Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
前の晩から気になっていた本棚は、近くで見ると想像していたより厄介だった。
子供用の机や椅子が用意されている家でも、書棚まで子供に合わせて低くしてくれるわけではないらしい。革張りの本が隙間なく並ぶ上段を見ようとすると、首をかなり反らさなければならず、背表紙に金文字で刻まれた題名の半分は、今の遙一の位置からでは読むことさえできなかった。
しばらく考えた末、遙一は廊下の隅から踏み台を運んできた。
以前の身体なら椅子一つあれば十分だっただろうが、今の身体で無理に背伸びをすれば、本を取るより先に自分が棚から落ちる。小さな手に合わせて道具を変えたのと同じように、届かないのなら届く方法を使えばいい。
「何を探しているの?」
背後から声がして、遙一は踏み台の上で振り返った。
家の者の一人が、彼と本棚を交互に見ている。その視線には心配よりも、子供がどうしてそんな棚へ興味を持ったのかという好奇心の方が強かった。
「歴史です」
「歴史?」
「できれば、同じ出来事について何冊か欲しいのですが」
頼まれた側は少し考え、それから笑った。
「普通は一冊読めば足りると思うけれど」
「同じことが書いてあるなら、それで足ります」
遙一が答えると、相手は妙なものを見るような顔をしながらも、結局は何冊か選んでくれた。
その日の午後、机の上には四種類の資料が積まれていた。
一冊はグリンデルバルド家に古くから残されていた記録。もう一冊は魔法界で広く読まれている近代史。三冊目は魔法省がまとめた公的な記録の写しで、最後は古い新聞を年代順に綴じた分厚い冊子だった。
遙一が題材に選んだのは、ゲラート・グリンデルバルドだった。
自分と同じ姓を持ち、この家では名前が出るだけで、話している人間によって声の調子まで変わる男である。
家の記録に描かれているゲラートは、時代に理解されなかった傑出した魔法使いだった。理想を掲げ、魔法界の未来を変えようとし、最後にはアルバス・ダンブルドアという同時代唯一の好敵手に敗れた、とある。
一般向けの近代史を開けば、同じ人物がずいぶん違って見えた。そこではゲラートは危険な思想を掲げ、多くの支持者を従え、ヨーロッパ各地へ争いを広げた闇の魔法使いとして記されている。
魔法省の記録は、どちらにも肩入れする気がないらしかった。いつ、どこで何が起き、誰が拘束され、どの法令が適用されたか。そこには英雄も怪物もおらず、その代わりに日付と地名と人数ばかりが整然と並んでいる。
そして新聞は、四種類の中で最も落ち着きがなかった。ある号では「魔法界を覆う脅威」と大きく報じ、別の号では「終わりの見えない恐怖」と書き、ダンブルドアとの決闘の後には、まるで世界中が一晩で救われたかのような見出しを躍らせていた。
遙一は四つを並べて読み比べた。
どれが正しいのかを決めることには、あまり意味がない。
家の記録には家の事情があり、魔法省には魔法省の事情がある。新聞なら、その日の読者が何を恐れ、何を知りたがっていたかまで文章へ混じるだろう。
ならば、まず見るべきなのは、それぞれが何を主張しているかではなく、立場の違う資料がそろって否定していない部分だった。
ゲラート・グリンデルバルドは実在した。非常に優れた魔法使いで、多くの支持者を集め、複数の国を巻き込むほどの影響力を持ち、最後にはアルバス・ダンブルドアと戦って敗れた。
そこまで削ると、どの本にも残った。
「ずいぶん減りましたね」
遙一は思わず呟いた。
だが、減った分だけ扱いやすい。
事実と評価を同じ箱へ入れなければいいのだ。誰かを英雄と呼ぶことも、怪物と呼ぶことも、その人物が実際に何をしたかとは別の情報である。そして場合によっては、その呼び名を選んだ人間の方について、より多くを教えてくれる。
その読み方を覚えると、書庫は急に面白くなった。
それからの遙一は、何か一つの分野を順番に勉強するというより、気になった言葉を別の本で追いかけるようになった。
ホグワーツ魔法魔術学校について調べた時もそうだった。
学校案内には、四つの寮と長い歴史、数々の著名な卒業生が誇らしげに載っている。ところが卒業生の回想録を何冊か読んでみると、彼らがよく覚えているのは立派な伝統より、動く階段を間違えて授業へ遅れたことや、肖像画に道を尋ねて余計に遠回りしたことだった。
同じ学校でも、外から説明される学校と、中で暮らした人間が覚えている学校は少し違うらしい。
魔法省についても似たようなものだった。公式の資料だけを読めば、いくつもの部署が役割ごとに整然と分かれ、法律も手続きもよく整備されているように見える。ところが古い新聞まで一緒に読むと、同じ事件について部署ごとに説明が食い違っていたり、責任の所在だけが妙に曖昧な記事が見つかったりする。
アズカバンという監獄については、むしろ書かれていないことの方が目についた。
重大な犯罪者が送られる場所で、北海にあり、脱獄は極めて困難だという。その程度の説明はどの資料にも載っているのに、そこで日々何が行われ、どのように囚人が管理されているのかを詳しく書いた一般向けの本はほとんどなかった。
何も書かれていないからといって、何もないとは限らない。
遙一はアズカバンという名前だけを覚え、その時点ではそれ以上追わなかった。
血統についての記述は、もっと分かりやすかった。
純血、半純血、マグル生まれ。
同じように魔法を使える人間を、親や祖父母が誰だったかによって分類する言葉があり、古い家系図にはそれを誇るような書き込みが残っている。その一方で、第一次魔法戦争を扱った本には、その分類を理由に襲われた人々の記録があった。
遙一には、血の純粋さそのものについて強い感想はなかった。
人間が分類を作り、そこへ意味を与え、やがて自分たちの方が分類に従い始める。前の世界でも、形を変えればいくらでもあったことだ。
ただ、魔法界ではその分類が、誰と親しくし、誰を信用し、誰を恐れるかにまで影響しているらしい。
それなら、覚えておく価値は十分にあった。
本で得た知識は、読むだけでは終わらなかった。
杖についての本を読んだ翌日から、遙一は家の魔法使いたちが呪文を使うたび、その手元を見るようになった。同じ呪文でも杖によって感触や反応が違うという記述があったためだ。
魔法薬について読めば、台所や戸棚に並ぶ瓶のラベルが気になった。変身術の入門書を読んだ後などは、食卓へ出された銀器をじっと見つめすぎたらしい。
「それは昨日もスプーンだったよ」
向かいに座っていた家人に笑われた。
「そうですか」
「なんで残念そうなんだ」
「少し期待していましたので」
「朝食のたびに食器が別のものへ変わっていたら、こっちが困るよ」
言われてみれば、それもそうだった。
呪文学、変身術、魔法薬。それぞれ同じ魔法という言葉で括られていても、必要とされる知識も技術も随分違う。
さらに読み進めるうち、人の精神そのものへ関わる魔法も見つかった。
開心術と閉心術。
前者は相手の心へ触れ、後者はそれを防ぐための術だという。
そのページだけ、遙一は他より少し長く読んだ。
表情、視線、呼吸、声の間、言葉の選び方。人間は魔法がなくても思った以上に多くのことを自分から見せている。遙一はそれを読む方法を知っていたが、この世界には、そこを通らず直接心へ触れようとする技術まで存在するらしい。
「便利ですね」
一度そう呟いてから、遙一はページを戻した。
便利だからこそ、知られていれば警戒される。使われる可能性があると分かっている人間なら、当然それを防ぐ方法も探すだろう。
「……便利すぎますか」
結局、その二つの術については、覚えておくべきものとして印を付けた。
書棚のさらに奥へ進めるようになったのは、もう少し時間が経ってからだった。
そこに並んでいる本は、表紙からして愛想がない。黒い革、色の抜けた題名、何度も修復された背表紙。家の者から読んではならないとは言われなかったが、扱いには気をつけるよう何度も念を押された。
闇の魔術。
その言葉が付いた本だけは、持って歩いた時の周囲の反応まで違った。
呪文学の本を抱えていても誰も気にしないのに、闇の魔術の歴史を持って廊下を歩けば、一度は表紙を確かめられる。
「面白いか?」
例の肖像画の老人まで、額縁から身を乗り出して尋ねてきた。
「ええ」
「ろくなことが書いてないぞ」
「では、どうして残してあるんです?」
老人は口を開きかけ、それから何も言わずに隣の肖像画へ移っていった。
「答えになっていませんね」
遙一が声をかけても、戻ってこなかった。
本を開けば、単に人を傷つける呪文ばかりが並んでいるわけではなかった。魔法による支配、精神への干渉、生命や魂へ触れようとした研究。それらがどの時代に恐れられ、禁止され、ときには記録そのものを遠ざけられていったのかが書かれている。
許されざる呪文と呼ばれる三つの魔法についても、その中で知った。
一つは人を支配し、一つは耐えがたい苦痛を与え、最後の一つは命を奪う。
名前も効果も記されていたが、だからといって今すぐ試したいとは思わなかった。興味がないわけではない。ただ、必要もないのに危険な術を使ってみることと、知っておくことは別の話だった。
遙一にとって、その区別はごく自然なものだった。
そんな本を何冊か読み進めたある日、一冊の古い本の索引で、見慣れない単語が目に留まった。
分霊箱。
本文を開くと、期待に反して説明は驚くほど短かった。
魂を分け、その一部を肉体の外へ留めるための禁じられた魔法。
それだけではないにせよ、実際に役立ちそうな記述はほとんど残されていない。作成法は書かれておらず、別の本を何冊探しても同じ言葉そのものが滅多に見つからなかった。
遙一はページを指で押さえたまま考えた。
肉体の外に魂の一部を残すのなら、それは死を避けるためなのか。それとも魂そのものを保存するためなのか。あるいは、その二つを分けて考えること自体が間違っているのかもしれない。
いずれにせよ、判断するには材料が少なすぎた。
遙一は本の端へ紙片を挟み、いったん閉じた。
ヴォルデモートについて本格的に調べたのは、その少し後だった。
彼についても、資料ごとに書き方は大きく違っていた。新聞は恐怖を前面に出し、魔法省の記録は事件と被害を並べ、戦争を経験した者の回想録には、名前を書くことさえ嫌がった跡が残っている。
それでも、重なっている部分はあった。
多くの魔法使いから恐れられ、純血を重んじ、マグル生まれを敵視した。支持者を集め、殺人を含む数多くの犯罪を行い、一九八一年、ポッター一家を襲った夜に姿を消した。
そして、その場では幼いハリー・ポッターだけが生き残った。
ここまでは、多くの資料が否定していない。
問題はその先だった。
なぜヴォルデモートが消えたのか。なぜ子供だけが生き残ったのか。そもそも本当に死んだのか。
そこから先になると、どの文章も急に頼りなくなる。
遙一は自分用の紙へ、確認できた事実だけを書き写していった。ポッター家襲撃、ヴォルデモート消失、ハリー・ポッター生存。そこへ、分霊箱という言葉を書き足すことはしなかった。
珍しい未知が二つあるからといって、それだけで一本の糸を結ぶ理由にはならない。
それは推理ではなく、物語を作る時のやり方だった。
十歳になる頃には、遙一の机にはいつも数冊の本が積まれるようになっていた。
歴史や法律の本の隣に、学校についての本があり、その上へ杖や魔法薬の本が重なり、ときには闇の魔術についての本まで混じっている。
知れば知るほど、魔法そのものとは別のものも見えてきた。
同じ魔法でも、ある本では便利な術として紹介され、別の本では危険だから監督下で学ぶべきものとして扱われる。名前を口にしただけで嫌な顔をされるものさえある。
技術だけを見れば、そこには効果と条件がある。
しかし人間は、技術へ歴史を貼りつける。
ゲラート・グリンデルバルドとヴォルデモートが魔法界へ残したものは、事件の記録だけではなかった。彼らが使った魔法、使ったと信じられている魔法、あるいは彼らを連想させるだけの知識にまで、恐怖は長く残っている。
遙一は闇の魔術についての本を閉じ、その上へ一般的な呪文学の本を重ねた。
どちらも本であることに違いはない。
それでも誰かが部屋へ入ってきた時、先に隠したくなる表紙がどちらなのかは、簡単に想像できた。
遙一には、その違いの方が魔法そのものと同じくらい興味深かった。
窓の外では夕方の光が庭へ伸び、どこかで食器の触れ合う音がした。そろそろ夕食らしい。
遙一は机の上の本を閉じて立ち上がりかけ、ふと書棚へ目を戻した。
読んでいない本は、まだいくらでもある。
そして、自分の杖はまだない。
その事実だけを確認すると、遙一は本に挟んだ紙片の位置を確かめ、今度こそ部屋を出た。