あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第49回:『支え合うこと』

 

 時刻は夜の七時を回った頃。

 冬の夜気によって冷やされた劇場の楽屋裏は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。本日の稽古が完全に中断されたこともあり、大半のキャストや裏方スタッフはすでに撤収し、家路につかされている。

 舞台上で突然意識を失ったハルトは、倒れてから間もなく目を覚ました。だが、劇団側の配慮と念のための静養のため、劇場内にある仮眠室のベッドへと運ばれ、横にされていたのだった。

 パイプベッドの上で体を起こしたハルトは、首の後ろをポリポリと掻きながら、普段通りの軽薄で呑気な笑みを浮かべていた。

「いやー、マジでみんな大袈裟だっての。ちょっと立ちくらんだくらいで、そんな重病人扱いすんなって」

「あんたねぇ……! いきなり倒れた人間が何言ってんのよ! どんだけ周りに心配かけたと思ってんの!?」

 速攻でツッコミを入れたのは有馬かなだった。腕を組み、不機嫌そうに眉をひそめているが、その瞳には隠しきれない焦りと心配の色が滲んでいる。

「そうだぞ、ハルト。お前は無茶を無茶と認識しない悪癖がある。倒れるまで動くなんてのは、プロとして一番やっちゃいけない失態だ」

 隣に立つアクアもまた、いつになく真剣で冷ややかな眼差しでハルトを嗜めた。

「ちょっと、みんな責めないでよ……! ハルトくんは疲れてるんだから……っ」

 ベッドのすぐ脇に付き添っていたあかねが、庇うように声をあげる。だが、その声はどこか微かに震えていた。

 仮眠室のドアがバタンと勢いよく開いたのは、まさにその時だった。

「――ハルト!? 倒れたというのは本当ですか!?」

 息を切らし、血相を変えて飛び込んできたのは、ハルトのマネージャーを務める『サン・マネージメント』の宮川みやびだった。整えられたスーツの肩を少し上下させながら、ベッドのハルトへと駆け寄ってくる。

「あ、みやびさん。わざわざ来てもらってすみませんね。だから言ったのに、みんなが大袈裟に騒ぎ立てるから……」

「大袈裟なんかじゃないよ、ハルトくん!!」

 呑気に手を振るハルトの言葉を遮り、あかねが感極まったように叫んだ。その浅葱色の瞳には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。

「私……私、本当に……心配で、心配で……っ! もしハルトくんに何かあったらどうしようって……!」

「あかね、落ち着け」

 事態の重さを受け止め、責任者として金田一が静かに間に割り込んだ。

「宮川さん、申し訳ない。本日の場当たり稽古の最後、舞台上で日野が突然意識を失って倒れたんだ。意識はすぐに戻り、本人もこうして会話はできているが……時間が時間だ。今夜は無理に夜間救急へ連れて行かず、ここで安静にさせていた」

「そうでしたか……。金田一監督、そして皆様、日野が多大なご迷惑とご心配をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。所属タレントの体調管理を徹底するのは、本来私どもの義務ですのに……」

 みやびが深々と頭を下げる。金田一は重々しく首を振った。

「いや、責めるつもりはない。日野が誰よりも作品のために働き、稽古場を引っ張ってくれていたのはこちらも重々承知している。……正直に言えば、我々が彼の圧倒的なパフォーマンスに甘え、頼りすぎていたと言ってもいい」

 大人たちが深刻な表情で言葉を交わす中、当のハルトはベッドの上で不満そうに唇を尖らせていた。

(ちぇー……みんなして重苦しい空気出しちゃってさ。俺はただ、ちょっと疲れが溜まってただけだってのに……)

 そんなハルトのどこか他人事のような、悪びれない態度。

 それを見つめていたあかねの胸の奥で、ふつふつと何かが煮え滾る音がした。

 ハルトが倒れた瞬間、あかねは「自分の演技が追いついていないせいで、ハルトくんに余計な精神的負担をかけ続けてしまったのではないか」と、強烈な罪悪感と自責の念に苛まれていた。だが――目の前で全く反省の色を見せず、体を気遣う周囲の優しさを煙たがるようなハルトの態度を見て、その申し訳なさは一瞬でどこかへ吹き飛んでしまったのだ。

 ――この人は、本当に……!!

 あかねの体から、目に見えるほどの禍々しい「黒い怒気」が立ち昇り始める。

 浅葱色の瞳の奥に影が落ち、ニコリと笑っているものの、口元がピクピクと痙攣していた。

(ひっ……!?)

(あかねの奴、完全にキレかけてるな……)

 横でその暗黒のオーラを察知したかなとアクアは、背筋に冷や汗を流しながらそっと半歩後退した。ハルトだけが、その致命的な変化にまだ気づいていない。

「……ともかく、もう時間も遅い。日野を本格的な病院に連れて行くのは明日の朝一番にしよう。宮川さん、申し訳ないが彼らをそれぞれの自宅まで送ってもらえるか?」

「はい、承知いたしました。車は地下に回してあります。……皆さんも、それでよろしいでしょうか?」

「「「お願いします」」」

「日野。明日は必ずしかるべき病院で精密検査を受けるんだぞ。いいな?」

「……はいはい、わかりましたよ」

 金田一の念押しに、ハルトは気怠そうに頷くのだった。

 

 みやびの運転する社用車が、夜の東京の街を滑らかに走り抜けていく。

 車内には重苦しい沈黙が立ち込めていた。

 最初に世田谷のかなの自宅前に停車し、「気をつけてね、ハルト」と言い残してかなが降りた。続いてアクアの住む斉藤家宅前でアクアを降ろす。車内に残されたのは、運転席のみやび、助手席のハルト、そして後部座席にぽつんと座るあかねの三人だけになった。

「すみません、ハルト。私があなたの役者復帰を勝手に受け入れたばかりに……」

「何言ってんの。演者をやるって最終的に決めたのは俺だし、今となって思えばやらなかったほうが後悔してたよ」

「しかし……」

 あかねの位置からでは、二人の表情は伺えない。しかし、みやびが落ち込んだ様子なのとハルトがあっけらかんとしているのは感じ取れた。

「仮にみやびさんの首を切るなり、謹慎させるなりして処罰したとしても、困るのは結局のところ俺でしょ。さすがに事務所の仕事までは抱え込めないって」

 明るい声でハルトが茶化す。それが彼なりの気遣いであることは、恋人であるあかねが一番わかっていることだった。

「つーかさ、事務所の代表は任せてるけど雇用主は俺なんだから、責任があるとしたら俺自身だよ」

「……はい」

 再び、車内に静けさが返ってくる。

 次の目的地は、本来であればあかねの実家であるはずだった。

 しかし、静まり返った車内で、後部座席からあかねが毅然とした声で口を開いた。

「あの……みやびさん。お願いがあるのですが」

「はい、なんでしょう黒川さん?」

「私の実家じゃなくて、ハルトくんの自宅に向かってもらえませんか?」

 バックミラー越しに、みやびが驚いたように目を丸くする。助手席のハルトも勢いよく振り返った。

「えっ……あかね?」

「私が今夜、ハルトくんがちゃんと部屋で休んでるか見張りますから」

「お、おいおいあかね、俺のことそんなに信用ならないのかよ?」

「ハルトくんは黙ってて」

「ハイ」

 冷ややかな、絶対零度のトーンで一蹴され、ハルトは思わず背筋を伸ばして首をすくめた。

 みやびは一瞬呆気にとられたものの、すぐに理解を示したように小さく微笑んだ。

「……ふふ、そうですね。ハルトは一人にしておくと、また勝手に曲を作ったり稽古の復習を始めたりしかねませんから。黒川さんにお願いできると、私も安心です。よろしくお願いしますね」

「はい、お任せください」

 みやびは車を走らせつつ、途中の24時間営業の大型スーパーの駐車場へと車を寄せた。

 ハルトから自宅の冷蔵庫の状況を聞き出すと、「水と納豆くらいしかねぇかな」という絶望的な回答が得られたため、あかねは手早く必要な食材を買い込むために車を降りた。

 数分後、新鮮な野菜や豆腐、肉類が入った大きなポリ袋を抱えて戻ってきたあかねを乗せ、車はハルトの自宅兼プライベートスタジオへと到着した。

 家の前で車を止めたみやびは、車窓越しにハルトを厳しく見つめた。

「ハルト。今夜は黒川さんの言うことをよく聞いて、絶対に無理をせず安静にすること。明日、朝一番で車で迎えに来ますから、病院へ行きますよ」

「……はい、わかってますって」

「黒川さん、よろしくお願いしますね。何かあったらすぐに連絡してください」

「はい。みやびさんも、夜遅くにありがとうございました」

 滑らかに去っていくみやびの車のリアランプを見送ると、夜の静けさがあかねとハルトの間に降り積もった。

 冬の冷たい風が、ハルトのアッシュグレイの髪を揺らす。

 片手に食材の入った袋を持ち、もう片手で大きなトートバッグを肩にかけたあかねは、無言のままバッグのポケットから一つのキーホルダーを取り出した。

 じゃらりと音を立てる鍵束。そこには、以前ハルトからプレゼントされた、どこかシュールなネギのマスコットチャームが、他の可愛らしいキーホルダーと一緒に揺れていた。

「……寒くなってきたから、早くお部屋に入ろう、ハルトくん。本当に風邪引いちゃうよ」

「お、おう……」

 何食わぬ顔でハルトの自宅の合鍵を取り出し、オートロックを開けるあかね。

 普段の可愛らしい彼女とは一味違う、静かだが逃げ場のない妙な迫力に完全に押される形で、ハルトはしずしずと彼女の後をついて玄関へと足を踏み入れた。

 

 カチリ、と部屋の照明スイッチを入れる。

 あたたかな暖色系の光が、広々としたリビング兼スタジオを照らし出した。

 約二週間ぶりに訪れたハルトの部屋は、あかねの記憶にある景色とほとんど変わりなく、綺麗に整理整頓されていた。ハルトは普段の言動こそチャランポランで大雑把に見えるが、空間の美意識や生活のリズムに関しては意外なほど繊細で、室内は常に清潔に保たれている。

 スリッパのパタパタという軽い音を響かせながら、あかねは迷いなくキッチンへと向かった。

「私がお夕飯の準備をするね。ハルトくんはソファに座って待ってて」

「あー……俺も何か手伝おうか? 野菜切るとかさ」

「ハルトくんは、座ってて」

「ハイ」

 二度目の即答に、ハルトは大人しく素直にリビングのローソファへと腰を下ろした。

 あかねは手早く買ってきた食材をキッチンのワークトップに広げ、念のため冷蔵庫を開けて調味料とストックを確認する。ハルトの証言通り、庫内にはミネラルウォーターのペットボトルと、賞味期限ギリギリの調味料くらいしか残っていなかった。

(今からお米を研いで炊くとなると、ハルトくんが食べるのが遅くなっちゃうな……)

 本来なら、ハルトが大好きな白米を中心とした和食を作ってあげたかったあかねだったが、時間はすでに夜の八時を過ぎている。素早く消化に良く、栄養バランスの取れたメニューへと頭の中で切り替えた。

 あかねが選んだのは、豆腐と厚揚げ、豚肉と野菜を炒め合わせた具だくさんの沖縄風チャンプルー、口当たりがさっぱりとしたトマトと玉ねぎのマリネ、そして根菜類をたっぷり使った温かいけんちん汁だった。

 トントンと、軽快な包丁の音がキッチンに響き始める。

 それと同時に、あかねは作業の手を止めずに廊下に向かって声をかけた。

「あっ! お風呂の準備もしなくちゃ! 先にお風呂に入って汗流してきて!」

「あ、じゃあお風呂は俺が沸かして――」

「座ってて! 私がお湯張りボタン押すから!」

「ハイ」

 指示通りにソファから動くことを許されないハルトは、苦笑いしながら苦笑いを浮かべるしかなかった。あかねは小走りでバスルームへ向かい、自動お湯張りのスイッチを入れると、再びキッチンへと戻って手際よく調理を進めていった。

 もともとあかねは、母親と一緒に料理教室に通っていたこともあり、包丁さばきや味付けの基本はしっかりと身についていた。さらにハルトと付き合い始めてからは、大好きな人に美味しくて体に良いものを食べてもらいたいという情熱も加わり、その料理の腕前はメキメキと上達していたのだった。

 

 三十分後。

 出汁のやさしい香りと、香ばしい炒め物の匂いが部屋中に広がった。

「ハルトくん、できたよー」

 お風呂上がりで、髪を軽くタオルドライしたラフな部屋着姿のハルトが、テーブルについた。目の前には、彩り豊かな三つの大皿と、湯気を立てるスープが綺麗に並べられている。

 ハルトはあかねと向かい合って座ると、嬉しそうに両手を合わせた。

「「いただきます」」

 あかねは自分の分の箸を取りつつも、まずはハルトが口へ運ぶ様子をじっと見つめた。

 ハルトは大きな口で厚揚げと豆腐のチャンプルーを頬張ると、その瞬間に山吹色の目を丸くした。

「……うまっ! あかね、これめちゃくちゃ美味い!!」

「本当……? 良かったぁ……!」

 久々の彼女の手料理に、ハルトはまるで腹を空かせた子供のように夢中で箸を動かしていく。さっぱりとしたトマトのマリネで口直しをし、具だくさんのけんちん汁で体を温める。

「ハルトくん、おいしい?」

「おう、最高! 胃に染み渡るわぁ……」

 無邪気に笑いながらバクバクと食べ進めるハルトの姿を見て、あかねの胸の奥にあった冷たい怒りは、すうっと温かな幸福感へと溶けていった。

 自分が心を込めて作った料理を、大好きな人がこんなにも美味しそうに、幸せそうに食べてくれる。あかねにとって、これ以上に愛おしく、誇らしい瞬間はなかった。

 

 食後の後片付けは、流石にハルトも「これくらいは手伝わせろ」と譲らず、二人で並んで洗い物を済ませた。

 その後、あかねもハルトから借りた清潔なTシャツ*1とショートパンツに着替えて入浴を済ませた。風呂上がりの濡れた長い髪をバスタオルで包み、あかねはベッドルームへと向かった。

 ハルトの寝室は、クイーンサイズのローベッドが中央に鎮座する、落ち着いた空間だった。部屋の明かりは落とされ、ベッドサイドにあるナイトテーブルの暖色系ルームランプだけが、薄暗い室内を柔らかく照らしている。

 あかねがベッドの端に腰掛けヘアドライヤーを手にとると、ハルトが背後から自然な動作でそれを奪い取った。

「俺が乾かしてやるよ」

「えっ……でも、ハルトくんを休ませなきゃいけないのに」

「これくらい手伝わせろって。俺だって、あかねの髪に触りたいんだからさ」

 ハルトの手によってドライヤーのスイッチが入れられ、ブォーという温風の音とともに、指先が丁寧に、優しくあかねの黒い長髪を梳かしていく。

 温かい風と、ハルトの大きな手があかねの頭皮を撫でる心地よさ。

 あかねにとって、このブローの時間はただの髪のお手入れではなく、ハルトの愛を肌で直接感じられる、至福のスキンシップの時間だった。

「……本当に、舞台の上で倒れた時はびっくりして、心配したんだからね」

 鏡越しにハルトを見つめながら、あかねがぽつりと呟いた。

「いや……本当に悪かった。俺としたことが、あんな情けないところを見せちまうなんてな。……クライマックスのあの殺陣も最高の形で噛み合って、あかねの『鞘姫』の演技が完璧に完成したのを見てさ。安心したっていうか、一気に気が抜けちゃったのかもしれねぇな」

 ハルトのその言葉に、あかねはプクーッと頬を膨らませた。

「むっ……ずるいよ、その言い方」

 それは、あかねが怒りつつもハルトに甘えたい時に無意識に出てしまう、彼女特有の可愛らしい癖だった。

「はははっ、ごめんごめん」

 ハルトはドライヤーを止めると、愛おしそうにあかねの頭を撫でた。あかねはその手に心地よさそうに頭をすり寄せつつ、少し真面目な顔で振り返った。

「もうっ……本当に、どこも悪くはないの? どこか痛かったり、違和感があったりしない……?」

「…………。強いて言うなら、頭が重い……かな。実はここ半月くらい、ずーっと頭の奥が重い感じが続いてるんだよね」

「えっ……? 寝不足なの?」

「いや、ちゃんと寝てるぞ? 毎日六時間は睡眠取ってるし」

「……短いよ。短いってば、ハルトくん!」

 あかねは思わず声を張り上げた。

「ハルトくん、いつもはもっと寝てるでしょ!? 『パフォーマンスを保つためなら睡眠は最優先事項だ』って、いつも得意げに言ってるじゃない!」

「……」

 そう追及された瞬間、ハルトが気まずそうにすっと目を逸らしたのを、あかねは空気の揺らぎで察した。ハルトはここ最近、自分の演技の追求や劇伴の編曲、そしてアクアたちの特訓に時間を割くため、自分の睡眠時間を削っていたのだ。

「……私の髪の毛、もう十分乾いたから。ほら、もう十時だし、今夜はすぐ寝ちゃおう?」

 あかねはシュシュを取り出し、サラサラになった長い髪を後頭部でゆるく一つにまとめた。

「……そうだな。お前には敵わないや」

 ハルトは観念したように苦笑すると、ベッドサイドのナイトテーブルに置かれたルームランプのスイッチを切った。

 部屋が完全な暗闇に包まれる。

 二人は静かに大きな掛け布団の中へと滑り込んだ。

 布団の中で、あかねの体がハルトの温かな胸元へとすり寄ってくる。

「ふふっ……」

「なんだよ、あかね?」

「……ううん。やっぱり、すごく嬉しくって。ハルトくんと、こうして二人で静かに過ごせるのが」

「……俺もだよ、あかね。お前がいてくれて良かった。……今夜は、すごくぐっすり眠れそうだ」

 暗闇の中、互いの吐息が交差する。

 触れ合うだけの、優しくささやかな唇と唇のキス。

 そして二人は、布団の中で互いの手をしっかりと繋ぎ合わせ、深い眠りの海へと落ちていったのだった。

 

 ☆ ★ ☆

 

 翌朝。

 あかねが手早く作った出汁の効いた和朝食を二人で平らげると、約束通り朝早くからやってきたみやびの車に乗り込み、病院へと向かった。

 向かったのは、『サン・マネージメント』が提携している総合病院であり、ハルトが普段から定期健診などで利用している信頼できるかかりつけ医だった。

 血液検査、CT、脳の精密検査など、一通りの検査を受けた結果――医師から告げられた診断は、「過度な過労および重度の睡眠不足による一時的な血管性迷走神経反射性失神」というものだった。

 血中成分や脳機能には一切の異常がなく、純粋に疲労が限界を超えたことによる立ちくらみの一種であるという。

 診察室のベッドで点滴を受けながら、ハルトは「ほら見ろー! 俺が言った通りただの立ちくらみだったろ? そら見たことか!」とドヤ顔で言い放った。

 パシッ!!

「……痛っ!?」

 あかねは無言のまま、ドヤ顔のハルトの額を容赦なく一発引っ叩いた。

「調子に乗らないで! 点滴打たれてる時点でアウトなんだからね!」

 午後からは、あかねだけが稽古場へと戻ることになっていた。

 ただでさえ過密なスケジュールで押している集中稽古の期間中、主演級のハルトに加えてあかねまで離脱してしまえば、現場の進行が完全に破綻してしまう。ハルトの側にいたいのは山々だったが、あかねは断腸の思いで劇場へと向かう決断をしたのだった。

 劇場に到着したあかねは、すぐに金田一の元へと向かい、医師からの精密検査の結果を正確に伝えた。

「そうか……過労と睡眠不足か。大きな病気や脳の異常じゃなくて、本当に良かった……」

 金田一は胸を撫で下ろし、目に見えて安堵の表情を浮かべた。

「日野には丸二日、完全に休養を取らせる。稽古場への立ち入りも禁止だ。宮川さんにもそう伝えておいた」

「はい、それが一番だと思います」

 あかねは頷き、金田一と別れて更衣室へと向かった。

 ハルトの無事が確認できたことで安心したあかねだったが、稽古場に入ると、独特の重苦しい空気が漂っていることに気づいた。

 ストレッチを行いながら周囲を観察すると、ハルトという絶対的な柱が突然途絶えたことで、キャスト陣も裏方のスタッフたちも明らかに浮き足立ち、不安と焦燥に呑まれかけているのが見て取れた。

(……ハルトくんが倒れるまでがんばってを、ここまで作り上げてくれた舞台なんだもの)

 あかねは、自分の頬を両手でパンッ!と強く叩いた。

(ハルトくんが二日後にカムバックしてきた時、『俺がいなくても大丈夫だったじゃん』って笑ってもらえるように……それから、私の演技でがっかりさせたりしないように!)

 浅葱色の瞳に力強い意思の光を宿し、あかねは気合いを入れ直して、ストレッチの負荷を強めた。

 ハルトの帰る場所を守るため、彼女の『鞘姫』としての本当の挑戦が、今ここから始まろうとしていた。

 

*1:
いわゆる彼シャツ





そろそろ書き溜めが切れる頃合いです。3章完結後の連載形式はどうしたらいいですか?

  • 書き溜めてから連載再開
  • 週一回の更新で連載を維持
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