Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
翌朝、硬貨はまだ机の上にあった。
昨夜、何度拾っても床へ落ちた一枚である。朝の光の中で見ると、別に昨日より小さくなっているわけでも、遙一の指が一晩で長くなっているわけでもなかった。
当然の話だった。
それでも遙一は椅子へ座ると、朝食へ呼ばれるまでのあいだ、同じ動作を繰り返した。親指で硬貨を送り、掌へ収め、鏡へ角度を変えて確認する。正面から隠れても横から見えれば失敗であり、指に力を入れすぎれば手つきそのものが不自然になる。
十数回目には床へ落とすことは減ったが、成功と呼ぶにはほど遠かった。
「ずいぶん気に入ったのね、それ」
朝食の席で、昨日の女が言った。
遙一はパンの横へ置いた硬貨を見た。どうやら食卓へまで持ってきていたらしい。
「もう少し小さいものはありますか?」
「小さい硬貨?」
「硬貨でなくても構いません。同じくらい丸くて、薄いものなら」
女は少し考え、裁縫箱から古い金属のボタンをいくつか出してくれた。
その日の午後、遙一は硬貨を使うのをやめた。
諦めたわけではない。
今の手に合わない道具を使い続ける理由がなかっただけである。
金属のボタンは硬貨よりひと回り小さく、指の付け根へ収めても余計な力を必要としなかった。重さが足りないため、以前と同じ感覚で動かそうとすると今度は指先から滑りすぎたが、それも何度か試せば調整できた。
ところが、問題は道具の大きさだけではなかった。
遙一は前世で使っていたのと同じ速さで指を動かそうとして、自分の手がひどく忙しなく見えることに気づいた。
大人の長い指なら、わずかな動きで済んでいた。今の短い指では、同じ場所まで物を送るために余計な動作が必要になる。それを同じ時間へ押し込めれば、当然、手元だけが妙にせわしない。
鏡の中の少年は、何かを隠しているように見えた。
これはいけない。
奇術で最も困るのは、手が遅いことではない。
観客に「今、何かした」と思わせることだった。
遙一はしばらく鏡を見つめ、それから速く動くことをやめた。
指先でボタンを転がし、失敗したふりをして一度落とす。拾う時には慌てず、むしろ子供らしく両手を使う。手の中へ何かを隠そうとするのではなく、掌そのものを相手へ見せる。
小さな掌だった。
こんなところへ何かを隠せるはずがない、と見る側が勝手に思ってくれるほどに。
「……これは、悪くありませんね」
前世の身体なら、わざわざ使う必要のなかった方法だった。
遙一はボタンをもう一度指先に乗せた。
しばらくすると、部屋には子供の玩具にしては妙なものが増えた。
小さな金属片。幅を狭く切ったカード。軽い布。色の違う糸。庭からもらった短い薔薇の茎。掌へ収まる程度の木箱。
家の者には、手先を使う遊びが好きになったと思われていた。
実際、それで困ることはなかった。
大人たちは子供が紙を切っていても、糸を結んでいても、よほど危険なことをしない限り気に留めない。魔法使いの家では、勝手に歌い出すティーポットや、持ち主の後ろをついて歩くスリッパの方がよほど注意を引いた。
ある日の午後、廊下の肖像画から、以前遙一を「変な子供」と呼んだ老人が顔を出した。
「またそれか」
遙一は椅子に座り、細く切ったカードを片手で扱っていた。
「ええ」
「杖もないのに、よく飽きんな」
「杖がないから面白いんですよ」
「ますます変な子供だ」
肖像画はそう言いながら、結局その場を離れなかった。
遙一はカードを一枚、表向きに見せた。
「覚えましたか?」
「赤い王様だろう」
「では」
カードを束へ戻す。
ゆっくり混ぜる。
老人は目を細めた。
「今、下へやったな」
「そう見えました?」
「見えたとも」
遙一が手を開くと、そこにカードはなかった。
肖像画の老人は黙り、ふいに額縁の外へ姿を消した。
数秒後、二つ隣の肖像画から戻ってきた老人の手には、絵の中に置かれていたらしい赤い絵札が一枚あった。
「ほら見ろ、こっちに来たぞ」
老人は得意そうにそれを掲げた。
遙一も一瞬だけ黙った。
「……それは私のカードではありませんね」
実物のカードは現実の机の下に落ちていた。
どうやら肖像画の方が勝手に話へ参加したらしい。
「同じ赤い王様だ」
「似ているだけでしょう」
「細かい子供だな」
老人は不満そうに鼻を鳴らした。
遙一は床のカードを拾いながら、小さく笑った。
魔法のある家では、手品の練習相手まで時々勝手なことをする。
月日が過ぎるにつれ、遙一の手は少しずつ大きくなった。
だが、以前の身体へ近づくのを待つ気はなかった。
カードが広すぎるなら幅を変えた。布が袖口でもたつくなら薄くした。薔薇が重ければ茎を短くし、箱が掌からはみ出すなら箱の方を作り直した。
何より変えたのは、動きだった。
大人の高遠遙一と同じように見せようとするのをやめた。
子供が物珍しそうに硬貨を弄る動き。両手いっぱいにカードを持ち、少し持て余しているように見える姿勢。何かを落としそうになって慌てて受ける仕草。
そのどれもが、以前なら必要のなかったものだった。
そして、そのどれもが使えた。
見る側は、巧妙に隠されたものより、「こんな小さな手には隠せない」と信じたものを見落とした。
遙一はそのことを気に入った。
布と薔薇は、もう少し時間がかかった。
以前なら袖口を滑らせるだけで済んだ薄布も、今の腕では少し長いだけで肘に引っかかった。薔薇も同じで、見た目には軽そうな一輪が、小さな手では思った以上に重心を主張する。花を隠そうとして茎を折り、指先へ青い匂いが移ったこともあった。
そこで遙一は、長い布を短く切り、薔薇も庭師から茎の短いものを分けてもらった。
「また花かい。好きなのか?」
そう言って庭師は笑った。
「使いやすいので」
「花に向かって、ずいぶんな褒め方をする子だな」
そう言われ、遙一は薔薇を見た。花弁には朝露が残り、茎は切ったばかりでまだ湿っている。
「綺麗だとも思っていますよ」
それは嘘ではなかった。
ただ、綺麗であることと、使いやすいことは両立する。
遙一にとっては、それで十分だった。
うまくいくものが増える一方で、失敗もなくならなかった。
ある日、細い糸を使って小さな紙片を動かしていた時だった。
指先へかかる張りは十分に分かっていたはずなのに、遙一は反射的に、前世の感覚で手首を引いた。
ぷつん、と軽い音がした。
紙片が床へ落ちる。
切れた糸の端が指へ食い込み、細い赤い線を残した。
遙一は動かなかった。
痛みはたいしたことがない。腹立たしかったのは、失敗の理由が分かりきっていることだった。
頭の中に残っている手は、もっと大きく、もっと重く、もっと強い。ほんのわずかな指の動きだけで、同じ張力を作ることができた。
それを今の身体が真似しようとしている。
逆だった。
身体を記憶へ合わせるのではなく、記憶の方を身体へ合わせなければならない。
遙一は切れた糸を拾い、昨日まで使っていた長さより少し短く切った。取り付ける位置も変え、手首で引くのをやめて、指先だけで必要な張りを作る。
一度目は足りなかった。
二度目は強すぎた。
三度目、紙片が机の上をほんの数センチ滑った。
それでよかった。
昔と同じ動きではない。
昔と同じ道具でもない。
結果だけが、同じように自然だった。
それからさらに季節がいくつか巡った。
暖炉の上の飾りが変わり、庭の薔薇が咲いては枯れ、肖像画の老人は相変わらず廊下をうろついていた。
ある夕方、遙一は家の者たちが茶を飲んでいる部屋の隅で、小さな金属片を弄んでいた。
「ヨーイチ、また手品?」
一人の男が笑った。
「ええ。少しだけ」
「今度は何を消すんだ?」
「何も」
遙一は両手を開いて見せた。
小さな手には、確かに何もない。
「今日は失敗か?」
「そうかもしれませんね」
男は笑い、また会話へ戻った。
遙一もそれ以上何もしなかった。
しばらくして茶の時間が終わり、男が上着を取ろうとした時、胸ポケットから小さな金属音がした。
「ん?」
手を入れる。
出てきたのは、先ほど遙一が弄んでいた金属片だった。
男はそれを見てから、部屋の反対側にいる遙一を見た。
「いつ入れた?」
「さあ」
「ずっとそこに座っていただろう」
「そうですね」
「じゃあ、どうやって――」
男は途中で口を閉じ、自分の袖やポケットを確かめ始めた。
遙一は笑った。
もちろん、魔法は使っていない。
大人が「子供の遊び」と思って見なくなった瞬間があった。ただそれだけだった。
以前の高遠遙一なら、もっと速く、もっと複雑に、もっと見事に同じことができただろう。
だが、今の遙一には今のやり方がある。
硬貨の縁が指腹へ当たる感覚も、薄いカードが指の間でわずかにしなる感触も、糸が張る直前の細かな抵抗も、いつの間にかこの小さな手のものになっていた。
昔の身体を取り戻したわけではない。
それを取り戻す必要が、なくなったのだ。
遙一は自分の掌を見た。
この身体で目覚めたばかりの頃には、一枚の硬貨さえ満足に隠せなかった手だった。
今では、その小ささまで手札になっている。
窓の外では、庭師が杖を振るたび、薔薇の蔓が支柱へ巻きついていった。
遙一はしばらくそれを眺め、それから部屋の壁際へ並ぶ本棚へ視線を移した。
この世界について、まだ知らないことは多い。
この家には、幸いなことに、本がたくさんあった。