Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
二月十五日の夕方、遙一は図書館の奥で魔法史の本を読んでいた。
窓の外はまだ冬の色を残していたが、昨日まで城中を埋め尽くしていた桃色の飾りはほとんど片づけられている。ロックハートの「愛の使者」も消え、大広間では早くも昨日の騒ぎを笑い話にする生徒が増えていた。
秘密の部屋の噂がなくなったわけではない。ただ、人は同じ恐怖について何週間も同じ熱量で話し続けることはできないらしい。宿題も試験も教師の小言も、ホグワーツには他に気を取られるものが多すぎた。
ビンズ教授の授業で扱われなかった部分まで読む必要はなかったが、必要がないことと面白くないことは別だった。遙一がページをめくったところで、向かいの椅子が引かれる。
「だから、まだ決まったわけじゃないって言ってるでしょう。なのに、さっきからずっとハグリッドに聞きに行くかどうか考えてる顔してるじゃない」
「僕だって、今すぐ行くなんて言ってないよ」
座る前から言い合っているハーマイオニーとハリーを見て、ロンが首を傾げた。
「そんな顔まで分かるのか?」
「分かるわよ。少なくとも、蛙チョコレートのカードしか見てないあなたよりは」
「一枚足りないんだよ」
「図書館で集めないで」
三人が揃っている。遙一はそこでようやく本から目を上げた。
「こんばんは」
「……こんばんは、じゃないだろ」
ロンが呆れたように言う。ハリーは椅子へ座り、少し迷ってから鞄を足元へ置いた。
「日記ですか?」
「何で分かるんだよ」
「三人とも来て、あなたが一番困った顔をしているので」
「ほら、やっぱり顔で分かるんじゃない」
ハーマイオニーがロンへ言うと、ロンは「僕には分からなかった」と肩をすくめた。少しだけいつもの調子が戻ったが、ハリーだけは笑わなかった。
「昨日、日記の中に入ったんだ。たぶん、記憶の中だと思う。リドルが、五十年前に秘密の部屋が開いた時のことを見せてくれた」
遙一は一度だけ瞬きをして、本を閉じた。
「中へ、ですか」
それからハリーは、五十年前のホグワーツで見たものを順に話した。
当時の校長アーマンド・ディペットと話す少年、トム・リドル。休暇中も学校へ残りたがっていたこと。襲撃が続けば、ホグワーツそのものを閉鎖しなければならないかもしれないと告げられていたこと。
「リドルは、学校の外に帰る場所がないみたいだった。だから何とかしたかったんだと思う」
「それで犯人を捕まえた、って話なんだけどな」
ロンが横から口を挟むと、ハーマイオニーがすぐに睨む。
「まだ犯人って決まってないでしょう」
「でも、見たままならそうだろ?」
ハリーは話を続けた。夜の廊下を進むリドルが若いハグリッドを見つけ、そのハグリッドは大きな箱の中に、学校へ持ち込んではいけない生き物を隠していた。
「アラゴグって呼んでた。でかい蜘蛛だった。たぶん、ものすごくでかい」
「ハグリッドらしいな。人を襲ったってところは信じたくないけど、学校で巨大蜘蛛を飼ってたってところだけ妙に信じられる」
「そこは私も否定しづらいわ」
ハーマイオニーも困った顔をした。
「リドルは、それが秘密の部屋の怪物だって言った。ハグリッドは違うって言ってたけど、リドルが呪文を使ったら蜘蛛は逃げて……そこで記憶が終わった」
話し終えると、近くの机で羽根ペンが紙を擦る音だけが残った。ハリーは少し間を置いてから、遙一を見る。
「それで、どう思う? ハグリッドのこと」
遙一はすぐには答えなかった。
「その記憶の中で、アラゴグが誰かを襲うところや、ハグリッドが秘密の部屋を開けるところは見ましたか?」
「いや。死んだ生徒も見てない」
「なら、リドルが実際に見せたのは、ハグリッドが城内で危険そうな生物を隠していたことと、自分がそれを見つけて告発した場面までですね」
ハリーはしばらく考えてから、「……そうなる」と頷いた。
「でも、それだけでハグリッドが無実だとも言えないでしょう」
ハーマイオニーが言う。
「ええ。どちらも決まりません」
「じゃあ、あの記憶は何なんだよ」
「記憶でしょう。偽物だと言っているわけではありません。むしろ、見せられた場面がすべて本当に起きたことでも構わないんです」
ロンが眉を寄せた。
「構わないって?」
「嘘をつかなくても、相手へ特定の結論を選ばせることはできます。何を見せるかを選べばいい」
ハーマイオニーの表情が少し変わった。
「つまり、リドルが都合のいい部分だけ見せた可能性があるってこと?」
「可能性です。ハリーは五十年前に何があったのかを知りたかった。そこでリドルは、自分がハグリッドを捕まえた場面を見せた。被害者が襲われたところも、怪物が秘密の部屋から出てきたところも見せていない。それでも、最後にハグリッドと巨大な蜘蛛を置けば、見た側は自然に一つの結論へ近づきます」
「でも、リドルがハグリッドを捕まえたのは本当なんだろ?」
「少なくとも、ハリーが見た記憶の中ではそうです。だから厄介なんですよ。全部が嘘なら、見破るのは簡単ですから」
ロンは「ややこしいなあ」と顔をしかめたが、遙一はそれ以上説明を足さなかった。必要なことはもう言っている。
その時、本棚の向こうからマダム・ピンスが鋭い目を向けた。
「声を落としなさい」
四人は揃って声を小さくした。
「……でも、リドルは嫌な感じじゃなかったんだ」
今度はハリーが囁く。
「ちゃんと話を聞いてくれたし、日記のことも秘密の部屋のことも、僕が知りたかったことに答えてくれた」
「それは重要ですね」
「信用していいってこと?」
「逆です。信用できそうに見えたことも、判断材料に入れるべきだという意味です」
ロンが小声で「またそういう言い方する」と零したが、ハーマイオニーは笑わなかった。
「リドルは、ハリーが何を知りたがってるか分かってたのよね。だから、その質問に一番分かりやすい答えを見せた」
「少なくとも、そう考える余地はあります」
ハリーは椅子の背にもたれた。
「じゃあ、ハグリッドに聞くしかないのかな」
「聞くのはいいと思う。でも、いきなり『五十年前に秘密の部屋を開けたの?』なんて聞いたら駄目よ」
「僕だってそこまで馬鹿じゃないよ」
「昨日、日記の中に飛び込んだ人が言っても説得力ないぞ」
「自分で入ろうとしたわけじゃない!」
思わず声を上げたハリーに、遠くからマダム・ピンスの咳払いが飛んでくる。今度は誰も注意される前に黙った。
図書館を出る頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
四人で階段を下りながら、ロンが口を開く。
「でも、変だよな。五十年前も秘密の部屋が開いて、学校が閉まりそうになって、それでハグリッドが捕まったんだろ?」
「捕まったというより、退学ね」
「似たようなもんだろ。今だって、みんなハリーが蛇と喋った途端に継承者だって言い始めたし」
「思い出させるなよ」
ハリーが嫌そうな顔をした。
その言葉を聞きながら、遙一は少しだけ歩調を緩めた。五十年前にはハグリッドがいた。城の中へ危険な生物を持ち込み、事件が起きた時には、その事実だけで十分に疑わしく見える少年だった。今はハリーがいる。スリザリンの継承者しか開けないと噂される部屋があり、その前で蛇の言葉を話した少年だった。どちらも、それだけでは事件の答えにならない。それでも、正体の見えない何かを恐れ続けるより、名前と顔のある誰かを疑う方が簡単なのだろう。
入学前に読んだ第一次暗黒期の記録にも、似た話はいくらでもあった。誰が闇の陣営に属しているのか分からない時ほど、血筋や交友関係のような分かりやすい印が疑いの根拠になる。魔法を使える者たちも、恐怖の中では未知そのものを見続けられるわけではないらしい。
「何?」
ハリーが振り返る。
「いえ。五十年というのは、思ったほど長くないのかもしれないと思っただけです」
「何の話?」
「こちらの話です」
「またそれか」
ロンの呆れ声を聞きながら玄関ホールへ出ると、扉の向こうを大きな影が横切った。
ハグリッドだった。ファングを連れ、肩に大きな袋を担いで小屋の方へ戻っていく。こちらには気づかなかったらしい。
ハリーはその背中を見て立ち止まり、ほんの少しだけ追いかけるように身体を前へ動かした。けれど、結局は呼び止めなかった。
「今日はやめとく。ちゃんと考えてから聞く」
「それがいいわ」
ハーマイオニーが頷き、ロンも異論は言わなかった。遙一も何も加えない。
五十年前の答えは、日記の中ですでに一つの形を与えられている。だからこそ、急いでそれを事実そのものにする必要はなかった。