Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
自分の杖をまだ持っていないからといって、魔法そのものに触れられないわけではなかった。
グリンデルバルド家には、壊れてはいないが今では誰も主に使っていない古い杖が何本か残されていた。そのうち一本を、以前から遙一へ魔法を教えていた男が細長い箱から取り出し、机の上へ置いた。
「今日はこれを使う。ただし、私がいる時だけだよ」
「分かっています」
遙一が素直に答えると、先生はすぐには杖を渡さなかった。
「本当に?」
「信用がありませんね」
「君は昨日、変身術の本を読みながら朝食のスプーンを十分ほど眺めていただろう」
「見るだけなら安全です」
「だから、杖を持たせた後が心配なんだ」
先生は真顔だった。冗談として受け取るべきところなのか少し迷ったが、どうやら半分以上は本気らしい。
遙一は反論せず、机の上の杖へ視線を落とした。使い込まれた古い杖で、握りの部分には細かな擦れがある。誰かが長く使ったものらしく、手には収まるものの、持ち上げるとどこか借り物の道具を扱っているような違和感が残った。
「まずは浮かせるだけだ。昨日まで本で読んでいたからといって、いきなり難しいことをしようとしないように」
「難しいこと、というのはどの程度です?」
遙一が尋ねると、先生は杖を渡しかけた手を一度止めた。
「その質問をする時点で、説明して正解だったと思っているよ」
机の中央には一枚の羽根が置かれていた。
遙一はこれまで何度も、他人が物を浮かせるところを見ている。杖の動きも、呪文の発音も、理屈としては頭に入っていたから、一度目から少なくとも何かしらの反応はあるだろうと思っていた。
だが、羽根は動かなかった。
「……なるほど」
「驚いた?」
先生に訊かれ、遙一は動かない羽根を見たまま答えた。
「少しだけ」
「もっと驚いていいんだよ」
笑われたので、遙一はもう一度杖を構え直した。発音を確認し、手首の角度をわずかに変えて試すと、今度は羽根が机から離れた。
ただし、浮いたというより跳ねたと言った方が近い。勢いよく上へ飛び、遙一の額をかすめて床へ落ちた。
「今のは?」
「力みすぎだね」
「言葉と動きは合っていましたが」
「合っていたよ。だから飛んだ」
先生は落ちた羽根を拾って机へ戻しながら言った。
「本を読めば、どこへ向けてどう振るかは分かる。でも、どのくらい力を込めればいいかまでは、文字では教えてくれない」
遙一は杖先を見た。
それは奇術とは少し違っていた。硬貨なら指へかかる重さがあり、糸なら張力があり、カードなら紙のしなりがある。触れた瞬間から失敗する直前まで、身体へ返ってくる情報は多い。
魔法にも感触はあるらしい。ただ、今の遙一には、それを読むための基準がまだなかった。
「もう一度お願いします」
先生は少し呆れたように息を吐いたが、止めはしなかった。
三度目は羽根が数センチだけ浮き、四度目は高すぎた。五度目には傾いたまま机の端へ流れ、六度目でようやく、目の高さより少し下をゆっくり横へ移動した。
「そこで止めよう」
「あと一度だけ」
「昨日もそう言ったね」
「昨日は本でした」
遙一が真面目に答えると、先生は笑うでも怒るでもなく、差し出された杖を取り上げた。
「今日は杖だよ。だから止めるんだ」
古い杖は先生の手へ戻された。遙一は浮いていた羽根より、取り上げられた杖の方を少し長く見ていた。
それからの練習は、奇術を今の身体へ作り直していった時とよく似ていた。ただし大きな違いが一つある。失敗しても硬貨が床へ転がる程度で済んだ奇術と違い、魔法は失敗の仕方によっては周囲まで巻き込む。
光を灯す練習では、杖先がほのかに明るくなるはずなのに、一度だけ白い光がぱっと広がって先生を眩ませた。
「ヨーイチ」
名前を呼ばれた声だけで、さすがに今のはよくなかったと分かった。
「すみません」
「今のは謝るところだと分かるんだね」
「先生が目を閉じていましたので」
「そういう意味ではないんだが」
先生は目頭を押さえながら答えた。
小さな木片を動かす練習では、十センチ移動させるつもりが二十センチ進んで机の端から落ちた。簡単な色の変化を試した時には、薄い灰色を狙った布が妙に濃くなった。
理屈が分からないわけではない。むしろ、何をすべきかは分かっている。
問題は、理解した通りの量を身体と杖がそのまま出してくれるとは限らないことだった。
そこで遙一は、成功したかどうかよりも、狙いからどれだけずれたかを記録することにした。同じ動作でどの程度差が出るのか。発音を急いだ時、手首を強く返した時、集中を対象そのものではなく移動先へ置いた時、それぞれ何が変わるのか。
机の端には、少しずつ紙が増えていった。
「魔法の宿題?」
ある日、家人がそれを覗き込み、びっしり書き込まれた紙を一枚持ち上げた。
「いえ、失敗の記録です」
「そんなに失敗したの?」
「まだ足りません」
遙一が平然と答えると、家人は紙と本人を見比べ、それから声を潜めた。
「それ、先生には言わない方がいいと思うよ」
言われなくても、そのつもりだった。
数か月もすると、遙一は練習用の杖で基礎的な魔法を安定して使えるようになった。羽根は狙った高さで止まり、木片も机から落ちなくなった。光は必要な明るさで灯り、簡単な変化なら、一度で期待した範囲へ収まることが増えた。
そこで初めて、遙一は魔法そのものではなく、魔法を見ている側へ興味を移した。
羽根を浮かせるために杖を振れば、見ている人間の視線は自然と杖先と羽根へ向かう。その間に、反対の手で机の端に置いていた金属片を掌へ収めても、ほとんど気づかれない。
魔法が珍しいから見るのではない。魔法使いであっても、誰かが杖を構えれば、何をするのかを確かめるためにそちらを見る。杖はそれだけで、強い注目を集める道具だった。
次に試したのは糸だった。
小さな紙片を細い糸で引き、途中から本当に魔法で浮かせる。逆に、最初だけ魔法で動かし、相手の意識が杖先へ寄ったところで糸へ切り替える。
どちらも単独なら、大した仕掛けではない。しかし、見ている側が一度「これは魔法だ」と思えば、その後の動きまで魔法として説明しようとする。反対に、一度糸を見つけたと思わせれば、その後に本当に浮かせても、しばらくは別の糸を探す。
遙一はそこに面白さを感じた。
魔法を知らない相手を驚かせるより、魔法を知っている相手に、自分の知識を誤った方向へ使わせる方がずっといい。
ある午後、練習机に向かう遙一のそばで、小さな機械式の音楽箱が同じ旋律を繰り返していた。木製の箱で、蓋を開けば一定時間だけ音が鳴る。魔法で歌う玩具ではなく、内部の金属片を弾いて音を出す、ごく普通の仕掛けだった。
「それも手品に使うの?」
先生が音楽箱へ目をやったので、遙一は糸を指へ掛けたまま答えた。
「今は時間を測っています」
「時計なら壁にあるよ」
「見なくて済むので」
旋律のこの部分までなら十数秒。この音へ来れば次の動作へ移る。時計へ視線を送らなくても、耳だけで時間を区切ることができる。
先生はしばらく音楽箱を眺め、それから遙一の手元へ視線を戻した。
「そういう使い方をするんだね」
「大した道具ではありませんよ」
「君がそう言うと、あとで大したことになりそうで嫌なんだ」
遙一は返事の代わりに少し笑った。
音楽箱そのものに大した仕掛けはない。それでも舞台では、こういう大したことのない道具ほど役に立つ場合がある。
遙一は同じ旋律を何度も聞きながら、杖を振る時刻と指を動かす時刻を少しずつ揃えていった。
十一歳になる夏、ようやく借り物ではない杖を選ぶ日が来た。
何本か試した。握った瞬間から何も感じないものもあれば、呪文を使う前から手の中で落ち着かないものもある。古い練習用の杖で慣れていたせいか、遙一は最初、その違いを道具ごとの癖として観察していた。
だが、一本を持った時だけ感触が変わった。
選ばれたのは、シデの木にドラゴンの心臓の琴線を収めた、十二と二分の一インチの硬い杖だった。
手にした瞬間に何か劇的な音が鳴ったわけではない。ただ、それまでより杖先が自分の指の延長へ少し近づいたように感じた。
試しに小さな物を浮かせると、その差はさらに分かりやすかった。古い杖では、狙ったところへ合わせるために最後のわずかなずれをこちらから修正する必要があったが、新しい杖はその手前まで素直に反応する。
「扱いやすそうだね」
付き添っていた家人が言った。
「ええ。その分、雑には扱えませんね」
遙一が浮かせた物を下ろしながら答えると、家人は首を傾げた。
「普通は逆じゃないのか?」
「反応が良いなら、間違えた時もよく反応するでしょう」
「……そういう考え方をするのか」
家人はしばらく杖を眺めていたが、遙一にとってはごく自然な話だった。
よく切れる刃物ほど、使いやすいから安全なのではない。意図した動きを正確に伝える道具ほど、使う側の雑さまで正確に拾う。
杖も、そういうものらしかった。
その夏の終わり、遙一は家の者と先生を数人だけ部屋へ呼んだ。
「何をするんだい?」
先生が訊くと、遙一は机の上へ置いた一輪の赤い薔薇を示した。庭師から分けてもらった、茎の短いものだった。
「少し試したいことがあります」
「また手品?」
以前、金属片をポケットへ入れられた男が、用心深く自分の胸元を押さえた。
「今回は魔法ですよ」
「その言い方が一番信用できないんだ」
部屋に小さな笑いが起こった。
遙一は薔薇へ杖を向け、呪文とともに花を机から浮かせた。
誰も驚かなかった。この部屋にいるのは全員が魔法使いであり、花が浮く程度のことなら珍しくもない。
それでも、遙一が何をするのかを見るために、視線は杖先と薔薇へ集まった。
薔薇は一度高く上がり、それから少しずつ下りてくる。遙一が杖を下げ、花が机へ戻ろうとした、その直前だった。
薔薇が消えた。
「え?」
家人の一人が身を乗り出した。机の下を見る者がいて、遙一の袖を見る者もいたが、最初に確認されたのはやはり杖だった。
「消したのか?」
「どうでしょう」
遙一が答えを濁すと、先生は杖を受け取り、直前に使われた魔法を確かめた。しばらく調べたあとで眉を寄せる。
「……消失の魔法は使っていないね。残っているのは、薔薇を浮かせた痕跡だけだ」
「はい」
「じゃあ、どこへ?」
遙一は答えず、部屋の端に立っている男へ視線を向けた。
男は嫌な予感がしたらしく、すぐに自分の胸ポケットを押さえた。
「今度はそこじゃありませんよ」
「今度は、って言うな」
笑いながら袖を払った、その時だった。
赤い花弁が覗いた。
男が動きを止め、そのまま恐る恐る袖口へ手を入れる。引き出されたのは、一輪の赤い薔薇だった。
「……いつ?」
「皆さんが、浮いている方を見ていた間です」
「ずっと見てたぞ」
納得できないという顔をする男に、遙一は少しだけ笑った。
「ええ。浮いている薔薇は」
そこで男が黙った。
実演に使ったのは、一輪だけではなかった。目の前で浮かせるための薔薇と、同じ長さに茎を切り、花弁の開き方まで似せておいたもう一輪。どちらをいつ見せ、どちらをいつ隠したのか、それを詳しく説明する気はなかったが、最初から観客が数えていたものと、実際に用意されていたものの数は同じではない。
見ている側は確かに薔薇を見ていたし、杖も見ていた。だからこそ、その二つ以外を見る時間が減った。
先生はもう一度遙一の杖を見て、それから男の手にある薔薇へ目を移した。
「魔法で浮かせて、消えたところだけは手品か」
「はい」
「最初から全部手品だと思わせることもできたんじゃないか?」
「できます」
「じゃあ、なぜわざわざ魔法を?」
遙一は少し考えた。答え自体は、もう決まっている。
「皆さんが魔法を知っているからです」
部屋が静かになった。
「杖を振れば、まず魔法を考える。実際に魔法が使われていれば、その後の現象まで同じ理由で説明したくなる。魔法を知らない人より、知っている人の方が、そこから外れるのに時間がかかるんです」
先生は腕を組み、しばらく考えてから聞き返した。
「つまり、知識がある方が騙しやすい、と?」
「場合によっては。知識は正しい答えを増やしますが、最初に選ぶ答えまで決めてしまうことがある」
遙一は男の手から薔薇を受け取り、赤い花を指先でゆっくり回した。短く切られた茎は、今の手にもよく馴染む。
それは以前の世界から持ってきた技術でも、この世界で新しく知った魔法でもない。その二つを組み合わせた時にだけ成立する、今の遙一のやり方だった。
「ヨーイチ」
先生に呼ばれ、遙一は薔薇から顔を上げた。
「はい」
「ホグワーツでは、先生相手にそれをやらないように」
「善処します」
少しの間を置いて、先生はため息をついた。
「約束してほしかったんだけどな」
今度はさっきより大きな笑いが起き、遙一も笑いながら薔薇を机へ戻した。
その端には、練習に使っていた小さな音楽箱が、蓋を閉じられたまま置かれている。
もうすぐ、それも荷物へ入れることになる。
九月一日まで、残された日はそれほど多くなかった。