Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
四月も終わりに近づくと、ホグワーツにもようやく春らしい日が増えてきた。
もっとも、地下にあるスリザリンの談話室では季節の変化が分かりにくい。窓の向こうを湖の水が鈍く揺れ、時々、大きな魚らしい影が横切る程度である。暖炉の火が少し小さくなったことの方が、暦よりよほど信用できた。
「それ、鏡と糸で何を調べるんだ?」
朝食へ向かう前、ドラコが遙一の手元を覗き込んだ。
机の上には小さな手鏡が三枚、よく磨いた金属片が二枚、黒い糸の巻かれた小さな糸巻きが並んでいる。その横には蝋と、薄い紙片が何枚かあった。
「少し調べものを」
ドラコはしばらく待ったが、それ以上の説明が出てこないと分かると顔をしかめた。
「お前の『調べもの』って、普通の宿題だったことあるか?」
「魔法史は普通に調べていますよ」
「それ以外だよ」
近くで鞄へ教科書を押し込んでいたゴイルが、鏡を一枚手に取ろうとした。
「触ってもいいか?」
「構いませんが、指紋は拭いておいてください」
ゴイルはそのまま手を引っ込めた。
「面倒くさそうだからやめる」
「賢明です」
「そういう使い方じゃないだろ、その言葉」
ドラコの声を聞きながら、遙一は道具を小さな布袋へ戻した。
この数週間、城内では新しい石化事件が起きていなかった。
そのせいか、廊下を歩く生徒たちの足取りも少しずつ元へ戻っている。二人以上で移動しろという教師たちの注意は続いていたが、最初の頃ほど律儀に守る者ばかりではない。恐怖そのものが消えたというより、何も起きない日が積み重なることで、危険を意識し続ける方が難しくなったらしい。
遙一には、その空白が都合よかった。
これまで襲撃のあった場所を、授業の移動や食事のついでに何度も通った。ミセス・ノリスが吊られていた廊下。コリン・クリービーが見つかった場所。ジャスティン・フィンチ=フレッチリーと、ほとんど首なしニックが倒れていた付近。正確な位置を羊皮紙へ写してみたものの、ホグワーツは地図を作る相手としてあまり親切ではなかった。
階段は動く。昨日まで通れた近道が今日は壁へ続いていることもあるし、肖像画に「そこは先週から閉鎖中だ」と言われて初めて知る通路まである。それでも、石壁や柱、床、水の流れる場所まで毎日別物になるわけではない。城が学校として使われる過程で後から継ぎ足された設備も含め、変わらない構造は残っている。
被害現場同士を普通の廊下だけで結ぼうとすると、妙に遠回りになる箇所があった。大きな生物が人目を避けながら通ったのなら、なおさら不自然である。鎧や肖像画、生徒、教師、幽霊。夜であっても、ホグワーツの廊下は完全には空にならない。なら、見えている道だけを道だと思わない方がいい。
最初の二晩は、何も起こらなかった。
遙一は使われていない扉や、古い格子のある壁際へ細い糸を仕掛けた。人が通る場所へ張るのではない。扉と枠の間や、石の継ぎ目、普段なら動かない金具の裏へ蝋で留める。翌朝、糸が切れていれば、その場所で何かが動いたことだけは分かる。
魔法は使わなかった。
魔法で監視する方法はいくらでも考えられるが、何を探しているのか分からない段階で、未知の魔法現象へ別の魔法を重ねる理由もない。それに、糸は呪文を解除されないし、鏡は魔力を隠す必要がない。
三晩目、一つだけ糸が切れていた。場所は二階と三階の間、普段ほとんど使われない細い踊り場だった。
壁の下部には古い鉄格子が嵌め込まれている。向こうは暗く、手を入れられるほどの隙間もない。遙一はその前へしゃがまず、少し離れた位置から小さな鏡だけを差し出した。
鏡に映ったのは、光の届かない空洞と湿った石だけだった。
「何をしているんだね」
突然、頭上から声がして、遙一は鏡を下げた。
壁に掛かっていた肖像画の中で、赤い帽子を被った老魔法使いがこちらを睨んでいた。昨夜までは隣の額縁にいた人物である。
「少し確認を」
「床に這いつくばるのが最近の確認方法か?」
「まだ這いつくばってはいません」
「これからやるつもりだったのかね?」
「必要なら」
老人は鼻を鳴らした。
「最近の生徒は妙なことばかりする。昨日は一年生が私の額縁の裏に蛙を隠した」
「それはお気の毒に」
「まだいるんだ!」
額縁の向こうから小さな鳴き声がした。
遙一は少し考えたあと、壁へ手を伸ばして額縁の裏から蛙を取り出した。老人はようやく満足したらしく、「礼は言わんぞ」と言い残して隣の肖像画へ移っていった。
廊下に静けさが戻ると、遙一は鏡をもう一度格子へ向けた。
切れた糸だけでは、生き物が通った証拠にはならない。湿気で蝋が外れたかもしれないし、城そのものが動いた可能性さえある。ホグワーツでは、普通の建物なら除外していい原因を除外できないことが時々ある。
そこで、今度は格子そのものへ糸を結ばなかった。
格子の向こう、鏡でしか見えない位置にある細い突起へ糸の端を掛け、もう一方を廊下の角まで伸ばす。強く引けば外れる程度にしておけば、向こうで何かが触れた時だけ手元へ震えが伝わる。
その夜は何も起こらず、次の日も同じだった。
五日目の夜、遙一は角の向こうで本を読んでいた。
監視のためだけに何時間も壁を見るのは効率が悪い。宿題を済ませ、読みかけの本を開き、時々指へ掛けた糸の感触だけを確かめる。問題は、巡回する監督生よりも、途中で向きを変える階段の方だった。帰り道を勝手に変更されると予定が崩れる。
時計の針が十一時を回ってしばらくした頃、糸が動いた。
ほんの一度。
引かれたというより、遠くで何か重いものが触れ、その振動だけが伝わったような感触だった。遙一は本を閉じた。
すぐには角から顔を出さない。手鏡を床すれすれまで下げ、磨いた金属片をもう一枚、反対側の壁際へ滑らせた。二つの反射面をずらせば、自分の頭を廊下へ出さずに格子の周囲を見ることができる。
最初に映ったのは空の廊下、その次に鉄格子と、その奥の暗闇だった。何もない。
糸だけが、もう一度わずかに震えた。
遙一が鏡の角度を数度変えた、その時だった。
暗闇の中を、何かが横切った。
鏡が小さすぎて全体は入らない。ただ、濡れた石のような鈍い光沢を持つ曲面が、視界の端から端までゆっくり流れていく。人間の腕でも脚でもない。毛もなく、関節らしい折れ方もせず、同じ太さのまま長く続いている。
鏡の中から消えるまでに、数秒かかった。遙一は動かない。足音も、石を叩く爪の音もなく、ただ壁の向こうで重いものが擦れるような低い音だけが一度聞こえた。
やがて糸が緩んで床へ落ちたが、遙一はさらに一分待ってから鏡を戻した。
翌朝、同じ場所を通った生徒たちは誰も立ち止まらなかった。
いつも通りの石壁があり、鉄格子があり、肖像画の老人は昨夜助けた蛙について別の肖像画へ得意げに話していた。廊下そのものには、大きな生物が通った痕跡など一つも残っていない。
遙一は歩きながら昨夜見たものを整理した。巨大で、細長く、少なくとも通常の四足歩行ではない。廊下を横切ったのではなく、壁の向こうを移動していた。あの空洞がどこまで続いているかも、同じような場所が城内にいくつあるかも分からないが、「誰にも見つからずに大きな生物が移動する」という問題には一つの答えができる。城の中には、生徒が道だと思っていない道がある。
まだそれが何なのかまでは分からない。それでも、鏡の向こうを通ったものだけは想像ではなかった。