Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
「ジニー!」
ハリーが駆け寄り、床に倒れた少女のそばへ膝をついた。遙一も少し遅れて石室へ入り、その呼吸を確かめる。浅いが、まだ途切れてはいない。
ジニーのすぐ傍らには、見覚えのある黒い日記が落ちていた。
遙一の視線がそこから上がる。日記の向こうに、一人の少年が立っていた。輪郭は薄く、向こう側の石壁が透けて見える。それでも、その姿だけは妙にはっきりしていた。
ハリーの動きが止まる。
「リドル……?」
そこで初めて、遙一の中でも名前と目の前の少年が結びついた。
「会いたかったよ、ハリー・ポッター」
リドルは微笑んだ。
ハリーは答えず、杖を床へ置いてジニーのそばに膝をつき、その肩を揺すった。
「ジニー。起きろ、ジニー」
「聞こえないよ」
穏やかな声だった。
「もう、ほとんど残っていないからね」
ハリーが顔を上げる。
「何をした?」
「僕がした、という言い方は少し乱暴だな。最初に話しかけてきたのは彼女の方だ」
リドルの視線が、床に落ちた日記へ向いた。
「寂しいこと、恥ずかしいこと、誰にも言えないこと。彼女は何でも書いた。僕は読んで、返事をした。それだけで、ジニーは少しずつ僕を信用するようになった」
遙一は倒れた少女と日記を見比べた。
「聞いていたというより、彼女が欲しがる返事を返していたのでしょう」
初めて、リドルの視線が遙一へ向いた。
「君は?」
「ヨーイチ・グリンデルバルド」
リドルの目が、わずかに細くなった。
「グリンデルバルド……」
その姓だけを一度繰り返し、リドルは遙一の顔を見直した。
「それで、君は僕の何を知っている?」
「ハリーから、あなたが五十年前の出来事をどう見せたかは聞いています」
リドルの口元がわずかに上がる。
「それだけで僕のやり方まで分かったつもりか?」
「少なくとも、相手が続きを話したくなるように返すことはできます。秘密を聞き出すのに、質問ばかりする必要はありませんから」
リドルは少しだけ黙った。
「なるほど。君はよく見ている」
「あなたほどではありませんよ。ジニーは、自分で日記を選んで、自分から秘密を渡した。そう思わせたまま、あなたは彼女を使ったのでしょう」
「使った?」
リドルは楽しそうに言い直した。
「彼女は僕に力をくれたんだ。書けば書くほど、僕ははっきりしていった。やがて、こちらから彼女へ触れられるほどにね」
ハリーの顔色が変わった。
「じゃあ、秘密の部屋を開けたのも――」
「彼女だよ。壁に文字を書いたのも、鶏を殺したのも、バジリスクを放したのも。もちろん、彼女自身はほとんど覚えていないけれど」
床のジニーが小さく息を吐いた。
それに合わせるように、リドルの輪郭が少し濃く見えた。
遙一は目を細めた。
少女が弱るほど、こちらは存在感を増している。
日記は記憶を再生しているだけではない。少なくとも、目の前の少年は情報の像として振る舞ってはいなかった。
「ジニーは途中で気づいたんだ」
リドルは続けた。
「日記がおかしいとね。捨てようとした。けれど、今度は君が拾った」
ハリーを見て、笑う。
「君には興味があった。ずっとね」
「僕に?」
「当然だろう。赤ん坊だった君が、どうやって最も恐れられた闇の魔法使いを退けたのか。その答えを、僕は知りたかった」
ハリーは怪訝そうにリドルを見た。
「なんで君がそんなことを気にするんだ?」
「まだ分からないのか」
リドルはジニーのそばに置かれたハリーの杖へ手を伸ばし、それを拾い上げた。
その杖先で、空中へ文字を描く。
淡い光が、一文字ずつ並んでいく。
〝TOM MARVOLO RIDDLE〟
遙一にも見覚えのある名前だった。リドルが杖を振ると、文字列がほどけた。光の文字は空中を滑り、別の順序へ組み替わっていく。
〝I AM LORD VOLDEMORT〟
ハリーの息が止まった。
「……ヴォルデモート」
「そうだ」
リドルの笑みが変わった。
五十年前、模範生の顔でハグリッドを告発した少年と、十年前に英国中を恐怖へ沈めた魔法使い。その間にあったはずの年月が、目の前で一本に繋がった。
遙一は空中の文字を見たあと、リドルへ視線を戻した。
蛇語を使い、スリザリンの後継者を名乗り、五十年前に秘密の部屋を開いた少年が、のちのヴォルデモートだった。驚きより先に、これまでの日記の振る舞いが別の意味を持ち始める。
「これで満足したかい?」
リドルが遙一に訊いた。
「日記の先を見たかったんだろう」
「ええ。予想していたより、ずっと面白いものが残っていました」
「怖くないのか?」
「怖いですよ」
遙一は素直に答えた。
「分からないことが多いので」
リドルは鼻で笑い、ハリーへ向き直った。
「僕が知りたいのは一つだ。君はどうやって僕を倒した?」
「僕が倒したんじゃない。母さんの愛が僕を守ったんだ」
「愛だと?」
リドルの声に露骨な侮蔑が混じった。
「そんなものを答えにするのか」
「ダンブルドアはそう言ったんだ」
その名を聞いた瞬間、リドルの目がわずかに細くなった。
だが、それも一瞬だった。
「それで?」
鼻で笑い、ハリーから視線を外す。
遙一は二人のやり取りを聞いてから、静かに口を開いた。
「ああ、そういえばあなたには一つ、借りがありますね」
唐突だったのだろう。
リドルが眉を上げる。
「僕に?」
「ハーマイオニー・グレンジャーを石にしたでしょう?」
「被害者の一人か。僕が直接手を下したわけではないよ」
「ええ。怪物を使った…」
声を強くする必要はなかった。
「方法を責めているわけではありません。私も、相手がどう動くかを読んで手を入れることはありますから」
「なら、何が気に入らない?」
「私が少し手を入れた相手を、横から壊されたことです」
リドルが数秒、遙一を見つめた。
「ずいぶんと傲慢だな」
「お互い様でしょう」
その返事に、リドルは静かに笑った。
似ている部分はある。相手を読み、見せるものを選び、本人が選んだと思える道を用意する。だが、似ているから同じになるわけではない。その違いを今ここで言葉にする必要もなかった。
リドルはハリーへ視線を戻した。
「なら、二人とも見せてもらおう。ハリー・ポッターがもう一度、生き残れるかどうかを…そしてグリンデルバルドの血統を!」
リドルはハリーから視線を外すと、石室の最奥にそびえるサラザール・スリザリンの像へ顔を向けた。
その唇から、人の言葉とは違う鋭い音が滑り出す。
低く絡みつくような蛇語が石室に響いた次の瞬間、巨大な石像の口が、内側から押し開かれるようにゆっくりと開いていった。
「目を閉じて!」
ハリーが叫んだ。
遙一は即座に瞼を閉じた。
重いものが石の上を擦る音が近づき、石室の空気が押しのけられていく。鼻先を生臭い風が横切った。姿を見なくても、想像していた以上に大きいことだけは分かる。
次の瞬間、横殴りの衝撃が身体をさらった。足が床から離れ、背中から石壁へ叩きつけられる。肺の中の空気が一度に抜けた。
「っ……」
杖だけは離さなかった。
だが、目を開けることもできない。石床を這う音と、巨大な身体が柱へ触れる振動だけが位置を伝えてくる。
リドルの笑い声がした。
「大口を叩いた割には、何もできないようだね」
遙一は壁へ片手をつき、息を整えた。
「頼みのダンブルドアもいない。この学校から追い出された」
「でも、完全にいなくなったわけじゃない」
ハリーが言い返した。
リドルの声が止まる。
「何?」
「ここに、ダンブルドアを信じてる人がいる限り」
その直後だった。
石室の高いところから、鋭い羽音が落ちてきた。
何かが怪物へ突っ込み、直後、バジリスクが石室を震わせるほどの絶叫を上げる。
「フォークス!」
ハリーの声がした。
さらに激しい羽ばたきと、何かを床へ落とす音。続いてハリーが叫ぶ。
「目を潰した!」
遙一は瞼を開いた。
鮮やかな赤い鳥が上空を旋回し、バジリスクの両眼からは血が流れている。床には組分け帽子が転がっていた。
だが、怪物は止まらない。
視覚を失った頭部が激しく振られ、巨大な尾が石柱を打つ。ハリーが帽子へ走ると、その靴音を拾ったバジリスクの首がすぐにそちらを向いた。
遙一は足元に散った小石を三つだけ浮かせた。
一つ目を石柱の陰へ落とす。二つ目を少し奥へ滑らせ、三つ目は横から柱の根元へ当てた。間隔をずらした硬い音が、誰かが急いで石床を走り込む足取りに変わる。
連なった足音に釣られたバジリスクの巨大な頭がハリーから逸れ、その次の瞬間にはそのまま石柱へ牙を突き立てていた。
鈍い破砕音が石室に響き、噛み砕かれた表面から細かな石片が弾け飛ぶ。深く食い込んだ牙に引かれるように、怪物の首がそこで一瞬止まった。
「バジリスク! そっちじゃない!」
リドルの声に、初めて露骨な苛立ちが混じった。
「ええ。ですが、あの蛇はそう思ったようですよ」
遙一は杖先を下ろさない。
その間にハリーが組分け帽子へ手を伸ばした。中から銀色の柄が現れ、引き抜かれた剣が石室の光を返す。
バジリスクが石柱から牙を引き抜くと、砕けた石片が雨のように床へ落ちた。
遙一はその音に紛れさせるように、別の小石を離れた場所で跳ねさせる。先ほどと同じように足音を作ったが、今度は巨大な頭がそちらを向くことすらなかった。
「……一度で覚えますか」
思わず漏れた声には、わずかな苦々しさが混じった。
次の瞬間、巨大な尾が横薙ぎに走った。遙一は身を伏せ、頭上を通過した尾が背後の石像を砕く。二度目の仕掛けを続ける余裕は消えた。
「殺せ!」
リドルの叫びに応じて、バジリスクが再びハリーの足音を捉えた。
盲目の巨体が石床を這い、一直線に距離を詰めてくる。それでもハリーは逃げ切ろうとはせず、剣を握ったまま迫る気配をぎりぎりまで引きつけた。
巨大な顎が開いた瞬間、ハリーが踏み込む。
突き上げた剣は、そのままバジリスクの上顎を深々と貫いた。
怪物が身をよじるたび、石室全体が震えた。だが、崩れ落ちる寸前に振り下ろされた牙の一本がハリーの腕へ食い込み、遙一が駆け寄るより早く、その身体も怪物とともに石床へ倒れ込んだ。
「ハリー!」
遙一が駆け寄るより先に、フォークスが倒れたハリーの傍らへ舞い降りた。傷口へ嘴を寄せ、大粒の涙を落としていく。
牙を抜いた腕から広がっていた毒の気配が薄れ、荒かったハリーの呼吸も次第に落ち着いていった。
その様子を見下ろしながら、リドルはまだ笑っていた。
だが、ハリーは起き上がると、床に転がっていたバジリスクの牙へ手を伸ばした。
遙一の視線も自然とその先を追う。
ハリーが掴んだ牙を、黒い日記へ深々と突き立てた。途端に、裂けた紙の奥から黒いインクが噴き上がる。
「やめろ――!」
それまで余裕を崩さなかったリドルの顔が初めて歪んだ。
日記から黒い液体が溢れるたび、半透明だった少年の身体にも同じような亀裂が走っていく。片方が傷つけば、もう片方も傷つくという程度ではない。日記そのものが、目の前にいるトム・リドルの存在と直接結びついている。
遙一は、その変化から一度も目を逸らさなかった。
やがて日記が完全に沈黙すると、リドルも最後の悲鳴を残して掻き消えた。直後、静まり返った石室に小さな呼吸音が戻る。
ジニーだった。
遙一はそこでようやく彼女へ視線を移した。
帰路では、ロンが向こう側から少しずつ広げていた瓦礫の隙間を抜け、再び合流することができた。
「ハリー!」
ロンが駆け寄り、その後ろで記憶を失ったロックハートが妙に朗らかな顔をしている。
「君たちは知り合いかね?」
「ああ、うん。あとで説明するから」
ロンは投げやりに答えた。
ジニーが生きているのを見て、ようやく肩から力を抜く。
「倒したの?」
「うん」
ハリーが答えた。
「バジリスクも。リドルも」
ロンが安堵した顔をした横で、遙一は日記を見た。黒い表紙には大きな穴が開き、そこから黒ずんだ液体が滲んでいる。
バジリスクよりも、秘密の部屋そのものよりも、今はそちらの方が気になった。
日記を破壊すると、リドルが消えた。そこに保存されていたものは、単なる記憶ではない。
考えるのは、あとでいい。
頭上から羽音がした。フォークスが尾羽を大きく広げる。
「つかまれってことだと思う」
ハリーの言葉に従い、五人はフォークスの長い尾羽へそれぞれ手を伸ばした。
「……これ、本当に全員いけるのか?」
ロンが不安そうに見上げると、フォークスは答えるように大きく翼を広げた。
「大丈夫そうですね」
「お前、鳥の顔まで読めるの?」
「雰囲気です」
「急に雑になるなよ」
言い終わるより早く、身体がふわりと持ち上がった。
次の瞬間には、五人まとめて暗い管の中を上へ引き上げられていく。湿った石壁が左右を流れ、秘密の部屋の闇がみるみる遠ざかっていった。
遙一は片手で尾羽を掴んだまま、その底を見下ろしていた。
五十年前の記憶を見せるだけだと思っていた日記の先には、想像していたよりずっと厄介なものが残されていた。
ふと、入口の前でハリーが蛇の言葉を口にした時のことが脳裏をよぎる。仕掛けの構造を見抜くことと、それを開く鍵を持っていることは、やはり別の話なのだろう。
やがて秘密の部屋の闇が見えなくなるまで、遙一は下を見つめていた。