あかねのたいよう   作:かぜのこ

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第52回:『ゲネプロ』

 

 十二月十日。

 舞台『東京ブレイド・天魔覆滅編』の初日公演まで、残すところあと五日となった日曜日。冬の澄んだ冷気が窓ガラスを叩く静かな午後のことだった。

 星野家の自室にて、アクアは机に向かい、PCのモニターと黙々と対峙していた。画面に並んでいるのは、『苺プロ』に所属するアイドルグループ『B小町』の公式YouTubeチャンネルにアップロードするための動画編集データだ。

 現在、アクアと有馬かなが舞台『東京ブレイド』の稽古に全リソースを割いているため、アイドルとしてのグループ活動は事実上の休止状態にある。しかし、移り気の早い現代のネット社会において、コンテンツの更新を完全に止めてしまうのは致命的だった。そのため、ルビーとMEMちょの二人がメインとなり、企画動画やトーク動画を裏でこつこつと撮り溜めていたのだ。アクアはその素材を受け取り、合間を縫ってカット作業やテロップ入れといった裏方作業をこなしていた。

 カチカチと静かなクリック音とキーボードの打鍵音だけが部屋に響く中、突如としてバタン!と激しい音を立ててドアが開かれた。

「お兄ちゃん!!」

「……ルビー。ノックぐらいしろと何度も言ってるだろ。勝手に入るな」

 アクアは編集ソフトの手を止め、眉間にシワを寄せながら不機嫌そうにドアの方へ視線を向けた。だが、テンションが最高潮に達しているルビーは、兄の至極もっともな叱責など耳に入っていない様子で、息を荒らげながらズカズカと部屋の奥まで乗り込んでくる。その手にはしっかりとスマートフォンが握られていた。

「そんなことより『東ブレ』のPV、観た!? ねえ、観たの!?」

「ああ……ファイナルPVが公開されるのは今日だったな」

 アクアは椅子の背もたれに体を預け、冷静に答えた。

 先日の衣装合わせの際に撮影された映像をふんだんに盛り込んだファイナルPV。そこでついに全キャストの配役が正式発表され、長らく伏せられていた劇中最大の敵『波旬』役が、あの世界的ストリーマー『HARU』であり、天才作詞作曲家『ソレイユ』でもある日野ハルトだという事実が公に明かされたのだ。

 その絶大なマーケティング効果と世間への衝撃は、目の前で目を輝かせ、興奮のあまり頬を赤く染めている実の妹――筋金入りの『ソレイユ』=ハルトファンであるルビーの姿を見れば一目瞭然だった。

「な、なんで『波旬』役がハルトさんだって、先に教えてくれなかったのよ!!? お兄ちゃんのケチ! 意地悪!」

「守秘義務だ。情報解禁前に親族だからってペラペラ喋れるわけがないだろ。……というかお前、キャスト発表のサプライズを自分で楽しみたいから聞かないって、前にも言ってなかったか」

「うっ……! そ、それはそうだけどぉ……!」

 ルビーは図星を突かれて言葉に詰まり、唇を尖らせてウググと唸った。しかしすぐに気を取り直したように、パッと表情を明るくしてアクアの顔を覗き込んできた。

「じゃ、じゃあさ! 『ソレイユ』――ハルトさんの新曲が出たのは知ってる!?」

「……ハルトの奴が、曲を出した?」

 ルビーの口から出た予期せぬ言葉に、アクアはわずかに眉を動かした。

「歌を歌ったのか? あいつが自らボーカルとして?」

「そうだよ! もう聴いた!?」

「いや……ハルトが歌を歌うなんて話は初耳だな。あいつが歌ったなんて話、稽古場でも一言も聞いてない」

「本当!? やったぁ! じゃあまだ聴いてないんだね! 私、絶対にお兄ちゃんと一緒に聴こうと思って、ずっと我慢してたんだから!」

 胸を張って嬉しそうに語るルビーの姿に、アクアは内心で(相変わらずこういうところは可愛いな……)と小さく毒気を抜かれ、口元をわずかに緩めた。

 アクアはデスクの上のスマートフォンを取り出し、ブラウザを開いた。調べるまでもなかった。ネットのトレンドやエンメニュースのトップは、すでにその話題一色に染まっていたのだ。

『天才コンポーザー・ソレイユ、正体を現しシンガーソングライターとして鮮烈デビュー!』

『劇中歌・主題歌を含む驚愕の3曲同時リリース!』

 画面に踊るセンセーショナルな見出しを目にして、アクアの口から呆れ混じりの息が漏れた。

「三曲同時リリース……? 裏でコソコソそんな真似をしてたのか、あいつは」

 舞台の過酷な殺陣の稽古、劇伴の制作、さらには自身の動画配信活動。それに加えてヴォーカル録音や楽曲プロデュースまで裏で並行してこなしていたとなれば、先日の稽古場で過労により倒れたのも大いに頷けた。無茶苦茶な男だと改めて痛感する。

 SNSのタイムラインを開いてみれば、そこはすでに阿鼻叫喚の坩堝と化していた。ネット上の反響はまさに爆発的で、『HARU』のアンチや「配信者上がりが本格舞台の主要キャストに入るなんて」という批判的な声などは、圧倒的な歓喜と驚愕の波によって瞬く間に押し流されていく。

 ただ、アクアにとって少々意外だったのは、『ソレイユ』の正体が『HARU』=日野ハルトであったという事実に、純粋に驚愕している世間の声が大半を占めていたことだった。

(……ハルトの事務所の公表されている情報。それに使っている音源の癖や、配信で流れるBGMのコード進行、過去の楽曲のクレジットを少し分析すれば、同一人物であることくらい容易に辿り着けるはずなんだがな)

 アクアは冷めた目つきで画面をスクロールしながら、心の中で考察を巡らせる。

 人々は調べるという最小限の手間すら煩わしく感じるのだろう。上辺だけの分かりやすい情報や刺激的な事実に踊らされ、その奥底に隠された本質や真実には関心を示そうとしない。世間の大衆とは常にそういうものだということを、アクアは前世の記憶を含めて嫌というほど理解していた。

「ねぇ、お兄ちゃん! はやくはやく! 早く再生してよ!」

「わかった、わかったからそんなに服を引っ張るな」

 ルビーに腕を揺さぶられ、アクアは苦笑しながら音楽配信アプリを立ち上げた。

 アクアは愛用のワイヤレスイヤホンの片方を外し、ルビーへと手渡す。ルビーは嬉しそうにそれを受け取ると、アクアのベッドの縁に腰掛けた。アクアもデスクチェアをクルリと回転させ、ベッドのすぐ近くへと寄せた。

 イヤホンを互いの耳に装着し、アクアはハルトがリリースしたばかりの三つの楽曲から、まずは一曲目を選択して再生ボタンをタップした。

 一曲目――『狂花水月』。

 イヤホンから流れ出してきたのは、かつて『ソレイユ』が作詞作曲を手掛け、大ヒットを記録したアニメ劇場版『東京ブレイド』のテーマソングのセルフカバーだった。

 重厚な和楽器の調べと、地響きのようなディストーションギターが交錯する疾走感あふれる和ロック。今回の舞台『天魔覆滅編』の劇伴としてもアレンジされて頻繁に使用されているため、連日稽古場で殺陣を合わせているアクアにとっても非常に耳馴染みのあるメロディーだ。

 だが、原曲と決定的に異なるのは、その「声」だった。

 低く艶やかで、それでいて芯の通った澄んだハルトの歌声が、劇中の『波旬』が持つ圧倒的な威厳と底知れぬ狂気を完璧に表現していた。

 続いて二曲目――『真白の月』。

 前曲の疾走感から一転し、静謐で儚いピアノの旋律から始まるバラード曲。こちらは今回の舞台のために新たに書き下ろされた楽曲らしく、どこか冷たく寂寞感に満ちた空気がイヤホンを通して伝わってくる。

 静かに紡がれる切ない歌詞と、消え入りそうなほど繊細なハルトのヴォーカル。

 舞台のシナリオを完璧に把握しているアクアが聴けば、この曲が何を表現しているのかは一目瞭然だった。これは、絶対的な強者である『波旬』に魅入られ、その圧倒的な存在に身も心も虜にされた『鞘姫』――黒川あかねが演じる役の、深く切ない歪んだ心情を歌い上げたものだ。

 そして最後、三曲目――『ファタール』。

 シンガーソングライター・日野ハルトとしてのフラッグシップ曲となるこの楽曲は、ダークで刺激的、そしてどこか危険な香りを孕んだスタイリッシュな ダンス・ロックだった。

 中毒性の高い重低音のリズムに乗せて、鋭利な歌詞が次々と繰り出されていく。

 その曲を聴いた瞬間、アクアの背筋に冷たい電流が走った。

(……これは)

 アクアは目を見開き、イヤホンから流れる歌詞の言葉一つひとつを胸の中で反芻する。

 直感で理解できた。この曲は――ハルトが自分自身(アクア)をモチーフにして書いた曲だ。

 絶対的な光であり、同時に狂おしい呪縛でもある『アイドル』という存在。それに人生を狂わされ、囚われ、救われ、そして壊されていく者たちの悲壮な覚悟。これはハルトからアクアへ投げかけられた、ある種のアンサーソングであり、「人生を狂わせてくれた存在への、狂おしいラブソング」に他ならなかった。

(あいつ……わざわざこんな曲を作りやがって)

 ニヤリと悪戯っぽく不敵に笑うハルトのしたり顔が、アクアの脳裏にはっきりと浮かび上がってきた。胸の奥が熱く焦げ付くような、不快でありながらもどこか心地よい妙な感情が込み上げてくる。

「はぁあああ〜〜〜……っ! 耳が……耳が幸せすぎるぅぅぅ〜〜〜っっ!!」

 イヤホンから響き渡るハルトの美声と圧倒的な表現力に、ルビーはベッドの上で身悶えしながら、自身の両頬を押さえて悶絶していた。

「……まあ、確かに悔しいが、いい声をしてるよな」

 アクアは目を細め、ぽつりと呟いた。ハルトの多才さと、役や人間に対する洞察の深さには、心底脱帽するしかなかった。

「ふぃぃ〜〜〜……堪能したぁ〜〜っ! あとで絶対にハイレゾ音源ダウンロードしなくちゃ! ……あ、そうだ! お兄ちゃん!」

「なんだよ、急に大声を出すな」

「舞台のチケット! ちゃんと私にくれるんだよね!? 私、ファンクラブ先行も一般抽選も落ちちゃったんだからね! 予約してないんだから!」

 ルビーが身を乗り出して詰め寄ってくる。アクアは息を吐きながら、デスクの引き出しから関係者用のチケット封筒を取り出した。

「ああ、分かってる。お前と寿さん、ミヤコの三人分だろ。関係者席を確保してある」

「やったぁぁぁ! ありがとうお兄ちゃん大好き!」

「ルビーお前……現金な奴だな」

「あ、でも、MEMちょはどうするんだろう?」

「MEMは、鷲見ゆき、熊野ノブユキ、森本ケンゴの四人で観に来るそうだ。有馬とあかねの分のチケットでな。ちなみにMEMが有馬で、あと三人はあかねってことなるな」

「『今ガチ』のメンバーだ! なるほどね!」

 ルビーは大事そうにチケットを受け取ると、胸に抱きしめて嬉しそうに微笑んだ。

「舞台、すっごく楽しみ! お兄ちゃん、本番もしっかりやるんだよ!」

「……そうだな」

 妹の純粋な応援を受け、アクアの表情がふっと和らいだ。過去の恩讐や暗い復讐心とは違う、どこか穏やかな笑みがその口元に浮かぶ。

 ルビーはそんな兄の顔をじーっと覗き込むと、ふと何かを思い出したように首を傾げた。

「……ねぇ、そういえばさ。お兄ちゃん、あかねちゃんとハルトさんのこと、いつの間にか下の名前で呼んでるよね? なんかあったの?」

 存外に鋭い妹の指摘に、アクアの身体が一瞬で硬直した。部屋の空気がわずかに緊張を帯びる。

 あの夜、トラウマを発症させて倒れたあの夜。自身の出生の秘密をハルトとあかねに明かし、そして父親(ハルト)との壮絶な斬り合いの末、アクアは確かに解放感を得た。あの夜から、間違いなくアクアの中で何かが変わった。それを明確に言葉にするのはまだ躊躇いがあったが、しかし否定する気にもなれなかった。

 だが――何も知らない、知る必要のない妹に、そんな薄暗いドロドロとした復讐の裏側を明かすつもりは毛頭なかった。

「……別に、何も企んじゃいないよ。ただの共演者から、同じ舞台に立つ『仲間』になったってだけだ」

「ふぅん……有馬先輩はずっと苗字呼びなのに?」

 ルビーの意味深な視線に、アクアの胸の深いところがドクンと疼く。脳裏に一瞬だけ、かつて見たかなの太陽のような笑顔がリフレインする。

 アクアは仏頂面のまま、真意を隠して言う。

「有馬は……有馬だろ」

「それはそう!」

 ルビーはニシシと意地悪そうに笑うと、ベッドから立ち上がった。

「あのね、いつも苦虫を噛み潰したみたいな顔してるアクアより、今のお兄ちゃんの方がずっといい顔してるよ」

「……そうかよ」

 アクアはそっぽを向きながら、冷めた声で短く返した。だが、ルビーが部屋を出て行った後、静かになった室内で、アクアは自分の胸にそっと手を当てたのだった。

 

  ☆ ★ ☆

 

 時は流れ、十二月十四日木曜日。

 『東京ブレイド・天魔覆滅編』の初日開演を翌日に控えたこの日、劇場では最終通し稽古であるゲ(・)ネ(・)プ(・)ロ(・)が執り行われていた。

 ゲネプロは、本番と全く同じスケジュール、同じ衣装、同じメイク、同じ照明や音響演出で、途中で演技を止めずに最後までノンストップで進行される。スタッフワークの最終確認であり、役者たちにとっては明日からの本番に向けた最後の総仕上げだった。

 楽屋裏や舞台袖には、独特の張り詰めた緊張感と、独特の白粉や衣装の匂いが充満している。

 舞台袖の薄暗いスペースで、寄り添うようにして立っている二人影があった。日野ハルトと黒川あかねだ。

 ハルトは漆黒の衣装に身を包み、ウェーブのかかった白い鬘(かつら)と黄金の瞳を際立たせる妖艶な『波旬』のメイクを施している。その隣に立つあかねもまた、鮮やかな銀髪の鬘(かつら)と桃色のカラーコンタクト、儚くも美しい『鞘姫』の着物ドレスを完璧に着こなしていた。

 舞台上では、姫川演じる『ブレイド』と、かな演じる『つるぎ』が、『新宿クラスタ』の仲間たちに向かって、『渋谷クラスタ』との共同戦線を訴える熱い論戦のシーンが繰り広げられている。

 メルト演じる『キザミ』が前に踏み出し、激しい身振り手振りを交えて『渋谷クラスタ』への敵意と葛藤を吐露していた。

「……メルトくん、本当に上手くなったね」

 あかねが舞台上に視線を向けたまま、静かな声で囁いた。

「最初と比べたら、完全に見違えたよな」

 ハルトも腕を組み、舞台上のメルトの動きを目で追いながら頷いた。

「まあ、技術的な演技力自体はまだまだ荒削りだけどな。だが、今のアイツは自分の下手さを理解した上で、泥臭く体当たりで役と向き合ってる。見栄を捨てた男は強いぜ。アイツはこれからもどんどん伸びる」

「うん、私もそう思う。……それに、メルトくんだけじゃないよね。他のみんなも、すごく良い顔をしてる」

「ああ。稽古が始まったばかりの頃とは、現場全体の熱気がまるで違う。これなら明日からの本番も、最高の状態で暴れられそうだ」

 満足そうに口元を緩めるハルト。あかねはその横顔を愛おしそうに見つめ、クスッと微笑んだ。

「ふふっ、ハルトくん、すごく楽しそうだね」

「そりゃあ楽しいさ。こんなに熱くて楽しい現場は、俺の人生でも初めてだよ」

 ハルトは舞台袖の暗がりの中で、あかねへと向き直った。

「同世代の熱い奴らと、互いの演技と表現を全身全霊でぶつけ合う……。そんなこと、大人の相手ばかりしてた子役時代じゃ考えられなかったからな。……それに何より――」

 ハルトは優しく手を伸ばし、あかねの小さく温かい両手を自分の両手でそっと包み込んだ。

「あかねとこうして、同じ舞台の上で芝居ができるのが、何よりも嬉しい」

「……ハルトくん」

 あかねの頬がぽっと赤く染まる。あかねは恋人(ハルト)の大きな手をギュッと握り返すと、うっとりとした、どこか夢見るような表情で彼を見上げた。

「私も……ハルトくんと同じ舞台に立つのが、ずっとずっと、子供のころからの夢だったの。今、夢が叶ってすごく幸せ……」

 妖しく輝く『波旬』の黄金の眼差しと、儚く揺れる『鞘姫』の薄紅色の眼差しが、至近距離で静かに交錯する。

「そう言ってもらえると俺も心底嬉しいけどさ……『鞘姫』の演技、本番でブレたりしないか?」

「大丈夫だよ」

 あかねは力強く頷いた。その瞳には、かつてのように誰かの模倣に依存するのではない、確固たる自分自身の女優としての強い決意が宿っていた。

「私はもう、自分の演技を見失ったりしないから」

 その言葉の瞬間、ハルトの視界が一瞬歪んだ。

 あかねの瞳の奥底に、かつて星野アイが放っていたような圧倒的な天性の輝きとは異なる――もっと静かで、強固で、確かな『金色の星』のきらめきが宿るのを、ハルトははっきりと幻視した。

 ハルトは感心したように息を吐くと、すぐにいつもの意地悪で悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「へえ、頼もしいな。……じゃあ、この後の怒涛の早着替えも、しっかり頑張らないとな?」

「えっ!?」

 一瞬で乙女の顔に戻ったあかねが、驚きで目を丸くする。

 劇中の後半、あかね演じる『鞘姫』は衣装を短時間で着替える『早着替え』の演出が用意されている。事前に関係者や着付けスタッフと何度も練習を重ねてはいたものの、あかねは未だに早着替えに対する苦手意識を払拭できていなかった。本番の舞台裏で着崩れたらどうしようという不安が、どうしても拭えないのだ。

「も、もうっ! ハルトくんの意地悪! こんな時にプレッシャーかけないでよー!」

「あはは、悪かったって!」

 プクーッと頬を膨らませるあかねの頭を、ハルトは衣装を崩さないように優しく撫でた。

 

  ☆ ★ ☆

 

 ゲネプロは順調かつ粛々と進行し、物語はいよいよ終盤――『鞘姫』と『つるぎ』が、主人公である『刀鬼』と『ブレイド』の手によって、波旬の邪悪な呪縛と支配から解き放たれる感動的なクライマックスシーンへと差し掛かっていた。

 舞台袖の出番待ちエリア。

 あかねは、波旬の支配下にあることを示す濃艶な紅黒のドレスを身に纏っていた。そしてそのすぐ隣には、同じく波旬に囚われた『つるぎ』の紅黒のドレスを着た有馬かなが、緊張で少し強張った面持ちで呼吸を整えていた。

 衣装の擦れる音を聞きながら、あかねは以前、ハルトの自宅で二人きりで交わした会話を静かに思い返していた。

『アクアの奴はな、典型的なサバイバーズ・ギルトに囚われてるんだよ』

 あの夜、ハルトは静かな声でアクアの心の闇を分析していた。

『サバイバーズ・ギルト?』

『死を伴うような過酷な状況から、自分だけが生き残ってしまった時に感じる強い罪悪感や自責の念のことだ。「なぜ自分が生き残った」「あの人の方が生きるべきだった」と自分を責め続ける、強いPTSD反応の一つだよ』

 ハルトの悲しげな言葉が、あかねの胸を締め付けた。

『周りの大人どもも何をしてんだか。まあ、ミヤコ社長のことは責められねぇよ、女手一つで孤児の双子を育てて事務所を立て直したんだからな。だが……苺プロの前社長の斉藤一護、あいつは何なんだ? 看板タレントだったアイを亡くして一番苦しい時期に、妻を捨てて蒸発とか理解に苦しむぜ』

『あとは映画監督の五反田か。幼少期からアクアを側で見ておいて、あいつが父親への復讐に狂ってるのを知ってるのか知らないのか……もし知っていて放置したり、復讐の手助けをしてるなら、大人としてもっと他にやるべきことがあるだろ』

 ハルトは深いため息をつき、あかねの肩を抱き寄せた。

『話が逸れたな。ともかく、そんな壊れかけた奴が、文字通り己の身を削って命がけで芝居をしようとしてるんだ。なら、俺たちが先達として全力でバックアップしてやらなきゃならねぇ。あかね、お前がこの舞台で何をすべきか、分かるか?』

『うん。ハルトくんが〝父親〟としてアクアくんの復讐心を受け止めるなら……私は〝母親〟として、アクアくんを包み込んで助けてあげる。『鞘姫』の芝居を通して、『もしも死ななかったIFのアイ』を演じる……そうだよね?』

『大正解(Exactly)、はなまるを上げよう! これは他の誰でもない、アイの思考をトレースできるあかねだからこそできる演技だ。……頼むぞ、あかね。あいつの抱えた心の闇を、少しでも晴らしてやってくれ』

『うん! 任せて!』

 あの夜の約束通り、あかねは稽古の中でこの解放シーンを演じる際、毎回『もしも生きていた場合のアイ』の無償の愛を込めた演技を提示し続けてきた。

 あかねが包み込むような愛の演技を注ぐことで、アクアが過去のトラウマに深く没入しすぎて精神を崩壊させないよう、安全装置としての役割を果たしてきたのだ。

 その甲斐あって、現在のアクアはトラウマとの付き合い方の加減を掴みつつあった。稽古中、感情を爆発させた後に額に脂汗を浮かべ、苦しそうに呼吸を乱すことはあっても、以前のように過呼吸で崩れ落ちるような最悪の事態には陥っていない。

 だが――本番の舞台は、稽古場とは何もかもが違う。

 超満員の観客から放たれる圧倒的な熱量、ライトの光、共演者たちの本気の熱演。それらにあてられ、アクアがタガを外して限界を超えて踏み込んでしまう可能性は、十分に考えられた。アクアは同年代の誰よりも賢く冷静な男だが、舞台役者としてはこれが人生初の「本番」なのだから。

(……大丈夫。私が、絶対にアクアくんを受け止めてみせる)

 あかねはドレスの裾を強く握りしめ、カラーコンタクトの奥に隠された浅葱色の瞳に強い決意の光を宿した。

(私がちゃんと、あの子を光のある場所へ導いてあげなくっちゃ)

 舞台上から合図の照明が照らされ、出番を告げる重低音が響く。

 来たる明日の初日本番を前に、黒川あかねは女優として、そして一人の人間として、静かに舞台の中央へと足を踏み出していった。

 

そろそろ書き溜めが切れる頃合いです。3章完結後の連載形式はどうしたらいいですか?

  • 書き溜めてから連載再開
  • 週一回の更新で連載を維持
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