Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
五月九日の朝、大広間はいつもより静かだった。
静か、といっても食器の音が消えたわけではない。談笑もあるし、フクロウが天井近くを横切れば顔を上げる者もいる。ただ、声がどこか低い。誰かが立ち上がると、その周囲だけ会話が途切れ、廊下へ続く扉が開くたびに何人かがそちらを見る。
ハーマイオニー・グレンジャーとペネロピー・クリアウォーターが石化した翌朝だった。
「次に誰か襲われたら、本当に学校を閉めるんだって。七年生の誰かが、親からそういう手紙をもらったらしいぞ」
少し離れた席で三年生が言うと、隣の生徒が怪訝そうな顔をした。
「その七年生って誰だよ。というか、誰の親なんだ?」
「そこまでは知らないけど。みんな言ってるし」
ドラコが鼻で笑った。
「七年生の誰かが、誰かの親から聞いた。しかも、みんなが言ってる。それなら間違いないな」
三年生は露骨に顔をしかめたものの、言い返すほどの材料は持っていなかったらしい。そのまま隣の友人へ向き直った。
遙一はやり取りを聞きながら、トーストにバターを伸ばしていた。
「お前は笑わないんだな。あんなの、どうせ作り話だろ?」
「学校が閉鎖される可能性自体はありますよ。ただ、話の出所が分からないので、信じる理由も、完全に否定する理由もありません」
「そういう答え方が腹立つんだよ。結局、何も分からないってことじゃないか」
「今のところは、そうですね」
向かいでソーセージを切っていたゴイルが、ふと思いついたように顔を上げた。
「じゃあ噂って、何の役に立つんだ? 何も分からないなら聞くだけ無駄じゃないか」
「事件を解く材料としては薄いでしょうね。ただ、誰が何を信じて、どう動くかを見る材料にはなります」
ドラコがじろりと遙一を見た。
「ほら、それだ。事件は娯楽じゃないとか言うくせに、人の反応を見てる時だけ妙に楽しそうなんだよ」
「事件を楽しんでいるわけではありません。人に興味があるだけです」
「それを聞いて安心する奴はいないと思うぞ」
ドラコはそう言って、自分の皿へ視線を戻した。
その時、大広間の扉が開いた。
何人かの一年生が同時に振り返る。入ってきたのがマクゴナガルではなく、ただの上級生だと分かると、すぐに視線は皿へ戻った。
遙一はその動きを見ていた。
昨日までは、もっとばらばらだった。
食事が終われば友人同士で好きなように席を立ち、廊下では横に広がって歩く。今朝は違う。下級生は監督生が立つのを待ち、誰かが教師の後ろにつけば、そこへさらに二人、三人と増えていく。寮の違う友人と一緒に歩く者は減り、ハリーの近くを避ける者がいる一方で、露骨に様子を窺っている者もいた。
蛇語を話す少年を怖がっている。それでも、何か知っているのではないかとは思っている。
矛盾しているようで、そうでもない。
人は怖いものから離れる。ただし、何から離れればいいのか分からない時は別だった。その時に探すのは出口ではない。自分より事情を知っていそうな誰かだ。
教師、監督生、上級生。あるいは、疑われている本人でさえ。
遙一は紅茶へ視線を落とした。
恐怖で人が散るとは限らないらしい。むしろ、寄る場所を作る。
第一次魔法戦争の記録で読んだ、人々が互いを疑いながら、それでも誰かの言葉を必要としたという記述を思い出した。あの時代、人々が求めていたのは正しい答えだけではなく、正しいと思える場所だったのかもしれない。
もしそこに、あらかじめ誰かが立っていたら。
遙一はそれ以上考えず、紅茶を飲んだ。
答えを急ぐ必要はなかった。
その日の夕方、噂だったものが二つ、事実になった。
ダンブルドアが校長の座を外され、ハグリッドがアズカバンへ連れていかれた。
「なんでハグリッドなんだよ! 五十年前のことだけでまた疑うのか? あの時だって、結局ハグリッドがやった証拠なんて――」
大広間の入口で声を上げたロンの袖を、ハリーが慌てて引いた。
「分かってるから。僕だって納得してない。でも、少し声を落とせよ。先生がみんなこっち見てる」
「だからって黙ってろっていうのかよ……って、あ」
ロンの視線が教師席へ向かい、そのまま止まった。スネイプと目が合ったらしい。
数秒後、ロンは何事もなかったように前を向いた。
「今のはお前のせいだからな」
「なんで僕なんだよ」
「先生を見るように言っただろ」
なおも小声で言い合う二人を、遙一は少し離れたところから眺めた。
ハリーは考え込むと黙る。ロンは逆だった。ハリーが黙るほど、代わりに怒っているように見える。
その夜から、生徒の移動には教師がつくようになった。安全のための措置だったが、教師が前を歩く列は日を追うごとに長くなった。
二日が過ぎ、五日が過ぎた。一週間が経っても、次の犠牲者は出なかった。
それでも、元には戻らなかった。
図書館では出口に近い席から埋まるようになった。授業が終わっても、友人が荷物をまとめるまで席を立たない者が増えた。監督生が「そろそろ戻る」と言えば、それまで別の話をしていた下級生が何人か立ち上がる。
最初は、ただ怯えているだけに見えた。
けれど日が経つにつれ、少しずつ違ってきた。
誰のそばなら歩けるか。誰が先に曲がり角を覗くか。誰が「大丈夫」と言えば、それを大丈夫だと思えるか。
生徒たちは何も相談していないのに、それぞれの答えを作っていた。
ある日の夕方、図書館を出た監督生の後ろへ三人の一年生がついた。少し離れて、もう一人。その一人を見て、さらに二人が席を立つ。
監督生は振り返らなかった。ついてこいとも言っていない。それでも列はできた。
遙一は本を閉じた。
前に立つことと、先導することは同じではない。人は命令されたからついていくとは限らず、自分で選んだと思っている時の方が、むしろ自然に歩く。
二週間のあいだ、ホグワーツはそのことを何度も見せてくれた。
五月二十四日の朝。
廊下の窓辺にいた遙一を見つけるなり、ロンは言った。
「蜘蛛は最悪だ。もう一生分見た。いや、一生分どころじゃない。あれを見たあとなら、普通の蜘蛛くらいなら可愛く見えるかもしれないけど、だからって確かめたくはない」
「おはようございます。ずいぶん具体的な感想ですね」
「聞いてくれよ。いや、思い出したくないから聞かないでほしいんだけど、でも聞いてくれ」
ロンのローブには泥がつき、髪もいつもよりひどい。隣のハリーも似たようなものだったが、こちらは眠そうな顔で笑っていた。
「昨日、森へ行ったんだ。ハグリッドが連れていかれる前に、『蜘蛛を追え』って言ってただろ? それで手掛かりになるかもしれないと思って」
「そうやって言うと、ちょっと散歩に行ったみたいに聞こえるだろ。禁じられた森の奥まで蜘蛛を追って、その先で僕らより大きい蜘蛛に囲まれたんだぞ。僕は途中で何度も帰ろうって言ったんだからな」
「一回くらいしか言ってないだろ」
「口に出したのは一回でも、頭の中ではずっと言ってた!」
ハリーが笑い、遙一もようやく二人の有様に納得した。
「それで、蜘蛛の先には何が?」
「アラゴグっていう、ものすごく年を取ったアクロマンチュラがいた。ハグリッドが学生の頃から育ててたらしくて、五十年前に秘密の部屋が開かれた時は、そいつが怪物だって疑われたんだ。でも、アラゴグ自身は違うと言ってた」
ハリーがそこまで話したところで、ロンがすぐに口を挟んだ。
「問題はそのあとだよ。あいつ、自分は怪物じゃない、でも城にいた本物の怪物のことは知ってるって言うんだ。それなのに名前は言わない。知らないんじゃなくて、怖いから言いたくないんだぞ。見たことないだろうけど、あいつら本当にでかいからな。その巨大蜘蛛が怖がるものが城の中にいるって考えてみろよ」
「蜘蛛は、バジリスクを本能的に恐れます」
ロンは口を開けたまま止まった。
「……そういう大事なこと、最初に言ってくれない? 僕は昨日、命懸けでそこまで確かめてきたんだけど」
「あなたがアクロマンチュラに会ったことを、今初めて聞きましたから」
「そうだった。分かってる。分かってるけど、なんか腹立つな。こういう時のヨーイチ、たまにハーマイオニーより腹立つ」
「それは光栄です」
「褒めてないからな」
ハリーは笑いを堪えながら、話を続けた。
「アラゴグ自身は、ハグリッドに恩があるから僕らを襲わなかった。でも、子どもたちまで止める気はなかった。話が終わったら、周りにいた蜘蛛が一斉に寄ってきて――」
「つまり、食べられそうになったわけですね」
「そうだよ。僕が最初から言ってる『蜘蛛は最悪』には、ちゃんと理由があるんだ。しかも最後は、父さんの車に助けられた」
さすがに遙一は一度瞬いた。
「森の中で、ですか?」
「森の中で。僕だって説明してておかしいと思うけど、本当にそうだったんだよ。だから車のところは詳しく聞かなくていい。思い出すと、蜘蛛まで一緒についてくるから」
ハリーがとうとう声を上げて笑った。
「笑うなよ。お前だって半分死にかけてたんだからな。助かったから笑えるだけで、あの時は絶対そんな顔してなかったぞ」
「分かってるって。でも、今聞くとやっぱり変だよ」
ロンがまだ何か言い返しかけたところで、ハリーの表情が少し変わった。
「それと、もう一つある。五十年前に死んだ女の子のことも聞いた。アラゴグは死ぬところを見たわけじゃないけど、死体が見つかった場所は知ってたんだ」
遙一は黙って続きを待つ。
「洗面所」
遙一の指が、窓枠を一度だけ叩いた。
五十年前に死んだ少女の遺体は洗面所で見つかった。今年最初の被害現場となった女子トイレには、あの夜も水が溢れていた。そして、そこには今も嘆きのマートルがいる。さらに、城の怪物をアクロマンチュラは本能的に恐れている。ばらばらだった情報が、そこで急に同じ場所へ寄った。
これまで別々だったものが、急に近くなった。
「バジリスクである可能性は、かなり高いですね。ただ、それより今は、五十年前に死んだ少女の方が気になります」
「洗面所で死んだ子だろ? それが何か――」
ロンが途中で口を止めるより先に、ハリーが顔を上げた。
「マートルか。あそこにいるマートルが、その時に死んだ女の子かもしれない」
「ええ。少なくとも、本人に聞く価値はあります」
「だったら、今から聞きに行こう。場所も分かってるし、マートルならたぶん――」
歩き出しかけたハリーへ、遙一は一つだけ確認した。
「三人で女子トイレへ?」
ハリーの足が止まる。
ロンはしばらく無言で考え、それから首を振った。
「今日はやめよう。昨日は蜘蛛に食われかけて、今日は三人で女子トイレに押しかけて怒られるとか、さすがに嫌だ。僕の一週間分くらいの不運をもう使ってる気がする」
「前にも入っただろ」
「あの時と今は違う。というか、昨日から僕の基準は全部蜘蛛なんだ。蜘蛛よりましなら耐えられるけど、だからって自分から面倒を増やしたいわけじゃない」
「ずいぶん便利な基準ですね」
「笑うなよ。かなり本気だからな」
それだけ喋れるなら、まだ大丈夫だろう。遙一はそう思った。
五月二十九日の夕刻、授業の終わりとは違う鐘が鳴った。
廊下にいた教師が足を止めた。
「その場を動かないで!」
声が飛ぶ。別の教師が階段を駆け上がっていった。
遙一もその輪には加わらなかった。寄り集まる生徒より、階段を駆け上がった教師の方を見ていた。いつもの警戒なら、あれほど急ぐ必要はない。
スリザリンの生徒たちと共に談話室へ戻されてから、しばらくして情報が届いた。
ジニー・ウィーズリーがいない。
壁には、彼女が秘密の部屋へ連れていかれたことを告げる文字が残されている。
談話室がざわめいた。遙一は椅子から立ち上がった。これまでの被害者は、怪物と遭遇した後に発見されている。
今回は違う。
ジニーは偶然、怪物と出会ったのではない。
誰かが彼女を選び、秘密の部屋へ連れていった。