Good Luck, Mr. Magician   作:evejanjan

2 / 33
第2話 小さな手

 翌朝、硬貨はまだ机の上にあった。

 

 昨夜、何度拾っても床へ落ちた一枚である。朝の光の中で見ると、別に昨日より小さくなっているわけでも、遙一の指が一晩で長くなっているわけでもなかった。

 

 当然の話だった。

 

 それでも遙一は椅子へ座ると、朝食へ呼ばれるまでのあいだ、同じ動作を繰り返した。親指で硬貨を送り、掌へ収め、鏡へ角度を変えて確認する。正面から隠れても横から見えれば失敗であり、指に力を入れすぎれば手つきそのものが不自然になる。

 

 十数回目には床へ落とすことは減ったが、成功と呼ぶにはほど遠かった。

 

「ずいぶん気に入ったのね、それ」

 

 朝食の席で、昨日の女が言った。

 

 遙一はパンの横へ置いた硬貨を見た。どうやら食卓へまで持ってきていたらしい。

 

「もう少し小さいものはありますか?」

 

「小さい硬貨?」

 

「硬貨でなくても構いません。同じくらい丸くて、薄いものなら」

 

 女は少し考え、裁縫箱から古い金属のボタンをいくつか出してくれた。

 

 その日の午後、遙一は硬貨を使うのをやめた。

 

 諦めたわけではない。

 

 今の手に合わない道具を使い続ける理由がなかっただけである。

 

 金属のボタンは硬貨よりひと回り小さく、指の付け根へ収めても余計な力を必要としなかった。重さが足りないため、以前と同じ感覚で動かそうとすると今度は指先から滑りすぎたが、それも何度か試せば調整できた。

 

 ところが、問題は道具の大きさだけではなかった。

 

 遙一は前世で使っていたのと同じ速さで指を動かそうとして、自分の手がひどく忙しなく見えることに気づいた。

 

 大人の長い指なら、わずかな動きで済んでいた。今の短い指では、同じ場所まで物を送るために余計な動作が必要になる。それを同じ時間へ押し込めれば、当然、手元だけが妙にせわしない。

 

 鏡の中の少年は、何かを隠しているように見えた。

 

 これはいけない。

 

 奇術で最も困るのは、手が遅いことではない。

 

 観客に「今、何かした」と思わせることだった。

 

 遙一はしばらく鏡を見つめ、それから速く動くことをやめた。

 

 指先でボタンを転がし、失敗したふりをして一度落とす。拾う時には慌てず、むしろ子供らしく両手を使う。手の中へ何かを隠そうとするのではなく、掌そのものを相手へ見せる。

 

 小さな掌だった。

 

 こんなところへ何かを隠せるはずがない、と見る側が勝手に思ってくれるほどに。

 

「……これは、悪くありませんね」

 

 前世の身体なら、わざわざ使う必要のなかった方法だった。

 

 遙一はボタンをもう一度指先に乗せた。

 

 

 しばらくすると、部屋には子供の玩具にしては妙なものが増えた。

 

 小さな金属片。幅を狭く切ったカード。軽い布。色の違う糸。庭からもらった短い薔薇の茎。掌へ収まる程度の木箱。

 

 家の者には、手先を使う遊びが好きになったと思われていた。

 

 実際、それで困ることはなかった。

 

 大人たちは子供が紙を切っていても、糸を結んでいても、よほど危険なことをしない限り気に留めない。魔法使いの家では、勝手に歌い出すティーポットや、持ち主の後ろをついて歩くスリッパの方がよほど注意を引いた。

 

 ある日の午後、廊下の肖像画から、以前遙一を「変な子供」と呼んだ老人が顔を出した。

 

「またそれか」

 

 遙一は椅子に座り、細く切ったカードを片手で扱っていた。

 

「ええ」

 

「杖もないのに、よく飽きんな」

 

「杖がないから面白いんですよ」

 

「ますます変な子供だ」

 

 肖像画はそう言いながら、結局その場を離れなかった。

 

 遙一はカードを一枚、表向きに見せた。

 

「覚えましたか?」

 

「赤い王様だろう」

 

「では」

 

 カードを束へ戻す。

 

 ゆっくり混ぜる。

 

 老人は目を細めた。

 

「今、下へやったな」

 

「そう見えました?」

 

「見えたとも」

 

 遙一が手を開くと、そこにカードはなかった。

 

 肖像画の老人は黙り、ふいに額縁の外へ姿を消した。

 

 数秒後、二つ隣の肖像画から戻ってきた老人の手には、絵の中に置かれていたらしい赤い絵札が一枚あった。

 

「ほら見ろ、こっちに来たぞ」

 

 老人は得意そうにそれを掲げた。

 

 遙一も一瞬だけ黙った。

 

「……それは私のカードではありませんね」

 

 実物のカードは現実の机の下に落ちていた。

 

 どうやら肖像画の方が勝手に話へ参加したらしい。

 

「同じ赤い王様だ」

 

「似ているだけでしょう」

 

「細かい子供だな」

 

 老人は不満そうに鼻を鳴らした。

 

 遙一は床のカードを拾いながら、小さく笑った。

 

 魔法のある家では、手品の練習相手まで時々勝手なことをする。

 

 

 月日が過ぎるにつれ、遙一の手は少しずつ大きくなった。

 

 だが、以前の身体へ近づくのを待つ気はなかった。

 

 カードが広すぎるなら幅を変えた。布が袖口でもたつくなら薄くした。薔薇が重ければ茎を短くし、箱が掌からはみ出すなら箱の方を作り直した。

 

 何より変えたのは、動きだった。

 

 大人の高遠遙一と同じように見せようとするのをやめた。

 

 子供が物珍しそうに硬貨を弄る動き。両手いっぱいにカードを持ち、少し持て余しているように見える姿勢。何かを落としそうになって慌てて受ける仕草。

 

 そのどれもが、以前なら必要のなかったものだった。

 

 そして、そのどれもが使えた。

 

 見る側は、巧妙に隠されたものより、「こんな小さな手には隠せない」と信じたものを見落とした。

 

 遙一はそのことを気に入った。

 

 布と薔薇は、もう少し時間がかかった。

 

 以前なら袖口を滑らせるだけで済んだ薄布も、今の腕では少し長いだけで肘に引っかかった。薔薇も同じで、見た目には軽そうな一輪が、小さな手では思った以上に重心を主張する。花を隠そうとして茎を折り、指先へ青い匂いが移ったこともあった。

 

 そこで遙一は、長い布を短く切り、薔薇も庭師から茎の短いものを分けてもらった。

 

「また花かい。好きなのか?」

 

 そう言って庭師は笑った。

 

「使いやすいので」

 

「花に向かって、ずいぶんな褒め方をする子だな」

 

 そう言われ、遙一は薔薇を見た。花弁には朝露が残り、茎は切ったばかりでまだ湿っている。

 

「綺麗だとも思っていますよ」

 

 それは嘘ではなかった。

 

 ただ、綺麗であることと、使いやすいことは両立する。

 

 遙一にとっては、それで十分だった。

 

 

 うまくいくものが増える一方で、失敗もなくならなかった。

 

 ある日、細い糸を使って小さな紙片を動かしていた時だった。

 

 指先へかかる張りは十分に分かっていたはずなのに、遙一は反射的に、前世の感覚で手首を引いた。

 

 ぷつん、と軽い音がした。

 

 紙片が床へ落ちる。

 

 切れた糸の端が指へ食い込み、細い赤い線を残した。

 

 遙一は動かなかった。

 

 痛みはたいしたことがない。腹立たしかったのは、失敗の理由が分かりきっていることだった。

 

 頭の中に残っている手は、もっと大きく、もっと重く、もっと強い。ほんのわずかな指の動きだけで、同じ張力を作ることができた。

 

 それを今の身体が真似しようとしている。

 

 逆だった。

 

 身体を記憶へ合わせるのではなく、記憶の方を身体へ合わせなければならない。

 

 遙一は切れた糸を拾い、昨日まで使っていた長さより少し短く切った。取り付ける位置も変え、手首で引くのをやめて、指先だけで必要な張りを作る。

 

 一度目は足りなかった。

 

 二度目は強すぎた。

 

 三度目、紙片が机の上をほんの数センチ滑った。

 

 それでよかった。

 

 昔と同じ動きではない。

 

 昔と同じ道具でもない。

 

 結果だけが、同じように自然だった。

 

 

 それからさらに季節がいくつか巡った。

 

 暖炉の上の飾りが変わり、庭の薔薇が咲いては枯れ、肖像画の老人は相変わらず廊下をうろついていた。

 

 ある夕方、遙一は家の者たちが茶を飲んでいる部屋の隅で、小さな金属片を弄んでいた。

 

「ヨーイチ、また手品?」

 

 一人の男が笑った。

 

「ええ。少しだけ」

 

「今度は何を消すんだ?」

 

「何も」

 

 遙一は両手を開いて見せた。

 

 小さな手には、確かに何もない。

 

「今日は失敗か?」

 

「そうかもしれませんね」

 

 男は笑い、また会話へ戻った。

 

 遙一もそれ以上何もしなかった。

 

 しばらくして茶の時間が終わり、男が上着を取ろうとした時、胸ポケットから小さな金属音がした。

 

「ん?」

 

 手を入れる。

 

 出てきたのは、先ほど遙一が弄んでいた金属片だった。

 

 男はそれを見てから、部屋の反対側にいる遙一を見た。

 

「いつ入れた?」

 

「さあ」

 

「ずっとそこに座っていただろう」

 

「そうですね」

 

「じゃあ、どうやって――」

 

 男は途中で口を閉じ、自分の袖やポケットを確かめ始めた。

 

 遙一は笑った。

 

 もちろん、魔法は使っていない。

 

 大人が「子供の遊び」と思って見なくなった瞬間があった。ただそれだけだった。

 

 以前の高遠遙一なら、もっと速く、もっと複雑に、もっと見事に同じことができただろう。

 

 だが、今の遙一には今のやり方がある。

 

 硬貨の縁が指腹へ当たる感覚も、薄いカードが指の間でわずかにしなる感触も、糸が張る直前の細かな抵抗も、いつの間にかこの小さな手のものになっていた。

 

 昔の身体を取り戻したわけではない。

 

 それを取り戻す必要が、なくなったのだ。

 

 遙一は自分の掌を見た。

 

 この身体で目覚めたばかりの頃には、一枚の硬貨さえ満足に隠せなかった手だった。

 

 今では、その小ささまで手札になっている。

 

 窓の外では、庭師が杖を振るたび、薔薇の蔓が支柱へ巻きついていった。

 

 遙一はしばらくそれを眺め、それから部屋の壁際へ並ぶ本棚へ視線を移した。

 

 この世界について、まだ知らないことは多い。

 

 この家には、幸いなことに、本がたくさんあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。