【第一幕:輪廻する劇場と零の咆哮】
【第一節:客席の熱気と交錯する視線】
開場を告げる重厚なベルの音が、巨大な空間の空気を微かに震わせた。
円形劇場の内部は、足を踏み入れた者すべてを異世界へと引きずり込むような特異な熱気と緊張感に満ち満ちていた。中央に鎮座するのは、およそ1,300の座席を擁する広大な客席ブロックである。この劇場最大の仕掛け――舞台の進行に応じて円形客席そのものが360度緩やかに回転し、周囲を完全に囲み込むサラウンドステージ、超巨大スクリーン、縦横無尽に配置された照明機器や立体音響スピーカーと融合するダイナミックな機構が、開演前の薄闇の中で静かに目覚めの時を待っていた。
客席の各所では、開演を待ちわびる観客たちの囁き声が重なり合い、心地よいざわめきとなって天井へと上っていく。
「うわぁ……! すごいねみなみ、席がゆっくり動くんだって! 舞台が全方向にあるなんて、どこを見たらいいか迷っちゃうよ!」
星野ルビーは、指定された座席に腰を下ろすなり、目を輝かせて全周を見回した。隣に座る寿みなみは、手元のパンフレットを丁寧に広げながら、どこか落ち着いた、けれど確実に興奮を秘めた笑みを浮かべる。
「ほんまになぁ。うちも色んな舞台観てきたけど、こんなスケールの大きいところは初めてやわ。アクアくんも有馬先輩も、こんなすごい舞台に立っとるんやね」
ふたりの少し後ろ、保護者のような面持ちで座っている斉藤ミヤコは、背もたれに身体を預けながら、感無量の面持ちでステージを見つめていた。
「アクアが関係者席を用意してくれて助かったわ……。それにしても、まさかあのハルトくんの演技を生で観られるなんてね。子役の時からずっと応援してきた甲斐があったわ。今日のハルトくん、どんな芝居を見せてくれるのかしら……」
ミヤコの声には、芸能プロダクションの社長としての眼差し以上に、一人の熱心なファンとしてのときめきと期待が色濃く滲み出ていた。
一方、関係者席の少し後方、一般客の視線を適度に遮る位置には、『今からガチで恋始めます』であかねやアクアたちと共演した者たちの姿があった。
「うっわ、緊張してきた……! 観てるだけの私がなんでこんなドキドキしてんのよ!」
MEMちょは両手を胸の前で握りしめ、座席の中で小さく身体を揺らしながら、暗い舞台へと視線を注いでいる。
「大丈夫だよ、MEMちゃん。あかねちゃんは、この日のために血のにじむような稽古をしてきたんだから」
MEMちょの隣で優しく声をかけたのは、鷲見ゆきだった。だが、彼女の差し出す言葉とは裏腹に、ゆき自身の指先も膝の上でわずかに強張っている。その異変に気付いたのは、ゆきの隣に腰掛けていた熊野ノブユキだった。ノブユキは周囲の目を盗むように、そっとゆきの手に自分の手を重ねた。ゆきは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに安心したように息を吐き、ノブユキの手をぎゅっと握り返す。ふたりの密かな熱量は、これから始まる壮絶な物語への静かなプレリュードのようでもあった。
さらにMEMちょを挟んだ反対の席では、森本ケンゴが腕を組み、鋭い視線でステージの構造を確認している。
「照明の配置と客席の回転軸……演出家の意図が透けて見えるな。役者にかかる負荷は並じゃないはずだ」
ケンゴの呟きに、ノブユキは短く「ああ」と応じ、舞台袖の気配に集中した。
さらに客席の後方、演出家やプロデューサー陣が並ぶ関係者エリアには、独特の異彩を放つ面々が陣取っていた。
五反田泰志監督は、深く座席に身体を沈め、煙草を吸いたい衝動を抑えるように腕を固く組んでいた。彼の鋭い眼光は、舞台の細部、照明の角度一つに至るまでチェックしている。
「……アクア。お前がどんな顔をしてこの舞台に立つのか、見せてもらうぞ」
五反田の隣には、原作者である鮫島アビ子と、その師である吉城寺頼子の姿があった。アビ子は膝の上に抱えたスケッチブックを白くなるほど強い力で握りしめ、前傾姿勢で舞台を見つめている。
「……私の描いた世界が、文字通り動き出す……。あかねさん、『鞘姫』を……私の『鞘姫』を頼みます……」
「落ち着きなさい、アビ子ちゃん。呼吸忘れてるわよ」
吉城寺頼子が苦笑しながらアビ子の背中を優しく叩く。だが、吉城寺自身の瞳にも、劇中劇の完成度に対する並々ならぬ期待と緊張が宿っていた。
さらに離れた場所には、プロデューサーである鏑木勝也が腕を組み、緞帳の降りた舞台にじっと透徹な視線を向けている。
静寂が、ゆっくりと客席を侵食していく。
照明が一段と落ち、劇場全体が深い夜の底へと沈み込んでいくような感覚に包まれた。
開場の時間を告げるチャイムが消え去り、完全なる闇が訪れる。
――始まりの刻だった。
【第二節:序幕、青き月の慟哭】
暗転した空間に、冷たい風の音が響き渡る。
吹き荒れる風鳴りは単なる背景音を超え、空間そのものの温度を奪っていくかのように、冷気となって肌を刺した。
ゆっくりとスポットライトが灯る。青白い、氷のように冷徹な月の光が落ちた先には、満開の桜と無残に崩壊した都市の廃墟が広がっていた。
『新宿クラスタ』と『渋谷クラスタ』の過酷な抗争によって踏みにじられたビル群。コンクリートの破片や折れ曲がった鉄骨が転がる景色の中心に、一人の少女が立っていた。
黒と銀を基調とした高貴な和装を身に纏い、美しく艶やかな銀髪を夜風にたなびかせる少女――『鞘姫』である。
『鞘姫』は佩いた刀の柄にそっと手を置き、憂いに満ちた瞳で夜空を見上げていた。その立ち姿一つで、彼女が背負う運命の重さと、心の奥底に抱える孤独が、空間の隅々にまで伝わっていく。
『……刀鬼。どうして、解かってくれないの……』
絞り出すような、けれど鈴の音のように澄んだ声が響く。
同じ『渋谷クラスタ』の仲間であり、誰よりも大切に想っている『刀鬼』。彼との決定的な意見の相違、相容れぬ戦いの哲学に、彼女の心は千々に乱れていた。吐息の震えや、握りしめた拳の微かな開閉が、彼女の葛藤を痛々しく物語る。
『鞘姫』は独り、仲間から離れるようにして廃墟の深くへと足を進める。哀愁を帯びた足取りが、破片を踏み鳴らす。
その時だった。
『――物憂げなようだね、君』
たった一言。
そのひ言が放たれた瞬間、空間の重圧が一変した。
観客の誰もが、肺に含まれた空気を凍りつかせたかのように息を呑んだ。
声の主――『波旬』が放ったその声は、物理的な質量と容赦のないプレッシャーを伴って、全1,300席の客席を根底から揺さぶったのだ。
氷のように冷たく、けれど聴く者の魂を甘美に狂わせるような艶と絶対的な威厳を孕んだ声。
超常の存在が発する異様なまでの重力を全身で感じ取り、関係者席の鷲見ゆきは思わず息を呑んで体を固くし、隣に座る熊野ノブユキの手を強く握りしめた。ノブユキもまたその力強さに、ステージから放たれる気迫の凄まじさを察して表情を強張らせる。
暗がりから、カツン、カツンと足音を響かせて一人の男が姿を現した。
漆黒の地に紅の刺繍が施された重厚な装束。緩くウェーブした骨のように白い髪はオールバックに撫でつけられ、透き通るような白皙の相貌には、人間を嘲笑うかのような不可解なアルカイックスマイルが浮かんでいる。そして何より、その瞳――妖しげに金色に光る瞳孔が、夜の闇を裂いて『鞘姫』を射竦めていた。
『な、何者です……っ!?』
『鞘姫』の声が裏返る。正体不明の存在に対する警戒と、相手が放つ本物の「圧倒的格上」の存在感に対する、身体感覚的な怯え。気高き剣姫は瞬時に身構え、刀の鯉口を切る。
『『渋谷クラスタ』の『鞘姫』だね』
『波旬』は一歩、また一歩と優雅に歩み寄る。その足取りには一切の隙がなく、踏みしめる地面すら彼を恐れているかのようだった。
『何者だと……聞いているのです!』
耐えかねた『鞘姫』が、一閃。
幼少より鍛え上げられた流麗な身体技法が生み出す、閃光のような踏み込み。白刃が夜気を引き裂き、『波旬』の首元を目がけて走り抜ける。
だが――。
ガキン、と金属同士がぶつかり合うような重い音が響いた。
『そう宣るな。耳に障る』
『なっ……!?』
観客は自分の目を疑った。
『鞘姫』が放った渾身の太刀筋を、『波旬』は左の素手、ただの素手で容易く受け止めていたのだ。刃は『波旬』の掌を寸分も傷つけることなく、その威力を完全に殺されていた。
『波旬』は慇懃無礼で高圧的な笑みを崩さず、ゆっくりと顔を上げた。その言葉遣いは、聞く者の尊厳を容易く踏みにじるような冷酷な響きを孕んでいる。
『私は『波旬』……愚かなる君たち人間に、真の安寧を与えるものだよ』
グッ、と握りつぶさんばかりの恐ろしい力で刀を引き寄せ、『波旬』は『鞘姫』の顔と顔が触れ合うほどの至近距離まで間合いを詰めた。
『鞘姫』の視界は、縦に割れた金色の瞳孔によって塗りつぶされる。蛇に睨まれた蛙のように、言葉すら喉に閊えて出ない。彼女の心の奥底、誰にも見せたことのない闇へと、『波旬』の艶やかな声が滑り込んでいく。
『……その様な感情を抱えていて、辛くはないかい、『鞘姫』』
『なっ、何を言っているのです!!』
『鞘姫』は必死の力で刀を振り解き、大きく後ずさった。刀を青眼に構え直すものの、その刃先は小刻みに震え、美しかった相貌は苦痛と動揺に引き攣っている。
『波旬』は構えを取るでもなく、ゆったりと手を広げた。
『仲間との不和、敵手への対抗心、そして……叶わぬと解っている恋心……』
『っ!?』
『鞘姫』の肩が激しく跳ねる。
『ヒトの心、特に愛憎というのは実に厄介なものだ。君ら人間は、その様な無益な物に振り回されて未来永劫争い続けている……愚かとは思わないか?』
言いながら、『波旬』は腰に差した漆黒の打刀を緩やかに抜き放った。
黒い刀身に、まるで生血を吸ったかのような紅い刃文が浮かび上がる2尺4寸の刀。『他化自在天』――その異形の刃を、彼は構えることすら拒むように、だらりと下間に下げている。
構えのない構え。それは、どんな攻撃であっても即座に対処できるという絶大なる自信の現れに他ならなかった。『鞘姫』は悔しさに眉を顰める。
『はあああっ!!』
『鞘姫』の裂帛の咆哮が廃墟に轟いた。
地を蹴り、舞う。日本舞踊の極意である下半身の揺るぎなさから繰り出される斬撃は、まるで一輪の美しい花が狂い咲くかのような華麗さと鋭さを誇っていた。
対する『波旬』は、薄ら笑いを浮かべたまま動かない。
足運びを極力排し、まるで重力から解き放たれて浮遊しているかのような異様な剣技。『鞘姫』が繰り出す苛烈な斬撃の数々を、『波旬』は刀の腹で軽やかにいなし、受け流し、時に最小限の体さばきだけでかわしていく。
『ほう……舞うように華麗な太刀筋だね、
『くっ、馬鹿にして!』
どんなに刃を振るっても、空を切るか、冷たい金属音とともに弾き返されるだけ。『鞘姫』の相貌に、隠しきれない焦燥感が滲み出始める。呼吸が乱れ、額に白い汗が浮かぶ。
『純粋に褒めているのだけれどね。……ふむ、『鞘姫』、君の美しさは私の〝鞘〟として相応しい。その名の通りにね』
『あっ!?』
太刀筋をいなされ、『鞘姫』の体勢がわずかに前傾した――ほんの一瞬の虚。
『波旬』はその隙を見逃さなかった。一切の予備動作、剣術における『拍子』を完全に排した神速の踏み込み。
次の瞬間、『波旬』の手元から不気味な紅いオーラが溢れ出した。零本目の〝盟刀〟である『他化自在天』の威力を模した不可視の刃――〝影打〟。
『波旬』はその〝影打〟を、『鞘姫』の胸元へ向けて容赦なく突き立てた。
『うぐっ……あ……あああああっ……!?』
絶叫。
空間を切り裂くような、悲壮感に満ちた痛みの悲鳴が轟いた。
『鞘姫』の全身が激しくのぞけ反り、瞳から光が消え去っていく。『他化自在天』の分け身を通じて打ち込まれる不可解な負の力。それに心を侵食されていく恐怖、抗うことの許されない絶対的な絶望が、彼女の表情を無惨に歪めていく。
『あ……ぁ……』
やがて、絶叫は小さく途切れがちな喘ぎとなり、『鞘姫』の膝から力が抜けた。
胸に埋め込まれた影打の紅い光が脈動し、彼女の意識を深い闇へと引きずり込んでいく。
倒れ伏す華奢な身体を、『波旬』が腕一本で冷酷に、けれどどこか愛おしむように抱きとめた。
『波旬』は満足げにアルカイックスマイルを深め、崩れ去る『鞘姫』の髪にそっと指を滑らせる。
暗転。
重い静寂が劇場を包み込み、序幕が終わりを迎えた。
【第三節:客席の戦慄と第一幕の開戦】
照明が落ちた暗闇の中で、観客席のあちこちから「はぁ……」と溜息とも悲鳴ともつかない息が漏れた。
息を詰めて見入っていた観客たちは、生身の役者たちが舞台上で放つ圧倒的な気迫と、支配され奪われていく痛々しいほど生々しい演技のリアルさに、本気で圧倒されていた。客席の森本ケンゴは深く腕を組み、舞台袖の気配に集中したまま息を吐き、ノブユキも顔を硬く引き締めて舞台中央の暗がりを見つめている。
客席の興奮と戦慄が冷めやらぬまま、舞台は『第一幕』へと突入する。
明かりが灯ると、そこは明るく活気のある『新宿クラスタ』の拠点だった。
『ブレイド』、『つるぎ』、そして仲間たちの軽妙なやり取りと日常風景が描かれる。つい先ほどの重苦しい雰囲気から一転したテンポの良い展開に、観客はほっと息をつく。
しかし、その平穏は長くは続かない。
突如として響き渡る警報音と、地鳴りのような重低音。
建造物が爆発とともに崩れ去り、煙の中から姿を現したのは――紅黒の歪みなき支配のオーラを纏った『波旬』、そして、その傍らに虚ろな瞳で佇む『鞘姫』の姿だった。
『なっ……『鞘姫』、お前、なんで!?』
『つるぎ』の叫びも虚しく、『波旬』の冷徹な一言が下される。
『殺し給え』
『はい、貴方様』
『鞘姫』の瞳に一瞬だけ赤い光が宿り、彼女は機械的な動作で刀を抜いた。
乱戦の火蓋が切って落とされる。
『ブレイド』と『つるぎ』、そして『波旬』と『鞘姫』の4人による、目眩くようなハイスピード殺陣。時にワイヤーアクションを用いたダイナミックな戦いが、観客を魅了する。
『つるぎ』と、支配された『鞘姫』の一騎打ち。互いに譲らぬ最高峰の剣技が激突し、金属音が激しく火花を散らす。二人の殺陣は、長年の宿敵であり理解者であるかのような異常な息の合い方を見せ、観客の目を釘付けにした。
そして、中央では『ブレイド』と『波旬』が対峙していた。『ブレイド』の必死の斬撃を、『波旬』は最小限の動きで軽々と捌いていく。圧倒的な格の差。さらに、対手を『鞘姫』と交代し、『つるぎ』と切結んでいた『波旬』は突然彼女を掴むと、『鞘姫』との攻防に注視していた『ブレイド』へと投げつける。
『つるぎ!』
『ごめん、ブレイド……! っ、来るぞ!』
咄嗟に『つるぎ』を受け止めた『ブレイド』へ猛然と斬りかかる『波旬』と、バックステップから斬撃を繰り出す『鞘姫』のコンビネーション。隙のない連携によって、『波旬』側の絶対的な優位性が完璧に表現されていく。
激しい攻防の最中、『波旬』は刀を打ち払いながら、朗々とその出自を語り始めた。
『知るがいい、愚かなる剣士どもよ。定命のものどもよ。私が何者であるかを……!』
『波旬』の声が劇場全体を震わせる。
『私は、始まりの刀……二十一の〝盟刀〟を生み出すための試作品であり、零本目の刀『他化自在天』の化身なのだよ!』
衝撃の事実。観客が息を呑む中、『波旬』の言葉はさらに熱を帯び、冷酷な哲学へと昇華していく。
『古来より続く、この血生臭い殺生と無益な争い……人間どもは盟刀の力を求め、己の欲望のままに刃を交えてきた。愛ゆえに怒り、憎しみゆえに人を殺す! 人の持つ心……特に『愛憎』こそが、この世界に永遠の争いを呼ぶ源悪なのだ!』
『波旬』は『ブレイド』の胸元を刀の柄で強く打ち据え、後ろへと弾き飛ばした。
『ゆえに私は決意した。二十一の盟刀をすべて我が手中に収め、その力をもって全世界の人々の心を『隷属』する! 心を封じ、諸君ら人々が執着する愛憎を消し去ることこそが、人間に与えられる唯一絶対の安寧なのだよ!!』
その確信に満ちた悪の哲学。
客席のMEMちょは、ゾクゾクとするような恐怖と共に肌が泡立つような鳥肌を立て、その舞台中央に放たれる圧倒的なダークヒーローとしてのカリスマ性と存在感に息をのんでいた。
『波旬』は倒れ伏す『ブレイド』を見下ろし、つまらなそうに刀を納めた。
『……ふむ。君の筋は悪くない。『特記戦力』として記憶しておこう。ここで首を落とすには惜しい』
『波旬』は言葉を切り、『鞘姫』の肩を抱き寄せた。
『行くぞ、『鞘姫』』
『……はい、貴方様……』
完全に支配されたはずの『鞘姫』。だが、彼女が『波旬』に従って歩み出すその瞬間、頬を伝って一筋の透明な涙がこぼれ落ちた。僅かに残った彼女の正気が、自らの運命と仲間への申し訳なさから流させた涙。その一瞬の細やかな表情の変化に、観客の胸は強く締め付けられた。
二人が去った後、打ちのめされた『ブレイド』は激しい悔しさに叩きつけられる。
強大すぎる敵『波旬』に対抗するためには、因縁ある『渋谷クラスタ』との協力が不可欠だと悟った『ブレイド』は仲間たちに訴えるが、『キザミ』をはじめとする仲間たちは「あんな奴らと組めるか!」と猛反発し、去ってしまう。
孤立した『ブレイド』と『つるぎ』は、それでも諦めず、単身『渋谷クラスタ』の縄張りへと向かうのだった。
【第四節:折れた意地と第一幕の終幕】
一方、暗躍する『波旬』は、未だ完全に心が屈していない『鞘姫』の抵抗感を根底から折るため、酷虐な謀略を実行に移していた。
『渋谷クラスタ』の拠点。
突然現れた『鞘姫』の姿に、彼女を誰よりも慕う『刀鬼』は歓喜する。だが、その期待は瞬時に絶望へと変えられた。
『鞘姫』が無言のまま刀を抜き、『渋谷クラスタ』の仲間たちに襲いかかったのだ。
『なっ……何をやってるんだ、『鞘姫』っ!? 俺たちだぞ!』
『刀鬼』の叫びは届かない。『波旬』の影打によって操られた『鞘姫』は、冷酷な精度でかつての仲間たちを斬り伏せていく。『波旬』は高みの見物を決め込み、愉悦に満ちた表情でその光景を眺めていた。
『さあ、『鞘姫』。君の手で、君の大切な者たちを傷付けるがいい。そうすれば……君の無用な抵抗心も、
『刀鬼』と『鞘姫』の対決。
敬愛する『鞘姫』に対して、刀を向けることなどできるはずもない『刀鬼』。彼は一切の反撃を捨て、ただ『鞘姫』の刃を受け続ける。
『目を覚ましてくれ……『鞘姫』っ!!』
『鞘姫』の繰り出す鋭い斬撃が、『刀鬼』の身体を切り刻んでいく。その殺陣は凄惨さを増し、機械的な冷徹さの裏に、操られている自身の肉体に対する哀しみが透けて見えるような、絶妙な引き裂かれ方を描いていた。
一方的に嬲られ、血みどろになって崩れ落ちる『刀鬼』。
そこにようやく『ブレイド』と『つるぎ』が駆けつけるが、すでに惨劇は終わっていた。
『ふむ……やはり執着する者たちを殺し切るには至らないか。まあ、余興としてはこのくらいでいいだろう。引き上げるとしようか、『鞘姫』』
『はい……』
『波旬』の声に応え、『鞘姫』は刀を納めると、『刀鬼』に振り返ることもなく立ち去っていく。
地べたに這いつくばる『刀鬼』の指先が、何もない空を虚しく掴む。去り行く『鞘姫』の背中は暗闇へと溶け込み、後には惨劇の残骸と、冷たい静寂だけが残されていた。
その指先が力なく床に落ちかけた瞬間――響き渡る心音の重低音とともに、時間は静かに巻き戻る。
『――綺麗な太刀筋だな、『鞘姫』』
重なる刀と刀の、澄んだ澄んだ金属音。
まだ崩壊する前の『渋谷クラスタ』の練兵場。陽の光が柔らかく差し込むその場所で、若き日の『刀鬼』と『鞘姫』が木刀を交えていた。
幼少期から身につけた日本舞踊の身体技法を応用し、まるで水面を滑るように流麗に舞う『鞘姫』。その華麗な剣技に、『刀鬼』は息を呑み、魅せられていた。背中を追いかけ、隣に立ちたいと願った日々。自分にとって絶対に守るべき光、絶対に失ってはならない大切な存在――彼女の笑顔こそが、『刀鬼』が戦う唯一の理由だった。
場面が滑らかに切り替わる。
『渋谷クラスタ』の仲間たちが集う賑やかな日常。たわいない会話に花を咲かせ、時に冗談を言い合いながら笑い合う仲間たち。その輪の中心にはいつも、静かに微笑む『鞘姫』がいた。貧しくも温かい、確かな絆がそこにはあった。
だが、その平穏は『新宿クラスタ』との抗争の激化によって、音を立てて脆くも崩れ去る。
作戦会議の場。激しい怒気と緊迫感が空気を支配していた。
『――奴らを叩く! 『新宿クラスタ』を根絶やしにしなければ、我らに安寧など訪れん!』
強く拳を握りしめ、強硬姿勢を崩さない『刀鬼』。しかし、仲間たちの最前に立つ『鞘姫』の表情は、どこか痛ましげに歪んでいた。
『……待ってください。これ以上の無用な流血は、誰も望んでいません』
『何を甘いことを! 相手はあの『ブレイド』だぞ! 容赦などすれば、こちらが食われる!』
『……私には、彼らに刃を向けられません』
『鞘姫』の小さな、けれど震える声。その瞳の奥に揺れる、隠しきれない躊躇い。
『刀鬼』の胸に、鋭い刺創のような疑念が走る。
『……まさか、君は……敵手であるあの男に……『ブレイド』に、情でも移したというのか!?』
『違います! 私はただ――』
『言い訳はいい! なぜ奴を庇う! 宿敵に恋心などという狂気を抱いて、我らの仲間を危険に晒すつもりか!!』
鋭く突き刺さる言葉の刃。自分の最も大切で、何よりも護り抜かなければならないはずの存在が、自分の手の届かない場所へと離れていく恐怖。『刀鬼』の強硬な抗弁の裏にあったのは、純粋な激怒ではなく、執着と恐怖に満ちた悲痛な焦燥だった。
胸を痛め、言葉を失った『鞘姫』は、絶望の表情を浮かべて独り、練兵場を飛び出していく。
――それが、二人の最後の会話だった。
あの対立があったからこそ、『鞘姫』は一人で廃墟へと向かい、『波旬』の影打に心を奪われることになってしまったのだ。
回想の青い光が掠れていく。
練兵場の温もりも、仲間たちの笑い声も、過去の後悔も、すべてが容赦なく霧散していく。
光が戻り、舞台は再び血と泥に塗れた惨劇の地獄へと引き戻された。
転がっているのは、かつて共に笑い合った『渋谷クラスタ』の仲間たちが血に濡れて倒れ伏している。そして、自らの手で『鞘姫』を止められず、その背中を見送ることしか出来なかった己の無力さ。
二人の出会い。重ねた稽古。守りたかった日常。そして、すれ違いの果てに自らの言葉が彼女を追い詰めたという過酷な現実。
それら全ての記憶が走馬灯のように頭を駆け巡り、『刀鬼』の胸を内側から引き裂く。
「あ……あああ……『鞘姫』……っ! 『鞘姫』ぁぁぁぁぁっっっ!!」
かつて守ると誓った存在を奪われ、すべてを失った男の、魂を削り出すような血の慟哭。
その絶叫が劇場の天井に重く響き渡り、やがて滑らかな闇へと飲み込まれていく。
血と泥に塗れた『刀鬼』の慟哭を余韻に残したまま、舞台上の照明が滑らかに落ちていった。
重い、重い暗転。
第一幕の幕が、静かに下りた。
【第五節:幕間の鼓動(インターミッション)】
劇場内にインターミッションを告げるブザーが鳴り響き、客席全体の明かりがゆっくりと灯った。20分間の休憩時間である。
客席は一瞬の静寂の後、爆発したかのようなざわめきに包まれた。
「うそ……第一幕だけでこの満足感……!?」
「刀鬼の最後の叫び、胸が締め付けられたよ……」
「波旬って敵、凄まじすぎない? あんなのどうやって勝つんだよ!」
観客たちが口々に興奮を語り合い、休憩を取るためにロビーへと向かって立ち上がり始める。第一幕ラストの圧倒的な絶望感と、この先どうなってしまうのかという
ロビーへ向かう観客の波の中、五反田は深く腕を組み、煙草の箱を弄りながら静かに口を開いた。
「……恐ろしいな。日野ハルトの『波旬』が放つ重力が、完全に1,300人の呼吸を支配していた。それに、黒川あかねの『鞘姫』だ。回想で見せた本来の気高さと舞の美しさがあったからこそ、影打に支配された絶望と悪堕ちへの前振りが完璧に効いている」
隣で鮫島アビ子も熱っぽく拳を握りしめ、前傾姿勢のまま感極まった声で呟いた。
「私の……私の解釈以上の『鞘姫』がそこにいます……! あかねさんの舞うような殺陣、完璧です……!」
吉城寺頼子も深く頷き、感嘆の息を漏らす。
「有馬かなちゃんやアクアくんも、あの二人が作る空気に見事に食らいついているわね。第一幕としては文句なしの出来だわ」
観客の流れていくロビーでは、鏑木が壁に凭れ掛かり思案していた。
「あれが、日野ハルトか……彼が再び表舞台に舞い戻るとなれば、これからの芸能界は間違いなく荒れるだろうな」
海千山千の妖怪が犇めく業界を生き抜いてきた男が、日野ハルトという巨星の到来に戦慄を禁じ得ないでいる。
一方、舞台裏のバックステージ。
「はぁ……はぁ……っ」
暗転と同時に、舞台袖へと下がってきたハルト、あかね、アクアの3人。
スタッフが素早く駆け寄り、タオルとスポーツドリンクを手渡す。
「ふぅ……」ハルトは軽く息を吐きながら汗を拭い、あかねに向き直った。
「あかね、大丈夫か? 序幕の〝影打〟のシーン、すごい気迫だったぞ」
あかねはドリンクのストローから口を離すと、いつもの穏やかな笑顔を見せた。けれど、その瞳の奥にはまだ覚醒した役者としての熱が宿っている。
「うん! ハルトくんの『波旬』の圧がすごかったから、自然と引き出してもらえたよ。客席の空気、完全に止まってたの分かった?」
「ああ」と、アクアがタオルで首筋を拭いながら会話に加わる。「客席の呑まれ方、想定以上だった。特にハルトの『零本目』の演説の時、1,300人の集中が一点に集まってたな。第一幕としては完璧な手応えだ」
「よし……! このまま第二幕も一気に呑み込むぞ」
ハルトが力強く頷く。
「あかねちゃん、衣装替えの時間だよー! 急いで!」
衣裳スタッフの声がかかり、あかねは「はーい!」と元気よく返事をした。
第二幕、あかね演じる『鞘姫』は、完全に『波旬』の支配下に入り、その姿を大きく変貌させる。紅黒のヴァンパイア・ゴシック風ドレスへの着替えと、それに合わせたダークで艶やかなメイク直し。第一幕の純白で気高き和装の姫君から、美しくも禍々しい
あかねが楽屋へと向かう背中を見送りながら、ハルトもまた自身の衣装の乱れを整え、冷たい水を一口含んだ。
(観客の反応は上々だ。だが……第二幕からはさらに展開が加速する。『つるぎ』の大立ち回り、そして『呪胎伏魔殿』での最終決戦へ……。一瞬も気を抜けない)
ハルトは瞳を閉じ、静かに『波旬』としての集中を高めていく。
20分間のインターミッションの裏で、役者たちの熱量は冷めるどころか、第二幕という更なる熱狂に向けて確実に高まり続けていた。
そろそろ書き溜めが切れる頃合いです。3章完結後の連載形式はどうしたらいいですか?
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書き溜めてから連載再開
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週一回の更新で連載を維持