクアを豪快に突き飛ばした。そして『波旬』の木刀を、鋭い袈裟斬りの軌道で振り下ろす。
バランスを崩したアクアは、そのまま床の上へと大の字になって倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ」
荒い息を繰り返すアクアは、完全に疲労困憊の体で指一本動かすこともできない。
ハルトは木刀を肩に担ぐと、ゆっくりとしゃがみ込んでアクアの顔を上から覗き込んだ。
「……今のは、まあまあだったぞ星野。本番の舞台に出すにはまだ危なっかしくて見てられねぇが……ちゃんとお前の『刀鬼』になってた」
「はぁ……はぁ……っ。評価が……手厳し、すぎだろ……」
「事実を言ったまでだ。……だが、吐き出すだけ吐き出して……少しはスッキリしたろ?」
「……ぁ……。ああ……、不思議と……な」
アクアは、胸の奥を常に押し潰していた原因不明の重圧が、嘘のように晴れ渡っているのを感じていた。
復讐という暗い目的のために全てを捧げる行為に対して、心のどこかで感じていた無意識の忌避感。そのストレスが、ハルトという巨大な存在に泥み溢れる感情をぶつけ、声を限りに絶叫したことで、見事に昇華されていたのだ。
「ほら。手ぇ出せ、手」
ハルトが手を差し出し、アクアの手を固く掴んで一気に引き上げた。
立ち上がり、荒い息を整えたアクアがハルトを見つめる。その深みのある青い瞳は、先ほどまでとは異なり、どこか静かに揺れていた。
「……どうして、ここまでするんだ。舞台を成功させるためか?」
「それもある。だけどな――」
ハルトはふっと、肩の力を抜いて柔らかく微笑んだ。山吹色の瞳がアクアを温かく見返す。
「俺たちが友達だからだ。友達が苦しんで詰まってんなら、手を貸すのは当たり前だろ、アクア?」
「…………そうだな。ありがとう、ハルト」
ハルトが軽口のように言うと、アクアの顔から完全に憑き物が落ちたように、穏やかで晴れやかな笑みが浮かんだ。
あかねは溢れる涙を袖で拭うと、咲き誇る花のような満面の笑顔で、二人の元へと駆け寄っていった。
☆ ★ ☆
十一月も終わりに近づき、舞台『東京ブレイド』の立ち稽古もいよいよ大詰めを迎えていた。
冬の冷たい空気が外を覆う季節となっていたが、熱気の充満する劇場内の稽古場は、連日キャストたちの活気であふれかえっている。
稽古場の片隅で、あかねは台本を片手に一人で静かにイメージトレーニングを重ねていた。
彼女自身は、未だに『鞘姫』という役を完璧にモノにできているとは言えなかった。正確に言えば、原作や各種資料からプロファイリングした完璧な『鞘姫』の模倣は可能だが、本番で『波旬』演じるハルトと対峙した際、その演技を乱さずに維持できる確信が持てていないのだ。あかね本人のハルトに対する苛烈な感情と、作中で『波旬』に屈折した恐怖と怒りを抱く『鞘姫』の感情の隔たりは、それほどまでに大きかった。
今のあかねは、プロファイリングによる完璧な形作りではなく、あかね自身の生々しい感情を出発点として『鞘姫』を演じる、基礎的なメソッド演技を一から身体に叩き込んでいる最中だった。かなから「ヘタクソ」と指摘されるまでもなく、自分でもまだまだ未熟で拙いと感じる泥臭い芝居だ。
しかし、あかねが目指している最終到達点はさらにその先にある。
自分自身の素の感情と、演じる役に求められる感情。そこに『アイ』をはじめとして今までプロファイリングし、蓄積してきた膨大な人間の感情をすべて一つに統合すること。頭で「この場面ではこう感じるべきだ」と分析して動くのではなく、心が外部からの刺激に反射して、瞬時に最適な感情を出力できるようにする。
そのため、人見知りで内向的な『黒川あかね』という少女の中に、凛として気高い『鞘姫』の芯を落とし込む作業を、愚直に繰り返しているのだった。
(それくらいできるようにならなきゃ……ハルトくんの隣に、対等に立つことなんてできない……!)
あかねがふと視線を向けると、稽古場の中央ではハルトがアクアに対し、親身になって殺陣の細かい角度や視線のアドバイスを送っていた。
そこへ、休憩時間で稽古場をブラブラと歩いていた有馬かなが、あかねの隣へと歩み寄ってきた。
「……なんか、雰囲気変わったわよね。アクアの奴」
「有馬さん」
「なんていうか……全体的に柔らかくなったっていうか何というか。一体あの日の夜に何があったのよ。急に演技のキレも格段に良くなったしさ」
かなは不満そうに唇を尖らせて呟いた。
あかねはかなの横顔を見て、彼女が心のどこかで「アクアの停滞を破るきっかけは、自分が作りたかった」と思っていることを察した。
あの激しい深夜の立ち合い以来、ハルトとアクアは稽古終了後に二人で自主練を続けているという。その成果は覿面で、アクアはメキメキと芝居の質を向上させ、今では誰の目から見ても完全に『刀鬼』という役を掴み取ったと言えるレベルにまで成長を遂げていた。
まさにアクアは、自らの殻を打ち破ったのだ。「男子三日会わざれば刮目して見よ」という言葉がこれほど似合う状況もないだろう。
「……なんかズルいじゃない。男同士で急に分かったような顔して通じ合っちゃってさ」
「……そうね」
あかねとかなの視線の先では、ハルトとアクアが互いに言葉を交わし、笑い合っている。
かつてあれほど冷徹で感情を表に出さなかったアクアが、今では遠くから見ても笑っているとハッキリ分かるほど、リラックスして表情を和らげていた。
「私も……負けていられないな。もちろん、
「ふぅん……?」
あかねの顔を見て、かなが片方の眉を器用にも上げて見せる。あるいはその呼び方に、含むものを感じたのかもしれない。
「フン、アンタはまずその『鞘姫』の不完全な演技をどうにか完成させなさいよ?」
「ぐっ……」
痛烈で容赦のないかなの切り込みに、あかねはぐうの音も出ず、誤魔化すように苦笑いを浮かべて言葉を詰まらせるのだった。
用語集や人物紹介の類いがほしい?参考までに
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いる
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あれば嬉しい
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いらない