カーテンコールが終わり、重厚な絨毯の緞帳が完全に下り切ってもなお、客席を震わせる万雷の拍手と歓声は止む気配を見せなかった。
熱狂の余韻が渦巻く客席の最裏手、関係者席の影に深く腰掛けた五反田泰志は、腕を組んだまま、静かに息を吐き出した。煙草の火をつけたい衝動をかろうじて抑え込み、眼下に広がる空虚となった舞台を見つめる。
「……たく、やってくれたもんだ」
ぽつりと呟いた独白は、喧騒の中に瞬く間に呑み込まれていく。
脳裏に焼き付いているのは、壇上で殻を破ってのけた星野アクアの表情だ。アイを失った後、どこか己の感情を殺し、冷めた瞳で作品を俯瞰していた少年。復讐という暗い情念に縛られ、自らの殻の中に閉じこもっていたアクアが、今日の舞台では仲間と真っ向から殺陣を交わし、解き放たれたように芝居を楽しんでいた。
人としての殻を破り、役者として飛躍的な成長を遂げたその姿は、映画監督としての五反田にとって至上の喜びに違いなかった。しかし――同時に、胸の奥を刺すような小さな後悔が押し寄せる。
(俺が……監督である俺が、アイツをあそこまで引っ張り上げてやれなかった。あいつの暗い怨念を解きほぐしてやれたのは、俺じゃなく舞台の仲間たちだったってわけだ……)
自嘲気味に息を吐き出し、視線を少し滑らせる。次に浮かんできたのは、『つるぎ』を演じきった有馬かなの姿だった。
かつて重宝された「重宝される子役」としての枠組みを自ら食い破り、舞台上で解き放たれた圧倒的な存在感。かつて業界を席巻した『
(有馬かな……やはりあの娘の才能は底が知れん。一度周囲を喰らい尽くすような自我を取り戻せば、どんな舞台装置もかすむほどの光を放つ。……見事な復活劇だ)
そして、五反田の思考は、その隣で異彩を放っていた黒川あかねへと向けられる。
『鞘姫』の凄絶な死と再生。ただ主役を引き立てるだけのヒロインではなく、舞台全体の空気感を支配し、共演者の潜在能力を極限まで引き出す完璧な受けの芝居。
(黒川あかね……。劇団ララライのプロファイリング役者。最初は他の役者と同じく、エゴの強い天才女優の一人だと思っていたが……ありゃあ、やっぱ日野ハルトの影響か?)
自らの輝きで周りを圧倒するのではなく、光を受けて自らも輝きながら、周りの役者を優しく照らし出す圧倒的な調和の力。自身を主張しながらも共演者を活かすその変幻自在なアプローチに、五反田は日野ハルトの芝居における思想と、彼による指導の影を強く感じ取っていた。
(……彼女はまるで月だな。夜空に煌めく綺羅星を見つめるもう一つの光――さながら、太陽の光を受けて輝く有情な夜の女王ってところか)
五反田の眼光が、さらに鋭さを増す。そして最後に辿り着くのは、この物語の「核」として舞台を最初から最後まで支配し続けた存在――日野ハルト。
(そして……日野ハルト)
『波旬』として舞台中央に降臨した時の、あのおぞましくも圧倒的な神々しさ。立ち姿一つ、目線の動き一つで客席の空気を凍りつかせ、殺陣の一撃で劇場全体の重力を塗り替えてみせた。
(あれで本当に十年ぶりの役者復帰でブランクあり、舞台演劇に初挑戦かよ。化け物か? ……いや、ゴジラだな、ゴジラ)
絶句するほどの圧倒的な存在感。映画の世界で数々の役者を見てきた五反田ですら、ハルトの放つ底知れぬ才能には戦慄を覚えずにはいられなかった。そして同時に、かつて己の人生を狂わせるほどの衝撃を与えた伝説のアイドル――『星野アイ』と甲乙つけがたいその天性の才気に、映画監督としての血が激しく沸き立つのを感じていた。
(……一度この手で、『日野ハルト』という男を撮ってみたいもんだな)
五反田は静かに立ち上がると、深く帽子をかぶり直し、熱狂の冷めやらぬ劇場を後にした。
☆ ★ ☆
舞台裏の熱気は、終演後もなお冷めることを知らなかった。
通路にはスタッフやキャストが慌ただしく行き交い、あちこちで公演の成功を祝う歓声と抱擁が交わされている。
その楽屋裏の関係者通路を、にぎやかな足取りで歩いてくる一団があった。『今からガチで恋始めます』で黒川あかねと共演した面々――MEMちょ、鷲見ゆき、熊野ノブユキ、森本ケンゴの四人だ。
「あかねちゃ〜ん! お疲れ様〜〜っ!」
面会エリアの通路で出迎えたあかねに対し、MEMちょが両手を広げて抱きついてくる。
「MEMちょ、みんな……! 来てくれたんだ」
「当たり前でしょ! もうっ、凄すぎたよあかねちゃん! 『鞘姫』が倒れるシーンなんて、私マジで息止まるかと思ったんだから!」
「本当に凄かったよ、あかね」
ゆきが柔らかく微笑みながら、あかねの肩を優しく叩く。
「あの悲壮感と、そこから漂うなんとも言えない色気……同じ同世代として、ちょっと嫉妬しちゃうくらい綺麗だった」
「ああ、俺も観ててゾクゾクしたぜ。男側から見ても、あの『鞘姫』のためなら命捨てられるって納得の説得力だった」
ノブユキが深く頷き、隣のケンゴも「本当、最高の舞台だったよ」と惜しみない称賛を送る。気心の知れた仲間たちからのストレートな絶賛に、あかねの頬が自然とゆるんだ。
「ふふ、ありがとう。みんなにそう言ってもらえると、頑張った甲斐があったよ」
「あ、私ね、かなちゃんの楽屋にも顔出してから帰るね! あっちも絶対すごいことになってるだろうし!」
MEMちょはそう言い残すと、手を振りながら通路の奥へと元気に走っていった。
残されたあかねと三人は、楽屋口の混雑を避けるように通路の端へ寄り、取り留めのない会話を始める。話題は自然と、最近付き合い始めたというゆきとノブユキの近況へと移っていった。
「でね、ノブくんたらこの前デートの約束忘れてジム行っててさ〜」
「いやっ、あれは仕事のトレーニングの一環でだな……!」
「もう、あかねちゃん聞いてよ〜」
照れ隠しに弁解するノブユキと、それをからかうゆき。二人の仲睦まじいやり取りに、ケンゴがあきれ顔で笑い、あかねもクスリと微笑みを返していた。
――その時だった。
会話の合間、ふとあかねの視線が、通路の壁際にずらりと並べられた祝いのフラワースタンド群へと吸い寄せられた。関係各社や著名人、ファンから贈られた色とりどりの華やかなスタンド花が並ぶ中、一つだけ、異常なまでの異彩を放つ一角があった。
豪華な飾りのない、洗練され尽くしたシンプルなスタンド。
そこに飾られていたのは、見事なまでに開いた十本の白い薔薇だけだった。
白一色の静謐な美しさが、賑やかな楽屋裏でそこだけぽっかりと浮いている。
(……え?)
吸い寄せられるように、あかねの足が止まる。
そのフラワーアレンジメントの中央に添えられた木札。達筆な文字で記された贈り主の名を見た瞬間――あかねの背筋を、氷の刃で撫でられたかのような猛烈な悪寒が駆け抜けた。
〝劇団ララライ御中 OB カミキヒカル〟
「――――っ!?」
一瞬で、心臓が跳ね上がった。視界が急速に歪み、全身の毛穴という毛穴が凍りつく。
脳裏に目まぐるしく蘇るのは、実家でララライの過去映像を読み解き、導き出した恐ろしい推論。星野アイの過去、十七歳の彼女が極秘で産んだ双子、そしてその引き金となった男の存在。
その男の名が、今、目の前の『劇団ララライ宛て』の花に刻まれている。
この劇場に。アクアが命を燃やして立っていたこの舞台のすぐ近くに。ルビーが兄の演技を見ていたその直ぐ側に。あの男が〝客〟として、あるいは〝影〟として存在していたという事実。
「……あかねちゃん? どうしたの、顔色が悪いよ……大丈夫?」
ゆきのリフレインする心配そうな声で、あかねはハッと我に返った。気づけば、己の指先がカタカタと激しく震えている。
「あ……ご、ごめんなさいゆきちゃん。私……少し、疲れちゃったのかも」
「そっか、あれだけの熱演だったもんね……! ごめんね、引き留めちゃって。早く休んで!」
「うん……ごめんね。ノブくん、ケンゴくんも、来てくれてありがとう。また、ゆっくりね」
三人に無理やりの笑顔を向け、再会を約束すると、あかねは逃げるようにその場を後にした。足がもつれそうになるのを必死に堪えながら、一刻も早く「彼」の温もりが残る場所へと急ぐ。
「……ハルトくんっ!」
血相を変えて楽屋のドアを押し開けたあかねは、肩を大きく上下させ、荒い息を吐いていた。
室内で一人、帰宅のための荷造りを終えていたハルトが、驚いたように振り返る。
「……どうしたあかね、何か怖いことでもあったか?」
ハルトがあかねの元へ駆け寄り、その華奢な身体を力強く抱き留めた。あかねはすがるようにハルトの広大な胸に顔をうずめる。ハルトの手のひらに伝わってくるのは、小刻みに震えるあかねの体温と、青ざめた表情だった。
ハルトは問答無用で彼女を抱き締め、安心させるように優しくその髪を撫でた。
「大丈夫だ。俺が居る。……何があった?」
ハルトの温かい体温と重厚な声に包まれ、あかねの瞳からポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。潤んだ浅葱色の瞳でハルトを見上げ、震える声で告白を始める。
「あ、あのね……実家に帰っていた時、偶然観たララライの過去映像で……アクアくんとルビーちゃんの『父親』を特定したかもしれないの」
「……父親?」
「うん……その『父親』……『カミキヒカル』っていう人から、劇団宛てにフラワースタンドが届いていて……それを見たら、何故だかすごく恐ろしくなって……!」
ハルトの瞳の奥が一瞬で鋭く光り、表情が険しいものへと変わる。ハルトはあかねの肩を掴み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「……その『カミキヒカル』とやらが、星野兄妹の父親だって根拠は?」
「えっ? ……そ、その……私の中の『アイ』が、彼の過去の演技に、惹かれて……」
あかねの声が小さく萎んでいく。ハルトの理路整然とした問いかけに、あかね自身の明晰な頭脳が「ロジックとして破綻している」と告げていた。客観的な証拠は何一つない。ただ、アイの思考をトレースした己の直感――それだけを根拠にするには、あまりにも無理筋だった。
内向的な本来のあかねが首を擡げ、不安そうに身を縮める。
だが、ハルトはそんなあかねの頭に大きな手をぽんと乗せると、不敵な笑みを浮かべた。
「悪い、お前の見立てを疑ってるわけじゃないんだ。……お前の中の『アイ』がそう言うんなら、間違いないな」
「……ハルトくん?」
「何せその仮面は、他ならぬ俺とお前で構築したもんなんだからな」
ニヤリと笑う恋人の自信に満ちた表情。その一言が、あかねの心に覆いかぶさっていた得体の知れない恐怖を一瞬で吹き飛ばした。
「私を信じてくれている」という絶対的な安心感が胸を満たし、あかねは安堵の息を漏らす。より強い繋がりを求めるように、無意識のうちにあかねはハルトの厚い胸板へ擦り寄るように顔を埋めた。
「じゃあ帰りにお前んち寄って、その映像とやらを見せてもらってもいいか? 俺もこの目で確認して検証したい」
「うん……! ――あの、アクアくんにはこのことを話すの?」
あかねの問いに、ハルトはわずかに視線を落とし、深く思考を巡らせた。
「……いや、今は止めておこう。今のアイツに余計な負担をかけたくない。せっかく演技を、自己表現を――生きることを楽しみ始めたアイツを、クソみたいな現実に引き戻したくないんだ」
ハルトの言葉には、どこか祈るような切実さが籠もっていた。
この舞台『東京ブレイド』の稽古と本番を通じて、ハルトとあかねは星野アクアという少年の過酷な生い立ちと、彼が抱える深い絶望、壮絶な復讐心に触れてきた。そして、いつしか二人の中に、傷ついた少年を守りたいという強い感情が芽生えていた。
それは有り体に言えば、まだ若い二人の心に宿った「父性」であり、「母性」の萌芽に他ならなかった。
「そうだね……うん、私もそう思う。アクアくんにはもっとお芝居を楽しんでほしいもん」
あかねは心から同意し、ハルトの手を固く握り返した。
「……それからあかね、今日の打ち上げはキャンセルして、このまま帰ろう。俺はお前をこんな状態のまま食事会に連れて行きたくない」
だが、あかねはハルトの胸の中で首を横に振った。弱々しくも、どこか凛とした拒絶だった。
「ううん……ダメだよ、ハルトくん。初日の打ち上げなんだよ? ハルトくんがいなかったら、みんな絶対に寂しがるもん。……私は大丈夫。ちゃんと顔に出さないから、一緒に行こう?」
「……お前って奴は……」
自分の恐怖よりも周囲やハルトの立場を優先しようとするあかねに、ハルトは小さく息を吐き、彼女の頭を優しく撫でた。
「分かった。ただし、無理だと感じたらすぐに俺に言え。二次会には付き合わず、そのままお前んちに向かうぞ」
「……うん。ありがとう、ハルトくん」
☆ ★ ☆
劇場近くの居酒屋を貸し切って行われた初日の打ち上げは、熱狂の渦の中にあった。
演出家の金田一をはじめ、スタッフやキャスト陣がグラスを掲げ、初日成功の歓喜を分かち合っている。そんな賑やかな狂騒のただ中で、あかねはグラスを手にしたまま、一人だけ冷たい歪みの中に取り残されているような感覚に陥っていた。
(カミキヒカル……あの人が、劇場に来ていたの……? それともお祝いのフラワースタンドだけ?)
脳裏に焼き付いて離れない十本の白薔薇。アイの過去、十七歳での極秘出産、そしてその影にいた男――。思考の迷宮に囚われ、心ここに在らずのあかねだったが、ふと隣に視線を向ける。
ハルトは座の真ん中で、共演者やスタッフたちと笑い合い、軽妙なトークで場を大いに盛り上げていた。役者としての圧倒的なオーラを消し、気さくで頼もしい座長として振る舞うハルト。しかし、時折あかねに向ける瞳の奥には、鋭い観察眼と「カミキ」という存在への思考を巡らせている気配があかねには見て取れた。
(ハルトくんも……気にしてくれてる。私のために、普段通りに振る舞ってくれてるんだ……)
少し視線を巡らせれば、最近二十歳を迎えたばかりの姫川大輝が周りの大人に勧められて酒杯を傾けており、その少し離れた場所では、今日見事な成長を見せた鳴嶋メルトが女性陣に囲まれて照れくさそうに頭を掻いている。
そして――その少し先、上座の席で一際存在感を放っていたのは有馬かなだった。
「ちょっとアクア! さっきの殺陣、私が合わせたからきれいに決まったのよ!? 感謝しなさいよね!」
「はいはい、ありがとうな」
「なによそれ! 子供扱いすんな! 私のほうがお姉さんなんだからね!」
「はいはい、そうだな」
「もぉーっ!」
今日最高の芝居ができた満足感からか、頬をほんのり赤くしたかなが、上機嫌に身乗り出して語っている。空気に酔っているのだろうか、いつもより言動が幼く感じる。
(ご機嫌なかなちゃんかわいいっ……写真撮りたい撮りたい撮りたいっ…………じゃなくて!)
あかねにとって「推し」であるかなが、かつての『輝き』を取り戻して元気に笑っている姿は、苛まれていたあかねの心をほんのわずかだけ晴れやかにしてくれた。
そして、かなのその小言を隣であしらいながら、穏やかに目を細めている星野アクアの姿があった。
(……アクアくん)
復讐という暗い情念を一度横に置き、仲間たちとの芝居を心から楽しみ、生き生きとした表情を見せている少年。
初日を全力で演じ切り、どこか救われたような顔をしているアクアの様子を見て、あかねは胸の奥で固く決意した。
(やっぱり……アクアくんには、カミキヒカルのことは言えない。あんなに楽しそうにお芝居をしているアクアくんを、またあの暗い地讐の渦に引き戻すなんて……絶対にできない)
ハルトと自分、二人だけでこの件を受け止め、守り抜くのだと――。
そうして宴が最高潮を迎え、二日目へ向けての二次会の声が上がり始めた頃。ハルトは金田一や姫川に「あかねの体調を考慮して」とスマートに理由を告げ、あかねの手を引いて店を後にした。
十二月の冷たい夜風が吹く路上で拾ったタクシーは、そのまま深夜の静寂に包まれたあかねの実家へと向かって滑り出していった。
☆ ★ ☆
夜の九時過ぎ。劇場での後片付けと挨拶を終えた二人は、タクシーに乗り込み都心を離れた。
三十分ほど走らせた頃、タクシーは東京近郊の閑静な住宅街へと滑り込む。十二月の凛とした冷たい夜風が頬を刺す中、二人はあかねの実家の門柱を潜った。
あらかじめ電話で来訪を伝えていたため、チャイムを鳴らすとすぐ、あかねの母、黒川
「おかえりなさい、あかね。それといらっしゃい、ハルトさん」
「ただいま、お母さん」
「こんばんは、あおいさん。ご無沙汰してます」
「いやぁね、そんな他人行儀にしなくったって。お義母さんって呼んでくれてもいいのよ?」
「ちょっ、ちょっとお母さん!?」
「あはは、それはまあ少なくとも婚約してからってことで」
「は、ハルトくんまで何言ってるのっ!?」
真っ赤になって叫ぶあかねを余所に、葵は「ふふふ」と楽しそうに微笑む。娘の恋人であるハルトを破格の気に入りようで見ている母は、こうやって冗談か本気かわからない言動であかねを弄ぶのが日常茶飯事だった。
あかねの母の案内で、リビングに上がる二人。
「ただいま、お父さん」
「お邪魔します、
「うん、お帰りあかね。ハルトくんもいらっしゃい。さあ、二人とも立ってないで座りなさい」
ダイニングテーブルには、すであかねのに父である黒川
あかねの父は、警視庁に勤務する現役の警察官であり、階級は警視になる。威厳ある面持ちの人物だが、今は非番の土曜日ということもあり、すっかりリラックスした表情を見せている。
両親がハルトを酒肴にして嬉しそうにお酒を進める。滅多にお酒を飲まない母まで上機嫌な様子に、あかねは我が事のように誇らしくなった。
「ほら、あかね、ハルトさんもどうぞ食べて」
「はい、いただきます」
「お母さん、肉じゃがとかきんぴらごぼうとか小松菜の和え物とか、こんなに一杯のおかずどうしたの?」
「あら、作り置きの残り物よ。在庫一斉処分ってところかしら」
警察官の妻として長年家庭を守ってきた母の生活の知恵。帰宅時間が読めない夫のために作っておく作り置きの技術は、あかねにとってもまだまだ学ぶべきことばかりだった。
「ハルトくん、さあさあ一杯」
「あ、はい、いただきます」
すっかり酔いの回った父が、ハルトのコップにウーロン茶をドバドバと注ぐ。酒を注ぐような大げさな手つきに、あかねは苦笑いを浮かべた。
あかねの母は「ちゃんとご飯は食べてる?」「お掃除やお選択はできてる?」「お仕事が忙しいのは分かるけど、学校にも行くのよ」などなど、二人の同棲生活の心配をする。母親として当然の心配に、あかねは心配を晴らそうときちんと生活できていることや学業も忘れていないことを説明した。
「そうだ、理さん。刑事時代のお話を聞かせてもらってもいいですか」
「ほう? 私の現場時代の話を?」
「ええ、あかねからよく聞かされるんです、『お父さんは凄腕の刑事だったんだよ』って」
「ははは、それほど大したものじゃあないがね」
「やっぱり、本職の人の経験談はリアリティが違うっていうか……自分の表現の刺激になると思うんです」
「なるほど、構わないよ。そうだな、まずは――」
ハルトは父・理に向き直り、警察官としての現場での経験や事件の話を熱心に問いかける。理もまた、未来の息子のようなハルトからの問いかけに機嫌を良くし、事件の裏側やプロファイリングに通じる捜査の裏話を語って聞かせた。あかねの類稀なる観察力とプロファイリング能力の根底には、幼少期から聞いていた父のこの話があったのだ。
それから暫く、あかねとハルトは歓談する。
いつの間にか、時計の針が十時を回っていた。
「そうだ二人とも、もう時間も遅いし、今夜は家に泊まっていきなさい。舞台の公演の後で疲れているんだろう?」
「それは……ご迷惑では?」
「迷惑なもんか、なあ母さん」
「ええ、お父さん。私、ハルトさんのお話がもっと聞きたいわ」
「おっと、嫉妬してしまうなぁ」
「あらあら、あなたったら」
両親が自分と彼氏のようなじゃれ合いをしているのを見やり、あかねはハルトに目を向ける。ちょうど彼もあかねの方を見ていた。
「……どうする、あかね」
「私はハルトくんが良ければ」
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて今晩はお世話になります」
そう言うことになり、和やかな団欒の時間が続く。そして、いつしか時計の針は夜の十一時を回っていた。
部屋に用意されていたパジャマに着替えたあかねと、父の着古した寝間着を借りたハルト。二人とも劇場でシャワーを済ませていたため、今夜はそのまま二階の部屋へと上がる準備を整える。
「あかね、ハルトさん、ほどほどにね〜」
「私たちに気を使わなくてもいいんだぞ」
両親からのあまりにも意味深な視線と茶化すような言葉に、あかねは耳まで真っ赤にして肩を怒らせ、ハルトは苦笑いを浮かべながら階段を上った。
あかねの自室は、ハルトの家で同棲を再開してから間もないこともあり、掃除が行き届いて綺麗に整頓されていた。しかし、ハルトをこの自室に招き入れた経験があまりないあかねは、どこかソワソワとした心地になり、ベッドの上にちょこんと座ってモジモジと指先を弄ぶ。
「さて、本題についてだが……」
ハルトが真剣な表情で口を開いた。
「本題……?」
「『カミキヒカル』とやらの姿を確認するために来たんだろ、俺たち」
「……あっ、そ、そうだった!」
完全に本来の目的を失念していたあかねのリアクションに、ハルトは呆れたように息を吐きつつも、愛おしそうに目を細めた。
「まあ、それは明日にしようか。遅い時間だしな」
「う、うう〜っ……忘れててごめんね……」
「気にすんな」
ハルトが部屋のシーリングライトのスイッチを切る。途端に、暗闇の中に月光だけがカーテンの隙間から静かに差し込んできた。
「さ、もう寝ようぜ。明日も舞台はあるんだしな」
ハルトは毎晩の日課のようにあかねを力強く抱き締めると、唇に啄むような優しく甘いキスを落とした。そして二人で、あかねの部屋にあるセミダブルのベッドへと潜り込む。
向かい合い、布団の中で互いの手を固く握りしめた。
薄暗い部屋の中、衣擦れの音だけが微かに響く。
目の前にあるハルトの精悍な顔立ち。長い睫毛と、静かに揺れる浅葱色の瞳。二人で寝るには少々窮屈なセミダブルのベッドは、嫌でも互いの肌と体温をダイレクトに伝えてくる。
あかねは、自分の身体の芯が急速に熱を帯びていくのを感じていた。舞台の熱狂が、まだ血の中に残っていたのかもしれない。
「……」
「寝れないのか」
「うん……なんだか目が冴えちゃって」
「俺もだ。……芝居の興奮が残ってるのかも」
ハルトの山吹色の瞳の奥に、はっきりと分かるほどの情欲の色が揺らめいていた。あかねの両親からの煽りを受けたからか、それとも極限の演技を経て、生の本能が呼び覚まされたからなのか。
あかねは熱っぽい息を漏らし、上目遣いにハルトを見つめた。
「…………する?」
ぽつりと零れ落ちた言葉。顔が火が出るほど熱くなるのを自覚する。
ハルトがあかねを強く抱き寄せ、その耳元で深く低い声を囁いた。
「するか。コッソリとな。まあ……下にはバレバレだろうけど」
あかねが小さく声を漏らし、ハルトの首元に手を回す。
月明かりが照らす小さな部屋で、二人の長い夜が静かに更けていった。
そろそろ書き溜めが切れる頃合いです。3章完結後の連載形式はどうしたらいいですか?
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書き溜めてから連載再開
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週一回の更新で連載を維持