Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
第1話 魔法のある部屋
高遠遙一が最初に気づいたのは、見上げている天井にまるで見覚えがないことだった。
白っぽい漆喰には細い蔦を思わせる模様が走り、その四隅には、子供部屋にしては妙に凝った銀色の飾りが取り付けられている。少なくとも彼が最後に記憶している場所とは似ても似つかず、見知らぬ屋敷へ運び込まれたと考えるには、何かが根本的におかしかった。
その何かを確かめるために右手を持ち上げたところで、遙一はしばらく黙った。
手が、小さい。
多少痩せたとか、怪我で感覚が鈍っているという話ではない。掌そのものが小さく、指は短く、関節にはまだ幼さが残っている。試しに人差し指から順番に曲げてみると、薬指と小指は頭の中で命じたほど素直には動かなかった。
「……なるほど」
口から出た声まで、記憶にあるものよりずっと高かった。
驚くべき状況ではある。
だからといって、驚いているだけでは何も分からない。
遙一は寝台から身体を起こし、まず周囲を見回した。重いカーテン、濃い色の木製家具、壁の半分を埋める本棚。床には柔らかな絨毯が敷かれ、窓際には子供用らしい低い机まで用意されている。
誘拐、薬物、催眠、精巧な舞台装置――思いつく可能性を順番に並べたが、どれも今の自分の身体を説明するには足りなかった。
寝台から下りた時、その考えはいっそう確かなものになった。
床までが、遠い。
以前の身体なら無意識に処理できた高さだったのに、足が着くまでの時間が思ったより長く、着地した瞬間には膝がわずかに沈んだ。その反動で重心が前へ流れ、転ぶほどではなかったものの、遙一は半歩だけ余計に足を出すことになった。
歩幅も違った。
鏡まで十歩ほどだと思った距離が、十四歩かかった。
鏡の前へ立つと、そこには当然のように知らない少年がいた。
まだ頬には丸みがあり、髪は寝起きのせいで少し跳ねている。年齢は、ひと桁のどこかだろう。顔立ちは整っていて、将来容姿で苦労することはなさそうだったが、それについて今すぐ喜ぶ理由もなかった。
遙一が頬をつまむと、鏡の中の少年も同じ場所をつまんだ。
「これはまた、ずいぶん若返りましたね」
口にしてみると、やはり自分の声ではない。
その時、扉が開いた。
「ヨーイチ?」
入ってきたのは三十代ほどの女だった。仕立ての良さそうな長衣を着ており、こちらを見るなり、少しだけ眉を寄せる。
「起きていたのね。どうしたの?」
「少し、目が覚めまして」
女は一瞬きょとんとした。
「……まだ眠いの?」
「そうかもしれません」
今度は、もっと妙な顔をされた。
どうやらこの身体の持ち主は、普段こんな喋り方をしていなかったらしい。そこは修正が必要だろう。
遙一は相手の表情だけでなく、歩き方、声の調子、自分との距離の取り方まで一度に見た。警戒はなく、代わりに親しい者へ向ける自然な心配がある。母親か、少なくともそれに近い立場の人物と考えるのが妥当だった。
「下で朝食にしましょう。今日は先生もいらっしゃるから」
「先生?」
「昨日、自分で楽しみにしていたでしょう?」
一拍置いてから、遙一はうなずいた。
「……そうでしたね」
もちろん知らない。
だが、知らないと告げて状況を騒がせる理由もない。
女はそれ以上気にした様子もなく、床に落ちていた薄い皿へ目を向けた。縁が欠け、破片が二つほど絨毯の上へ散っている。
「あら。昨日割ったの、そのままだったのね」
そう言って彼女は袖から細い棒を取り出した。
遙一の目が止まった。
棒というより、杖。
そう呼ぶ方が自然に見えた。
女が短い言葉を唱えながらそれを振ると、絨毯の上の破片が跳ね上がり、皿へ吸い寄せられた。ぱちり、と小さな音がして、欠けていた縁が何事もなかったように元へ戻る。
遙一は黙ってその一連を見ていた。
女の指にも、袖口にも、目につく仕掛けはない。視線を切るような間もなく、床に散っていた破片がそのまま皿へ戻ったように見えた。
「どうしたの?」
「いえ」
遙一はごく自然に笑った。
「なんでもありません」
「もう割らないでね」
女はそう言い残して部屋を出ていった。
彼女がいなくなると、遙一は修復された皿を持ち上げ、裏側まで調べた。指先で縁をなぞっても段差はなく、窓から差し込む光に透かしてみても、接着や交換の痕跡は見つからない。
一つの現象だけなら、どれほど不可思議に見えても仕掛けを疑う。
高遠遙一は、そういう現象を作ってきた側の人間だった。
だから、すぐに奇跡という言葉を使う気にはならなかった。
もっとも、この屋敷は一つの皿だけで済ませてはくれなかった。
廊下へ出て階段を下りている途中、壁に掛けられていた肖像画の男が大きな欠伸をした。
遙一は足を止めた。
肖像画の男もこちらを見る。
「何だ、小僧」
「……いえ。失礼しました」
男は鼻を鳴らすと、額縁の端まで歩き、そのまま絵の外へ消えた。
遙一は少しだけ待った。
数秒後、二つ隣の肖像画から同じ男が顔を出した。
「まだ見ているのか?」
「興味深いもので」
「変な子供だ」
今度は向こうが先に呆れ、別の額縁へ移っていった。
朝食の部屋へ着くころには、観察対象はさらに増えていた。
人の手を借りずに羽根ペンが紙の上を走り、インクが薄くなると自分で壺へ戻って先端を浸した。火の消えていた暖炉は杖をひと振りされただけで燃え上がり、卓上の砂糖壺は空中を滑るように移動して、誰かのカップへ角砂糖を二つ落とした。
どれも、この家の人間たちにとっては特別なことではないらしい。
羽根ペンが勝手に文字を書いていても誰も見ないし、砂糖壺が頭上を飛んでいても、ぶつからない限り気にも留めない。
遙一には、その方が面白かった。
人間は、どれほど奇妙な現象でも日常になれば見なくなる。奇術師にとって、これほどありがたい性質もない。
「ヨーイチ」
呼ばれ、遙一は視線を戻した。
「さっきから何を見ているの?」
「色々と」
「色々?」
「ええ。面白いので」
女は少し困った顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
子供が何かをじっと見ていても、大人はたいてい好奇心だと思う。
以前の高遠遙一が同じ目で人間の手元を観察していれば、相手によっては警戒しただろう。だが幼い少年が、杖や空飛ぶ砂糖壺を目で追っているだけなら、不自然には見えないらしい。
昼になると、朝に聞いた「先生」がやってきた。
穏やかな顔立ちの中年の男で、家の者と二、三言話したあと、遙一の前の机に羽根、小さな木片、布切れを並べた。
「今日は見るだけですよ、ヨーイチ」
「触ってはいけないんですか?」
「まだ早いからね。去年、君のお従兄さんが勝手に杖へ触って、花瓶を三つ天井へ貼りつけたんだ。二つは戻ったが、最後の一つは今も客間の上だよ」
先生は真面目な顔でそう言った。
遙一は少しだけ天井を見た。
「それは、戻せないんですか?」
「戻せるとも。だが家の主人が、本人への戒めになるから残しておけと言っている」
「なるほど」
「だから君も、まずは見ることからだ」
先生が杖を振ると、羽根がふわりと浮いた。
遙一は羽根そのものより、先生の手を見ていた。手首の角度は大きくなく、発音と動作の間にもほとんどずれがない。杖先が完全に羽根へ向いていない瞬間でも、現象は継続していた。
次に木片が机の端から端まで滑るように動く。
最後に、先生が白い布へ杖を向けた。
「さて、これは青に――」
布は鮮やかな黄色になった。
先生が黙った。
遙一も黙った。
数秒後、先生は咳払いをした。
「……黄色も悪くない」
「青では?」
「魔法にも、時々こちらの予定を尊重しない日があるんだよ」
もう一度杖を振ると、今度こそ布は青くなった。
「今のは失敗ですか?」
「そうとも言えるし、少し力が入りすぎたとも言える。魔法は言葉だけ覚えれば同じ結果が出るものではないからね」
先生はそう言って、黄色から青へ変わった布を指でつまんだ。
「きれいでしょう?」
「はい」
「魔法が好きですか?」
遙一はすぐには答えなかった。
好きかどうかを決めるには、まだ知らないことが多すぎる。
「まだ分かりません」
先生は目を丸くした。
「おや」
「でも、とても興味があります」
その答えには満足したらしく、先生は笑った。
「それなら十分でしょう」
遙一も笑い返した。
それからの日々、彼は周囲で魔法が使われるたびに、それとなく観察するようになった。
その間に、自分自身のことも少しずつ分かった。
この身体の名は、遙一・グリンデルバルド。英国で生まれ育った魔法族で、家系には日本人の血も入っているらしい。前世と同じ「遙一」という名も、そのために付けられたものだった。
姓については、まだ意味までは分からない。ただ、家の者たちの話し方や屋敷の様子を見る限り、少なくともありふれた家名ではないようだった。
同じような魔法でも、人によって杖の動かし方や発音には少しずつ癖があった。大きく腕を使う者もいれば、指先だけで済ませる者もいる。慣れている者ほど簡単そうに扱うが、先ほどの先生の布のように、知識があっても結果がわずかにずれることがあるらしい。
そうした違いを何度も見ているうちに、遙一は、もはや別の仕掛けを考え続ける必要はないだろうと思うようになった。この世界には本当に魔法があり、しかもそれは誰にでもまったく同じ形で扱えるものではないらしい。
その事実に胸を躍らせて屋敷中を走り回る気にも、得体の知れない力だと恐れる気にもならなかった。知らないことが多いのなら、これから一つずつ確かめればいい。
ただし、その日の夜、高遠遙一は魔法より先に、もっと身近な問題へぶつかった。
自室の机の上に、小さな木箱が置かれていた。蓋を開けると、中には玩具らしい硬貨が何枚か入っている。
遙一は一枚を取り出した。
指先に乗せる。
今の掌には少し大きい。
それでも、前世の自分なら考えるまでもなかった。硬貨を見せ、指先から掌へ滑らせ、そのまま観客の目から消す。それだけの、ごく簡単な技術だった。
遙一は硬貨を立て、親指で送った。
次の瞬間、硬貨は乾いた音を立てて床へ落ちた。
遙一はしばらく、それを見下ろした。
拾う。
もう一度試す。
また落ちた。
三度目はなんとか掌に残ったが、鏡へ手を向けてみれば、横からは硬貨が丸見えだった。
頭の中には正しいやり方がある。どの筋肉を使うかも、どの角度なら見えないかも、観客の視線をいつ外せばいいかも分かっている。
それなのに、指がそこまで届かない。掌が小さく、関節の可動域も違ううえ、指先の力も手首の重さも、記憶にある身体とは何もかも違っていた。
知識も技術も残っている。ただ、それを使うための身体だけが別物だった。
「これは困りましたね」
遙一はそう言って、もう一度硬貨を拾った。
四度目も落とし、五度目も床へ転がった。
六度目、遙一は指の位置を少し変えた。すると今度は、さっきより長く硬貨が掌に残った。
ほんのわずかな改善だったのに、遙一はそこで初めて笑った。
知らない技術なら、規則を見つければいい。
知っている技術が今の身体で使えないのなら、身体に合わせて作り直せばいい。
窓の外では、青白い光をまとった何かが庭を横切り、遠くの廊下では肖像画同士が何やら言い争っていた。
けれどその夜、遙一が最も長く見つめていたのは、魔法でも動く絵でもなかった。
小さな掌の上に、どうにか留まるようになった一枚の硬貨だった。