最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う 作:催眠スキ
相良と付き合い始めたのは、昨日。
そう決まったはずなのに、朝になっても何が変わったのか、まだよく分からなかった。
◇
朝。
教室へ入る。
「おはよう」
いつもの返事が聞こえる。
隣の席には、もう相良がいた。
机へ伏せずに本を読んでいる。
昨日と同じ。
何も変わっていないように見えた。
「おはよう」
相良が顔を上げる。
「……おはよう」
それだけ。
相良は本へ視線を戻す。
「相良」
「ん?」
「それだけ?」
「何が?」
「何でもないわよ」
鞄を机へ置く。
少し大きな音がした。
相良が、もう一度こちらを見る。
「機嫌悪い?」
「悪くない」
「鞄は?」
「手が滑っただけよ」
「持ったまま?」
「うるさいわね」
いつもと同じやり取り。
本当に。
何も変わっていない。
それが少しだけ不安になる。
「九条」
「何?」
相良が声を落とす。
「昨日のこと、覚えてる?」
「忘れるわけないでしょう」
「ならよかった」
「あなたこそ。朝になったら忘れてるんじゃないかと思ったわ」
「覚えてる」
「本当に?」
「九条が好きだって言った」
「ちょっと!」
思わず周りを見る。
近くにいた何人かは、それぞれ話を続けている。
聞かれてはいないらしい。
「教室で言わないでよ!」
「声、小さかったけど」
「そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ、どこならいい?」
「二人きりのときよ」
「分かった」
相良が小さく笑う。
私も椅子へ座る。
昨日のことは。
夢ではなかった。
それだけで。
さっきまでの不安が少し消えた。
◇
昼休み。
四人で机を囲む。
いつもの昼休み。
私の隣には相良がいる。
昨日までも同じだった。
でも。
今日からは違う。
そのことを知っているのは。
私と相良だけ。
「澪」
「何?」
朱音が私を見る。
「今日、なんか静かじゃね?」
「普通よ」
「朝から相良の方ばっかり見てるし」
「見てないわよ!」
声が大きくなり、朱音がにやりと笑う。
「やっぱり何かあった?」
「何もない!」
反射的に答える。
「火神。あまり九条をからかうなよ」
蓮が困ったように笑う。
隣では、相良が何も聞こえていないような顔で昼食を続けていた。
でも。
何もないわけではない。
相良と付き合い始めた。
朱音と蓮には。
いつか話すことになると思う。
隠したいわけではない。
ただ。
今はまだ。
二人だけで知っていたかった。
◇
放課後。
授業が終わる。
朱音と蓮は訓練室へ向かった。
教室に残っていた生徒も、少しずつ帰っていく。
私は鞄へ教科書をしまう。
隣で相良も本を閉じた。
「九条」
「何?」
「一緒に帰る?」
「いつも一緒でしょう」
「今日は恋人として」
「……そういうこと、急に言わないで」
「一緒に帰るのは?」
「もちろんよ」
「じゃあ帰ろう」
「ええ」
二人で教室を出て、昇降口で靴を履き替える。
そのまま外へ出た。
全部。
昨日までと同じだった。
相良は隣を歩いている。
手が触れるほど近くはない。
肩も離れている。
恋人になっても。
何をすればいいのか。
よく分からない。
「九条」
「何?」
「少し寄っていい?」
「どこに?」
「九条の方」
「……どうして聞くのよ」
「勝手に近づいたら怒りそうだから」
「……いいわよ。こっちに来ても」
相良が半歩だけ近づく。
腕と腕の間が狭くなる。
雨の日よりは遠い。
でも。
今日は傘がない。
近づかなければならない理由もない。
相良が。
近くにいたいと思っただけ。
そう考えると。
少しだけ嬉しかった。
◇
図書館の裏手。
人の少ない小さな中庭を通る。
寮へ戻るには少し遠回りになる道。
「こっちから帰るの?」
「少し話したくて」
「……それならいいわ」
少し先の木製のベンチの前で、相良が足を止める。
「座る?」
「ええ」
二人でベンチへ座る。
間には、人一人分も空いていない。
でも。
さっきより少しだけ遠い。
相良が自分の手を見る。
それから。
私を見る。
「九条」
「さっきから何度も呼ばないで」
「呼びたいから」
「何よ、それ」
「恋人になったし」
「恋人になったら、名前を何度も呼ぶものなの?」
「知らない」
「知らないのにしてるの?」
相良が少し考える。
「澪って呼んでいい?」
「え?」
「火神は呼んでるから」
「朱音は昔からでしょう」
「俺にも呼んでほしい?」
「うん」
駄目ではない。
むしろ。
相良にそう呼ばれるところを想像すると。
胸の奥が熱くなる。
「……二人のときだけなら、いいわ」
「分かった」
相良がこちらを見る。
「澪」
たった二文字。
朱音に呼ばれるときと。
同じはずなのに。
全然違って聞こえた。
「何?」
「呼んだだけ」
「用もないのに呼ばないで」
相良が小さく笑う。
「澪は?」
「何が?」
「俺の名前」
「……相良」
「名字」
「分かってるわよ」
口にするだけなのに。
どうしてこんなに難しいのか。
一度。
息を吸う。
「透」
相良が目を少し見開く。
「何?」
「呼んだだけよ」
「そっか」
嬉しそうに笑う。
その顔を見ていると。
私まで嬉しくなる。
そのあとも、借りた本や次の合同演習について話した。
いつもと同じ話ばかりなのに、呼び方だけが違った。
会話が途切れる。
静かになる。
相良の手が。
ベンチの上に置かれている。
私の手のすぐ近く。
触れてはいない。
でも。
少し動かせば届く距離だった。
「澪」
「何?」
「手、つないでいい?」
やっぱり。
相良は聞く。
勝手には触れない。
「……ええ」
私が答えると。
相良の手がゆっくり近づく。
指先が触れる。
手のひらが重なる。
指と指が絡む。
温かい。
雨の日に肩が触れたときより、ずっと相良に触れていることが分かる。
私も。
少しだけ指に力を入れる。
相良がこちらを見る。
「何?」
「別に」
「その返事やめなさい」
「嬉しかっただけ」
「……そう」
手を離そうとは思わなかった。
もう少し。
このままでいたかった。
空が少しずつ暗くなる。
「そろそろ帰る?」
相良が聞く。
「そうね」
そう答えたのに。
どちらも立ち上がらなかった。
つないだ手も。
離れない。
「透」
「ん?」
「恋人って、手をつなぐだけ?」
聞いてから。
何を言っているのかと思う。
でも。
言葉は戻せない。
相良が少し考える。
「他にもあると思う」
「例えば?」
「抱きしめるとか」
胸の奥が、さらに熱くなる。
恥ずかしい。
それでも、してほしいと思った。
「抱きしめてもいい?」
相良が聞く。
私は少し迷ってから、頷く。
「ええ」
つないでいた手が離れる。
相良が体をこちらへ向ける。
私も向き直ると、腕が背中へ回った。
ゆっくりと引き寄せられる。
頬が、相良の肩口に触れる。
制服越しに。
相良の体温が伝わる。
相良の心臓の音が聞こえる。
自分の胸も、負けないくらい速かった。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「近すぎない?」
「今さら聞かないで」
相良の制服の胸元を、少し掴む。
私からも。
相良の背中へ腕を回す。
抱きしめ返す。
相良の腕に、少しだけ力が加わった。
安心する。
それだけではなく。
もっと近くにいたい。
今は。
そう思っていた。
どれくらい。
そうしていたのか分からない。
先に腕を緩めたのは相良だった。
少し離れる。
でも。
顔は近いままだった。
目が合う。
相良が何かを言おうとする。
何を言うのか。
聞かなくても分かった。
「澪」
「何?」
「キスしてもいい?」
顔が熱くなる。
逃げたくはない。
でも。
すぐに答えることもできない。
相良は待っている。
急かさない。
触れないまま。
私の答えを待っている。
だから。
私も。
自分で答える。
「……ええ」
相良の顔が近づく。
目を閉じる。
唇が。
短く触れた。
本当に。
触れただけ。
すぐに離れる。
目を開けると。
相良がすぐ近くにいた。
「……終わり?」
口から出てから。
自分の言葉に驚く。
相良も少し驚いた顔をする。
「もう一回する?」
聞かれて。
また答えるのが恥ずかしくなる。
だから。
今度は。
私から少し近づいた。
相良の肩へ手を置く。
そのまま。
もう一度だけ。
唇を重ねた。
さっきより。
ほんの少しだけ長く。
それでも。
すぐに離れる。
「今度は私からだから」
「うん」
「何よ」
「嬉しい」
「……そう」
相良が笑う。
私も。
少しだけ笑った。
◇
ベンチから立ち上がる。
今度こそ寮へ向かう。
歩き出してすぐ。
相良が手を差し出した。
「つなぐ?」
「さっき聞いたでしょう」
「歩くときは別かと思って」
「別じゃないわよ」
相良の手を取る。
今度は。
迷わなかった。
指を絡める。
二人で歩く。
来たときより。
ずっと近い距離で。
「透」
「ん?」
「朱音と蓮には、どうする?」
「話してもいい」
「また私に選ばせるの?」
「俺は話したい」
「……そう」
「澪は?」
「私も、隠すつもりはないわ」
「じゃあ、二人で話そう」
「ええ」
話したら、朱音に何を言われるか分からない。
蓮がどんな顔をするのかも。
少しだけ怖い。
でも。
つないだ手は離さなかった。
今。
この手に触れたいと思ったのは。
私だった。
もう一度。
透の指を握る。
透も。
同じ強さで握り返した。
付き合うと決めたのは昨日。
それでも。
恋人になったと初めて実感したのは。
きっと。
今日だった。