Good Luck, Mr. Magician   作:evejanjan

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第5話 九と四分の三番線

 九月一日のキングズ・クロス駅には、よく見れば妙なものがいくつも紛れ込んでいた。

 

 大きな籠の中で、いかにも機嫌が悪そうに羽を鳴らすふくろう。どう見ても数日の旅行には多すぎる荷物を押している家族。まだ暑さの残る時期だというのに厚い外套を腕へ掛け、その下から紫色の布を覗かせている老人。

 

 ひとつひとつ拾っていけば十分に目立つ。しかし汽笛とアナウンスと人の声が絶えず重なる大きな駅では、そうした違和感も案外、雑踏の中へ埋もれてしまうものらしい。

 

 遙一は荷物を載せたカートを押しながら、少し前を歩く家人についていった。トランクの中には教科書と制服、身の回りの品、それに数年間使ってきた小道具が必要な分だけ収めてある。小さな機械式の音楽箱も、硬貨や糸と同じように、底の方へ収まっていた。

 

「忘れ物はない?」

 

 歩調を緩めた家人が振り返った。

 

「確認しました」

 

「昨日の夜も?」

 

「はい」

 

「今朝も?」

 

「はい」

 

「駅へ出る前は?」

 

「確認しました」

 

 そこで家人は眉を上げた。

 

「二回じゃなかった?」

 

「荷物を開けた確認は二回です。最後は一覧だけ見ました」

 

「……君と話していると、時々こっちが細かすぎるみたいな気分になるな」

 

 遙一は特に返さなかった。家人も答えを求めていたわけではないらしく、そのまま九番線と十番線の間へ視線を移した。

 

「まあ、杖さえ忘れてなければ大抵なんとかなる。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「そういう言葉にだけ反応するのはやめなさい」

 

 九と四分の三番線への入り方は知っている。本で読んだだけではなく、出発前にも説明されていた。人目を避け、九番線と十番線の間へためらわず進めばいい。

 

 だから、壁が目の前から消えた瞬間そのものには、さほど驚かなかった。

 

 むしろ遙一が足を緩めたのは、その先にあった光景を見た時だった。

 

 赤い蒸気機関車が白い煙を吐き、長いホームには黒いローブを着た子供と、その家族がひしめいている。ふくろうの鳴き声に混じって誰かが猫の名前を呼び、髪を何度直しても同じ場所が跳ねると母親に追い回されている少年がいた。マフラーを半分ほど引きずったまま走って父親に捕まる子供もいれば、窓際の席を取るために兄を先に列車へ押し込もうとして叱られている子供もいる。

 

 学校へ向かうための乗り場というより、一年に一度だけ現れる小さな町のようだった。

 

 そして、その町ではもう、人間関係が始まっている。

 

 子供を抱きしめてなかなか離さない母親がいる一方で、肩を一度叩くだけの父親もいた。兄や姉らしい上級生から「動く階段を信用するな」だの「ピーブズには返事をするな」だの、本気とも冗談ともつかない忠告を聞かされている一年生の隣では、本人そっちのけで親同士が挨拶を交わしている。

 

 少し離れたところでは、二組の家族が互いの姓を聞いた途端に笑顔を深くした。一方で、名乗り合った直後に妙な沈黙が落ち、「では学校で」とだけ言って別れる家族もいる。

 

 これまで読んできた家系図や歴史書が、紙の上だけのものではなかったことを、遙一はそこで初めて実感した。

 

 純血、半純血、マグル生まれ。文字にすれば三つの分類に過ぎない。それでも実際の人間の間へ置かれると、立つ位置や声の調子、誰に先に挨拶するかといった細かなところへまで滲み出るらしい。

 

「見すぎると、向こうも気づくよ」

 

 横から静かに言われ、遙一は家人へ視線を戻した。

 

「失礼しました」

 

「謝るくらいなら、もう少し分かりにくく見なさい。ほら、目だけ動かすとか」

 

 家人は実演するように、顔を前へ向けたまま横目だけで隣の家族を見た。

 

「それは余計に怪しいと思います」

 

「そうかな」

 

「はい」

 

「じゃあ今のは忘れて」

 

「分かりました」

 

「本当に忘れそうな返事をするな」

 

 このところ、似たようなことをよく言われる。

 

 

 列車の近くまで進んだところで、向こうから一人の男が家人へ声を掛けてきた。二人は以前から面識があるらしく、握手を交わすと、今年は人が多いだの、列車は毎年同じように混むだのと取り留めのない話を始めた。

 

 その横に立っていた淡い金髪の少年は、大人たちの話にはほとんど興味がないらしい。しばらく遙一を見ていたが、ついに待ちきれなくなったように口を開いた。

 

「グリンデルバルド?」

 

 名ではなく、姓だけを確認するように口にする。

 

 遙一は少年を見返した。年は同じくらいで、髪も服もきちんと整えられている。初対面の相手を見て、顔や持ち物より先に姓へ反応する。その順番の方が、名乗りそのものより少し面白かった。

 

「そうですが」

 

「ドラコ・マルフォイだ。父上から君の家のことを聞いたことがある。父上は昔の家の話になると長いんだ。母上は、僕が学校へ行く前くらいはそういう話をやめたらって言ってたけど」

 

 そこでドラコは、少しだけ得意そうに胸を張った。

 

「でも、知っておいた方がいいだろ? ホグワーツへ行けば、誰がどこの家かくらい分かった方がいいって父上も言ってた。君の家も古いんだろ」

 

「そうですね」

 

「やっぱり。だったらスリザリンじゃないか?」

 

「まだ組分け前ですよ」

 

「僕はスリザリンだよ。マルフォイ家はずっとそうだし、父上も母上もスリザリンだった。父上なんて、学校の話をすると結局いつも自分の寮の話になるんだ。母上は寮より、ちゃんと食事をしろとか、湖の近くは冷えるから気をつけろとか、そういうことばっかりだけど」

 

 言いながら、ドラコは少しだけ顔をしかめた。嫌がっているというより、何度も聞かされた言葉を思い出した顔だった。

 

「談話室は湖の下にあるらしい。父上は雰囲気がいいって言ってたけど、母上は寒かったって。どっちが本当なんだろうな」

 

「行けば分かりますね」

 

「そうだけどさ」

 

 ドラコはそこで一度言葉を切ったが、すぐに別のことを思い出したように続けた。

 

「あと、父上は付き合う相手も考えろって言ってた。変なのと一緒になると面倒だからって」

 

「変なの?」

 

「……変なのは変なのだよ」

 

 説明しようとして、ドラコは少し詰まった。父親から聞いた言葉を、そのまま覚えてきただけらしい。

 

「まあ、行けば分かる。たぶん――いや、絶対」

 

 最後だけ妙に言い直したので、遙一はわずかに笑った。

 

 

 

 汽笛が鳴る頃には、ホーム全体が少しずつ慌ただしくなっていた。

 

 遙一がカートから手を離すと、家人も先ほどまでの軽い調子を少しだけ引っ込めた。

 

「手紙は書くように」

 

「必要なことがあれば」

 

「必要がなくても。学校に着いた、食事がまずい、同室がいびきをかく、何でもいい」

 

「食事がまずくなければ?」

 

「そこじゃない」

 

 近くで別の母親が「毎週日曜に書くのよ!」と息子へ叫んでいた。その息子はすでに列車の窓へ顔を向け、聞こえないふりをしている。

 

 家人はそれを見てから、もう一度遙一へ向き直った。

 

「月に一度くらいでいい」

 

「分かりました」

 

「今のは本当に守ってね」

 

「はい」

 

「それと、先生を騙さない」

 

 遙一は少しだけ間を置いた。

 

「努力します」

 

「善処から努力に上がっただけ、進歩だと思うことにするよ」

 

 そう言われて、遙一も笑った。

 

 トランクを預けて列車へ乗り込むと、通路はすでに生徒たちで混み始めていた。友人を探して歩く上級生もいれば、どの客室へ入るか決められず行ったり来たりしている一年生もいる。窓から家族へ手を振ろうとして友人の頭に肘をぶつけ、二人まとめて笑っている者もいた。

 

 遙一は空いている席を見つけて荷物を置いた。向かいに座っていた上級生らしい少年が、トランクと新品のローブを見比べて「一年?」と尋ねてくる。

 

「はい」

 

「じゃあ一つだけ教えとく。菓子のワゴンが来ても全部買うなよ。去年、初めて見たからって端から買った奴がいてさ」

 

 窓際の友人が本から顔を上げた。

 

「お前だろ」

 

「そうだよ。だから経験者として言ってるんだ。途中で気持ち悪くなって、夕食ほとんど食えなかったんだから」

 

「そのあと寮でまた食べてただろ」

 

「腹が減ったんだよ」

 

 上級生は悪びれずに言い切ってから、遙一へ向き直った。

 

「とにかく、ホグワーツの夕食は最初の日が一番いい。菓子で潰すのはもったいない」

 

「参考にします」

 

「ほら、真面目に聞いた」

 

 窓際の少年が笑うと、上級生は「いいだろ、役に立つんだから」と肩をすくめた。

 

 

 昼を過ぎた頃、本当に菓子のワゴンがやって来た。

 

 遙一は財布を持って廊下へ出たが、通路の少し先でワゴンが止まり、完全に道を塞いでいた。避ける場所もないので、近くの客室の戸口へ身体を寄せる。

 

 中には二人の少年がいた。赤毛の方は、向かいに座る黒髪の少年が次々に菓子を指さすのを、半ば呆れたように眺めている。

 

「それも買うの?」

 

「食べたことないから」

 

「だからって全部試さなくてもいいだろ。あ、それはうまいけど。兄貴がよく買ってた」

 

「じゃあそれも」

 

「僕に聞く意味ある?」

 

 黒髪の少年が笑った。

 

 痩せていて、丸い眼鏡をかけている。額の傷は髪に隠れてよく見えなかったが、名前なら知っていた。

 

 ハリー・ポッター。

 

 一九八一年の事件を調べた時、何度も資料に現れた名前だった。

 

 遙一は客室へ入らなかった。有名人を見つけたからという理由だけで、すでに出来上がりつつある二人の会話へ割り込む必要はない。

 

 やがてワゴンが少し動き、遙一の前まで来た。並んでいる菓子はどれも見慣れないものばかりで、包装だけでは味の想像がつかない。ひとつ手に取って裏返していると、さっきの黒髪の少年が戸口から覗き込んだ。

 

「それ、何?」

 

「私も今確認しているところです」

 

「カボチャ……なんとか?」

 

「パスティですよ」

 

 横からワゴンの女性が教えると、ハリーは「あ、そうなんだ」と少し恥ずかしそうに笑った。

 

 客室の中から赤毛の少年も顔を出した。

 

「それなら普通にうまいぞ。兄貴がよく買ってた。うち、兄貴が多いから、菓子だけはだいたい誰かが先に試してるんだ」

 

「便利ですね」

 

「便利かなあ。変なのを食べさせられる時もあるし。双子なんか、わざと外れを渡してくるから」

 

 その言い方から、文句を言いながらも兄たちのことをよく知っているのが分かった。

 

 ハリーは二人の話を聞きながら、遙一の持っている菓子と自分の席に積んだ菓子を見比べた。

 

「僕は逆だな。どれが何なのか、ほとんど分からない」

 

「魔法界の菓子は初めてですか?」

 

「うん。菓子だけじゃなくて、ほとんど全部」

 

 言ってから、ハリーは自分でも少し変な言い方をしたと思ったのか、肩をすくめた。

 

「だから、見るとつい買いたくなるんだ」

 

「なるほど」

 

 遙一はそれ以上を聞かなかった。

 

 魔法界の菓子が初めて、というだけではないらしい。しかし初対面の相手が自分から話していないことを、わざわざ掘り起こす理由もない。

 

 遙一がカボチャのパスティを買うと、ハリーは自分の山から一つ持ち上げた。

 

「それ、おいしかったら後で教えて。僕もまだ食べてないやつが多すぎて、どれから食べるか分からない」

 

「覚えていれば」

 

「忘れるの?」

 

「必要なら覚えています」

 

 ハリーは少し考え、それから笑った。

 

「じゃあ、必要ってことにしといて」

 

 赤毛の少年が「そんな頼み方あるか?」と笑い、ハリーもつられて笑った。

 

 遙一も少しだけ口元を緩め、自分の席へ戻った。

 

 買ったばかりのカボチャのパスティを一口食べる。

 

 上級生の忠告どおり、全部買わなかったことだけは正しかったらしい。

 

 

 しばらくして廊下へ出た時、今度はドラコとすれ違った。後ろには、駅で見かけた覚えのある大柄な少年が二人ついている。

 

「さっき、ポッターと話してただろ」

 

 挨拶より先にそう言われ、遙一は「少しだけ」と答えた。

 

「どんな奴だった?」

 

「普通でしたよ」

 

「普通?」

 

 どうやら期待していた答えと違ったらしい。ドラコは眉を寄せ、それから「傷は?」と聞いた。

 

「ありましたね」

 

「父上は、あの傷のせいで皆が騒ぎすぎなんだって言ってた。十年前のことなのに、まだ新聞で名前が出る時があるって。母上は、学校へ行く前から他人の噂ばかり気にするなって言ってた」

 

「意見が違うんですね」

 

「たまにね。父上は誰と付き合うかが大事だって言うし、母上は……まあ、変な喧嘩だけはするなって」

 

 最後だけ少し言いにくそうだった。

 

「それで、あなたは?」

 

「僕?」

 

「誰と付き合うべきだと思っているんです?」

 

 ドラコはすぐには答えなかった。父親の言葉ならいくらでも出てくるのに、自分の答えを求められるとは思っていなかったらしい。

 

「……学校で見てから決めるよ」

 

「それがいいと思います」

 

「なんだよ、その言い方」

 

 不満そうではあったが、ドラコはそれ以上言わなかった。

 

 遙一は歩いていく背中を見送り、少しだけ笑った。

 

 ドラコの中では、すでに人間を分けるための言葉がいくつも用意されている。ただ、その全部がまだ彼自身の言葉というわけではないらしい。

 

 

 夕方が近づくにつれ、車窓の景色は街から田園へ変わり、やがて遠くに山が増え始めた。

 

 生徒たちが制服へ着替え始めたので、遙一も黒いローブへ袖を通した。狭い通路では、慣れない裾を踏みそうになって笑われる一年生や、ネクタイの結び方を隣の客室まで聞きに行く者もいた。遙一は窓へ映った自分の姿を一度確かめる。肩や袖に妙な余りはない。家の者が何度も寸法を確認していたのだから当然だった。

 

 列車が止まると、一年生だけが上級生とは別に集められた。

 

 大柄な男のよく通る声に従い、暗い道を進む。途中まではまだ小声で話していた子供たちも、湖へ出たところで次々に足を止めた。

 

 水の向こうに、城があった。

 

 遙一も足を止める。

 

 ホグワーツの写真なら何度も見ている。塔のおおよその数も、学校として使われてきた年月も、歴史上どのような出来事が起きたかも知っていた。

 

 それでも、夜の湖の向こうに灯りを浮かべる巨大な城は、紙の上で見たものとはまるで違う。窓の明かりが黒い水へ揺れ、輪郭の一部は夜へ溶け、見上げても端まで一度に捉えきれなかった。

 

 近くで誰かが、思わずというように「すごいな」と呟いた。

 

 遙一は何も言わなかった。

 

 同感だったから、付け足す言葉がなかった。

 

 小舟へ乗り、黒い水を渡る。岸が遠ざかるにつれて城はさらに大きくなり、入学前に読んだ動く階段や肖像画の話まで、急に現実味を帯び始めた。

 

 どこに何があるのかは、まだ知らない。

 

 珍しく、そのことを素直に楽しめそうだった。

 

 

 城へ入り、しばらく待たされたあと、一年生は大広間へ案内された。

 

 高い天井の下に長いテーブルが四列並び、その両側から大勢の生徒がこちらを見ている。駅のホームでも十分に人は多かったが、同年代から年上までの視線が一斉に集まるこの場所では、空気そのものが少し違った。

 

「天井、外じゃないのか?」

 

「中だよ」

 

「でも星が――」

 

「静かにしろって」

 

 すぐ前の列から聞こえた囁きに、何人かが上を見た。

 

 遙一も一度だけ視線を上げた。夜空そのものにしか見えない天井には星が浮かんでいる。仕組みを考えるより先に、素直に綺麗だと思った。

 

 正面には教師たちが並んでいた。

 

 その中に、長い銀色の髭を持つ老人がいる。

 

 アルバス・ダンブルドア。

 

 写真で何度も見た顔であり、ゲラート・グリンデルバルドについて調べれば避けて通ることのできない人物でもある。

 

 遙一がほんの一瞬だけそちらへ視線を向けた時、ダンブルドアもまた、一年生たちの列をゆっくり眺めていた。目が合ったような気がしたが、それだけだった。

 

 その近くには、痩せた顔に黒い服をまとった教師も座っている。遙一の知識にはない人物だったが、それを不思議とは思わない。

 

 世界には、本に載っていない人間の方が多い。

 

 

 組分けは、一人ずつ前へ出て古びた帽子を被るという、事前に想像していたより少し奇妙な方法で行われた。最初の数人が呼ばれるうちに、一年生の列にも少しずつ余裕が出てきたが、帽子が何を見て寮を決めているのかについては、小声で勝手な推測が飛び交っている。

 

 ドラコ・マルフォイはほとんど迷われることなくスリザリンへ送られ、立ち上がった時には、やはりという顔をしていた。

 

 列車でハリーと一緒にいた赤毛の少年――ロン・ウィーズリーはグリフィンドールへ入った。

 

 そして、ハリー・ポッターの名が呼ばれた時だけ、大広間のざわめきが明らかに変わった。

 

 本人の肩がわずかに固くなる一方で、周囲の視線は一斉に彼へ集まった。額の傷を見ようと首を伸ばす者もいれば、顔そのものを確かめる者もいる。

 

「本当にいるんだ」

 

「静かにしなさい」

 

「傷見える?」

 

「見えない」

 

 どこかのテーブルからそんな囁きが聞こえた。

 

 十年前から続いてきた物語の登場人物が本当に存在していたことを、いま目の前で確認しているのだろう。

 

 その物語を、ハリー本人がどう思っているのか。

 

 そこまで知っている者は、おそらくほとんどいない。

 

 やがて帽子がグリフィンドールの名を叫び、赤と金のテーブルが大きく沸いた。ハリーは明らかにほっとした顔でそちらへ向かう。

 

 遙一は、駅でドラコが口にした「付き合う相手は選べ」という言葉を少しだけ思い出した。

 

 

「グリンデルバルド、遙一!」

 

 自分の名が呼ばれると、今度は別の種類のざわめきが起こった。

 

「グリンデルバルド?」

 

「誰?」

 

「あとで教える」

 

 ハリーの時ほど大きくはないが、いくつかの席で明らかに反応があり、教師席でも何人かがこちらへ視線を向けた。

 

 姓を知っている者もいれば、何の反応も示さない者もいる。聞いたことだけはあって、どこで聞いたのか思い出そうとしているらしい顔もあった。

 

 遙一は気にする様子もなく椅子へ座り、古びた帽子を頭へ載せた。

 

 視界が暗くなる。

 

 少しの間があったあと、耳ではなく頭の内側へ声が響いた。

 

 ――なるほど。これは少し迷うな。

 

 意外な第一声だった。

 

 ――考えることが好きだ。調べ、比べ、自分で答えを作る。レイブンクローでも、きっと困らない。

 

 遙一は黙って聞いた。

 

 ――だが、知ったものを棚へ戻して満足する性質でもないらしい。

 

「使えるものなら、使いますよ」

 

 心の中で返すと、帽子が小さく笑ったような気配がした。

 

 ――そうだろうとも。手にあるものを無駄にせず、自分なりの使い方を見つける。誰かが決めた答えより、自分で選んだものを重く見る。

 

 少し間があった。

 

 ――どこへ入りたい?

 

「選べるんですか?」

 

 ――望みは見る。

 

 遙一は少しだけ考えた。

 

 特別な希望はなかった。どの寮にも、それぞれ違う人間がいるだろう。

 

「お任せします」

 

 その答えが気に入ったのか、帽子が笑った。

 

 次の瞬間、大広間へ声が響いた。

 

「スリザリン!」

 

 緑と銀のテーブルから拍手が上がる。

 

 帽子を外して立ち上がると、ドラコが満足そうな顔をしているのが見えた。隣の少年へ何か言いながら、空いている席を手で示している。

 

「ほら、言っただろ」

 

「何を?」

 

「スリザリンだって」

 

「僕に言った?」

 

「言った」

 

「聞いてない」

 

 どうやら遙一のことではなく、隣の生徒との会話らしい。

 

 遙一は少し笑って、その近くの空いている席へ向かった。

 

 

 食事が始まると、組分けの時とは違う種類の騒がしさが大広間を満たした。

 

 遙一も料理を皿へ取りながら、同じテーブルにいる生徒の名前を少しずつ覚えていった。向こうも同じだったらしく、何人かは彼の姓を聞き直し、何人かは特に気にせず自分の名前だけを名乗った。ゲラート・グリンデルバルドを知っている者もいれば、名前すら知らない者もいる。

 

 ドラコは当然のように近くへ座り、食事の途中で一度だけ「やっぱりスリザリンだったな」と言った。

 

「そうなると思っていました?」

 

「もちろん。君の家なら。父上だってそう言うと思う」

 

 そこで隣から別の話を振られ、ドラコの注意はあっさりそちらへ移った。

 

 ――君の家なら。

 

 その一言だけが、遙一の中には少し長く残った。

 

 ドラコはまだ、遙一本人より先に家名を見ている。それ自体は不思議ではない。家が人間を作る部分は確かにあり、何も知らない相手を判断する材料として姓を使うのも分かる。

 

 ただ、それだけでは正確ではなかった。

 

 

 スリザリンの談話室は地下にあった。

 

 石造りの部屋は地上より少し冷え、窓の向こうには暗い水が揺れている。湖の底に近いらしく、ときおり緑がかった光が壁や天井をゆっくり流れ、そのたびに部屋の輪郭まで水の中にあるように歪んで見えた。

 

 新入生たちはまだ落ち着かず、寝室へ荷物を運ぶ者、談話室を見回す者、さっそく隣になった相手と話し込む者に分かれていた。誰かの笑い声が石壁へ反響し、少し離れたところでは上級生が寮の決まりを説明している。

 

 遙一は自分のトランクをベッドのそばへ置き、もう一度談話室へ戻った。

 

 窓の向こうを、大きな影がゆっくり横切っていく。

 

 魚なのか、それ以外なのかは分からない。

 

 明日になれば授業が始まる。

 

 この城についても、ここにいる人間についても、まだ知らないことの方がずっと多かった。

 

 遙一は暗い水の向こうへしばらく目を向けた。

 

 それは、悪くない始まりだった。

 

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