Good Luck, Mr. Magician 作:evejanjan
ホグワーツで暮らし始めて三日目、遙一はこの城では地図より記憶の方が信用できないことを知った。
昨日は確かに一階へ下りたはずの階段を使ったのに、その朝は見覚えのない細い廊下へ出たのである。壁には古びた燭台が並び、突き当たりには赤い上着を着た口ひげの男の肖像画が掛かっていた。男は新聞を広げ、遙一が現れたことより紙面の方にずっと重大なことが書かれているような顔をしている。
「大広間なら反対だよ」
遙一は一度、背後を振り返った。今しがた下りてきた階段は、ゆっくりと別の踊り場へ向きを変えているところだった。
「戻れそうにありませんね」
「そのうち戻るさ」
「どのくらいで?」
肖像画の男は新聞を少し下げた。
「階段に予定を聞いたことはないな」
それだけ言うと、また紙面へ目を戻した。
なるほど、喋る肖像画は便利な案内板というわけではないらしい。
仕方なく別の道を探していると、廊下の角から半透明の男が歩いてきた。正確には歩いてきたあと、そのまま壁へ入っていった。石の中へ肩が消え、胸が消え、最後に後頭部まで何の抵抗もなく抜ける。
遙一は少しだけ足を止めた。
幽霊の存在は知っている。入学初日の大広間でも見ていたし、書物にも載っていた。しかし、朝食へ急いでいる途中の廊下で人間が壁を通り抜ける光景は、本で読むよりずっと奇妙だった。
「入ってみようとは思わないことだね」
背後から肖像画の声が飛んできた。
「思っていません」
「去年は一人、試した」
遙一は少しだけ振り返った。
「どうなりました?」
「鼻をぶつけた」
それはそうだろう。
結局、その朝は大広間へ着くまで七分余計にかかった。
スリザリンのテーブルでは、ドラコがトーストへジャムを塗っていた。遙一が向かいへ座ると、時計を見てから口元を上げる。
「迷った?」
「階段の行き先が変わりました」
「それを迷ったって言うんだよ」
ドラコは妙に嬉しそうだった。人の失敗は、自分がしていない時に限って面白いらしい。
彼によれば、ルシウスも一年生の頃には階段へ腹を立てたことがあるという。もっとも、その話をするたびナルシッサは「学校の階段にまで悪意を見つけないで」と呆れていたらしい。
「父上のホグワーツの話は長いんだ。結局いつもスリザリンが一番だった、って話になるし」
ドラコはそこで牛乳を飲み、少し考えてから付け足した。
「母上は談話室が寒かったことしか覚えてないけど」
遙一は、昨夜見た湖底の窓を思い出した。
「どちらも間違ってはいないでしょうね」
「そういう答え方するよな、君」
ドラコは不満そうだったが、それ以上追及はしなかった。
授業が始まると、ホグワーツという学校の妙なところは、校舎だけではないことが分かってきた。
呪文学のフリットウィック教授は、教壇の向こうに立つとほとんど姿が隠れてしまうほど小柄だったが、声は教室の隅までよく届いた。最初の数日は、杖の持ち方や振り方、それにごく簡単な操作を繰り返し確認する。
遙一は家で杖を扱った経験があったから、動作そのものに戸惑うことは少なかった。ただし、同じ教室で二十人近くが一斉に杖を振るとなれば話は別である。隣の席では肘がインク瓶へぶつかり、その向こうでは袖口へ杖先を引っかけた生徒が、魔法より先に自分のローブと格闘していた。
「杖は棍棒ではありませんよ」
フリットウィック教授が明るく言った。
「もちろん、どうしても必要なら棍棒として使えないこともありませんが、私はおすすめしません」
教室に笑いが起きた。
その日の練習は、小さな木片を机に引かれた線の近くまで動かして止めるものだった。一度目は線の手前、二度目はほぼ上、三度目には少し行き過ぎた。遙一が杖先の角度を直していると、巡回してきた教授が木片と杖を見比べた。
「力は足りています。今度は、同じ場所へ三回」
言われた通り繰り返すと、木片は三度ともほとんど同じ位置で止まった。
教授は満足そうに頷いたものの、特別な騒ぎにはならなかった。次の机では、木片が床へ飛び落ちていたので、そちらの方がずっと急を要したのである。
遙一はその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
大きく動かすより、同じ場所へ止める方が自分には向いているらしい。
変身術では、その逆だった。
マクゴナガル教授は、最初の授業から変身術を遊び半分で扱わないよう厳しく釘を刺した。教室の空気が一段固くなったところで、生徒たちの前へ一本ずつマッチ棒が置かれる。
それを針へ変える。
説明だけなら理解できた。対象を正確に見て、完成形を明確にし、必要な変化を魔法へ乗せる。理屈としては難しくない。
実際にやると、話は別だった。
一度目、マッチ棒は何も変わらなかった。二度目も同じで、三度目にようやく端が少し銀色を帯びた。
隣のドラコも、自分のマッチ棒を目の高さまで持ち上げて眺めていた。
「先が細くなった気がする」
遙一も覗いた。
「最初からでは?」
ドラコはしばらく黙って見比べたあと、そっと机へ戻した。
「……そうかもしれない」
その日の授業が終わるまで、遙一のマッチ棒は結局マッチ棒のままだった。
ノートには、うまくいかなかったことだけを書いた。
理由は、まだ分からない。
地下の魔法薬学教室は、談話室よりもさらに冷たかった。
壁際には瓶がずらりと並び、中には植物なのか動物なのか、そもそも考えない方がよさそうなものまで浮かんでいる。席へ着いたドラコは、教室を見回すより先に小声で言った。
「父上はスネイプ先生を昔から知ってる」
「先生なんですから――」
「そういう意味じゃないって」
遙一が続きを言う前に、ドラコが先回りした。
「僕が入学する前から、ちゃんと話を聞けって何度も言われたんだ。父上が先生を褒めるのは珍しいんだぞ」
その時、教室の前を黒いローブが横切ったので、ドラコはぴたりと口を閉じた。
組分けの夜に教師席で見た男。
セブルス・スネイプ。
授業が始まると、静かな声なのに教室の端までよく通る理由がすぐ分かった。誰も話さないからである。
その静けさの中で、スネイプはハリー・ポッターへ続けて質問を投げた。
遙一は鍋や材料から目を離さずに聞いていた。質問の内容には、入学前に本で読んだものもある。それより印象に残ったのは、授業全体ではなく一人だけに続けて問うていることだった。
ハリーが答えに詰まるたび、少し離れた席でハーマイオニー・グレンジャーの手が上がる。
やがて実習が始まると、教室には薬草や薬品の匂いが混じり始めた。
遙一は黒板に書かれた手順を上から順に追った。材料の量、刻み方、火加減、投入する順番。家で何度か魔法薬を作った経験はあるが、学校で指定された課題なら、まず指定された方法で作る方がいい。
同じ机の生徒が鍋を覗き込み、「火、もう少し強くしない?」と囁いた。
「指定はこの温度です」
「でも、こっちの方が早いだろ」
「早く完成させる課題ではないでしょう」
それで会話は終わった。
少し後、教室の反対側で悲鳴が上がった。
ネビル・ロングボトムの鍋から薬が溢れ、石床へ液体が広がっていた。椅子を引く音や靴音が一斉に鳴り、スネイプの声がその上から飛ぶ。
遙一は自分の鍋の火を落とした。
騒ぎが収まる頃、スネイプが通りがかりに鍋を覗いた。
「余計なものは入れるな」
「そのつもりです」
「なら、そのまま続けろ」
それだけだった。
遙一もそれ以上何も言わず、次の材料を量った。
闇の魔術に対する防衛術の教室には、入る前から特徴があった。
ニンニクの匂いである。
後ろを歩いていた生徒が鼻を押さえ、「兄さんが、クィレル先生は吸血鬼を怖がってるって言ってた」と友人へ囁いた。友人は「兄さんは吸血鬼を見たことあるのか」と聞き返し、返事はなかった。
教壇には、ターバンを巻いたクィリナス・クィレル教授が立っていた。
話し方はひどくつかえた。教室の後ろで羽根ペンが落ちただけでも肩が動き、声が一瞬止まる。
生徒たちの多くは、最初の十分ほどでクィレルを「臆病な先生」と決めたらしい。後ろの席では、羽根ペンが落ちるたびに肩が跳ねる回数を数え始めた者までいた。
遙一は笑わず、ノートへ視線を戻した。
授業の内容は教科書から大きく外れず、少なくともその日は、特別に記憶へ残るような魔法も使わなかった。ただ、クィレルが言葉を詰まらせる場所や、物音へ反応する癖だけは、いつの間にか頭に残っていた。
それが何かを意味するかどうかは、まだ分からない。
一週間ほど経つと、ホグワーツでの生活にも少しずつ順番ができた。
朝は大広間へ行き、時間割を見て教室へ向かう。途中で階段に予定を狂わされ、肖像画へ道を聞く相手を選び、幽霊とは壁際ですれ違う。
昼になれば、午前中に誰が何を失敗したかが食卓で話題になった。変身術でマッチ棒を焦がした生徒は、本人が来る前から「針どころか松明にした」と言われていたし、魔法史で眠った生徒は、幽霊の教授より先に寝たことをなぜか自慢していた。
遙一も、少しずつ姓以外のことで覚えられ始めた。
きっかけは、夕食後の談話室だった。
宿題を終えた生徒がソファや机へ散らばり、ドラコはクラッブとゴイルを相手に、子供用の箒について話していた。父親が早くから乗せてくれたこと、母親は庭から出るなとうるさかったこと、そのくせ父親は自分ならもっと速く飛べたと言っていたこと。
話はまだ続いていたが、ドラコの視線が途中で遙一の手元へ移った。
遙一は丸いテーブルの上で、硬貨を一枚、指の間に転がしていた。
「何してるんだ?」
「何も」
「何もしてない奴は、そんなふうに硬貨を回さないだろ」
ドラコが近づいてくると、クラッブとゴイルもついてきた。
遙一は硬貨を親指と人差し指で摘まんだ。
「少しだけなら」
右手に杖を持ち、左の掌へ置いた硬貨の縁を軽く叩く。それから空の右手をかざした。
硬貨は消えた。
ドラコがすぐに杖を見た。
「今、魔法使っただろ」
「そう見えました?」
「杖を使ったんだからそうだろ」
近くにいた生徒が首を伸ばす。
「呪文は聞こえなかったぞ」
「小さい声だったんじゃない?」
遙一は答えず、杖をテーブルへ置いた。
次に羽根ペンを一本取り、片手でもう片方を軽く覆った。指を開くと、それも消えていた。
今度は誰も、すぐには何も言わなかった。
「……手品?」
誰かが言う。
「でも最初のは魔法だろ」
「逆かもしれない」
意見が割れ始めたところで、遙一は一枚のカードを取った。表と裏を見せてからドラコへ渡し、印を覚えてもらう。
「ゴイル君、持っていてください」
「僕?」
「ええ」
遙一は立ち上がると、ゴイルを少しだけテーブル側へ寄せた。
「もう少しこちらへ。皆から見えるように」
肩へ軽く触れて位置を直し、カードを持つ手を中央へ出させる。
それから遙一は袖口を整え、カードの上へ空の手を一度だけ通した。
何も起きなかった。
ドラコが眉を寄せる。
「失敗?」
「そうかもしれません」
笑いが起きた。
ゴイルがカードを裏返した。
印が変わっていた。
今度は笑いが止まった。
「……いつ?」
ドラコがカードを奪うようにして確かめる。
ゴイル自身も、自分の手の中にあったものを信用できないような顔をしていた。
「僕は何もしてないぞ」
「そうでしょうね」
「じゃあ、どうやったんだよ」
遙一は答えなかった。
三つとも、同じ方法ではない。
それ以上は、見ていた者が考えればいい。
ドラコが最初の硬貨を思い出したのは、それから少し経ってからだった。
「そういえば、あれは?」
テーブルの下にも、遙一の袖にもない。
クラッブが床を覗き、ドラコはテーブルの縁を確かめた。ゴイルも自分の足元を見る。
その時、ゴイルの指がポケットの上で止まった。
ゆっくり中へ手を入れ、出してきた掌の上に、一枚の硬貨があった。
しばらく誰も喋らなかった。
ゴイルが遙一と硬貨を交互に見た。
「僕、触ってないぞ」
「知っています」
ドラコがすぐに遙一を見る。
「いつ入れた?」
遙一は硬貨を受け取り、指の間で一度だけ回した。
返事がないので、ドラコはますます疑わしそうな顔になった。
「……魔法?」
今度も遙一は答えなかった。
その後もしばらく、魔法だ、いや手品だ、と意見は割れた。遙一はその議論を聞きながら、硬貨をポケットへ戻した。
最後にドラコが「種を教えて」と言った。
「分からない方が楽しめるでしょう」
「僕は分かった方が楽しい」
「では、考えてください」
ドラコはしばらく遙一を睨んでいたが、結局「そういう意味じゃない」と言ってソファへ戻っていった。
遙一は少しだけ笑った。
その夜から、寮の中で少しだけ呼び止められることが増えた。
もっと見せてほしいと言う者もいたし、最初の硬貨だけは絶対に魔法だったと言い張る者もいた。遙一は毎回応じたわけではない。宿題があれば断り、本を読んでいればそのまま読み続けた。
だから、人気者になったというほどではない。
ただ、グリンデルバルドという姓とは別に、妙に手先が器用で、何をしたのか聞いても教えない一年生がいる。
そのくらいには覚えられたらしい。
魔法の学校で手品をする。
遙一にとっては、それだけでも十分に面白かった。