十一月最後の稽古全休日。
外は冬の気配を含んだ冷たい風が吹き荒れていたが、あかねは静かな実家の自室で、ベッドに体を預けてじっくりとコンディションを整えていた。
十二月に入れば、全体の流れを確認する荒通し稽古も終わり、いよいよ本格的な集中稽古のフェーズへと突入する。現場の空気は否応なしに緊張感を増していくはずだ。あかね自身の『鞘姫』の演技は、いまだ模索の渦中にあり完成には至っていない。焦る気持ちがないと言えば嘘になる。だが、かつてのような底のない恐怖や不安は、不思議と影を潜めていた。
目の前のタブレットPCには、ハルトのリアルタイム生配信が映し出されている。
彼の『HARU』名義での配信をリアルタイムで追いかけるのは、二人が恋人として付き合い始める以前からの、あかねのささやかで大切な日課だった。
画面の中のハルトは、いつものように人気アクションゲームをプレイしている。しかし、コメント欄から飛んでくる煽りや軽口に対するレスポンスにはどこかいつものキレがなく、プレイの合間に手元で顔を覆い、小さなあくびを密かに噛み殺すような仕草すら見せていた。
「……ハルトくん、すごく疲れてるみたい」
あかねは画面に顔を近づけ、心配そうにその顔色を覗き込んだ。
案の定、チャット欄にも彼の体調を気遣うコメントや違和感を指摘する声が殺到し、画面内のハルトはバツの悪そうな苦笑いを浮かべた。
『あー……悪い悪い! ちょっとここ最近、ハチャメチャにハードなスケジュールが重なっててさぁ。疲れてるのは否定できねぇわ』
『うん? 何やってんだって? そうだな……むっちゃデカい案件の作業中なんだよ。もうすぐお前らにも公式からドカンと発表できると思うから、楽しみに待っててくれよな』
配信越しにハルトが語る通り、近いうちに舞台『東京ブレイド』の全面改訂と全キャスト情報が解禁され、彼が伝説の天才役者として表舞台へ電撃復帰するニュースは、世間を激震させるはずだった。
『あー……申し訳ねぇんだけど、ちょっと身体が限界っぽいから今日の配信はここらで切り上げるわ。みんな、マジでごめんな!』
異例の事態だった。配信活動を何よりもこよなく愛するハルトが、開始から二時間も経たずに配信を終了するなど、ファンからすれば考えられないことだ。それほどまでに、彼の肉体と精神には莫大な疲労が溜まり込んでいるのだ。
無理もない、とあかねは胸を痛めた。
彼は作中最強の絶対者『波旬』として圧倒的な殺陣で役者陣の相手を務め、演出の金田一の手が回らない細部まで演技指導を行い、さらには劇伴音楽の総責任者として音響、美術、照明、特殊効果の各セクションと深夜まで膝を突き合わせて打ち合わせを重ねているのだ。八面六臂という言葉すら生ぬるい殺人的な活躍ぶりだった。それに加え、脚本の改訂騒動から生じたスケジュールの遅れや、役者同士の微妙な歪みなど、現場に渦巻く課題は山積みだった。当然、あかね自身の不調や、アクアのトラウマの件も彼の肩に重くのしかかっているはずだ。
「……私が、側に居られたら……ちゃんと癒してあげられるのに……」
ポツリと漏らした呟きが、静かな部屋に寂しく溶けていく。
配信が途切れ、真っ黒になったタブレットに、浮かない顔をした自分の姿が映り込んだ。
もし今、あの部屋にいられたなら。
身体に良い美味しい温かいご飯を作ってあげて、疲れた肩や背中を丁寧にマッサージして、一緒にお風呂に浸かって汗を流して……それから、優しく抱きしめ合って……。
「っっっ!???」
思考が無意識のうちにどんどん濃密で熱を帯びた方向へと脱線しかけ、あかねは弾かれたように顔を跳ね上げた。
黒いモニターに映る自分の顔は、耳の先まで真っ赤にのぼせ上がっている。
(な、何を考えてるの私……っ!?)
あかねは、自分の中に燻る生々しい欲求不満を自覚せざるを得なかった。
年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしていれば、肌を重ね、心身ともに愛し合うのはごく自然な流れだった。あかねとハルトもその例外ではなく、同棲していた時は、言葉だけでなく肌の温もりを通じても深く繋がり合い、満たされた日々を送っていたのだ。
だからこそ、その温もりが途絶えた今の反動は恐ろしいほどに重く、甘い飢えとなってあかねを苛んでいた。
役作りの精度を上げるために同棲を解消した決断に後悔はないし、それが間違っていたとも思わない。だが、それと自分の身体が彼を求めて叫ぶ本能とは、全く別の問題だった。
「……っ」
一度自覚してしまった肌の寂しさは、容易に消し去れるものではない。
息を荒くしたあかねは、火照る体に耐えかねて、そっと自分の胸元に手を伸ばそうとして――
「あかねーっ! お夕飯できたわよー!」
「っ!?!? は、はーいっっ!!!」
階下から響いた母親の元気な声に、あかねは跳び上がらんばかりに驚いた。
間一髪だった。激しく脈打つ胸を両手で押さえ、あかねは真っ赤な顔のまま、転げるような足取りで自室を飛び出していった。
☆ ★ ☆
あたたかな湯気が立つダイニングテーブルを、両親と共に囲むあかね。
香ばしく焼けた脂の乗った秋刀魚を箸で少しずつ崩しながら、モソモソと口へと運ぶ。専業主婦の母と、厳格だが温かい警察官僚の父。家族仲は至って良好で、何一つ不自由のない恵まれた家庭環境だった。
「あかね、ハルトさんとはもうちゃんと仲直りできたの?」
味噌汁の椀を置いた母が、心配そうな目で覗き込んでくる。
「もう……お母さん、何度も言ってるでしょ。喧嘩したわけじゃないの。役作りのために、ちょっと距離を置いてるだけなんだから」
「でもねぇ、あんなに泣きじゃくって帰ってきたんだもの。親として心配になるじゃない?」
「う……っ」
痛いところを突かれ、あかねはぐうの音も出ずに沈黙した。
実家に帰ってきたあの日、あまりの情けなさと悔しさに母の胸でボロボロと涙をこぼしてしまったのは事実だ。あかね自身は役者としてのステップアップのための距離置きと捉えているが、母の目にはどう見ても悲しい仲違いの末の逃避行に見えているらしい。
母がハルトのことを個人的に非常に気に入っているという理由もあるだろう。幼少期の子役時代の愛らしさが記憶に残っているのもあるが、純粋にハルトの顔立ちや立ち振る舞いが好みなのだ。『こんなハンサムでしっかりした男の子が息子だったら最高なのに』などと、娘の目の前で平然と言い放つ母のミーハーぶりに、あかねは常々呆れつつも共感していた。ハルトが文句のつけようのない〝ハンサム*1〟であるという点においては、母娘で完全に意見が一致しているのだから世話がない。
「母さん、それくらいにしてやりなさい。あかねが困っているじゃないか」
「でもあなた、私本当に向こうでご飯ちゃんと食べてるのかしらって心配で……」
「あかねは一度こうと決めたら頑固だからね。何か、私たち素人には分からない役者の深い世界での事情があるんだろう」
静かに母を諭したのは、父親だった。
警察官である父は、あかねとよく似た生真面目さと鋭い観察眼を持つ人物で、幼少期のあかねにプロファイリングの基礎的な考え方を教え込んだ師でもあった。
「それに……その『何か』にも、そろそろ目処が立ったんだろう? そうだね、あかね」
「……うん。すごく手応えはあるよ、お父さん」
さすがは父だった。あかねの表情や纏う空気の微細な変化から、事態が良い方向へ動き出していることを的確に読み取っていた。
「そうか……またあかねがハルト君の元へ行ってしまうと思うと、父親としては寂しくなるがね」
「ごめんね、お父さん」
「いや、いいんだ。彼は見かけによらず誠実で、お前のことを誰よりも大切にしてくれている。大事な娘を託すには申し分ないいい男だ。……ああ、だが結婚にはまだ早いぞ」
「ちょ、ちょっとお父さん!? 何の話をしてるのっ!?」
「あら、私は早く若い内にかわいい孫の顔が見たいわねぇ」
「ねぇもう! お母さんまで適当なこと言わないでよ!」
顔を真っ赤にして抗議するあかねを囲み、温かな黒川家の団欒が続いていく。
ふと、賑やかな食卓の傍らで、あかねはアクアの壮絶な生い立ちに思いを馳せた。
まるで残酷な物語のように過酷な逆境を背負わされた彼と、警察官の父と温かい母に見守られ、一人娘として何不自由なく育った自分の境遇。どうして神様は、これほどまでに不平等な運命を与えるのだろうかと、胸が痛む。
アクアの亡き母、星野アイは、現在の自分と同じわずか十七歳という若さで、アクアとルビーという双子を産んだという。それも、夫の付き添いも世間の祝福もなく、ただ独りで隠れ潜むようにして。
それを自分とハルトの関係に置き換えて考えてみる。
もし自分とハルトの間に新しい命が宿ったなら――あかねは心からその子を愛し、産みたいと強く望むだろう。けれど同時に、もし彼が隣に居ない状況で一人で産むとしたら、計り知れない恐怖に押し潰されそうになるはずだ。
そんな絶望的な恐怖すら忘れさせるほどに、アクアたちの『父親』という存在は魅力的な人物だったのだろうか?
以前、ハルトと共に分析したプロファイリングでは、『星野アイ』という不世出のアイドルと同等、あるいはそれ以上の異常なカリスマ性と人惹きを持つ男性であるという結論で一致していた。
だが、それでも疑問は残る。なぜ星野アイは、そこまでのリスクを犯してまで秘密裏に独りで産む道を選んだのか?
二人の間に一体何があったのか。『星野アイ』というミステリアスな女性の真実の核心は、人間観察を得意とするあかねの頭脳をもってしても、未だ深い霧の向こう側に隠されたままだった。
☆ ★ ☆
同じ日の夜。
アクアは、自身を子役時代から見守り続けてきた映画監督・五反田の住む実家へと足を運んでいた。
いわゆる「子供部屋おじさん」として実家に居座る五反田の自室。慣れた手つきで重い防音ドアを開け、アクアは静かに部屋の中へと足を踏み入れ、ソファに腰を下ろした。
「なんだアクア、珍しいな。演出の相談か?」
デスクで作業をしていた五反田が振り返る。
いつも以上に沈黙が多く、重苦しい空気を纏うアクアの様子を、五反田は眉をひそめて訝しんだ。
「まあ……」
「もしかして、お前が今参加してる舞台『東京ブレイド』のことか」
「……なんで知ってるんだよ」
「そりゃお前、この狭い業界だぞ。それに……あの伝説の天才子役『日野ハルト』が本格的に表舞台に帰ってくるとなれば、噂が広まらないわけねぇだろ」
「そこまで出回ってんのかよ……この業界のコンプライアンスはどうなってんだ」
「芸能界に本当の意味でのコンプラなんてあるかよ」
「胸張って言うことじゃねぇだろ……」
溜息を吐いたアクアだったが、ふと胸の奥で燻っていた疑問を五反田に投げかけた。
「……なぁ。監督はハルト……日野ハルトのこと、どう思ってるんだ? というか、昔あいつを撮ったことがあるのか?」
「いや、俺は直接撮ったことはないな、残念ながら。……ただ、奴が現場で演じている姿を直接観たことは何度かある」
五反田は昔を懐かしむように遠い目をし、静かに煙草に火をつけた。
「ありゃあ……〝太陽〟だな」
「〝太陽〟……?」
「ああ。溢れ出る圧倒的な自信と、揺らぐことのない絶対的な自負――自分が光り輝く存在であることを心底から信じていて、かつ、周りを力ずくで押し退けるんじゃなく、周りの役者すらも引き上げて輝かせる。共演者だけじゃない。監督、脚本、演出、果ては照明や音響の裏方に至るまで、等しく〝太陽〟の光と熱量で照らし出し、創り上げた作品という
「……。分かる気がするな、それ」
「そうか? 実際に現場で激突してるお前がそう言うんなら、俺の眼力もまだ捨てたもんじゃないな」
五反田が自嘲気味に笑う。
アクアは膝の上で固く拳を握りしめ、絞り出すような低い声で言葉を漏らした。
「……あのさ。俺……演技を『楽しい』って……思っちまったんだ」
「アクア……?」
「あいつとの立ち合い……俺が中に溜め込んでいたドロドロしたもの全てを受け止めてくれて……それすらも『お前自身だ』って認めてくれて……。俺は……本当は復讐なんて……」
「お前……っ」
「……っ! ……悪い、今の話、全部忘れてくれ」
自身の弱音に激しい嫌悪感を抱いたアクアは、弾かれたように立ち上がった。
五反田はいたたまれない、悲痛な表情で項垂れるアクアを見つめることしかできない。
「帰る。聞きたいことは聞けたから」
「あっ、おい、アクア――!」
制止の声を振り切り、逃げるように部屋を飛び出していくアクア。
バタンと重いドアが閉まり、一人残された五反田は、紫煙の燻る部屋でポツリと潰やいた。
「……俺は、間違っていたのか……? アイの遺言に従って……あいつを、アクアをここまで追い詰めただけだったのか……?」
☆ ★ ☆
同じ頃、黒川家のあかねの自室。
夕食と入浴を済ませたあかねは、机に向かってノートにシャープペンシルを走らせていた。
「……一からメソッド演技を学び直して、改めて分かったことがある。……ハルトくんは完全に別格として、純粋な舞台上での表現力や華において、素の『黒川あかね』は、かなちゃんや姫川さんには逆立ちしても勝てないってこと。……技術や
カリカリとシャープペンシルの芯がノートを叩く。
客観的に自分自身を分析した思考のログを、整理して書き出していく。
「やっぱり私の最大の武器は、徹底的なプロファイリングとそこからの〝憑依型演技〟。これしかない。……だけど、それだけに依存することの限界も今回のスランプで痛いほど分かった」
当初の原作改変脚本で陥った絶望的な苦戦。
今後、役者として活動していく中で、原作付き作品に限らず、自分がプロファイリングで解釈したキャラクター像と、監督や演出家、あるいは脚本家が提示する解釈が大きく乖離することなど、いくらでも起こり得る。その度に自分を見失い、演技が破綻しているようでは、ハルトの隣に立つ役者として上に登っていくことなど到底不可能だ。
「それから……私自身の生理的・感情的な反応」
ハルトに対する抑えきれない愛おしさが、『鞘姫』の持つ恐怖や屈折した感情とアンマッチを起こし、芝居の邪魔になっていた。それをハルト本人に指摘され、完全に失望されたと勘違いしたショックで、あかねの演技は完全に崩壊してしまったのだ。
「今回の脚本との噛み合わせが絶望的に悪かったのは事実だけど、そのせいにするのはただの甘えだ。……それに、今回は〝好き〟という感情だったけれど、将来的に〝嫌い〟や〝恐怖〟といった生理的な拒絶が演技を邪魔することだって、いくらでもあるかもしれないし」
考えたくもないことだが、プロの役者を続けていく以上、いずれ生理的に不快な相手や、嫌悪感を抱く相手との共演、もっと言えばラブシーンや濡れ場を演じなければならない局面も訪れるだろう。それを「嫌だから」と避けることは、あかねの役者としてのプライドが絶対に許さなかった。
「……目指すべきは、やっぱりハルトくんの演技スタイル。超人的な記憶力でインプットした莫大な情報を、完璧な身体操作で寸分の狂いもなくアウトプットする。そこに彼の芸術的な感性と圧倒的な創造性が加わることで、あの至高の演技は成立している」
アクアとの壮絶な〝戦い〟を思い返し、あかねは胸を熱くさせる。
「……プロファイリングで弾き出した感情を脳で緻密に『思考』し、私自身が培ってきた感情と融合させて『反射』で出力する。……思考と反射の融合。これこそが、私の目指すべき新しい演技の完成形なんだ」
考えを完璧にまとめ終え、あかねは「ふぅ」と深く息を吐いてシャープペンシルを置いた。
ピンと張り詰めていた脳を休めるため、何か演技の資料動画でも観て気分転換をしようと思い立つ。真面目なあかねは、息抜きすらも演技の勉強に繋げてしまう癖があった。
部屋の収納棚から、過去の舞台や演劇の映像ディスクが詰まったソフトケースを取り出す。
パラパラと何枚ものディスクをめくり、何気なく手に取った『劇団ララライ設立十年目記念パーティ』のDVDをPCドライブに挿入し、画面上で動画を再生させた。
「……」
過去に何度も繰り返し観た映像ではあるが、今のスランプを脱しつつあるあかねにとって、高い水準の芝居や役者の熱量に触れることは良い刺激になるはずだった。
画面の中で、華やかなパーティーの様子や歴代団員たちの劇中映像が流れていく。
だが――その時だった。
「え……? あれ……?」
不意に、あかねの胸の奥深くに潜む『星野アイ』の感情の残滓が、激しくざわめいた。
画面の隅、過去の舞台映像のワンシーンに映し出された、一人の金髪の少年の芝居に、あかねの視線が吸い寄せられるように固定される。
その少年の佇まい、目元の陰影、身に纏う独特の儚げな空気感――。
あかねの頭の中で、アクアとルビーの面影が、恐ろしいほどの精度でその少年の姿へと重なり合っていく。
「この人……まさか……ッ!?」
激しい動悸が胸を打つ。困惑と、プロファイリングが真相へと到達しつつある異常な興奮に指を震わせながら、あかねはPCのキーボードを操作し、動画内のスタッフロールやキャストクレジットの画面を貪るように探した。
そして――あかねは遂にそれを見つけた。
見つけてしまった。
画面の小さな文字の中に躍る、一つの名前を。
――『カミキヒカル』。
アクアとルビーの「本当の父親」へと繋がる、運命の扉が開かれた瞬間だった。
だから、あかねを実家に返す必要があったんですね。
カミキ特定RTA終了のお知らせ。
まあ、すでに犯人も結末もわかってるサスペンスを深掘りしてもおもろくないんでね、しかたないね。
ちなみに、あかねのスランプはもっと続く予定だったんですが、なぜか自分で解決策を模索し始めてこうなりました。これが筆が走るということが……!
用語集や人物紹介の類いがほしい?参考までに
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いる
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あれば嬉しい
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いらない