最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
九条は。
もう俺を嫌っていない。
本人がそう結論づけた。
たぶん。
今はそこまででもない。
昨日。
別れ際の顔を見れば。
それくらいは分かる。
なら。
次に退かすものは。
距離だ。
◇
「相良」
「何?」
「近い」
「そう?」
「そう」
一限目が始まる前。
俺は九条のノートを覗いていた。
「ここ」
「どこ?」
「だから、ここよ」
九条がペン先で示す。
「昨日の課題。式一つ抜けてる」
「ああ」
「提出前に気づいてよかったわね」
「九条のおかげ」
「自分でも確認しなさい」
「はい」
書き足す。
そのまま。
俺はもう一度ノートを覗く。
「相良」
「ん?」
「だから近い」
「見えないんだけど」
「自分のノートがあるでしょう」
「九条の方が綺麗」
「理由になってない」
そう言いながら。
九条は自分のノートを引っ込めなかった。
肩と肩。
触れてはいない。
でも。
少し動けば。
当たりそうな距離。
「……」
「何?」
「いや」
「変なの」
九条が前を向く。
俺も戻る。
以前なら。
近づいた時点で。
一歩。
いや。
もっと離れていただろう。
今は。
近いと口では言う。
でも。
身体は。
逃げない。
◇
二限目。
能力理論。
「では、この場合の出力損失は?」
先生が教室を見渡す。
何人かが目を逸らす。
「相良」
俺だった。
「はい」
「答えろ」
「三十二パーセント」
「理由は?」
「媒介を二つ経由してるから」
「もう少し真面目に説明しろ」
「伝達効率が一段目で八割、二段目で八割。残るのが六十四パーセントなので、損失三十六パーセント」
先生が止まる。
「……三十二じゃないな」
「あ」
教室から笑いが起きた。
隣から。
「もう……」
小さな声。
「惜しかった」
「計算くらいしなさいよ」
「考え方は合ってた」
「答えが違うでしょう」
「四パーセントだけ」
「四パーセントを軽く見ないの」
九条が呆れる。
前の席から火神が振り返った。
「相良って、たまに頭いいのか馬鹿なのか分かんねえよな」
「火神には言われたくない」
「何だと」
「前向きなさい」
九条が言う。
「はいはい」
火神が前を向く。
俺は小声で言った。
「委員長大変だな」
「半分あなたのせいよ」
「半分も?」
「最近増えた」
「何が」
「注意する回数」
「火神に?」
「あなたによ」
「前からじゃない?」
「……前より」
九条が言いかけて。
少し止まった。
「何?」
「別に」
前を向く。
耳が。
少しだけ赤い。
何か考えたらしい。
俺は聞かない。
◇
昼休み。
「相良、飯」
火神が来た。
「今日は購買」
「知ってる」
「なら何」
「一緒に食おうぜ」
「どこで」
「ここ」
火神が勝手に前の席を借りる。
天城も来た。
「俺もいい?」
「俺に聞く?」
「相良の机だろ」
「どうぞ」
「九条は?」
火神が聞く。
「ここにいるでしょう」
九条は隣で弁当を開いていた。
「じゃ四人な」
「席足りないぞ」
「蓮、そこの持ってきて」
「はいはい」
近くの空いている椅子を天城が運ぶ。
いつの間にか。
俺の席の周りに四人。
少し前なら。
こうなること自体。
なかった気がする。
「相良、またパン?」
九条が見る。
「今日は三つ」
「増えた」
「褒めて」
「偉いわね」
「素直」
「子供扱いしてるだけよ」
「ひどい」
「自分で言わせたんでしょう」
火神が笑う。
「澪、完全に相良の世話係じゃん」
「違う!」
「でも最近ずっと隣だし」
「席が隣なんだから当たり前でしょう」
「飯まで見てるし」
「見える位置にあるから!」
「ノートも見せてるし」
「それは相良がまともに取らないから!」
「お母さん」
「相良!」
「俺?」
「便乗しないで!」
天城が笑う。
「九条、楽しそうだな」
「蓮まで!」
「悪い悪い」
九条が頬を膨らませる。
でも。
怒ってはいない。
天城も。
火神も。
それを普通に見ている。
俺と九条が。
こうして話していることを。
もう。
特別だと思わなくなり始めている。
それでいい。
周囲の認識も。
少しずつ。
変わればいい。
「そういえば」
火神が言う。
「今日の放課後、何してんの?」
「訓練」
天城。
「読書」
九条。
「寮」
俺。
「相良だけ何もしてねえ!」
「帰るって大事だぞ」
「暇なら訓練来いよ」
「嫌」
「即答すんな!」
「疲れる」
「鍛えろ!」
「何のために」
「人生!」
「広いな」
火神が何か言い返そうとする。
その横で。
九条が小さく笑った。
目が合う。
「何?」
「別に」
「最近それ多くない?」
「相良に言われたくないわ」
「確かに」
また笑う。
一瞬。
天城が九条を見る。
ほんの一瞬。
それから。
何事もなかったように。
火神との話へ戻った。
◇
放課後。
「相良」
帰ろうとしたところで。
九条に呼ばれた。
「何?」
「これ」
紙を渡される。
学級活動の確認表。
「俺?」
「あなたのところだけ未記入」
「何これ」
「来月の校外実習の希望班」
「知らない」
「昨日配ったでしょう」
「貰ったっけ」
「あなたね……」
九条が額を押さえる。
「今書いて」
「明日じゃ駄目?」
「今日締切」
「じゃ明日でも変わらなくない?」
「変わるわよ!」
教室には。
もう数人しか残っていない。
九条は自分の仕事を片づけている。
副委員長の男子は。
さっき先生に提出物を持っていって。
まだ戻っていない。
「何書けばいい?」
「第一希望から第三希望まで」
「どこが楽?」
「そういう基準で選ばないで」
「大事だろ」
「実習よ?」
「だから」
「もう……」
九条が俺の横に立つ。
用紙を指差す。
「第一班は救護支援。第二班は市街地警戒。第三班は災害対応。第四班は――」
「九条は?」
「何が?」
「どこ希望?」
「第二班」
「じゃ第二班」
「ちゃんと考えなさい」
「知ってる人いた方が楽」
「それが理由?」
「駄目?」
「駄目ではないけど……」
九条が少し黙る。
「じゃあ第二班」
書く。
「第二希望は?」
「九条は?」
「私を基準にしないで」
「じゃ適当」
「適当にもしないで!」
難しい。
「九条決めて」
「なんで私があなたの希望を決めるのよ」
「詳しいから」
「……第一班」
「じゃそれ」
「本当にいいの?」
「うん」
「第三希望は?」
「九条」
「もう!」
結局。
九条に説明されながら。
全部埋めた。
「これでいい?」
「名前」
「あ」
「日付」
「あ」
「確認欄」
「多くない?」
「普通よ!」
書く。
「はい」
「最初からちゃんとしていれば三分で終わるのに」
「九条と話せたからいいじゃん」
「なっ」
九条が止まった。
「何?」
「……そういうこと」
「どういうこと」
「急に言わないで」
「何を?」
「もういい!」
紙を取られる。
少しだけ。
顔が赤い。
分かりやすい。
俺は立ち上がる。
「じゃ帰る」
「待って」
「まだあるの?」
「これ」
今度は。
薄い冊子。
「校外実習の説明書。読んでおいて」
「九条読んだ?」
「読んだわよ」
「じゃ聞けばよくない?」
「自分で読みなさい!」
「はい」
受け取る。
そのとき。
九条の指と。
俺の指が。
触れた。
「……」
「……」
一瞬。
九条の手が止まる。
でも。
すぐには離れなかった。
ほんの。
一秒にも満たない。
それから。
九条が指を引く。
「……ちゃんと読んでよね」
「ああ」
声が。
少しだけ硬い。
俺は冊子を鞄へ入れる。
教室を見る。
最後に残っていた二人も。
もう出ていった。
副委員長も。
まだ戻らない。
今。
教室には。
俺と九条だけ。
「九条」
「何?」
「さっき」
「何」
「手」
「……たまたまでしょう」
「うん」
「何よ」
「別に」
「なら言わないで」
九条は書類を揃える。
少し。
動きが速い。
意識している。
距離を。
俺を。
悪くない。
「九条」
「だから何?」
「俺が近いの」
手が止まる。
「嫌?」
「……は?」
「朝も近いって言ってただろ」
「それはノートを見るのに近すぎたから」
「今も?」
「今?」
一歩。
近づく。
九条との距離。
たぶん。
三十センチもない。
「相良」
「何?」
「……近い」
「うん」
「分かってるなら離れて」
言葉とは違って。
九条は動かない。
俺も。
それ以上は近づかない。
「嫌なら離れれば?」
「……」
九条の眉が。
少しだけ動く。
「何よ、それ」
「九条なら離れるだろ」
「離れるわよ」
「うん」
「……」
離れない。
俺を見る。
視線が。
少し揺れる。
「相良」
「ん?」
「からかってる?」
「少し」
「最低」
「ごめん」
九条が息を吐く。
でも。
まだ。
その場にいる。
今なら。
入る。
前は。
嫌悪を薄くした。
次に。
俺の声と安心を結びつけた。
そして九条自身が。
俺を嫌いではないと。
もう認めている。
なら。
今回も。
あるものに沿わせるだけ。
「九条」
「何?」
声を。
少し落とす。
「そんなに意識しなくていいだろ」
「……何を」
「距離」
九条が。
俺を見る。
「俺が近くにいても」
一呼吸。
「別に嫌じゃないだろ」
「……」
言葉を沈める。
強くは押さない。
九条自身が。
昨日出した答えへ。
重ねるだけ。
嫌いじゃない。
怖くない。
約束を守る。
話していると楽しい。
疲れたときは落ち着く。
なら。
近くにいても。
それだけで。
嫌がる必要はない。
「……そういう問題じゃないわよ」
九条が言う。
拒絶。
ではない。
「じゃあ何の問題?」
「普通は、そこまで近づかないでしょう」
「これくらい?」
「近い」
「嫌?」
「……」
また。
答えない。
九条の肩から。
少しだけ力が抜ける。
「別に」
小さな声。
「嫌っていうわけじゃ……」
そこまで言って。
九条自身が固まった。
「……」
「そっか」
「待って」
「何?」
「今のなし」
「何が?」
「聞いたでしょう」
「嫌じゃないって?」
「言ってない!」
「言いかけてた」
「言ってない!」
「はいはい」
「その返事やめて!」
九条が一歩下がった。
ようやく。
距離が開く。
顔が赤い。
「もう帰って!」
「委員長が追い出していいの?」
「いい!」
「じゃあ帰る」
「早く!」
「また明日」
「……また明日!」
怒鳴られた。
でも。
嫌われた感じはしない。
俺は教室を出る。
◇
廊下を歩く。
さっきの距離を思い出す。
三十センチ。
いや。
もっと近かったかもしれない。
数字自体に。
意味はない。
大事なのは。
九条が。
自分から離れなかったこと。
俺が近くにいても。
すぐには逃げない。
触れた指も。
瞬間的には引かなかった。
それは。
俺が命令した結果じゃない。
暗示を入れる前から。
そうだった。
だから。
そこへ。
少しだけ重ねた。
俺が近くにいても。
別に嫌じゃない。
たった。
それだけ。
明日。
九条は。
今日より少し。
俺との距離を意識しなくなる。
その次は。
もう少し。
またその次も。
一センチ。
それくらいでいい。
一気に近づけば。
不自然になる。
でも。
一センチずつなら。
本人は。
いつから近くなったのか。
きっと分からない。