最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う   作:催眠スキ

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第十話 一センチ

 九条は。

 

 もう俺を嫌っていない。

 

 本人がそう結論づけた。

 

 たぶん。

 

 今はそこまででもない。

 

 昨日。

 

 別れ際の顔を見れば。

 

 それくらいは分かる。

 

 なら。

 

 次に退かすものは。

 

 距離だ。

 

 ◇

 

「相良」

 

「何?」

 

「近い」

 

「そう?」

 

「そう」

 

 一限目が始まる前。

 

 俺は九条のノートを覗いていた。

 

「ここ」

 

「どこ?」

 

「だから、ここよ」

 

 九条がペン先で示す。

 

「昨日の課題。式一つ抜けてる」

 

「ああ」

 

「提出前に気づいてよかったわね」

 

「九条のおかげ」

 

「自分でも確認しなさい」

 

「はい」

 

 書き足す。

 

 そのまま。

 

 俺はもう一度ノートを覗く。

 

「相良」

 

「ん?」

 

「だから近い」

 

「見えないんだけど」

 

「自分のノートがあるでしょう」

 

「九条の方が綺麗」

 

「理由になってない」

 

 そう言いながら。

 

 九条は自分のノートを引っ込めなかった。

 

 肩と肩。

 

 触れてはいない。

 

 でも。

 

 少し動けば。

 

 当たりそうな距離。

 

「……」

 

「何?」

 

「いや」

 

「変なの」

 

 九条が前を向く。

 

 俺も戻る。

 

 以前なら。

 

 近づいた時点で。

 

 一歩。

 

 いや。

 

 もっと離れていただろう。

 

 今は。

 

 近いと口では言う。

 

 でも。

 

 身体は。

 

 逃げない。

 

 ◇

 

 二限目。

 

 能力理論。

 

「では、この場合の出力損失は?」

 

 先生が教室を見渡す。

 

 何人かが目を逸らす。

 

「相良」

 

 俺だった。

 

「はい」

 

「答えろ」

 

「三十二パーセント」

 

「理由は?」

 

「媒介を二つ経由してるから」

 

「もう少し真面目に説明しろ」

 

「伝達効率が一段目で八割、二段目で八割。残るのが六十四パーセントなので、損失三十六パーセント」

 

 先生が止まる。

 

「……三十二じゃないな」

 

「あ」

 

 教室から笑いが起きた。

 

 隣から。

 

「もう……」

 

 小さな声。

 

「惜しかった」

 

「計算くらいしなさいよ」

 

「考え方は合ってた」

 

「答えが違うでしょう」

 

「四パーセントだけ」

 

「四パーセントを軽く見ないの」

 

 九条が呆れる。

 

 前の席から火神が振り返った。

 

「相良って、たまに頭いいのか馬鹿なのか分かんねえよな」

 

「火神には言われたくない」

 

「何だと」

 

「前向きなさい」

 

 九条が言う。

 

「はいはい」

 

 火神が前を向く。

 

 俺は小声で言った。

 

「委員長大変だな」

 

「半分あなたのせいよ」

 

「半分も?」

 

「最近増えた」

 

「何が」

 

「注意する回数」

 

「火神に?」

 

「あなたによ」

 

「前からじゃない?」

 

「……前より」

 

 九条が言いかけて。

 

 少し止まった。

 

「何?」

 

「別に」

 

 前を向く。

 

 耳が。

 

 少しだけ赤い。

 

 何か考えたらしい。

 

 俺は聞かない。

 

 ◇

 

 昼休み。

 

「相良、飯」

 

 火神が来た。

 

「今日は購買」

 

「知ってる」

 

「なら何」

 

「一緒に食おうぜ」

 

「どこで」

 

「ここ」

 

 火神が勝手に前の席を借りる。

 

 天城も来た。

 

「俺もいい?」

 

「俺に聞く?」

 

「相良の机だろ」

 

「どうぞ」

 

「九条は?」

 

 火神が聞く。

 

「ここにいるでしょう」

 

 九条は隣で弁当を開いていた。

 

「じゃ四人な」

 

「席足りないぞ」

 

「蓮、そこの持ってきて」

 

「はいはい」

 

 近くの空いている椅子を天城が運ぶ。

 

 いつの間にか。

 

 俺の席の周りに四人。

 

 少し前なら。

 

 こうなること自体。

 

 なかった気がする。

 

「相良、またパン?」

 

 九条が見る。

 

「今日は三つ」

 

「増えた」

 

「褒めて」

 

「偉いわね」

 

「素直」

 

「子供扱いしてるだけよ」

 

「ひどい」

 

「自分で言わせたんでしょう」

 

 火神が笑う。

 

「澪、完全に相良の世話係じゃん」

 

「違う!」

 

「でも最近ずっと隣だし」

 

「席が隣なんだから当たり前でしょう」

 

「飯まで見てるし」

 

「見える位置にあるから!」

 

「ノートも見せてるし」

 

「それは相良がまともに取らないから!」

 

「お母さん」

 

「相良!」

 

「俺?」

 

「便乗しないで!」

 

 天城が笑う。

 

「九条、楽しそうだな」

 

「蓮まで!」

 

「悪い悪い」

 

 九条が頬を膨らませる。

 

 でも。

 

 怒ってはいない。

 

 天城も。

 

 火神も。

 

 それを普通に見ている。

 

 俺と九条が。

 

 こうして話していることを。

 

 もう。

 

 特別だと思わなくなり始めている。

 

 それでいい。

 

 周囲の認識も。

 

 少しずつ。

 

 変わればいい。

 

「そういえば」

 

 火神が言う。

 

「今日の放課後、何してんの?」

 

「訓練」

 

 天城。

 

「読書」

 

 九条。

 

「寮」

 

 俺。

 

「相良だけ何もしてねえ!」

 

「帰るって大事だぞ」

 

「暇なら訓練来いよ」

 

「嫌」

 

「即答すんな!」

 

「疲れる」

 

「鍛えろ!」

 

「何のために」

 

「人生!」

 

「広いな」

 

 火神が何か言い返そうとする。

 

 その横で。

 

 九条が小さく笑った。

 

 目が合う。

 

「何?」

 

「別に」

 

「最近それ多くない?」

 

「相良に言われたくないわ」

 

「確かに」

 

 また笑う。

 

 一瞬。

 

 天城が九条を見る。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから。

 

 何事もなかったように。

 

 火神との話へ戻った。

 

 ◇

 

 放課後。

 

「相良」

 

 帰ろうとしたところで。

 

 九条に呼ばれた。

 

「何?」

 

「これ」

 

 紙を渡される。

 

 学級活動の確認表。

 

「俺?」

 

「あなたのところだけ未記入」

 

「何これ」

 

「来月の校外実習の希望班」

 

「知らない」

 

「昨日配ったでしょう」

 

「貰ったっけ」

 

「あなたね……」

 

 九条が額を押さえる。

 

「今書いて」

 

「明日じゃ駄目?」

 

「今日締切」

 

「じゃ明日でも変わらなくない?」

 

「変わるわよ!」

 

 教室には。

 

 もう数人しか残っていない。

 

 九条は自分の仕事を片づけている。

 

 副委員長の男子は。

 

 さっき先生に提出物を持っていって。

 

 まだ戻っていない。

 

「何書けばいい?」

 

「第一希望から第三希望まで」

 

「どこが楽?」

 

「そういう基準で選ばないで」

 

「大事だろ」

 

「実習よ?」

 

「だから」

 

「もう……」

 

 九条が俺の横に立つ。

 

 用紙を指差す。

 

「第一班は救護支援。第二班は市街地警戒。第三班は災害対応。第四班は――」

 

「九条は?」

 

「何が?」

 

「どこ希望?」

 

「第二班」

 

「じゃ第二班」

 

「ちゃんと考えなさい」

 

「知ってる人いた方が楽」

 

「それが理由?」

 

「駄目?」

 

「駄目ではないけど……」

 

 九条が少し黙る。

 

「じゃあ第二班」

 

 書く。

 

「第二希望は?」

 

「九条は?」

 

「私を基準にしないで」

 

「じゃ適当」

 

「適当にもしないで!」

 

 難しい。

 

「九条決めて」

 

「なんで私があなたの希望を決めるのよ」

 

「詳しいから」

 

「……第一班」

 

「じゃそれ」

 

「本当にいいの?」

 

「うん」

 

「第三希望は?」

 

「九条」

 

「もう!」

 

 結局。

 

 九条に説明されながら。

 

 全部埋めた。

 

「これでいい?」

 

「名前」

 

「あ」

 

「日付」

 

「あ」

 

「確認欄」

 

「多くない?」

 

「普通よ!」

 

 書く。

 

「はい」

 

「最初からちゃんとしていれば三分で終わるのに」

 

「九条と話せたからいいじゃん」

 

「なっ」

 

 九条が止まった。

 

「何?」

 

「……そういうこと」

 

「どういうこと」

 

「急に言わないで」

 

「何を?」

 

「もういい!」

 

 紙を取られる。

 

 少しだけ。

 

 顔が赤い。

 

 分かりやすい。

 

 俺は立ち上がる。

 

「じゃ帰る」

 

「待って」

 

「まだあるの?」

 

「これ」

 

 今度は。

 

 薄い冊子。

 

「校外実習の説明書。読んでおいて」

 

「九条読んだ?」

 

「読んだわよ」

 

「じゃ聞けばよくない?」

 

「自分で読みなさい!」

 

「はい」

 

 受け取る。

 

 そのとき。

 

 九条の指と。

 

 俺の指が。

 

 触れた。

 

「……」

 

「……」

 

 一瞬。

 

 九条の手が止まる。

 

 でも。

 

 すぐには離れなかった。

 

 ほんの。

 

 一秒にも満たない。

 

 それから。

 

 九条が指を引く。

 

「……ちゃんと読んでよね」

 

「ああ」

 

 声が。

 

 少しだけ硬い。

 

 俺は冊子を鞄へ入れる。

 

 教室を見る。

 

 最後に残っていた二人も。

 

 もう出ていった。

 

 副委員長も。

 

 まだ戻らない。

 

 今。

 

 教室には。

 

 俺と九条だけ。

 

「九条」

 

「何?」

 

「さっき」

 

「何」

 

「手」

 

「……たまたまでしょう」

 

「うん」

 

「何よ」

 

「別に」

 

「なら言わないで」

 

 九条は書類を揃える。

 

 少し。

 

 動きが速い。

 

 意識している。

 

 距離を。

 

 俺を。

 

 悪くない。

 

「九条」

 

「だから何?」

 

「俺が近いの」

 

 手が止まる。

 

「嫌?」

 

「……は?」

 

「朝も近いって言ってただろ」

 

「それはノートを見るのに近すぎたから」

 

「今も?」

 

「今?」

 

 一歩。

 

 近づく。

 

 九条との距離。

 

 たぶん。

 

 三十センチもない。

 

「相良」

 

「何?」

 

「……近い」

 

「うん」

 

「分かってるなら離れて」

 

 言葉とは違って。

 

 九条は動かない。

 

 俺も。

 

 それ以上は近づかない。

 

「嫌なら離れれば?」

 

「……」

 

 九条の眉が。

 

 少しだけ動く。

 

「何よ、それ」

 

「九条なら離れるだろ」

 

「離れるわよ」

 

「うん」

 

「……」

 

 離れない。

 

 俺を見る。

 

 視線が。

 

 少し揺れる。

 

「相良」

 

「ん?」

 

「からかってる?」

 

「少し」

 

「最低」

 

「ごめん」

 

 九条が息を吐く。

 

 でも。

 

 まだ。

 

 その場にいる。

 

 今なら。

 

 入る。

 

 前は。

 

 嫌悪を薄くした。

 

 次に。

 

 俺の声と安心を結びつけた。

 

 そして九条自身が。

 

 俺を嫌いではないと。

 

 もう認めている。

 

 なら。

 

 今回も。

 

 あるものに沿わせるだけ。

 

「九条」

 

「何?」

 

 声を。

 

 少し落とす。

 

「そんなに意識しなくていいだろ」

 

「……何を」

 

「距離」

 

 九条が。

 

 俺を見る。

 

「俺が近くにいても」

 

 一呼吸。

 

「別に嫌じゃないだろ」

 

「……」

 

 言葉を沈める。

 

 強くは押さない。

 

 九条自身が。

 

 昨日出した答えへ。

 

 重ねるだけ。

 

 嫌いじゃない。

 

 怖くない。

 

 約束を守る。

 

 話していると楽しい。

 

 疲れたときは落ち着く。

 

 なら。

 

 近くにいても。

 

 それだけで。

 

 嫌がる必要はない。

 

「……そういう問題じゃないわよ」

 

 九条が言う。

 

 拒絶。

 

 ではない。

 

「じゃあ何の問題?」

 

「普通は、そこまで近づかないでしょう」

 

「これくらい?」

 

「近い」

 

「嫌?」

 

「……」

 

 また。

 

 答えない。

 

 九条の肩から。

 

 少しだけ力が抜ける。

 

「別に」

 

 小さな声。

 

「嫌っていうわけじゃ……」

 

 そこまで言って。

 

 九条自身が固まった。

 

「……」

 

「そっか」

 

「待って」

 

「何?」

 

「今のなし」

 

「何が?」

 

「聞いたでしょう」

 

「嫌じゃないって?」

 

「言ってない!」

 

「言いかけてた」

 

「言ってない!」

 

「はいはい」

 

「その返事やめて!」

 

 九条が一歩下がった。

 

 ようやく。

 

 距離が開く。

 

 顔が赤い。

 

「もう帰って!」

 

「委員長が追い出していいの?」

 

「いい!」

 

「じゃあ帰る」

 

「早く!」

 

「また明日」

 

「……また明日!」

 

 怒鳴られた。

 

 でも。

 

 嫌われた感じはしない。

 

 俺は教室を出る。

 

 ◇

 

 廊下を歩く。

 

 さっきの距離を思い出す。

 

 三十センチ。

 

 いや。

 

 もっと近かったかもしれない。

 

 数字自体に。

 

 意味はない。

 

 大事なのは。

 

 九条が。

 

 自分から離れなかったこと。

 

 俺が近くにいても。

 

 すぐには逃げない。

 

 触れた指も。

 

 瞬間的には引かなかった。

 

 それは。

 

 俺が命令した結果じゃない。

 

 暗示を入れる前から。

 

 そうだった。

 

 だから。

 

 そこへ。

 

 少しだけ重ねた。

 

 俺が近くにいても。

 

 別に嫌じゃない。

 

 たった。

 

 それだけ。

 

 明日。

 

 九条は。

 

 今日より少し。

 

 俺との距離を意識しなくなる。

 

 その次は。

 

 もう少し。

 

 またその次も。

 

 一センチ。

 

 それくらいでいい。

 

 一気に近づけば。

 

 不自然になる。

 

 でも。

 

 一センチずつなら。

 

 本人は。

 

 いつから近くなったのか。

 

 きっと分からない。

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