Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
遙一は音楽箱を取り出し、扉の陰でぜんまいを最後まで巻いた。
蓋を開く前に、ローブの内側から細い糸を一本抜く。入学前、手の大きさに合わせて道具を作り直した時に使っていたものだ。黒い糸の端を音楽箱へ結び、床へ置いた。
フラッフィーの三つの鼻が同時に動いた。
遙一はまだ部屋へ入らない。
指先で糸を送りながら、音楽箱を石床の上へ滑らせる。犬から見れば、扉の隙間から小さな箱が一つ転がり込んできただけだった。
蓋が開いた。
細い旋律が流れ始める。
三つの頭が、ほとんど同時に音の方を向いた。
一つが首を傾け、別の一つが大きく欠伸をした。残る頭もしばらくは扉の方を気にしていたが、やがて瞼が重くなり、巨体そのものがゆっくりと床へ沈んでいった。
遙一は待った。
呼吸が深くなるまで、もう少し。
三つの頭が完全に床へついてから、ようやく扉の陰を出た。
音楽箱はただの機械だった。魔法もかかっていなければ、フラッフィーのために作られた道具でもない。入学前には、一定の旋律に合わせてカードや硬貨を入れ替えるタイミングを測るために使っていた。
効いているのは仕掛けではなく、音そのものらしい。
遙一は眠った犬から距離を取りながら罠扉へ近づいた。糸を少しずつ引くと、音楽箱も旋律を鳴らしたまま床を滑ってくる。
犬の耳が一度だけ動いた。
手を止める。
少し待ってから、また引いた。
罠扉のそばまで箱が来ると、遙一は糸を持ったまま先にそれを穴の中へ下ろした。旋律は暗い穴の下から聞こえ続けている。
それから縁へ腰を下ろし、両手で床を掴んで身体を下げた。
下には植物が見えた。ただし、三人が落ちた直後とは様子が違った。太い蔓の大半は壁際まで退いていたが、何本かはまだ穴の下まで伸びている。葉の端には焦げた跡があり、石床にも火を使った痕が残っていた。
遙一は足先で一本の蔓を探り、体重を預けても崩れないことを確かめてから、ゆっくりと身体を下ろした。途中でもう一本へ足を移し、最後のわずかな高さだけを落ちる。
靴底が石床を軽く打った。
すぐ横で音楽箱がまだ鳴っていた。
植物は生きていたが、通路を塞ぐほどではなかった。壁際へ逃げた蔓の先がときどき動き、石床には小さな青い火が触れたような焦げ跡が残っている。
遙一は箱を拾って蓋を閉じ、蔓が伸びてこないことを確かめながら先へ進んだ。誰かがここで植物を退けた。しかも、力任せに切ったのではなく、嫌うものを使って退かせている。
授業で性質を知った者ならできる。
誰がやったのかまでは分からないが、少なくとも三人は最初の罠で足止めされなかったらしい。
通路の先から、羽ばたきに似た細かな音が聞こえてきた。
高い天井の下を、何百という鍵が飛び回っている。羽音が絶えず頭上を行き来し、壁際には箒が三本残されていた。反対側の木製扉はすでに開いている。
遙一は部屋の中央まで進まず、しばらく上を見た。鍵は鳥の群れのように天井近くを旋回し、ときどき数本だけが急降下してくる。壁際の箒には、ついさっきまで握られていたように柄の向きがばらばらに残っていた。
鍵の群れの中に、羽根がひどく乱れたものが一つある。ほかより飛び方が不安定で、急に高度を落としてはまた上がっていた。反対側の扉の錠前にも、新しい擦れ跡が見える。
開いた扉、残された箒、傷んだ鍵。
ここでも、問題そのものはもう解かれている。
遙一は箒にも鍵にも触れず、開いている扉を通った。同じ問題を自分ならどう解くかという興味はあったが、後から来た者が解答済みの試験を始める必要はない。
次の部屋へ踏み込んだところで、足が止まった。
巨大なチェス盤だった。
黒と白の駒が人間より高く立ち並び、そのいくつかは砕け、床には腕や盾や剣の破片が散らばっている。盤上は静かだった。勝負はもう終わっている。
遙一は配置を一度見た。
駒の残り方と壊れ方を追えば、最後の数手くらいは読めるかもしれない。
その考えは、盤の端に倒れている赤毛を見つけた瞬間に消えた。
「ロン」
返事はなかった。
遙一は駒の間を抜けてそばへ行き、膝をついた。いつものように何か言い返してくる気配がない。頬にも肩にも触れず、まず口元へ手を近づける。
呼吸はある。
首元へ指を当てると、脈も触れた。
遙一はそこで初めて、浅く息を吐いた。
倒れ方と周囲の駒を見れば、チェスの最中に攻撃を受けたことくらいは分かる。だが今知るべきなのは勝負の手順ではなく、ロンがここから動かせる状態かどうかだった。
砕けた黒い駒。倒れた白い駒。盤の向こう側へ続く扉は開いている。
ハリーとハーマイオニーは先へ行ったらしい。
続きを見たいという気持ちはあった。この下に何が用意され、誰が先に進み、その先で何をしようとしているのか。ここまで来れば、答えはかなり近い。
それでも、遙一は立ち上がらなかった。
ロンをここへ置いたまま進む理由がない。自分が先を見たいというだけで、意識のない友人を床に残すほど、その好奇心に価値があるとは思わなかった。
遙一は周囲を見回した。砕けた駒の中から、細長く折れた二本の柄を選ぶ。大きさと重さを確かめ、自分のローブを脱いでその間へ通した。
即席の担架としては、ひどく見栄えが悪い。
使えれば十分だった。
ロンの身体をいきなり動かすのは避け、まず杖を向ける。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
ローブと二本の柄が、床から少し浮いた。
荷重を確かめて下ろす。
もう一度、今度は高さを抑える。
直接ロンを浮かせるより、支える面がある方が扱いやすい。少なくとも、帰り道で床へ落とす可能性は減る。
どう乗せるかを考えていた時、盤の向こうから足音がした。
遙一は杖を上げた。
「ロン!」
聞き慣れた声だった。
ハーマイオニーが扉から駆け込んできて、遙一を見た途端に目を見開いた。
「ヨーイチ?」
「説明はあとで。ロンは息をしています」
その一言で、ハーマイオニーはすぐロンのそばへ膝をついた。
「よかった……」
肩から力が抜けたのは一瞬だけだった。すぐに顔を上げる。
「ハリーが先へ行ったの」
「一人で?」
「ええ」
ハーマイオニーは急いで話した。
この先には気絶したトロールがいて、そのさらに先に七本の薬と論理問題があったこと。前後の扉には炎が上がり、正しい薬を飲まなければ通れなかったこと。
「前へ行ける薬は、ほんの少ししかなかったの。ハリーが飲んだわ。私は戻るためのを飲んで――」
「それで、ここへ」
ハーマイオニーが頷いた。
「先生を呼ばないと。ダンブルドア先生にも知らせないと」
遙一は盤の向こうを見た。
ハリーはその先にいる。
賢者の石を狙う誰かも、おそらく同じ場所にいる。
行けば、答えが見られるかもしれない。
だが前へ進む薬はもうない。炎を別の方法で抜けられるか試すには時間がかかる。そして足元には、まだ意識を取り戻していないロンがいた。
「そうですね」
遙一は杖を下ろした。
「先にロンを戻しましょう」
ハーマイオニーはハリーが進んだ方角を見た。
「でも、ハリーが一人で――」
「前へ進む薬は、もうないんでしょう?」
「ええ」
「炎を抜ける別の方法を今から探すより、先生を連れて戻る方が早い。ロンもこのままにはできません」
ハーマイオニーは唇を噛み、数秒だけ迷ったあと、強く頷いた。
「分かった。急ぎましょう」
二人でロンを担架へ移した。遙一が浮遊魔法で重さを支え、ハーマイオニーが身体がずれないよう横につく。二本の柄は少し軋んだが、ローブは持ちこたえた。
帰りには急ぐ理由がある。それでも担架だけは急に動かさず、ハーマイオニーが駒の破片を避け、遙一が高さを保ったまま盤の出口へ向かう。
出る直前、遙一は一度だけ振り返った。壊れた駒の向こうには、ロンが終わらせた勝負の跡が残っている。その先へ進んだのはハリーとハーマイオニーで、さらに先へ行ったのはハリー一人だった。
全員が同じ場所まで行く必要はない。
遙一は杖先を少し上げ、担架の高さを整えた。
「行きましょう」
遙一はもう、後ろを振り返らなかった。