Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
二月十四日の朝、大広間へ入った遙一は、入口で一度だけ足を止めた。
壁という壁が桃色の花で覆われている。天井からはハート型の紙吹雪が降り、普段なら朝食の匂いが先に届くはずの広間に、今日は甘い香水のような匂いまで混じっていた。
「……何ですか、これは」
「ロックハートだよ。見れば分かるだろ」
先に席へ着いていたドラコが、ひどく不機嫌そうな顔で答えた。
「見ても理由までは分かりません」
その答えを待っていたかのように、教職員席の中央でロックハートが立ち上がった。派手な桃色のローブを着ている。胸元までいつも以上に輝いて見えるのは、照明のせいだけではなさそうだった。
今日がバレンタインデーであること。学校全体で祝うべき素晴らしい日であること。そして、十二人の小人を「愛の使者」として用意したこと。
最後の説明が終わったところで、近くを歩いていた一人の小人が机の脚へぶつかり、転びそうになった。
「愛の使者って、あれか?」
ゴイルが訊く。
「他にも同じ格好をしたものがいなければ」
遙一が答えると、クラッブが小人をしばらく見つめた。
「菓子やったら来なくなるかな」
「試すなよ」
ドラコが止めた。
遙一は席に着き、紅茶を注いだ。ロックハートは満足そうに広間を見回している。自分が祝いたいものを学校全体の行事へ変えることについては、相変わらず迷いがないらしい。
朝食が半分ほど進んだ頃、一年生の女子が二人、スリザリンのテーブルの端で立ち止まった。
一人が小さな包みを持っている。
「グリンデルバルド」
呼ばれて顔を上げると、包みを持った方が急に隣の友人を見た。
「えっと、これ」
「私じゃないからね」
「言わなくていいって!」
小声で揉めたあと、包みが差し出される。
遙一は受け取った。
「ありがとうございます」
「……それだけ?」
隣の友人が言った。
渡した本人が慌てて袖を引く。
「いいから!」
遙一は包みを一度見てから、彼女へ視線を戻した。
「昨日、厨房の前で落とした羽根ペンは見つかりましたか?」
「え?」
「探していたでしょう」
一瞬きょとんとしたあと、彼女は笑った。
「見つかった。階段の下に落ちてた」
「それはよかった」
それだけ言うと、二人はさっきより少し賑やかに去っていった。
ドラコが紅茶のカップを置く。
「何で羽根ペンの話になるんだ? いや、それより、何でそんなこと覚えてるんだよ」
「困っていたので目についただけですよ」
「それで覚えてるのがおかしいって言ってるんだ」
遙一は包みを鞄へ入れた。
その後も、カードが一枚と、小さな菓子が二つ届いた。送り主が人前で名前を読まれたくなさそうならその場では開かず、冗談半分で渡してきた上級生には同じ調子で礼を返す。どれも大したことではない。相手が何を期待し、何をされたくないかは、顔を見ればだいたい分かる。
「お前、ああいうの慣れてるよな。別に大したこと言ってないのに、何で向こうはあんな嬉しそうなんだ?」
ドラコが言った。
「自分のことを覚えていたと分かれば、悪い気はしないでしょう」
ドラコは少し黙ってから、遙一を見た。
「……お前、本当に同い年だよな?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
クラッブとゴイルまでこちらを見たので、遙一は答えず紅茶へ戻った。
昼前の廊下では、ロックハートの「愛の使者」が朝よりずっと迷惑な存在になっていた。
角を曲がった先から騒ぎ声が聞こえ、遙一が足を止めると、人だかりの中心にハリーがいた。逃げようとしているのに、小人がローブへしがみついて離れない。
「放せって! いらないから!」
ハリーが振りほどこうとする。
「配達だ! 歌の配達だ! 受取人に拒否権はない!」
周囲から笑い声が上がった。
遙一は少し離れたところで見ていた。助けが必要というより、助けに入ればかえって目立ちそうだった。
小人はついにハリーを床へ押さえつけ、甲高い声で歌い始めた。
何人かが吹き出し、ドラコの笑い声も混じる。歌が終わる頃には、ハリーの鞄から教科書や羽根ペンが床へ散らばっていた。
「ポッター、人気者は大変だな」
ドラコが笑いながら言い、落ちていた黒い小さな本を拾い上げた。
「返せよ、マルフォイ」
ハリーが立ち上がる。
「何だこれ。ずいぶん古いな」
「関係ないだろ」
ハリーが取り返そうとし、少し揉み合った末に黒い本は本人の手へ戻った。
人だかりが散り始めたところで、遙一はハリーのそばを通った。
「人気者も大変ですね」
「笑ってるだろ、ヨーイチまで」
「少しだけです」
ロンが横で腹を抱えていたので、ハリーはそちらを先に睨んだ。
遙一は黒い本へ一度だけ目を向けた。表紙に目立つ題名はない。ただ古い日記帳に見える。
それ以上、気にする理由はなかった。
翌朝の大広間には、まだ昨日の名残が残っていた。桃色の紙片が梁の近くに一枚だけ引っかかり、朝食の席では小人の話で何度目か分からない笑いが起きている。
「ポッターの歌、もう一回誰か覚えてないのか?」
近くの席で誰かが言うと、ドラコが吹き出した。
「やめろ。朝から聞いたら食欲がなくなる」
「昨日はあんなに楽しそうだったじゃないか」
「本人の前だから面白かったんだよ」
遙一は紅茶を飲みながら聞いていた。秘密の部屋の噂が消えたわけではない。それでも、一日だけ学校中を別の話題で騒がせたロックハートの手腕については、本人が意図した形かどうかを別にすれば認めてもよさそうだった。
朝食を終えて廊下へ出たところで、ハリーに呼び止められた。
「ヨーイチ、ちょっといい?」
「ええ」
ロンとハーマイオニーも一緒だった。ハリーは人の少ない窓際まで移動すると声を落とした。
「昨日の、あの日記なんだけど。ヨーイチ、見てた?」
「ドラコが拾ったものですね。少しだけ」
「じゃあ、何で助けてくれなかったんだよ」
「十分な人数が見ていましたから」
「見てるだけで、誰も助けてくれなかったけどね」
ロンがまた笑いそうになり、ハリーに睨まれて咳払いをした。
「それで、その日記がどうかしたんですか?」
「五十年くらい前のものみたいなんだけど、何も書いてないんだ。ロンは『それじゃ日記じゃない』って言ってるけど」
「何も書いてなくても、表紙に名前と年があるのよ。持ち主はT・M・リドルで、日付は五十年前」
ハーマイオニーが補足する。
「それで?」
遙一が訊くと、ハリーは一度ロンとハーマイオニーを見た。
「文字を書くと、返事をするんだ。書いた文字が消えて、代わりに向こうから文字が出てくる。質問したら答えるし、僕が何を書いたかも分かってる」
遙一は少しだけ目を細めた。
「返事をする?」
「最初は誰かの悪戯かと思ったんだけど、書いたそばからインクを吸い込むみたいに消えるの。普通の仕掛けには見えないわ」
ハーマイオニーが言う。
「普通じゃない仕掛けならどうなんだ? ヨーイチに話すなら、そこも気にするだろ」
「ロン」
ハーマイオニーに咎められたが、遙一は笑った。
「確かに気にはなります。ただ、文字が返ってくること自体は、それほど奇妙でもありませんね」
三人の顔が揃ってこちらを向いた。
「いや、十分変だろ」
「魔法界には喋る肖像画があります。幽霊もいますし、記憶を保存して後から見せる魔法もある。紙の上に文字が現れるという形式だけで、特別なものと決めるのは早いでしょう」
ロンは少し考えてから、「言われると、そうか」と呟いた。
「納得するの?」
「だって、組分け帽子は喋るだろ」
「基準がそこなのね」
ハーマイオニーが呆れたように言う。
遙一が気になったのは、日記が返事をすることより、その返事を作っているものが何なのかだった。決められた答えを返す仕掛けなのか、過去の誰かの記憶なのか、それとも相手に応じて新しい返事を組み立てる何かなのか。同じ現象でも、中に保存されているものは違う。
「その日記は、自分が誰なのか知っているんですか? 自分について、どこまで話しました?」
ハリーが少し驚いたように瞬きをした。
「リドルだって名乗ったよ。トム・リドル。五十年前の生徒だったってことくらいかな」
「今いる場所や、今年が何年かは?」
「ホグワーツだってことは書いた。でも、今年が何年かまでは聞いてない」
遙一は頷いた。
「何が面白いの?」
「その日記の中に、何がどの程度まで残っているのかです」
ロンが首を傾げる。
「本人じゃないのか?」
「本人とは、どこから本人でしょう」
「また始まった」
ロンが小さく言い、ハーマイオニーが肘でつついた。
「名前と記憶があれば本人なのか。考え方まで残っていれば本人なのか。五十年前には知らなかったことを今教えた時、それを理解して次の返事へ使えるなら、それは単なる記録より少し複雑です」
ハリーは鞄へ目を落とした。
「じゃあ、見てみる? 興味あるんだろ」
「興味はありますが、結構です。あなたが見つけたものですから」
返事が早かったので、三人とも少し驚いた。
ロンが露骨に怪訝な顔をする。
「絶対借りたがると思った。ハリーもそう思っただろ?」
「まあ、ちょっと。だってヨーイチだし」
ハーマイオニーまで否定しなかったので、遙一は少し笑った。
「話したくなったことがあれば教えてください。その方が、あなたが何を聞いて、何を見たのかも分かります」
「ほら、やっぱり最後が怪しい」
「最初からこういう人でしょう」
ハーマイオニーがそう言うと、ロンも「それもそうか」と納得した。
「納得しないでください」
今度はハリーが笑った。
午後、大広間を出るところでジニー・ウィーズリーを見かけた。友人らしい一年生と歩いていた彼女は、上級生の集団を避けて廊下の端へ寄り、近くを通ったロンへ一度だけ顔を上げた。以前より口数が少ないようにも見えたが、疲れていることも、人混みを避けることも、今のホグワーツでは珍しくない。遙一はそれ以上の意味を置かなかった。
夜、談話室で読みかけの本を開いた時、遙一は昼間の話を一度だけ思い返した。五十年前の名前を持ち、白紙のまま言葉を返す日記。もし、当時は知らなかった情報まで受け取り、それを次の返事へ使えるのなら、残されているものは単なる記録ではない。
ただし、それはまだ確かめていない。日記そのものを見てもいなければ、ハリーから聞いた話以上の材料もない。
遙一はページをめくった。今は、それで十分だった。