最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う   作:催眠スキ

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第二十一話 恋人になった日

 相良と付き合い始めたのは、昨日。

 

 そう決まったはずなのに、朝になっても何が変わったのか、まだよく分からなかった。

 

 ◇

 

 朝。

 

 教室へ入る。

 

「おはよう」

 

 いつもの返事が聞こえる。

 

 隣の席には、もう相良がいた。

 

 机へ伏せずに本を読んでいる。

 

 昨日と同じ。

 

 何も変わっていないように見えた。

 

「おはよう」

 

 相良が顔を上げる。

 

「……おはよう」

 

 それだけ。

 

 相良は本へ視線を戻す。

 

「相良」

 

「ん?」

 

「それだけ?」

 

「何が?」

 

「何でもないわよ」

 

 鞄を机へ置く。

 

 少し大きな音がした。

 

 相良が、もう一度こちらを見る。

 

「機嫌悪い?」

 

「悪くない」

 

「鞄は?」

 

「手が滑っただけよ」

 

「持ったまま?」

 

「うるさいわね」

 

 いつもと同じやり取り。

 

 本当に。

 

 何も変わっていない。

 

 それが少しだけ不安になる。

 

「九条」

 

「何?」

 

 相良が声を落とす。

 

「昨日のこと、覚えてる?」

 

「忘れるわけないでしょう」

 

「ならよかった」

 

「あなたこそ。朝になったら忘れてるんじゃないかと思ったわ」

 

「覚えてる」

 

「本当に?」

 

「九条が好きだって言った」

 

「ちょっと!」

 

 思わず周りを見る。

 

 近くにいた何人かは、それぞれ話を続けている。

 

 聞かれてはいないらしい。

 

「教室で言わないでよ!」

 

「声、小さかったけど」

 

「そういう問題じゃないでしょう」

 

「じゃあ、どこならいい?」

 

「二人きりのときよ」

 

「分かった」

 

 相良が小さく笑う。

 

 私も椅子へ座る。

 

 昨日のことは。

 

 夢ではなかった。

 

 それだけで。

 

 さっきまでの不安が少し消えた。

 

 ◇

 

 昼休み。

 

 四人で机を囲む。

 

 いつもの昼休み。

 

 私の隣には相良がいる。

 

 昨日までも同じだった。

 

 でも。

 

 今日からは違う。

 

 そのことを知っているのは。

 

 私と相良だけ。

 

「澪」

 

「何?」

 

 朱音が私を見る。

 

「今日、なんか静かじゃね?」

 

「普通よ」

 

「朝から相良の方ばっかり見てるし」

 

「見てないわよ!」

 

 声が大きくなり、朱音がにやりと笑う。

 

「やっぱり何かあった?」

 

「何もない!」

 

 反射的に答える。

 

「火神。あまり九条をからかうなよ」

 

 蓮が困ったように笑う。

 

 隣では、相良が何も聞こえていないような顔で昼食を続けていた。

 

 でも。

 

 何もないわけではない。

 

 相良と付き合い始めた。

 

 朱音と蓮には。

 

 いつか話すことになると思う。

 

 隠したいわけではない。

 

 ただ。

 

 今はまだ。

 

 二人だけで知っていたかった。

 

 ◇

 

 放課後。

 

 授業が終わる。

 

 朱音と蓮は訓練室へ向かった。

 

 教室に残っていた生徒も、少しずつ帰っていく。

 

 私は鞄へ教科書をしまう。

 

 隣で相良も本を閉じた。

 

「九条」

 

「何?」

 

「一緒に帰る?」

 

「いつも一緒でしょう」

 

「今日は恋人として」

 

「……そういうこと、急に言わないで」

 

「一緒に帰るのは?」

 

「もちろんよ」

 

「じゃあ帰ろう」

 

「ええ」

 

 二人で教室を出て、昇降口で靴を履き替える。

 

 そのまま外へ出た。

 

 全部。

 

 昨日までと同じだった。

 

 相良は隣を歩いている。

 

 手が触れるほど近くはない。

 

 肩も離れている。

 

 恋人になっても。

 

 何をすればいいのか。

 

 よく分からない。

 

「九条」

 

「何?」

 

「少し寄っていい?」

 

「どこに?」

 

「九条の方」

 

「……どうして聞くのよ」

 

「勝手に近づいたら怒りそうだから」

 

「……いいわよ。こっちに来ても」

 

 相良が半歩だけ近づく。

 

 腕と腕の間が狭くなる。

 

 雨の日よりは遠い。

 

 でも。

 

 今日は傘がない。

 

 近づかなければならない理由もない。

 

 相良が。

 

 近くにいたいと思っただけ。

 

 そう考えると。

 

 少しだけ嬉しかった。

 

 ◇

 

 図書館の裏手。

 

 人の少ない小さな中庭を通る。

 

 寮へ戻るには少し遠回りになる道。

 

「こっちから帰るの?」

 

「少し話したくて」

 

「……それならいいわ」

 

 少し先の木製のベンチの前で、相良が足を止める。

 

「座る?」

 

「ええ」

 

 二人でベンチへ座る。

 

 間には、人一人分も空いていない。

 

 でも。

 

 さっきより少しだけ遠い。

 

 相良が自分の手を見る。

 

 それから。

 

 私を見る。

 

「九条」

 

「さっきから何度も呼ばないで」

 

「呼びたいから」

 

「何よ、それ」

 

「恋人になったし」

 

「恋人になったら、名前を何度も呼ぶものなの?」

 

「知らない」

 

「知らないのにしてるの?」

 

 相良が少し考える。

 

「澪って呼んでいい?」

 

「え?」

 

「火神は呼んでるから」

 

「朱音は昔からでしょう」

 

「俺にも呼んでほしい?」

 

「うん」

 

 駄目ではない。

 

 むしろ。

 

 相良にそう呼ばれるところを想像すると。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

「……二人のときだけなら、いいわ」

 

「分かった」

 

 相良がこちらを見る。

 

「澪」

 

 たった二文字。

 

 朱音に呼ばれるときと。

 

 同じはずなのに。

 

 全然違って聞こえた。

 

「何?」

 

「呼んだだけ」

 

「用もないのに呼ばないで」

 

 相良が小さく笑う。

 

「澪は?」

 

「何が?」

 

「俺の名前」

 

「……相良」

 

「名字」

 

「分かってるわよ」

 

 口にするだけなのに。

 

 どうしてこんなに難しいのか。

 

 一度。

 

 息を吸う。

 

「透」

 

 相良が目を少し見開く。

 

「何?」

 

「呼んだだけよ」

 

「そっか」

 

 嬉しそうに笑う。

 

 その顔を見ていると。

 

 私まで嬉しくなる。

 

 そのあとも、借りた本や次の合同演習について話した。

 

 いつもと同じ話ばかりなのに、呼び方だけが違った。

 

 会話が途切れる。

 

 静かになる。

 

 相良の手が。

 

 ベンチの上に置かれている。

 

 私の手のすぐ近く。

 

 触れてはいない。

 

 でも。

 

 少し動かせば届く距離だった。

 

「澪」

 

「何?」

 

「手、つないでいい?」

 

 やっぱり。

 

 相良は聞く。

 

 勝手には触れない。

 

「……ええ」

 

 私が答えると。

 

 相良の手がゆっくり近づく。

 

 指先が触れる。

 

 手のひらが重なる。

 

 指と指が絡む。

 

 温かい。

 

 雨の日に肩が触れたときより、ずっと相良に触れていることが分かる。

 

 私も。

 

 少しだけ指に力を入れる。

 

 相良がこちらを見る。

 

「何?」

 

「別に」

 

「その返事やめなさい」

 

「嬉しかっただけ」

 

「……そう」

 

 手を離そうとは思わなかった。

 

 もう少し。

 

 このままでいたかった。

 

 空が少しずつ暗くなる。

 

「そろそろ帰る?」

 

 相良が聞く。

 

「そうね」

 

 そう答えたのに。

 

 どちらも立ち上がらなかった。

 

 つないだ手も。

 

 離れない。

 

「透」

 

「ん?」

 

「恋人って、手をつなぐだけ?」

 

 聞いてから。

 

 何を言っているのかと思う。

 

 でも。

 

 言葉は戻せない。

 

 相良が少し考える。

 

「他にもあると思う」

 

「例えば?」

 

「抱きしめるとか」

 

 胸の奥が、さらに熱くなる。

 

 恥ずかしい。

 

 それでも、してほしいと思った。

 

「抱きしめてもいい?」

 

 相良が聞く。

 

 私は少し迷ってから、頷く。

 

「ええ」

 

 つないでいた手が離れる。

 

 相良が体をこちらへ向ける。

 

 私も向き直ると、腕が背中へ回った。

 

 ゆっくりと引き寄せられる。

 

 頬が、相良の肩口に触れる。

 

 制服越しに。

 

 相良の体温が伝わる。

 

 相良の心臓の音が聞こえる。

 

 自分の胸も、負けないくらい速かった。

 

「苦しくない?」

 

「大丈夫」

 

「近すぎない?」

 

「今さら聞かないで」

 

 相良の制服の胸元を、少し掴む。

 

 私からも。

 

 相良の背中へ腕を回す。

 

 抱きしめ返す。

 

 相良の腕に、少しだけ力が加わった。

 

 安心する。

 

 それだけではなく。

 

 もっと近くにいたい。

 

 今は。

 

 そう思っていた。

 

 どれくらい。

 

 そうしていたのか分からない。

 

 先に腕を緩めたのは相良だった。

 

 少し離れる。

 

 でも。

 

 顔は近いままだった。

 

 目が合う。

 

 相良が何かを言おうとする。

 

 何を言うのか。

 

 聞かなくても分かった。

 

「澪」

 

「何?」

 

「キスしてもいい?」

 

 顔が熱くなる。

 

 逃げたくはない。

 

 でも。

 

 すぐに答えることもできない。

 

 相良は待っている。

 

 急かさない。

 

 触れないまま。

 

 私の答えを待っている。

 

 だから。

 

 私も。

 

 自分で答える。

 

「……ええ」

 

 相良の顔が近づく。

 

 目を閉じる。

 

 唇が。

 

 短く触れた。

 

 本当に。

 

 触れただけ。

 

 すぐに離れる。

 

 目を開けると。

 

 相良がすぐ近くにいた。

 

「……終わり?」

 

 口から出てから。

 

 自分の言葉に驚く。

 

 相良も少し驚いた顔をする。

 

「もう一回する?」

 

 聞かれて。

 

 また答えるのが恥ずかしくなる。

 

 だから。

 

 今度は。

 

 私から少し近づいた。

 

 相良の肩へ手を置く。

 

 そのまま。

 

 もう一度だけ。

 

 唇を重ねた。

 

 さっきより。

 

 ほんの少しだけ長く。

 

 それでも。

 

 すぐに離れる。

 

「今度は私からだから」

 

「うん」

 

「何よ」

 

「嬉しい」

 

「……そう」

 

 相良が笑う。

 

 私も。

 

 少しだけ笑った。

 

 ◇

 

 ベンチから立ち上がる。

 

 今度こそ寮へ向かう。

 

 歩き出してすぐ。

 

 相良が手を差し出した。

 

「つなぐ?」

 

「さっき聞いたでしょう」

 

「歩くときは別かと思って」

 

「別じゃないわよ」

 

 相良の手を取る。

 

 今度は。

 

 迷わなかった。

 

 指を絡める。

 

 二人で歩く。

 

 来たときより。

 

 ずっと近い距離で。

 

「透」

 

「ん?」

 

「朱音と蓮には、どうする?」

 

「話してもいい」

 

「また私に選ばせるの?」

 

「俺は話したい」

 

「……そう」

 

「澪は?」

 

「私も、隠すつもりはないわ」

 

「じゃあ、二人で話そう」

 

「ええ」

 

 話したら、朱音に何を言われるか分からない。

 

 蓮がどんな顔をするのかも。

 

 少しだけ怖い。

 

 でも。

 

 つないだ手は離さなかった。

 

 今。

 

 この手に触れたいと思ったのは。

 

 私だった。

 

 もう一度。

 

 透の指を握る。

 

 透も。

 

 同じ強さで握り返した。

 

 付き合うと決めたのは昨日。

 

 それでも。

 

 恋人になったと初めて実感したのは。

 

 きっと。

 

 今日だった。

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