Good Luck, Mr. Magician   作:evejanjan

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第9話 白紙の日記

 二月十四日の朝、大広間へ入った遙一は、入口で一度だけ足を止めた。

 

 壁という壁が桃色の花で覆われている。天井からはハート型の紙吹雪が降り、普段なら朝食の匂いが先に届くはずの広間に、今日は甘い香水のような匂いまで混じっていた。

 

「……何ですか、これは」

 

「ロックハートだよ。見れば分かるだろ」

 

 先に席へ着いていたドラコが、ひどく不機嫌そうな顔で答えた。

 

「見ても理由までは分かりません」

 

 その答えを待っていたかのように、教職員席の中央でロックハートが立ち上がった。派手な桃色のローブを着ている。胸元までいつも以上に輝いて見えるのは、照明のせいだけではなさそうだった。

 

 今日がバレンタインデーであること。学校全体で祝うべき素晴らしい日であること。そして、十二人の小人を「愛の使者」として用意したこと。

 

 最後の説明が終わったところで、近くを歩いていた一人の小人が机の脚へぶつかり、転びそうになった。

 

「愛の使者って、あれか?」

 

 ゴイルが訊く。

 

「他にも同じ格好をしたものがいなければ」

 

 遙一が答えると、クラッブが小人をしばらく見つめた。

 

「菓子やったら来なくなるかな」

 

「試すなよ」

 

 ドラコが止めた。

 

 遙一は席に着き、紅茶を注いだ。ロックハートは満足そうに広間を見回している。自分が祝いたいものを学校全体の行事へ変えることについては、相変わらず迷いがないらしい。

 

 朝食が半分ほど進んだ頃、一年生の女子が二人、スリザリンのテーブルの端で立ち止まった。

 

 一人が小さな包みを持っている。

 

「グリンデルバルド」

 

 呼ばれて顔を上げると、包みを持った方が急に隣の友人を見た。

 

「えっと、これ」

 

「私じゃないからね」

 

「言わなくていいって!」

 

 小声で揉めたあと、包みが差し出される。

 

 遙一は受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「……それだけ?」

 

 隣の友人が言った。

 

 渡した本人が慌てて袖を引く。

 

「いいから!」

 

 遙一は包みを一度見てから、彼女へ視線を戻した。

 

「昨日、厨房の前で落とした羽根ペンは見つかりましたか?」

 

「え?」

 

「探していたでしょう」

 

 一瞬きょとんとしたあと、彼女は笑った。

 

「見つかった。階段の下に落ちてた」

 

「それはよかった」

 

 それだけ言うと、二人はさっきより少し賑やかに去っていった。

 

 ドラコが紅茶のカップを置く。

 

「何で羽根ペンの話になるんだ? いや、それより、何でそんなこと覚えてるんだよ」

 

「困っていたので目についただけですよ」

 

「それで覚えてるのがおかしいって言ってるんだ」

 

 遙一は包みを鞄へ入れた。

 

 その後も、カードが一枚と、小さな菓子が二つ届いた。送り主が人前で名前を読まれたくなさそうならその場では開かず、冗談半分で渡してきた上級生には同じ調子で礼を返す。どれも大したことではない。相手が何を期待し、何をされたくないかは、顔を見ればだいたい分かる。

 

「お前、ああいうの慣れてるよな。別に大したこと言ってないのに、何で向こうはあんな嬉しそうなんだ?」

 

 ドラコが言った。

 

「自分のことを覚えていたと分かれば、悪い気はしないでしょう」

 

 ドラコは少し黙ってから、遙一を見た。

 

「……お前、本当に同い年だよな?」

 

「たぶん」

 

「たぶんって何だよ」

 

 クラッブとゴイルまでこちらを見たので、遙一は答えず紅茶へ戻った。

 

 

 昼前の廊下では、ロックハートの「愛の使者」が朝よりずっと迷惑な存在になっていた。

 

 角を曲がった先から騒ぎ声が聞こえ、遙一が足を止めると、人だかりの中心にハリーがいた。逃げようとしているのに、小人がローブへしがみついて離れない。

 

「放せって! いらないから!」

 

 ハリーが振りほどこうとする。

 

「配達だ! 歌の配達だ! 受取人に拒否権はない!」

 

 周囲から笑い声が上がった。

 

 遙一は少し離れたところで見ていた。助けが必要というより、助けに入ればかえって目立ちそうだった。

 

 小人はついにハリーを床へ押さえつけ、甲高い声で歌い始めた。

 

 何人かが吹き出し、ドラコの笑い声も混じる。歌が終わる頃には、ハリーの鞄から教科書や羽根ペンが床へ散らばっていた。

 

「ポッター、人気者は大変だな」

 

 ドラコが笑いながら言い、落ちていた黒い小さな本を拾い上げた。

 

「返せよ、マルフォイ」

 

 ハリーが立ち上がる。

 

「何だこれ。ずいぶん古いな」

 

「関係ないだろ」

 

 ハリーが取り返そうとし、少し揉み合った末に黒い本は本人の手へ戻った。

 

 人だかりが散り始めたところで、遙一はハリーのそばを通った。

 

「人気者も大変ですね」

 

「笑ってるだろ、ヨーイチまで」

 

「少しだけです」

 

 ロンが横で腹を抱えていたので、ハリーはそちらを先に睨んだ。

 

 遙一は黒い本へ一度だけ目を向けた。表紙に目立つ題名はない。ただ古い日記帳に見える。

 

 それ以上、気にする理由はなかった。

 

 

 翌朝の大広間には、まだ昨日の名残が残っていた。桃色の紙片が梁の近くに一枚だけ引っかかり、朝食の席では小人の話で何度目か分からない笑いが起きている。

 

「ポッターの歌、もう一回誰か覚えてないのか?」

 

 近くの席で誰かが言うと、ドラコが吹き出した。

 

「やめろ。朝から聞いたら食欲がなくなる」

 

「昨日はあんなに楽しそうだったじゃないか」

 

「本人の前だから面白かったんだよ」

 

 遙一は紅茶を飲みながら聞いていた。秘密の部屋の噂が消えたわけではない。それでも、一日だけ学校中を別の話題で騒がせたロックハートの手腕については、本人が意図した形かどうかを別にすれば認めてもよさそうだった。

 

 

 朝食を終えて廊下へ出たところで、ハリーに呼び止められた。

 

「ヨーイチ、ちょっといい?」

 

「ええ」

 

 ロンとハーマイオニーも一緒だった。ハリーは人の少ない窓際まで移動すると声を落とした。

 

「昨日の、あの日記なんだけど。ヨーイチ、見てた?」

 

「ドラコが拾ったものですね。少しだけ」

 

「じゃあ、何で助けてくれなかったんだよ」

 

「十分な人数が見ていましたから」

 

「見てるだけで、誰も助けてくれなかったけどね」

 

 ロンがまた笑いそうになり、ハリーに睨まれて咳払いをした。

 

「それで、その日記がどうかしたんですか?」

 

「五十年くらい前のものみたいなんだけど、何も書いてないんだ。ロンは『それじゃ日記じゃない』って言ってるけど」

 

「何も書いてなくても、表紙に名前と年があるのよ。持ち主はT・M・リドルで、日付は五十年前」

 

 ハーマイオニーが補足する。

 

「それで?」

 

 遙一が訊くと、ハリーは一度ロンとハーマイオニーを見た。

 

「文字を書くと、返事をするんだ。書いた文字が消えて、代わりに向こうから文字が出てくる。質問したら答えるし、僕が何を書いたかも分かってる」

 

 遙一は少しだけ目を細めた。

 

「返事をする?」

 

「最初は誰かの悪戯かと思ったんだけど、書いたそばからインクを吸い込むみたいに消えるの。普通の仕掛けには見えないわ」

 

 ハーマイオニーが言う。

 

「普通じゃない仕掛けならどうなんだ? ヨーイチに話すなら、そこも気にするだろ」

 

「ロン」

 

 ハーマイオニーに咎められたが、遙一は笑った。

 

「確かに気にはなります。ただ、文字が返ってくること自体は、それほど奇妙でもありませんね」

 

 三人の顔が揃ってこちらを向いた。

 

「いや、十分変だろ」

 

「魔法界には喋る肖像画があります。幽霊もいますし、記憶を保存して後から見せる魔法もある。紙の上に文字が現れるという形式だけで、特別なものと決めるのは早いでしょう」

 

 ロンは少し考えてから、「言われると、そうか」と呟いた。

 

「納得するの?」

 

「だって、組分け帽子は喋るだろ」

 

「基準がそこなのね」

 

 ハーマイオニーが呆れたように言う。

 

 遙一が気になったのは、日記が返事をすることより、その返事を作っているものが何なのかだった。決められた答えを返す仕掛けなのか、過去の誰かの記憶なのか、それとも相手に応じて新しい返事を組み立てる何かなのか。同じ現象でも、中に保存されているものは違う。

 

「その日記は、自分が誰なのか知っているんですか? 自分について、どこまで話しました?」

 

 ハリーが少し驚いたように瞬きをした。

 

「リドルだって名乗ったよ。トム・リドル。五十年前の生徒だったってことくらいかな」

 

「今いる場所や、今年が何年かは?」

 

「ホグワーツだってことは書いた。でも、今年が何年かまでは聞いてない」

 

 遙一は頷いた。

 

「何が面白いの?」

 

「その日記の中に、何がどの程度まで残っているのかです」

 

 ロンが首を傾げる。

 

「本人じゃないのか?」

 

「本人とは、どこから本人でしょう」

 

「また始まった」

 

 ロンが小さく言い、ハーマイオニーが肘でつついた。

 

「名前と記憶があれば本人なのか。考え方まで残っていれば本人なのか。五十年前には知らなかったことを今教えた時、それを理解して次の返事へ使えるなら、それは単なる記録より少し複雑です」

 

 ハリーは鞄へ目を落とした。

 

「じゃあ、見てみる? 興味あるんだろ」

 

「興味はありますが、結構です。あなたが見つけたものですから」

 

 返事が早かったので、三人とも少し驚いた。

 

 ロンが露骨に怪訝な顔をする。

 

「絶対借りたがると思った。ハリーもそう思っただろ?」

 

「まあ、ちょっと。だってヨーイチだし」

 

 ハーマイオニーまで否定しなかったので、遙一は少し笑った。

 

「話したくなったことがあれば教えてください。その方が、あなたが何を聞いて、何を見たのかも分かります」

 

「ほら、やっぱり最後が怪しい」

 

「最初からこういう人でしょう」

 

 ハーマイオニーがそう言うと、ロンも「それもそうか」と納得した。

 

「納得しないでください」

 

 今度はハリーが笑った。

 

 

 午後、大広間を出るところでジニー・ウィーズリーを見かけた。友人らしい一年生と歩いていた彼女は、上級生の集団を避けて廊下の端へ寄り、近くを通ったロンへ一度だけ顔を上げた。以前より口数が少ないようにも見えたが、疲れていることも、人混みを避けることも、今のホグワーツでは珍しくない。遙一はそれ以上の意味を置かなかった。

 

 

 夜、談話室で読みかけの本を開いた時、遙一は昼間の話を一度だけ思い返した。五十年前の名前を持ち、白紙のまま言葉を返す日記。もし、当時は知らなかった情報まで受け取り、それを次の返事へ使えるのなら、残されているものは単なる記録ではない。

 

 ただし、それはまだ確かめていない。日記そのものを見てもいなければ、ハリーから聞いた話以上の材料もない。

 

 遙一はページをめくった。今は、それで十分だった。

 

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