Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
黒い炎を抜けた途端、音が遠のいた。背後では黒い火が揺れているのに、広い部屋の中には人の声も足音もなく、石造りの壁に囲まれた空気だけが妙に冷たかった。ハリーは杖を握ったまま数歩進み、部屋の奥に立つものを見て足を止めた。
みぞの鏡だった。
クリスマスの夜、誰もいない教室で家族を映していた鏡が、今は賢者の石を守る最後の部屋に置かれている。金色の高い枠も、上部に刻まれた文字も覚えていた。けれど、その鏡を懐かしむ暇はなかった。鏡の前に、人がいた。
「先生?」
人影が振り返った。クィレルだった。
ハリーは一瞬、背後の黒い炎へ視線を戻した。どこかで部屋を間違えたのではないかという、馬鹿げた考えが本気で頭をよぎった。それでも、目の前にいるのはクィレルだった。いつもなら言葉につまり、何かあるたびにおどおどしている先生が、今日は少しも怯えていない。ハリーを見つめる顔には、むしろ妙な余裕さえあった。
「ポッター」
いつものつかえは一度もなかった。返事を忘れたハリーを見て、クィレルは笑った。いつもの、おどおどした先生が浮かべる笑い方ではなかった。
「どうして先生がここに?」
問いかけると、クィレルは待っていたように話し始めた。ハロウィーンの夜にトロールを城へ入れたこと。クィディッチの試合でハリーの箒へ呪いをかけたこと。どれも彼の口から出ると、たいしたことのない悪戯の種明かしのように聞こえた。
「じゃあ、スネイプは?」
脚には三頭犬に噛まれた傷があった。試合中にはハリーを見ながら呪文を唱え、禁じられた森では石のことで誰かを問い詰めていた。
クィレルは声を立てて笑った。
箒へかけられた呪いを解こうとしていたのがスネイプだった。三階へ行ったのも、自分を疑っていたから。禁じられた森での会話も、石に手を出すなという警告だったという。
スネイプが自分を嫌っていることまで嘘だったとは思わない。それでも、今ここにいるのはクィレルだった。
クィレルは苛立ったようにみぞの鏡へ向き直った。石がこの鏡に隠されていることは分かっているらしいが、鏡に映るのは、自分が石を手にして誰かへ差し出す姿ばかりで、肝心の石がどこにあるのかは分からないようだった。しばらく鏡の周りを調べたあと、クィレルが低い声で何かを呟いた。
返事をしたのは、クィレルではなかった。
「ハリーだ。その子を使え」
ハリーは息を止めた。声は近かった。それなのに、部屋のどこを見ても三人目の姿はない。
クィレルはためらわなかった。
「こっちへ来い、ポッター」
杖を向けられ、ハリーは鏡の前へ押しやられた。
金色の枠の中では、もう一人のハリーが笑っていた。現実の自分とは違って、ひどく嬉しそうだった。そのハリーがポケットへ手を入れ、小さな赤い石を取り出してこちらへ見せる。
ハリーの喉が鳴った。
鏡の中の手が石をポケットへ戻すのとほとんど同時に、現実のローブの中で、こつん、と何かが腿に当たった。触れなくても分かった。賢者の石だ。
なぜ自分には取り出せたのか、ダンブルドアが鏡へ何を仕掛けたのか。疑問はいくつも浮かびかけたが、すぐ横にクィレルがいるせいで、どれも最後まで形にならなかった。
「何が見えた?」
ハリーは反射的にポケットを押さえそうになり、慌てて手を止めた。何か言わなければならない。
自分がグリフィンドールへ寮杯をもたらしているところが見えた、と口にした時、自分でもあまり出来のいい嘘ではないと思った。
クィレルの目が細くなる。
「嘘だ」
また、あの声だった。今度はハリーも聞き間違えなかった。クィレルのすぐそばから聞こえるのに、彼の口は動いていない。クィレルが何か言い返そうとした時、声はそれを遮った。
自分で話す、と。
クィレルの顔から、さっきまでの余裕が消えた。ほんの少し迷ったあと、彼は頭のターバンへ手をかけた。布が一巻きずつほどけていった。
「何を――」
途中で言葉が止まった。クィレルが背を向けたからだ。
後頭部に顔があった。
初めは、顔のように見える痣か何かだと思った。そうであってほしかった。白く平たい皮膚の中で、細い赤い目が開いた。鼻らしいものはほとんどなく、口元は人間の顔に無理やり裂け目だけを作ったようだった。
見たことのない顔なのに、誰なのかは分かった。禁じられた森で思い浮かべた名前。十年前に両親を殺し、ハリーだけを殺せなかった男。
ヴォルデモート。
死んでいなかった。身体を失ってなお、他人の身体へ取りつき、ここまで来ていた。
「驚いたか、ハリー・ポッター」
声は弱々しかった。それでも、クィレルの口から出ていた時とは違う。赤い目がまっすぐハリーを見ていた。
「私はまだ生きている。自分の身体を持つほどの力はないがね。クィレルは私を助けてくれた。おかげで、こうして君とも話せる」
クィレルの身体がゆっくり向きを変える。後頭部にある顔は、ハリーを見失わなかった。
だから石を渡せ、とヴォルデモートは言った。ハリーは首を振った。
両親のことまで持ち出された。ヴォルデモートの声は弱々しいのに、ハリーが一番聞きたくないところだけを選んで触れてくる。味方になれば助けてやる、とまで言った。
ハリーはもう一度、今度ははっきり首を振った。それで話は終わった。
クィレルが飛びかかってきた。肩を掴まれた勢いで背中から床へ倒れ、ポケットの石が腿へ痛いほど食い込む。取られる、と思った瞬間、ハリーの手は考えるより先にクィレルの腕へ伸びていた。
「――ああっ!」
クィレルが弾かれたように手を離した。
「ご主人様……手が……!」
自分の腕へ目を落とし、そこに広がった赤いただれを見たまま顔をこわばらせる。あれほど落ち着いていた表情から、初めて演技ではなさそうな怯えがのぞいた。
「なら、触れる必要はない。殺せ」
クィレルの顔から血の気が引いた。それでも逆らわなかった。杖へ手を伸ばす。
呪文を唱えられるより先に、ハリーは夢中でクィレルへ飛びつき、両手をその顔へ押しつけた。
「やめろ! 離せ――!」
掌の下で皮膚が熱くなった。クィレルが絶叫し、焦げたような臭いが鼻を刺す。振りほどかれても、ハリーはもう一度腕を掴んだ。
「殺せ!」
後頭部からヴォルデモートの声が響いた。
「殺せ、早く!」
何が起きているのかは分からない。自分も苦しかった。額の傷は脈打つたびに痛み、腕からは力が抜けていく。耳元でヴォルデモートが叫んでいたが、もう言葉として聞き取れなかった。
それでも、手を離せば石を取られる。そのことだけは分かった。
どれほど続いたのか、途中から時間の感覚もなくなった。鏡が二重に見え、床まで揺れているように感じ始めた頃、黒い炎の向こうで何かが動いた。
誰かが来た。そう思った直後、額にそれまでで一番ひどい痛みが走った。
次に目を開けた時、ハリーは医務室の天井を見ていた。
最初に目へ入ったのは、ベッドの脇に積まれた菓子の包みだった。その向こうにダンブルドアが座っているのを見つけ、ハリーは起き上がろうとして、すぐ枕へ戻された。
「クィレル先生は?」
ダンブルドアの顔から、いつもの微かな笑みが消えた。
「死んだよ、ハリー」
ハリーは毛布の上で手を止めた。
「ヴォルデモートは?」
「逃げた。私が部屋へ着いた時には、もうクィレルの身体を捨てていた。今の彼は肉体を持たず、とても弱い。だが、消えたわけではない」
「じゃあ、石は?」
「それについては、もう心配しなくていい」
ダンブルドアは、ニコラス・フラメルと相談して賢者の石を処分することにした、と話した。ハリーには信じられない決断だったが、今はそれより聞きたいことがあった。
「どうして、クィレル先生は僕に触れなかったんですか?」
自分が掴んだだけで、クィレルの皮膚は焼けた。あれだけは、思い返しても理由が分からない。
ダンブルドアは少しのあいだ黙っていた。
「君のお母さんは、君を守るために死んだ」
ハリーは顔を上げた。
「逃げることもできた。それでも、リリーは君の前に残った。自分の命より、君の命を選んだんだ」
「それが……魔法なんですか?」
「とても古い魔法だ。ヴォルデモートには、最後まで理解できなかった種類のね」
ダンブルドアの声は静かだった。
「深く愛された者には、その愛が跡を残すことがある。目には見えなくても、皮膚の上で確かめられなくても、守りは残る。ヴォルデモートをその身に入れたクィレルには、君に触れることができなかった」
ハリーは自分の掌を見た。何も残っていない。赤くもなければ、光ってもいない。ただ十一歳の自分の手が、毛布の上にあるだけだった。
母親の顔は、写真でしか知らない。
その人が十年前にしたことだけが、今も自分の中に残っている。
ハリーはしばらく何も言わなかった。
遙一が見舞いに来たのは、それから数日後だった。
ロンはとっくに退院していたが、「僕はもう平気だ」と言うたび無意識に頭へ手をやるので、そのたびにハーマイオニーから「だったら触らないの」と注意されていた。ハリーのベッドの周りには、菓子やカードが小さな山を作っている。包み紙の柄も大きさもばらばらで、どこから手をつけるべきか迷うほどだった。
「一番多いの、フレッドとジョージのせいだから」
ロンが山の一角を指した。
「中身は確認した方がいいわよ」
ハーマイオニーは冗談を言っている顔ではない。
「見舞い品ですよね?」
遙一が聞くと、ロンは一度だけ菓子の山を見た。
「たぶん」
ハリーが笑った。
しばらくは、誰が何を持ってきたのか、退院したら最初に何を食べたいか、そんな話が続いた。地下の出来事が出てきたのは、ロンが菓子の包みを一つ開け、ハーマイオニーに「病人の前で食べるの?」と睨まれた少し後だった。
最後の部屋にいたのはスネイプではなく、クィレルだった。箒へ呪いをかけていたのもクィレルで、スネイプはむしろそれを妨害していた。禁じられた森での会話も、石へ手を出すなと牽制していたものだったらしい。
「スネイプが?」
ロンは、ヴォルデモートの話へ進む前にそこで止まった。
「ダンブルドア先生がそう言ってた」
「僕たちを助けるような人には見えないけど」
「僕もそう思ってたよ」
ハリーまで同意すると、ハーマイオニーは二人を順番に見て、結局何も言わずに肩をすくめた。遙一は口を挟まず、その先を待った。
クィレルのターバンの下にはヴォルデモートがいた。肉体を失ったまま存在し、他人の身体へ取りつくことができるらしい。賢者の石を欲しがったのも、自分の身体を取り戻すためだったという。
禁じられた森でユニコーンの血を飲んでいたものと、石を狙う誰かが、そこで初めて一つに重なった。窓の外では、禁じられた森の木々がもう夏に近い色になっていた。春先には枝の向こうまで見えていたのに、今は葉が重なり、森の奥をすっかり隠している。
「驚かないの?」
ロンが聞いた。
「驚いていますよ」
「全然そう見えない」
「顔に出す必要があります?」
「こういう時くらいあるだろ」
ハリーが少し笑ったので、遙一も口元だけで応じた。
驚いていないわけではなかった。むしろ、一年かけて集めた材料の読み方を、かなり大きく外している。
クィレルには何度か違和感を覚えた。ハロウィーンでは倒れ方と息の乱れ方を見たし、クィディッチでは、ハリーだけを長く追う視線にも気づいていた。それでも、その違和感を賢者の石を狙う犯人へ結びつけるだけの材料は、最後まで揃わなかった。
一方、スネイプを疑う材料は十分にあった。三頭犬に噛まれた脚、試合中の呪文、禁じられた森での会話。見たものも、聞いたものも、ほとんど間違ってはいない。ただ、それが何を意味するのかという部分をいくつか逆に読んだ。
遙一には、それが面白かった。クィレルは一年近く、臆病で頼りない教師として見られ続けた。反対にスネイプは、誰から見ても嫌な教師でありながら、その嫌っているハリーを守っていた。
人間は、自分について他人に何を信じさせるかまで選べることがある。そして見る側も、一度与えた意味を、いつの間にか事実そのものと取り違える。
観察したものと、そこへ貼りつけた意味は、分けておいた方がいい。
「ヨーイチ?」
ハリーに呼ばれ、遙一は視線を戻した。
「何でもありません」
「そういう顔じゃなかったけど」
「では、次から気をつけます」
「絶対に気をつけないやつだ、それ」
ロンの指摘には、遙一も反論しなかった。
学期最後の日、大広間は朝から緑と銀で埋まっていた。天井近くにはスリザリンの旗が何枚も下がり、壁には大きな蛇の紋章まで掛けられている。寮杯の結果を発表する前からこれでは、秘密にする気はなかったらしい。
当然、ドラコは朝から機嫌が良かった。
「今年は最初からほとんど決まってたんだよ。父上も――」
父親の話まで順調に進み、そのまま夕食まで同じ調子で終わるはずだった。ところが、食事の終わりにダンブルドアが立ち上がった。
最後に加えるべき点数がある。
その一言で、スリザリンのテーブルから幾つかの笑い声が消えた。ハーマイオニー、ロン、そしてハリー。名前が呼ばれるたび、グリフィンドールのテーブルから歓声が上がり、赤と金の一角だけが先に祝勝会を始めたような騒ぎになる。それでもまだスリザリンが上だと分かると、ドラコは誰にも気づかれない程度に肩を下ろした。
最後にネビルの名前が呼ばれた。敵に立ち向かう勇気だけでなく、友人に立ち向かう勇気も必要なのだと、ダンブルドアは言った。
点数が加わる。
一拍遅れて、大広間が弾けた。
天井近くの緑と銀が赤と金へ変わり、壁を這っていた蛇の紋章まで獅子へ変わる。グリフィンドール生は椅子の上まで立ち上がり、スリザリン生の半分は呆然と旗を見上げ、残り半分はほとんど同時に文句を言い始めた。
「そんなのありかよ!」
ドラコも例外ではなかった。
「あるから変わったんでしょうね」
「そういう意味じゃない!」
遙一はジュースの杯を置き、赤と金になった大広間を見上げた。数分前まで動かないように見えていた勝敗が、最後の最後でひっくり返っている。
自分の寮が負けたこと自体は残念だったが、終わり方としては悪くなかった。
帰りのホグワーツ特急は、入学の日とは比べものにならないほど騒がしかった。制服から着替えた生徒が廊下を行き来し、開け放したコンパートメントからは夏休みの約束や、家へ帰ったら何を食べるかという話が絶えず漏れてくる。菓子の包み紙を踏んだ誰かが滑りかけ、その隣ではふくろうの籠を抱えた上級生が、通路を塞ぐ一年生をまとめて追い払っていた。
「手紙くらい送れよ」
ダーズリー家へ帰ってからの話をあまりしたがらないハリーに、ロンが言った。
「ふくろうで?」
「他に何で送るんだよ」
「普通の郵便っていうのもあるの」
ハーマイオニーが横から口を挟む。
「知ってるよ」
「今、一瞬考えたでしょう」
「考えてない」
二人の言い争いを聞きながら、遙一は窓際で一輪の薔薇を指先に挟んでいた。赤い造花だった。
この身体になったばかりの頃は、それ一本がひどく扱いにくかった。茎の長さも、指の幅も、それまで覚えていた感覚と合わず、何度も床へ落とした。道具を短くし、持ち方を変え、それでも駄目なら動かし方まで作り直した。今は、ロンの声を聞きながらでも指が勝手に必要な位置へ動く。
「それ、どこから出したんだ?」
ようやく気づいたロンが、薔薇を指さした。
「さあ」
「さあって――」
遙一は薔薇を右手から左手へ渡した。ハリーの目がそちらへ動く。
次の瞬間には、もうなかった。
ロンは両手を見比べ、ハーマイオニーは遙一の袖へ目をやった。ハリーだけが少し遅れて首を傾げる。
「今の魔法?」
遙一は答えなかった。杖はトランクの中に入っている。
やがて列車が速度を落とし始め、窓の外には魔法とは関係のない家々が増えていった。遠くにキングズ・クロスの屋根が見え、通路では誰かが早くも荷物を降ろし始めている。
一年目で分かったことは多い。分からなかったことも、まだ残っている。
それなら十分だった。
遙一は三人へ軽く笑った。
「Good Luck」