Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
校長室では、バジリスクの話が続いていた。
どれほど巨大だったのか。どうやってハリーが剣を手にしたのか。フォークスが目を潰し、その隙に何が起きたのか。ハリーが説明するたび、途中からしか見ていないロンが何度も口を挟み、ウィーズリー夫妻はその合間にもジニーの顔色を気にしていた。
遙一だけが、ほとんどそちらを見ていなかった。
ダンブルドアの机の上に、牙に貫かれた黒い日記が置かれている。バジリスクについては、もういい。
黒い表紙には大きな穴が残り、裂けた紙の隙間から乾きかけたインクが覗いている。ハリーが牙を突き立てた瞬間、そこから噴き出した黒い液体と同時にトム・リドルの身体も崩れ始めた。ジニーが弱るほど輪郭を増し、日記を破壊されれば存在そのものが消える。
あれは五十年前の記憶を映すだけの道具ではなかった。リドル自身が考え、選び、嘘をつき、相手の望む言葉を返しながら、その反応に合わせて次の手を選んでいた。
魂を肉体から切り離し、物へ定着させる魔術についてなら知識がある。目の前で起きた現象を既知の理論へ当てはめるなら、分霊箱――あるいは、それに極めて近い魂の保存術。
今の段階で置ける仮説は、そこまでだった。それ以上を決めつければ、観察ではなく願望になる。
「ヨーイチ?」
ハリーに呼ばれ、遙一はようやく日記から目を離した。
「聞いてた?」
「だいたいは」
「だいたいって……」
「フォークスが目を潰して、あなたが剣で仕留めた。その後、牙で日記を壊した。そこは見ていましたから」
「そこじゃなくて、その前の話だよ」
「では聞いていませんでした」
ロンが呆れたように口を開く。
「お前、あんな蛇よりその日記の方が気になるのか?」
「ええ」
「……やっぱり変だよな、お前」
「今さらですか?」
ロンが何か言い返そうとしたところで、ウィーズリー夫人がジニーを抱く腕に力を込めた。少女の顔色はまだ悪い。何度も謝ろうとしては、そのたび母親に遮られている。
日記へ何を書き、どこまで覚えていて、いつから身体を奪われ始めたのか。訊けば確かめられることはいくらでもあった。
遙一は訊かなかった。
必要がなかった。
彼女が自分の意思だけで秘密の部屋を開き、バジリスクを操っていたわけではないことは、すでにリドル本人の口から聞いている。日記へ心を預けたことと、その先で身体を奪われたことは別の話だ。被害者に、犯人の仕掛けの説明まで求める趣味はない。
視線を戻すと、ダンブルドアがこちらを見ていた。
「随分と熱心じゃの」
「興味深いので」
「それは、バジリスクよりもかな?」
遙一は机の上の日記へ視線を落とした。
「秘密の部屋の伝説は、もう秘密ではなくなりました。ですが――」
黒い表紙には、バジリスクの牙が穿った穴が残っている。
「この一冊の日記は、ほとんど姿を見せないまま学校全体を動かしました」
ダンブルドアの目が、わずかに細くなった。
「どういう意味か訊いてもよいかな?」
「事件が続くにつれて、一人で廊下を歩く生徒は減りました。寮が違っても誰かと連れ立ち、角を曲がる前には足を緩め、何かあれば教師や上級生の判断を求める。怪物そのものを見た者など、ほとんどいなかったにもかかわらずです」
遙一は指先で、机の端を軽くなぞった。
「正体の分からない危険が城のどこかにいる。それだけで、人の選択は驚くほど似たものになる。ところが、事件が終わったと分かった途端、皆また勝手に散り始めた。暗い廊下を避ける者も減り、昨日まで判断を誰かに預けていた人間が、今日は友人とくだらないことで言い争っている」
そこで、日記へ目を戻す。
「恐怖そのものより、人が恐怖の中でどう動くか。その中心にあったのが、これ一冊だったというのは――なかなか見事でしょう」
しばらく黙っていたダンブルドアが、静かに息を吐いた。
「実に、トムらしいやり方じゃ」
遙一が顔を上げる。
「彼は昔から、自分の手ですべてを動かす必要があるとは考えていなかった。人が何を恐れ、何を望んでいるのかを見つけることに長けていたのじゃよ。そして、その弱い場所へ手を掛ければ、人は自分から望んだ方向へ動いてくれると知っていた」
「なるほど」
「もっとも、学生だった頃の彼は、今よりずっと上手にそれを隠していたがね」
ダンブルドアの視線が、古びた日記へ落ちる。
「礼儀正しく、聡明で、教師からの評判もよかった。自分が相手にどう見えているかを、よく理解していたのじゃろうて」
遙一の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それは興味深い」
「そう思うかい?」
「ええ。怪物を使ったことより、そちらの方がずっと」
ダンブルドアは答えなかった。ただ、机の上の日記から遙一へと視線を移す。その青い瞳が、先ほどまでよりわずかに長く少年の顔に留まった。
「……何か?」
「いや」
ダンブルドアは穏やかに微笑んだ。
「君は、ずいぶん人をよく見ている…」
「奇術師ですから」
「そうじゃったな」
それだけ言うと、ダンブルドアは再び日記へ視線を落とした。遙一は笑みを残したまま、それ以上は何も訊かなかった。
秘密の部屋の事件は、それで一応の終わりを迎えた。
バジリスクは死に、ジニーは助かり、ハグリッドも戻ってきた。城から緊張がほどけていくのを横目に、遙一は病棟へ向かった。
石化していた生徒たちが目を覚ました日の午後だった。扉を開けると、ハーマイオニー・グレンジャーはすでに枕元へ本を積み上げていた。
「病み上がりですよ」
本から顔を上げたハーマイオニーは、いかにも不本意そうな顔をした。
「だから何?」
「いえ。あなたらしいと思っただけです」
褒めているのか疑うような視線が返ってきたが、声にはもう十分な力が戻っている。遙一はそれだけ確かめると、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
ハーマイオニーは本を閉じ、表紙の上へ両手を重ねた。すぐには話し始めず、何かを選ぶように一度だけ視線を落としてから口を開く。
「ハリーから全部聞いたわ。秘密の部屋のことも、リドルのことも。結局、バジリスクだったのね。私の推理が合ってたのは嬉しいけど……石になってちゃ、あんまり威張れないわ」
最後だけ少し不満そうに唇を尖らせる。
遙一は笑わなかった。
「あなたが答えを確かめに動くところまでは予想できたはずです。その先で別の手が伸びる可能性まで見ていなかった。そこは私の計算違いでした」
ハーマイオニーの表情から、わずかに不満が消えた。代わりに怪訝そうな色が浮かぶ。
「……それ、あなたのせいじゃないでしょう。調べに行くと決めたのは私よ。少しヒントをもらったからって、その後まで全部あなたが背負う必要はないわ」
病棟の向こうで誰かが笑い、マダム・ポンフリーが静かにするよう声を上げた。ハーマイオニーはそちらを気にして声を落とす。
「少なくとも、私はそう思ってる」
遙一は少しだけ考え、頷いた。
「理屈としては、その通りです」
ハーマイオニーは数秒、遙一の顔を見つめた。
「……その言い方、納得してないでしょう」
遙一は答えず、ほんのわずかに笑った。
ハーマイオニーは呆れたように息を吐いたが、それ以上は追及しなかった。閉じていた本を枕元へ戻す手つきからは、先ほどまでの刺々しさが少し抜けている。
「では、快気祝いを一つ」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「失礼ですね」
取り出したのは、一組のトランプだった。
遙一はそれを数度切り、扇状に広げて差し出す。
「一枚」
「また?」
「またです」
ハーマイオニーは警戒しながら一枚を抜いた。
「覚えました?」
「ええ」
「戻してください」
カードが山へ戻る。
遙一は一度だけ切った。
「表と裏、どちらがいいです?」
ハーマイオニーが怪訝な顔をする。
「何の?」
「お好きな方を」
「……表」
「では」
遙一が山札の一番上へ指を置き、ゆっくりとめくる。現れたのは、先ほどハーマイオニーが選んだ一枚だった。
「……どうやったの?」
「秘密です」
「魔法?」
「使っていません」
「じゃあ手品?」
「さて」
ハーマイオニーはカードと遙一を交互に見た。
「表か裏かって、何か関係あった?」
「ありませんよ」
「……そういうところよ」
呆れたような言葉とは裏腹に、ハーマイオニーの口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
遙一は選ばれた一枚を受け取り、山札の中へ戻した。指先で軽くカードを切ってから、椅子を立つ。
「Good Luck…」